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人は怒鳴りあったり傷つけあって生きて行くものだと思い込んでいた日々

自己イメージと、他人が自分に対して持っているイメージが随分ちがっているのに気づく時がありませんか。

以前にも書いたことがあるが、母親がある日、
「そう言えば、まりあが子供の頃怒ったり泣いたりしたのは見たことがなかったわね」
と言った。

たしかに泣くところを親に見られたことはなかったかもしれない。子供の頃の記憶は1歳半ごろまでさかのぼれるが、人に泣くところを見られるのが大嫌いだったので、親の前でも泣かないようにしていた。泣く時は茶の間のお仏壇の下に小さなビルトインの引き戸があってそこに入って泣いていた。

ただし、怒りや不快感を感じていたことは良くあった。人が笑い声を立てるのが耐えられなくて、良く笑う若い女性や、同年代の女の子が大嫌いであった。

ピーピー泣く子も嫌いだったので、近所の子供や、「かものはし日記」の著者の従弟のひろちゃんのこともぶんなぐって、
「泣くな」
と怒鳴った記憶がある。ひろちゃんに、「あの頃はいじめてごめん」と言うと、
「いじめられたこと? 憶えてないな」
と言う。

今の自分が思い出す、当時の自分1歳半から3歳半ぐらいまでの自分は、なんだか阿修羅のようなイメージである。でも周りの人のイメージはそれとは違うようなのだ。



さて、小さな小粒の宝石のような、炎のような阿修羅が、幼稚園に入り、小学校に入り、別の阿修羅たちといっしょに、磨かれ、すり減って、溶けてへにょへにょになったキャンディーと化していく。たしかに幼稚園から小学校にかけての自分は、物語を書いたり、本を読むのが好きな目立たない子供だったと思う。

でも、幼稚園を卒業する時、園長先生(オークマ先生と言う、えくぼの可愛い、とても優しいおばちゃん先生だった)が、私に別れの言葉を書いた紙をくれた。

「まりあちゃん、いつもきれいなお花のことを考えていてね・・・」

母親は、
「オークマ先生、なんであんなことを書いたのかしらね」
と言う。オークマ先生は、実の母親にも見抜けなかった阿修羅の存在に気づいていたのかなあ。もう亡くなったが、今思いだしても偉い先生だったなあと思う。



自分の育った家は、サザエさん一家のような三世代家族に、さらにナミヘイおじいちゃんの甥っ子・姪っ子、住み込みのお手伝いさん、看護婦さんとその亭主、みたいな人々がいっぱい住んでいて、いつも誰かが口論していた。

母親とおじいちゃんの後妻のスミエさま(これは素敵なおばあちゃんだった)がいつも大きな声をあげて口論しているので、
「おねがい、ケンカしないで」
と割って入ったことがあった。そうしたらふたりは、
「ケンカしてるんじゃないのよ」
と口々に言いながら笑い出してしまった。たぶん日常会話で大きな声で口論するのが習慣になって、自分たちでもそれに気づかなかったのだろう。

そんな環境で育ったせいか、つい最近になるまで、家族というものは、同僚というものは、恋人というものは怒鳴りあったり傷つけあって生きて行くのが普通で本物だと思い込んでいたのだった。

それがごく最近になって、そうではないことに気づいたのだった。優しい人々に囲まれていることによって、徐々にそう教えられたのだ。



写真は文章と関係ないですが、この夏、家のイチジクの鉢植がかろうじてつけた、それはそれは小さなイチジクの実。

孤独な魂が言葉を媒介せずに交流するときが確かにある。

iPhoneによって、自分のすきま時間の使い方が一変した。スーパーのレジの待ち時間とか、昼休みに会社の電子レンジに入れたお弁当が温まるのを待つ間に、青空文庫で宮澤賢治を読んだりする。少しの間だけど時間の流れが変わる。

夜ベッドに入ってから眠りに着くまでの間You-Tubeで荻上直子監督の映画「かもめ食堂」を観たりする。その間、つかのま「自分」から解放される。

ヘルシンキで出会った3人の孤独な日本女性が、それぞれの抱える何かを最後まで口にすることなく、心の深い部分で絆を深めていく。その心の交流を媒介するのは、おいしいものを食べる無言の幸福な時間を共有すること。



食物に異常に興味がない自分にとっても、「かもめ食堂」のコーヒーやシナモンロールやおにぎりは、美味しそうと言うよりかは、食物という属性を超越した何か神聖な輝きを放っていました。

***

「かもめ食堂」を見ながら、もう十数年前に観たパトリス・ルコント監督の「Mari de la Coiffeuse(髪結の亭主)」を思い出した。

最愛の髪結の女性を手に入れた主人公の中年男は、彼が最も愛する場所−妻の経営する美容院の中でのささやかな結婚式の日、へたくそな中近東風のダンスを踊る。

ダンスは彼にとって幸福の絶頂の表現だ。男がダンスを踊る間、ストーリーの時間は中断し、孤独な存在がその存在の垣根をとりはらって、つかのまの交流を実現する特権的な時間が顕現する。

映画の最後、愛妻を失った「髪結いの亭主」が一人残された美容院で、ふとあのダンスを踊リ始める。美容院の客が一緒に踊り出し、つかの間あの過去の幸福な時間が戻るかに思える。・・・突然踊りを止め、怒ったように音楽を停め、座り込む男。客も元の椅子に戻り、2人はまたそれぞれの孤独と無関心の垣根の中に戻って行く。



***

ベルギーに来た時、いちばん大きな衝撃をもって自分が感得したのは、
「ここは言葉がすべてだ」
と言うことだった。

日本だったら、外人が片言の日本語を使っていたら、みなそれなりに親切にするでしょう。当地では違う。旧植民地や低開発国からの移民労働者を伝統的に大量に受け入れてきた社会であり、外国人と言えばまずは「貧乏人」か「無教養」か「泥棒」の同義語だ。白人でなければなおさらである。これはこちらに永住するつもりで住んでみた人でないとなかなか感覚的に分からないと思う。

最近ではだいぶ良くなったが、金持のエキスパットでも観光客でもない自分はこの国では移民であり、当地の公用語をしゃべれない移民は、誇張ではなく牛や馬のように扱われる。

現地人と同じように話せなければ、現地人の友達を作ることすら難しい。ものすごくサッカーがうまいとか、バイオリンの名手であるとか、何か言葉以外に自分を表現する手段がある場合は別だが、何もない人間が下手な現地語で話しかけても、よほどの物好きでないかぎり誰も手を差し伸べてくれない。最近少し増えている日本オタクか、アジア人女子狙いの男ぐらいしか寄ってこない。この国の人々は、沈黙ではなく、言葉だけを媒介にして心を交流させるからだ。

徹底的に全てを言葉で説明し、議論し、説得しなければいけないことに、私はほとほと疲れてしまった。

***

半年ぐらいの間、会社の近くにある無料のオランダ語学校に通ったことがあった。ほとんどがアフリカや中近東、中東欧の出身者ばかりだ。教師はくたびれて貧乏くさいフラマン人の髭の中年男でギドと言った。ギドは英語やフランス語をまぜこぜにして文法を説明するのだが、中には英語もフランス語もしゃべれない生徒や、アルファベットもろくに読めない生徒もいたので、ギドは、いつも皆のもの分かりの悪さに「は〜」とため息をついていた。このクラスの授業は抱腹絶倒で、今でも自分の一番美しく楽しい思い出の一つだ。

この授業については別の機会にお話ししたいが、今はチェコ人のおばさんのクリスティーナさんの話をしたい。

クリスティーナさんは50代後半ぐらいのおばさんだったが、いつもクラスの最前列に座って、一度も授業を休んだことがなかった。綺麗に髪をセットして、眼鏡をかけていた。はじめのうちクラスでいちばん物覚えが良かったのはルーマニア人の大学生のカップルと私だったが、休みがちで、そのうち毎回まじめに通っているクリスティーナさんが群を抜いてきた。それは驚くほどの上達だった。私は、いつも一生懸命ノートを取っている彼女の後姿を後ろの方から見て、本当に尊敬していた。

学校が主催したクリスマスパーティーの後、夜道を鉄道の駅に向かって歩きながら、私はクリスティーナさんとはじめて話をした。クリスティーナさんは英語もフランス語も話さないので、私も習いたてのへたくそなオランダ語もどきで。

クリスティーナさんの御主人はチェコ人の技術者で、ベルギー企業に仕事を見つけクリスティーナさんと二人でベルギーにやってきた。御主人の給与はそれほど高くなく、クリスティーナさんはベルギーで仕事を見つけなくてはならなかった。
「あなたはチェコでは、先生をしていたのではないですか?」
そう私は言った。何となく、そんな感じがしたのだ。
「いいえ、普通の会社員だったわ」
クリスティーナさんは、さびしそうに言った。
「でも、ここでは言葉ができないとね、掃除婦をするしかないのよ」
そう言ったクリスティーナさんの口調があまりにも悔しそうだったことに私は胸をうたれたが、気のきいたことはなにも言えなかった。いかんせんボキャブラリーがとぼしすぎたのだ。

クリスティーナさんの乗る電車が来た。
「今夜は有難う」そうクリスティーナさんが言って、私たちは向きあって両手を握りあった。
「クリスティーナさん」
「まりあさん」
ふたりはそれ以上何も云えず、両手を握りあったまま1秒ぐらい瞬きもせずに無言で見つめあった。そのクリスティーナさんの目が一瞬の間にそれはそれは沢山のことを私に語ってくれた。

オランダ語ができなくても、日本という経済大国の言葉ができるために、なんとか満足できる仕事のある自分は、結局その日以来オランダ語学校に戻らず、クリスティーナさんと会ったのも最後になってしまった。

他人の不幸を嘆くだけでは、他人の不幸を喜ぶよりしまつが悪い。

表題は映画「砂の器」を見ながら落ち込んでいた万霊節の連休に、あれこれ苦しみつつ考えた末に自分なりに到達した結論だ。なかなか名言ではないか?(またも自画自賛。)

落ち込みの原因はたぶん「砂の器」だけではない。じぶんのすぐ後に乳がんに罹り、同じように抗がん剤治療・手術・放射線治療を受けた同僚の「がん友」が、さいきん背骨と肺への転移が発見されまた抗がん剤治療に戻ることになった。この抗がん剤が効かなければ、また別の抗がん剤を試さなければならないという。

「もう疲れちゃった」

ふだん明るくポジティブな彼女もさすがに力なく笑う。

***

去年の初夏、(このページの右側にも写真のある猫のタオちゃんの飼主の)明美さんの友達のパッツィが長い闘がん生活の後、抗がん剤の効き目もなく苦しさに耐えかねて自分の意思で天国へと旅立っていった。やはりまだ三十代だった。

パッツィには会ったことがあったし、明美さんが看病をしながらいつも彼女の話をしてくれていたので、彼女が亡くなった時は、どっと落ち込んでほとんど寝込んでしまった。

その少し後、明美さんの家におよばれして、霊視者のまさみちゃんに紹介された時、彼女が私の背後をみて、「うわあ、なんだか怖い〜」と言った。「ねえねえ、何が怖いの?」と聞いたが、彼女からの説明はなかった。その日は、猫のタオちゃんすらも私の近くには寄ってこなかった。

そのまた少し後、森のはずれのテラスのレストランで、明美さんとニューヨークから来たDragon Treeさんと3人でお食事をした後、Dragon Treeさんが、
「非常に重いものを背負っているようにお見受けします」
とおっしゃり、体の中の闇を追い払う光の瞑想を教えてくださった。

私の自己イメージは、「ライトでさらっと明るく」だったので(笑)2人にそう言われたことが、ちょっとショックであった。

パッツィが亡くなったことの悲しさが、たぶんまだスポンジのように自分の中にしみ込んでいたせいなのかもしれない。

(数カ月後に霊視者まさみちゃんにお会いした時は、「今日は全然ふつう」と言われた。)

***

今度も万霊節の連休中、落ち込んでごろごろしており、枕元の本も読みつくして最後に手に取った本を開くと、こんなくだりが啓示のようにあった。

「人の問題に心を痛め、一緒に苦しむことを優しさのように考えている人たちがいますが、そうではありません。本当の思いやりと、感情移入は別のものです。
 誰かが『体の痛みがひどいのです』と言うとき、私はそれに対して思いやりを持ちます。ドアを開けてあげたり、代りに買い物に行ったりして助けます。でもその人の痛みは共有しません。(・・・)私はホームレスの子どもに思いやりは持ちますが、一緒に感情的に苦しむことはしません。それは問題の解決にはつながらず、誰の役にも立たないからです。」(ウィリアム・レーネン「直観力が高まる生き方」)

Amazonで手当たりしだいに買った大量の本の中で、なぜか最後まで手をつける気がせずに積んであった本だった。

明美さんは、闘病中のパッツィにご飯を作ってあげたり、話し相手になりに通っていた。最後は痛みに耐えかねてモルヒネ漬になったパッツィに淡々と最後まで付き合った。同情するというようなそぶりは少しもなく、「パッツィはいつもポジティブで明るいので、話していて楽しい」と言いながら。

私のようにパッツィの悲しみを想像して落ち込んで寝ているだけの人間は、自分にとってもパッツィにとってもクソの役にもたたない。行動というかたちを取らない同情は、うらがえしの自己憐憫にすぎない。

役に立たないだけでなく、自分を傷つけ、生産性を失わせるという意味では、他人の不幸を喜ぶことより始末が悪い。

それは優しさではなく弱さだ。

と、亭主のグリに言われることが時々ある。

どういう場面でかと言うと、ひったくりにあったり、駐車した車のガラスを割られてトランクに入っていたカバンを盗まれた時とかだ。そういうとき、自分がへにゃ〜と笑って、
「べつに、いいよ」
とか言う時、グリはぎゃーっと怒って、
「俺だったら、そいつをなぎ倒して、頭の上でリヴァー・ダンスを踊ってやる」
と言う。

(アイルランドのフォークダンスを芸術の域に高めたあのリヴァー・ダンスを御存じない方は以下のビデオをご覧ください。)


「そんなことしたら、可哀そうじゃん」
と私が応酬すると、この記事の表題になっている決まり文句をグリが口にするというわけだ。

確かに、
「可哀そうじゃん」
と言う自分の心理を細かく見直してみると、会社でさんざんクライアントや同僚と怒鳴りあったりしているので、会社以外の時間はせめて、怒りを感じないで暮らしたいという気持ちが底に潜んでいるだけのような気もする。そのために、敢えて相手を可哀そうだと思うことにして、自分を保護しているだけのような気もする。

確かに、ほんとうに相手のことを可哀そうだと思うのなら、頭の上でリヴァー・ダンスを踊らないまでも、青少年の犯罪を減らす社会的努力をするとか、何か別のとるべき行動があるようにも思う。

***

優しさと弱さをどうやって区別するべきか。区別のつきにくい2つの概念がある時、自分はよくマトリックスを作ってみる。そうすると、概念の分析や定義なしに、突然その違いが分かったりするのだ。

・ 強くて非情な人
・ 弱くて非情な人
・ 弱くて優しい人
・ 強くて優しい人

***

ガンジーも、「非暴力」とは言っているけど「無抵抗」とは言ってないよな。

「わたしの信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。」

許すことは、強い人だけに許される。泥棒さんの頭の上でリヴァー・ダンスを踊れるだけの脚力がありながら、敢えてその脚力を使わないことが本当の許しである。その脚力がない自分が、いくら「許す、許す」と言っても、それは負け惜しみにすぎない。

旅する人

「トラヴェラー」という呼び名を聞いたことがおありだろうか。韓国語を含む17か国語のWikipediaに「アイリッシュ・トラヴェラー」というヘッディングで掲載されている、アイルランド系のジプシーのことだ。日本語版のWikipediaにはまだない。

アイルランド共和国内に2万人強、北アイルランドには2千人、UK全体では1万5千人から3万人もいると言われているが正確な数は分からない。ベルギーを含む大陸の国々では、身分証明書の携帯を義務付けているが、UKやアイルランド共和国は島国のせいかこのような義務がない。だから、正確な数字を把握することができないのだそうだ。

トラヴェラーについてはじめて聞いたのは、アイルランド人の亭主のグリからだった。
「トラヴェラーは、キャラバンで移動しながら、刃物研ぎなんかで生計を立てながら暮らしているんだ。盗みもする。トラヴェラーが出て行ったあとには、いつも大量のごみが残る。」
「子供は学校には行かないの?」
「そう、行かないんだ。」
「宗教は?」
「ローマンカトリック。」
「トラヴェラーにあった時、あ、トラヴェラーだとすぐにわかるの?」
「うん」
「どうやって?」
「まず、言葉で。独特の方言を使うんだ。それから顔つきで。そして全体の雰囲気で」
「どこから来たの?」
「誰も知らない。起源は5世紀とも18世紀とも言われている。独特のエートスと掟があって、周囲と絶対溶け込もうとしないんだ。だから嫌われている。」

 

上記はWikipediaから無断転載させていただいた1946年撮影のトラヴェラーの親子だが、今BBCテレビに映るトラヴェラーの姿とそれほど変わらない。そして、ドスンとした鼻をはさんで少し離れた位置ついている下がり気味の大きな目、これはアイルランドでよく見かける顔で、日本人の私から見ると、同じアイルランド人のグリとそれほど違ったところがあるとは思えない。正直にそう言うと、
「そんなことは、ねえ!」
と怒られた。差別と言うのは微妙な差異からも生まれるのだ。

そのトラヴェラーの集団が、UK内の空き地を勝手にスクワットして巨大な囲いを築いた中に住んでいたのを、周囲の住民から苦情が出て警察を動員して追いだしたというニュースを最近やっていた。追いだしたら、また別の場所をスクワットするだけだろうに。こんな解決ってあるのだろうか。

家がなくて、いつもキャラバンで移動するだけという人生を思い描いてみる。自分の場合、いつ失っても悲しくないように、持物に思い入れをもったりしないように、必要最低限のものしか買わないようにしているのだが、ひとつだけどうしても心情的にこだわってしまうのは、自分の住まいだ。自分の場合、外部との境のドアがしっかりしていて、定住できる住居がとても大切なのだ。(特に前回話したアレクシアン通りのぼろアパートは、体当たりすると簡単にぶっ壊れてしまうような板ドアしかなかく、実際に何度かぶっ壊されており、盗まれて困るものは何もなかったけれど、本当に怖い思いをした。それでも大切な住まいだった。)だから、絶えず移動し続ける人生と言うのは、自分にはちょっと耐えられない気がする。



(写真は20年前のアレクシアン通りの侘び住まい。家具も食器も全部道端でひろったり蚤の市や救世軍で買ったものばかりで、人々が間が悪そうに眼をそむけるようなアパートであったが自分にとってはスウィート・ホームであった。)

***

もうひとつ、BBCで、英国内に増えているルーマニアのジプシーのドキュメンタリーがあった。BBCのジャーナリストが、ロンドンやリヴァプールで子供に物乞いをさせているジプシーを執拗に取材して、尾行して、最後はルーマニアまで追いかけて行き、彼らが物乞いで得たお金で本国ルーマニアで豪邸を建てているところまで突き止めるという番組だった。

面白いのは、ジプシーの女たちが、ネッカチーフをかぶり、回教徒のふりをして物乞いをすることだった。英国に多く在住するパキスタン移民は回教徒なので、彼らがモスクから出てくる所で物乞いをする。回教徒は喜捨を善とするので、気前よく喜捨をしてくれる。ルーマニア人の元締めの大規模な物乞いリングでは、子供の乞食たちの1日の稼ぎを合計すると百万円にもなるということだった。

街頭でインタビューを受けた回教徒の青年が、苦笑いをしながら答える。
「一見回教徒風に見えるので、喜捨をしてアラビア語で話しかけてみたら、全然通じない。それでジプシーだなって分かるんです」
遠巻きにしてカメラを睨んでいる回教徒風の女のグループの一人が、カメラに向かってばっとスカートをまくりあげて露わにした下腹を突き出す。どうも、それが、ルーマニア・ジプシーの「ファック・オフ!」という仕草らしいのだ。
「ほらね。全然、回教徒風じゃないでしょ」
と先程の回教徒の青年が、カメラに向かってウインクする。

物乞いをしている小さな女の子に、ジャーナリストが尋ねる。
「おじょうちゃん、どこから来たの?」
「ルマニア・・・」
そこに母親がやってきたので、ジャーナリストがこんど母親に同じことを尋ねる。
「ボースニア」
「でも、あんたの娘は、ルーマニアだって言ったよ」
母親は、力なく笑って、
「ルーマニア」
と言い直す。

自分も、自分のアパートの入口にいつも座ってる若い女の子が、回教徒風の服装をしてネッカチーフをかぶっているので、ボスニア人だとばかり思っていた。最近は姿を見掛けないが、彼女もルーマニア・ジプシーだったのかもしれない。

自分が通っているジムのトレーナーはルーマニア人が多いので、彼らに聞くと、ジプシーは他のルーマニア人たちから大変差別を受け、忌み嫌われているという。荒地の壁のないような家で貧しい生活をしているジプシーもBBCのカメラは撮影していた。イギリスに行って物乞いでひと儲けすれば、本国に戻って家も建てられる。

私がジプシーだったら、多分同じことをするのではないか。BBCのジャーナリストは、ジプシーたちを追い詰めて、
「なんで子供を物乞いに使うんだ」
と言う点を責めていた。ジプシーのおばちゃんが、出てきてジャーナリストにつかみかかる。
「余計な御世話だよ。あんたに何が分かるんだよ。子供を使って何が悪いのさ」
と言っているかどうかはルーマニア語なのでわからないが、自分がおばちゃんだったら上のように言ったに違いない。

ジプシーだって、たぶん自分の家がほしいんだよ。

***

らい病になって村を追われた父親と、その息子。どこで生き倒れになってもいいように、死装束で、海辺を歩き、山を越え村から村へ旅をする。



最近週末に、Youtubeで日本の古い映画を見るのに凝っていまして、松本清張原作・野村芳太朗監督「砂の器」を今日初めて見たのですが、これは本当に泣けますね。

特に、成長した乞食の息子が奏でる自作の協奏曲「宿命」と、息子が思いだす父と子の壮絶な旅路の映像、息子と父親の深い絆と愛、今西警部の事件の解読から逮捕状までのナレーションがポリフォニーのように絡み合って、最後に警部の言葉、
「彼はもう、音楽の中でしか父親に会えないんだ」
という一言に収れんする、この部分から最後までの数十分間がすばらしい。

***

上述の記事を書いては、「砂の器」の映像や音楽を思い出し落ち込んでいた土日に続く月曜日と火曜日は、万霊節のお休みのための連休で、さらに深く深く落ち込んでしまっていた。11月2日(水)の休み明け、落ち込んだ気分に鞭打って会社に行き、夜モネ劇場に行くとエネスクのオペラ「エディプス」をやっていた。

これまた、宿命に翻弄された不具の父親につき従い旅をする子供(娘のアンティゴネー)のテーマ。「砂の器」にひたっていた自分の落ち込んだ救いのない気分が、モネ劇場で上演されているかのよう。でもオペラの演出のオイディプスは、最後に神に許されて天に昇って行く。

よっしゃあ、元気を出そう!と自分に言い聞かせて、落ち込んだ気分を振り払えました。



ジョルジュ・エネスクは、ガブリエル・フォーレに師事していたらしく、少し似た所もありますね。でも故郷のルーマニアらしい哀愁もあります。ルーマニアは、UKで物乞いで荒稼ぎしたジプシーの親子の故郷でもあった。

旅する親子のテーマが、ここでぐるっと一巡しました。偶然なんだろうけど。

幸福の定義

このページの右下の方にリンクを張ってある茂木健一郎先生のブログ「クオリア日記」にこんなくだりがあった。(すみません、無断掲載。)

その「幸せ」の定義だったら、ぼくもありったけの力をもって肯定できる。そんな「幸せ」のかたちがある。
それは、できない、手に入らないとあきらめていたものが自分のものになること。
届かない、と思うと、人は「皮肉のスタンス」をとるようになる。きつねがブドウを見上げて「あれは酸っぱい」と合理化するように、あれこれとブツブツつぶやいて。
そうではなくて、無理だ、と心の中で諦めていたものが僥倖を通して自分のものになるとき、それはかたちがあるものかもしれないし、ないものかもしれないし、自分の努力を通して来たものかもしれないし、偶然の幸運(セレンディピティ)の結果かもしれないし、とにかく自分と縁がないと思っていたものと自分が触れあったとき、そこにぼくは「幸せ」を感じる。
それは、人生に訪れた一瞬の夕凪のようなものである。ずっと一カ所には留まらない。いつか、それが当たり前のものになってしまう。変化率は逓減する。だが、日々は、見知らぬ前提のもとに更新される。そう、階段を一歩上ったのだ。違う風景が見えている。そして、人生は続いていく。
「そうなんだよ。実にそうなんだ! ぼくにとっての幸せが、今日、ここで見つかったんだ!」

茂木先生のこの正直な言葉はいいなあ、と思う。同時に、自分の幸福の定義は少し違うなあ、とも思う。

自分の場合も「絶対に無理だ」と思えていたことにいつの間にか到達していることがある。到達していることに気がついた時、もしかしたら自分も一瞬のあいだは幸福感を感じているのかもしれない。自分にも先生が言うところの「人生に訪れた一瞬の夕凪」があるのかもしれない。でも、それがあまり短いために、幸福感と意識するまでには至らないのだと思う。

自分がむしろ幸福感を感じているのは、「絶対に無理」と思える目標に向かって、じたばたと足を動かしながら遅々として進んでいる時のような気がする。

自分の場合「絶対に無理」と言う周囲の大合唱の中であきらめずに続けられてこれたとすると、それはジョゼフマーフィーが言うような「絶対にできる」と言う確信のお陰ではなく(そんな確信は自分にはない)、続けること自体が面白くて楽しいからだと思う。

特に、自分の半生を振り返ると「絶対に無理」と思っていたことに、僥倖の波に乗って自然に到達してしまった言う事が多かった。だから、10年前ぐらいから、それでは面白くないので、これからは自力で目標に到達しようと心に命ずるようになったのだった。その過程が楽しい。到達点は意外とどうってことない。それよりも、次の到達点をはるかに望みながら「ああ、絶対に無理」と言って、じたばた足を動かし始めている自分がいる。

それにしても、自分はいつからこんなに「まとも」なことしか言わない人間になってしまったのだろう。

到達点ではなく、道そのものに味わいがある。ルイス・ブニュエルの映画La Via Lattea(原題は、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼路を表すミルキー・ウェイつまり「天の川」ですが、邦題は「銀河」。1968年の作)。最初のロードムービー? ラテン系の言語フランス語では「道」も「人生」も奇しくも同じ「Vie」という言葉であるらしい。

人生グロテスク

高校生の頃、映画、特にイタリア映画、イギリス映画、日本の古い映画・前衛映画が大好きで、週末には神保町の岩波ホール、三百人劇場、大塚名画座、池袋文芸坐、三軒茶屋名画座、四谷のイメージフォーラム、天井桟敷、竹橋近代美術館の上映会等に行りびたっていた。(さもなければ神保町で自転車を引きずりながら古本と古いクラッシックのLPレコードをあさるという、若いぴちぴちの女子高校生には似合わない暗い日々をすごしていた。)

池袋文芸坐で、イギリスの映画監督ケン・ラッセルの映画「チャイコフスキー」がかかった。でも平日学校の帰りにしか見に行けない。ビデオもDVDもない時代で、名画座でもほとんど絶対に上映されないケン・ラッセルの映画が上映される。自分の通っている私立の女子高では、学校帰りにどこかに寄る時は、父兄の届出書を担任に提出しなければならなかった。当時の自分は、両親と離れて祖父母と住んでいた。超ハートボイルドの祖父から許可を取るのは不可能そうだった。

意を決して、祖父母には図書館によると嘘をついて、学校帰りに池袋文芸坐に行った。

ケン・ラッセルの「チャイコフスキー」は、リチャード・チェンバレン扮するチャイコフスキーの華麗な音楽キャリアの裏の悲愴な人生を描いている。人生の悲惨さと音楽の美しさ(特にピアノコンチェルト第1番第2楽章)が、何とも言えないグロテスクな対比をみせていて、私は感動でぼうっとしたまま7時頃家に帰りついた。ご飯を食べ、布団に入りしばらくして変な気配に目を開けると、布団の足元に祖母がちょこんと座りしくしく泣いている。

びっくりしてとびおきる私に、
「今、婦人警官の人が来て、あなたが学校帰りに映画館に行っていたって。もう、あたしショックで。おじいちゃんには言わないから…」
と言ってまだしくしく泣いている。祖父に言わないでいてくれたのは、言ったら、私も祖母もぶんなぐられていただろうからだ。

私は祖母を泣かせてしまったことにすっかり意気消沈したが、池袋文芸坐で私を見かけたと言う婦人警官が、自分を自宅まで尾行し、その後かなり時間がたってから家のベルを押し祖母に一部始終を告げたと言う事に、なんだかとても怖くなってしまった。

映画館から1人で出てきた自分は、髪の毛は染めていないおかっぱの直毛で、スカートも短くない、いかにもまじめそうでダサくて暗い女子高生だ。その彼女に、
「学校の帰りに映画館なんかに寄り道しちゃだめじゃない」
と彼女が声を掛けなかったのは、どうしてだったのだろうか。

池袋文芸坐のある池袋から、当時の私の自宅までは、まず山手線で巣鴨まで2駅乗って、その後都営地下鉄三田線に乗り換えて、さらに2駅行って、駅からかなり歩かなければならない。池袋駅のホームで電車を待つ時間、夜の山手線の中、巣鴨のホームで地下鉄を待つ時間、白山の駅から住宅街を歩く私を尾行する間、彼女は何を考えていたのだろうか。

当時の非行防止の婦人警官さんが皆、映画館や喫茶店から制服姿で出てくる女子高生を尾行していちいち親に通報していたとすると、ずいぶん人材が余っていたのかもしれないなあ。そうでなかったとすると、その女子高生の中に尾行してでも通報しなくてはならない重大な何かがあったのか、それとも、婦人警官さんの中にぜがひでも尾行に駆り立てる何者かがあったのか、それとも女子高生と婦人警官さんのちょうど中間に何か強力な牽引力のようなものが働いてしまったのか、そのいずれかしか考えられない。

その後ウン十年たって、たぶんその婦人警官さんの当時の年よりもずっと年上になってしまったであろう今、ついに最後まで自分が会ったことのないあの婦人警官さんは、どんな服を着てどんな顔形をしていたのか、綺麗な人だったのだろうか、どんな家族をもちどんな人生を送ってきたのか、映画は見たことがあるのか、音楽は、チャイコフスキーは好きなのだろうか、私を尾行しながらいったい何を考えていたのかなと思いを巡らせることがある。

もちろん、悪いことをしたのは女子高生の自分であるので、いまさらあの時の婦人警官さんの心の中を詮索したりする権利はないのだが。

昨年、「光の帝国へようこそ」のDragon Treeさんとお会いした時に、彼も同じような時期に、岩波ホールや池袋文芸坐を徘徊していたことをお聞きして、またあの時の怖いと感じた気持ちを思い出してしまった。

ほとんど憎み合いながらくらしている祖父と祖母、食事の世話をしてもらい学校に行かせてもらいながら感謝の気持ちすらなく、ひたすら映画と読書と音楽にのめり込んでいる孫娘の女子高生、そして彼女を尾行した顔のない婦人警官、その何とも孤独な4人がある一夜の奇妙な絵の中におさまって、今の自分に思い出されるのだった。

最近あまり映画を見なくなったのは、映画よりも、実人生の方にグロテスクでエキサイティングなことがあると思うようになったかもしれない。

ケン・ラッセルの「チャイコフスキー」、今ではYou Tubeで簡単に見れるようになったのですね。昔は、映画一本見るにも大変だったんだよ。


「深い街」でひきこもり

夏休みを2日間取れたので、亭主のいるアイルランドではなく、ベルギーのムーズ川のほとりプロフォンドヴィルまで1人でドライブして、川と森に接した旅籠屋に週末と合わせて2泊することにした。Profonde(深い)Ville(町)という名前が気にいって、えいや!と選んだ町です。

昨日の夕方着いて、今朝朝食を下のダイニングで食べた以外は、ぜんぜん部屋から出なかった。持ってきた本を読んで、ブログを書いた。お風呂に1度入り、お茶を3杯飲んだ。

高い窓がひとつついていて、そこから外を見ると、川と森。人の姿はない。至福のひと時。

でもせっかくきれいな場所なのに、散歩をするために外へ出る気になれないことに気がついた。昨夜の夕食にも外出しなかったし、今日の昼も抜いてしまった。

午後になって、旅籠屋のお姉さんがドアをノックする。
「タオルをかえましょうか?」と言うので、
「いえ、大丈夫です。まだ綺麗だから・・・」と言う。
あやしまれないようににこにこして言ったつもりだが、お姉さんが心配そうな顔をするので、仕方なく、
「ティーバッグとお砂糖をいただけますか?」
というと、少し安心したような顔をしてティーバッグとお砂糖を山のように持ってきてくれる。

これを書いている今は夜の9時だが、ついに一歩も旅籠屋を出なかった。その間、腹が減ったが、外に出るのが面倒くさいのでそのまま部屋にいて、お茶で空腹をしのいでいた。外に出るつらさと、空腹を我慢するつらさを天秤にかけると、自分にとっては前者の方が重いのだった。

旅籠屋のおばちゃんとお姉さんから、変人だと思われているのではないかと少し心配になる。あ、ブリュッセルから100キロ近くも離れた森と川のほとりまで来て、旅籠屋から一歩も出ないわたしって、じつは変人?と自分でも気が付く(笑)。

部屋にいる間、せっかくの機会なので、「なぜ自分は外に出たくないのだろう?」と自分の今の気持ちを観察してみる。観察の末、部屋から外に出ると旅籠屋のおばちゃんやお姉ちゃんや泊り客を始め、人と接触しなければならないからだという事に気付いた。

旅籠屋のおばちゃんもお姉ちゃんもとても感じがいい。朝食の時隣に座った泊り客も静かで感じのいい人ばかりだった。でも、部屋で一人になっている自分と、人々の間にいる自分とを比べると、後者の場合、ほとんど人との直接的な接触がなくても自分が多大なエネルギーをつかっていたことに気づき、そこに戻るのがおっくうになり、次第に怖くなるのだった。

青少年の「ひきこもり」の問題は、たぶん多くの場合、心的エネルギーの使い方の問題なのだ。自分の限られたエネルギーをこれっぽっちも他人のためには使いたくないという、ケチと言うか、非常に心の狭い状態なのだ。

以前、友達の誰かが、
「学生の時、友達と電話で話すのが大好きで、持ち運びのできる電話ができないかしら・・・と思っていたら、携帯電話ができた」
と言っていた。その人は他人とのエネルギーの交流を愛せるほど、エネルギーの豊かな人だったのだろう。

自分の場合、こちらが話したくもない相手から一方的に、自分の貴重な一人の時間を邪魔しにかかってくる電話はもちろん、どこまでも自分についてきて鳴り響く携帯電話ときたら土に埋めてしまいたいくらいなので、その友達の気持ちは今でも理解できない。

こんな自分の性向は今ではひた隠しにしているが、子供のころはそれがむき出しになっていた。「お友達」といって親が連れてきたヘンな子供を見ると、自分の邪魔をするうざったいやつと思い、すぐぶんなぐって泣かせてしまったし、一人で自分の遊びに没頭している時に近所の子がやってくると、邪魔をされたことにものすごく腹が立って棒をふりまわして追いかえしたりしていた。

そう言えば、一番古い記憶は2.5歳ぐらいだが、当時の気持ちを思い出すと何かに愛情を感じたり、いつくしみの気持ち、優しい気持ちを感じたりしたことがない。なんだかさつばつとして荒ぶれた子供だったのだ。(子供って実はみんなそうなんだろうか? そうでない気がする)それが幼稚園に入り、学校に入り、大人になるにつれて、自分一人で遊び続けるわけにはいかず、邪魔する他人をぶんなぐって蹴散らすわけにはいかず、にこにこせざるをえなくなる。その過程でわたしの心的エネルギーは独特の歪み方をしてしまったのだろう。

私は、その歪んでしまった自分の心的エネルギーをまっすぐにするために、必死で戦っています(笑)。まっすぐになった自分がどうゆう姿をしているのかは想像もつかないのだが。

プロフォンドヴィルを去る前に、散歩をしながら撮った映像。奇麗な場所なのだ。

飲酒のトリガーを外す

前回のつづき)なぜ夕食を抜かないと、禁酒ができないのか。

自分の場合、(会社のデスクで食べる時以外は)、夕食と酒が不可分のものになってしまっているからだ。でも夕食と酒の連鎖には何の必然性もない。当初は恣意的なものであったはずの偶然の連鎖が、反復により強化されてしまったのだ。

酒は、同じような連鎖を色々なものと形作っている。

当地では、4月頃に突然冬から夏に変わるような暑い一日があるが、そう言う日の太陽はサングリアと結びついている。だから、そんな日はサングリアを血眼になって捜すことになる。

雪が降ると、グルーワインを飲まなければならないと言う強迫観念にかられる。やはり血眼になってスーパーマーケットで安い箱ワインとシナモンとクローブとレモンを買いに行く。

夏の海辺のテラスに座って魚料理を食べる時は、きんきんに冷やした白ワインを飲まねばならないし、秋の夕暮れにエスタミネにはいって暖炉のそばに座ると、ゴーダチーズの角切りに乾燥セロリの粉をかけたのを食べながら、生ぬるいトラピストビールを飲まねばならない。

だから、私の周囲は飲酒へと誘う罠に満ちているが、中でも執拗なのが赤ワインのグラスを誘発する毎晩の夕食と言うトリガーだ。この夕食と赤ワインの無意味な連鎖を断ち切ればそれですむと思い、様々に試みたがいつも失敗してきた。

ということで、手っ取り早く夕食自体を抜いてしまうのが正解なのだった。

下は直接関係ないが、けっこう愛読してきたNLP系の優れ本。これを読んでもトリガーを外すことはできなかった。(この本に関してはまた近い将来書きます。)





JUGEMテーマ:健康

「幸福」になるためには断念が必要である

最近に亡くなったユング派の心理分析医、河合隼雄さんの著書、特にエッセーや対談が自分は大好きで、数冊の本をいつも枕元の秘密文庫内に置き、仕事に毒されておらずかつ謙虚な気分の時は、時々開いて見ている。

なかでも特に好きな文章は、こころの処方箋 (新潮文庫)の中のこのブログ記事と同じ表題を持つ章だ。

新潮社さんから文句が出そうですが、思い切って、そのほぼ全文を引用してしまいます。あまりにも見事なエッセーと思うからです。

人間は誰しも幸福になりたいと願っている。不幸になりたいなどと願う人はまずないだろう。そして、不思議なことに、「私は幸福だ」と言う人は少なく、不幸を嘆く人は案外多いのではなかろうか。人間というものは不思議なもので、「自分が行いたいと願っている善を行うことは少なく、悪を行うことが多いのはどうしてか」と嘆いた聖人がいたが、人間というものは、願っていることとすることが異なる存在なのだろうか。

カルメンと言う歌劇は皆さんご存知のことと思う。カルメンという女性がホセを誘惑して、ホセはそのために自分の軍人としての職を擲ってまで、カルメンを愛するようになる。しかし、カルメンはすぐに闘牛士のエスカミリオを好きになってしまい、怒ったホセはカルメンを追いかけてくる。ホセが来ているから危ないとカルメンの友人たちが忠告するのに彼女は逃げない。ホセはカルメンを見つけてよりを戻してほしいと言う。その場をうまく収めて逃げればいいと思うのに、カルメンはホセをもう愛していないと、彼に貰った指輪を棄てるので、激怒したホセはカルメンを殺してしまう。

これはお話と言えばお話である。しかし、そのなかにはいり込んで見ていると、カルメンが何であんな馬鹿なことをやったんだろう、などと思えてくる。あれだけ愛されたのだからホセで満足しておけばよかったのに!などと思ってみたり、エスカミリオを好きになったにしても、もう少し上手にホセから逃げ出せばよかったのにとか、わざわざ目の前で指輪まで投げ捨てなくともとか、凡人としてはいろいろ心を痛めるのである。

ところで、歌手の成田絵智子さんという方がいつかテレビで語っておられたことだが、自分は何度と数知れぬほどカルメンを演じているが、いつも最後にホセに胸を刺される場面で、カルメンとして「ああ、これでよかったのだ」と思う、とのことである。

これは、なかなか示唆深い言葉である。オペラ歌手として、おそらくカルメンになったのと同じ気持ちで演じてきた人が、最後に殺されるときに「これでよかった」と思う。おそらく、カルメンが実在していたら、おなじように思ったのではなかろうか。

(・・・)

表題を見られたときに、「幸福」という文字がわざわざ「」(カッコ)でくくられていることに気がつかれただろうか。人間の幸福ということは難しいことだ。何が真の幸福かはしばらくおくとしても、一般的な意味において、「幸福」を手に入れたい人は、何らかの断念がいるのではなかろうか。

(・・・)「幸福」は大切なことながら、人生の究極の目標にするのはどうかと思う、というところだろう。

断念せずに突き進むのもひとつの行き方である。そのときは、「これでよかった」と言えるにしても、自分や他人の「幸福」を破壊することがあるかもしれぬという覚悟は必要である。覚悟もなしに自分のやりたいことをやって、「幸福」が手に入らぬと嘆いている人は、「全面降伏」の人生ということになろう。


河合隼雄さんって、駄洒落とホラが大好きな方なんですよね。「日本ウソツキ倶楽部」の会長さんであったらしいです。(でもこの関西風な駄洒落の感覚は、いちおう東京生まれの自分にはいまいち・・・)

河合さんがこのエッセーでカルメンに仮託して言っていることは、自己実現は必ずしも幸福になることを意味しないということだと思う。自己実現とは、河合さんがユングから受け継いだ言葉だが、心理療法家としての経験から、「自己実現したためにかえって不幸になってしまう場合がある」、「生半可な決意では自己実現はできない」という意味のことをどこかに書いておられる。

ここで言う「自己」とは、「自我」よりももっと広く深い何かを指している。

ところで、このエッセーで河合さんが言う意味では、私自身は、半幸福と半自己実現の間を、どちらも断念できずにひらひらさまよっているように思うのだった。



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