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青の時間

この地ベルギーに来て数年たってから東京にちょっと里帰りした時、当時ベルギー大使館の文化部にお勤めだった田辺さんという素敵にハイカラなおばちゃまに森美術館のヤン・ファーブル展のオープニングに連れて行っていただいたことがあった。(田辺さんは、1970年代にベルギーのポスト・シュルレアリスムの画家ポール・デルボー展を日本で開催するサポートをした時、当時「ヘア禁」だった日本の検閲と渡り合ったというつわものだ。)

ヤン・ファーブルと自分は同年代で、当時は二人とも20代。大昔のことだ(泣)。オープニングのインタビューが行われた小さな部屋で、ヤン・ファーブルは、「The Hour Blue(青の時間)」と題した自分のタブローについてひとしきり語った。それは、大判の画用紙の白い面を少しずつ色の違う青いボールペンの細い線で限りなく分割することによって、期せずして(?)青みがかった不思議な奥行きのある空間を現出させている作品だった。

その中で、ヤン・ファーブルは、自分のひいおじいちゃんだったアンリ・ファーブルがその著書「ファーブル昆虫記」の中で「青の時間」について語っていると言った。

「夕方が近づくと昼の虫たちが鳴くのを止める。そして夜の虫たちが鳴き始めるまでの間に、短い完全に静寂な時間がある。これを、俺のひいおじいちゃんは『青の時間』と呼んだんだ。」

ヤン・ファーブルが青いボールペンで描くそのタブローは、ゼノンのパラドクスを思い出させる。ボールペンの青い線により空間は無限に分割できる。時も無限に分割できる。だから昼の虫たちが鳴くのを止めてから、夜の虫たちが泣き始めるまでの間、無限の線を通過しなくてはならなず、そのためには無限の時間が必要である。それは昼と夜、生と死のように対立するものを分割しようとする時に現れるリンボーのような時間。

(それは、その後おぼえた瞑想の、意識の力で時を無限に分割することで時の流れを無限に引き延ばそうとする試みに似ている。)

しかしヤンにも自分にとっても残酷な時は流れ、その間「青の時間」はヤンの中で様々な展開を続け、さまざまな形で私たちの目の前に現れた。


***

ブリュッセルにもようやく春が来て、アパートの窓辺に置いたイチジクの木やオリーブの木が一斉に芽吹き、ミントの葉が勢いを増し、週末IKEAで買ってきたレモンの木が次々と花を咲かせた。今は亭主のグリが旅行中なので、夜遅くアパートに帰ってくると、街灯の光にうす赤く照らされた暖かい暗闇の中でレモンの花が頭がくらくらするほど強烈に香っている。

そうすると、長い冬の間に縮こまって眠っていた嗅覚への欲望が一気に目覚め、大昔、学生時代にパリで泊まったGeorge Vの近くのホテルの浴室においてあった「Eau d'Hadrien (ハドリアヌス帝の水)」という香水石鹸の匂いが無性に懐かしくなった。調べた結果、Annick Goutalというパリのサントノレ通りの香水メーカーの石鹸であり、我が家の近所アベニュー・ルイーズにも店を出していることが分かった。土曜の午後てくてく歩いて行ってハドリアヌス帝の水のオード・トワレットをひとびん買うと、素敵な名前のついた香水のサンプルをたくさんくれた。

「嵐の朝(Matin d'Orage)」シシリア産レモン、青じそ、しょうが、マグノリア、ジャスミン。これは、嵐の朝に濡れた地面に散った花のさわやかな荒々しい香りがしました。

「我がニンフェオ(Ninfeo Mio)」シシリア産レモン、ビター・オレンジ、いちじく、ガルバナム精油、レモンの木。これは、ローマ郊外のニンフェオ川が横切る庭園の、夕暮れの木々の匂い、湿った土の爽やかで苦い香り、苔の匂い、土の上に落ちたいちじくの匂いがする。

「ハドリアヌス帝の夜々(Les Nuits d'Hadrien)」シシリア産レモン、青いミカン、ベルガモット、バジリコ、クミン、サンダルウッド、糸杉、ホワイトムスク、松脂・・・。極めつけはこれ。カウンター・テノール歌手が高音で夜空に向かって歌うような、そんな香り。異様に澄みきった夜空に満天の星が浮かび、ハドリアヌス帝の褥を照らしているようなそんな夜の清らかで高踏的な香りです。

どの香りも、日常から一気にトリップさせてくれるような香りで、仕事につけていくと集中力が鈍りそうだ。

***

ハドリアヌス帝の夜々に匹敵するように思えるのは、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の唄(Vier Letzte Lieder)」の中の「眠りにつくとき(Beim Schlafengehen)」 です。(そう言えば「The year of living dengeoursly」と題する1982年の映画の中で、Linda Hunt演ずる中国人の小人と、革命前夜の熱病のようなジャカルタの夜に流れるキリ・テ・カナワの「眠りにつくとき」の歌声が異様な光彩を放っていました。脇役であるはずのLinda Huntのグロテスクなリアリティーが強烈過ぎて、主役のメル・ギプソンとシガニー・ウィーバーがペラペラに見えました。)


 

キリ・テ・カナワの高貴な歌声も好きだが、さらにそれに何か神話的な、大地母神のような深みを感じさせるジェシー・ノーマンの歌うこの歌がが大好きです。まあ春の宵に聴いてみてください。


 

Nun der Tag mich müd' gemacht 一日に疲れ果てた今
soll mein sehnliches Verlangen 私の熱い望みもすべて
freundlich die gestirnte Nacht 喜んで星の夜にささげよう
wie ein müdes Kind empfangen. 疲れた子供のように

Hände, laßt von allem Tun, 手よ、すべてを手放せ
Stirn, vergiß du alles Denken, 額よ、すべての思いを忘れよ
alle meine Sinne nun 私のすべてが今は
Wollen sich in Schlummer senken. 眠りに沈むのを望んでいる

Und die Seele unbewacht, そして解き放たれた魂は
Will in freien Flügen schweben, 自由に飛び回ろうとしている
Um im Zauberkreis der Nacht 夜の魔法の世界の中へ
tief und tausendfach zu leben. 深く、千回も生きるために

空即是色

昨年2014年11月に日本出張で東京・大阪を往復している間、長年の同僚でガン友でもあったカリーンが亡くなった(2011年12月10日のブログに登場)。私だけよくなって、彼女はその後何度も転移・抗がん剤治療を重ねたけれど結局戦いに疲れ果てて、最後は静かに亡くなったのだった。

その少し前に、やはり長年の同僚だったグレーテルも亡くなった。(グレーテルは、2010年6月13日のブログにちょこっと登場。優秀な彼女は、この時税理士試験に一発合格したのだったのに。)彼女の方はストレス性のエピレプシーであった。何度か発作に悩まされていたけれど、豪快で気丈な性格で、私が抗がん剤治療中も元気が出るようなメールをくれたのだった。
 
イタカレの街
冬休みになり、ブラジルくんだりまで出かけて行ったのは、とにかく、できるだけ遠くへ行きたいと言う衝動が高まっていたからだった。

ブリュッセルから15時間近くかけてリオに着いてから、それでもまだ懲りずに飛行機を乗り継いで4時間ぐらいかけてブラジル北部のバイーア州のイレウスまで飛んで、そこからまた長距離バスに乗ってイタカレまで行った。ブリュッセルと東京を二往復する位の時間とお金を使ったが、この際どうでも良くなっていた。

イタカレの優しい風景と優しい人々に囲まれ、ひきこもって一週間を過ごした。





日焼けしすぎて右足に水ぶくれができたら、イタカレの街のお医者さんが無料で治療してくれ、お薬も処方してくれた。お医者さんと助手のお姉さんはポルトガル語しか話せなくて、話がぜんぜん通じず、みんなで爆笑の連続だった。
でも、100年後には、もう誰もこの世にいないんだなあと思うと、寂しい。














この子供たちも。









このサトウキビ・ジュース売りのおじさんも。

色即是空。
















イタカレの海や、木々や、青空や、豊富な果物、海風になぶられて少しくすんでいるけれどイタカレの街の看板の原色が目に染みる。



これらすべて、いつか消えてしまうとはわかっている。すべては空だとわかっているのではあるけれど。

それでも、空即是色。



写真はイタカレの街と海岸の間に広がる熱帯林の中のエコロッジの朝食に出てきた、フルーツとブラジル風パン・ペルデュ、タピオカ、チーズトースト。朝食の内容は毎日少しずつ違っていて、繊細で、心がこもっており、普段食べ物に関心の薄い自分も感動してしまいました。

右下は、魚を素手でもって、イタカレ海岸べりの通りをのんびり歩くおじさん。

JUGEMテーマ:スピリチュアル

ブラジルにて: リオデジャネイロのファヴェラ

亭主のグリと一緒に、ブラジルのリオデジャネイロにきてみた。リオに950もあると言われるファヴェラ(スラム街)のひとつホッシーニャを、そこの出身であるエドゥアルドくんに徒歩で案内してもらう。


日本やヨーロッパの都市では、金持ちは高台(つまり山の手)、貧乏人は低地(下町・ダウンタウン)に住むと言う構造が一般的だと思うが、子供のころどこかで「ブラジルでは、金持ちが海辺に近い低地に住み、貧乏人は高台に住む」と読んだことがあり、それがずっと心に引っかかっていた。
 
リオは、きれいなビーチを望む巨大な岩山がぼこぼこ突き出た、なんだか世界創造の神様の遊び場を思わせる不思議な形状の都市だ。その岩山の中腹に、自然発生的な(まるでミツバチとかシロアリのコロニーのような)ファヴェラの家々が貼り付くようにして広がっている。

ホッシーニャを一望する丘の上からの眺め。
遠くに見えるのが、たぶん、イパネマのビーチと高級ホテル群。

エドゥアルド君の説明では、ホッシーニャには水道がないので、皆が屋根の上に給水タンクをおき(写真に見える青色の丸いもの)、そこから水を補給している。
みなが勝手に電信柱から電気を引く。

オートバイの通行が多いのは、急斜面につくられたファヴェラの住民の足になっている個人タクシー Moto-Tax。
「でも絶対乗らない方がいいよ」とエドゥアルド君。「だれも保険に入っていないし、運転免許を持っている奴もほとんどいないから。」
 
 
エドゥアルド君にくっついて、狭くて急な石段伝いにファヴェラの迷路の中へと向かう。
 
「子供のころ、雨上がりに
ここで遊んでいて感電しかかったんだ。電線があちこち露出しているからね。」

ホッシーニャには住所も住民票もない。リオのファヴェラに住む人口は16万人で、リオの人口の20%と言われているがそれすらも定かではない。

「10平米の部屋に5〜6人が雑居しているなんてのがよくあるよ」

「日照や通気が悪いので、すぐに感染症が流行する。でも数年前に結核が流行しそうになったときは、本当に政府ががんばって根絶やしにしてくれたんだ」
 

「ここからは、下水が露出しているので強烈に臭いよ」

そう言いながら、「劣悪な住環境の写真をどんどん撮って 世界第5位のGDPを誇るブラジルの現実をみんなに見せつけてくれ」と言う。

写真には写らない強烈な臭いのする下水道の上で、元気に遊ぶ子供たち。

そういえば、自分の子供の頃、高度成長期に入りたて、東京オリンピック前後の自分の住む東京下町の住環境は、狭くて、臭くて、暗くてじめじめしていて、こんな感じだった。
それに、近所に半裸体で腹を空かせたガキどもも沢山いたよ。

(そういえば、自分はいつも暗くてじめじめした自分の家・街から出て、乾いて、明るくて、広々とした場所に行きたいと思っていたな。今でも暗くてじめじめした何かから、必死で逃げようとしていたりする。)

写真のこの子供たちも、そんな風に思う日が来るのであろうか。
(とは言え、あの頃の近所の子供は、栄養不良のお蔭でみんな青洟たらして、顔色も悪く汚かったけど、リオのスラムの子供はずっと健康そうである。海が近いせいか。)

「ここからは、麻薬売人の多い通りだから写真はひかえてね」

映画 City of God でもリアリティーを持って描かれている通り、ファヴェラは一般人は近づかない方が良い恐ろしい犯罪の温床とされる。2016年のリオ・オリンピックまでにそれを一掃するという目標で、警察と軍隊がパシフィケーション・プランを特に最も危険地域と指定されるファヴェラから順番に実行しつつあり、銃撃戦になったりしている。でも、そんなに簡単に一掃できるものだろうか。ファヴェラに配属された警察官が時間がたつうちに汚職に染まっていくのはしばしばのことらしい。また、一説にはファヴェラのドラッグディーラーがファヴェラ内部の治安の重要な担い手だと聞く。長い間かけて出来上がったそんな絶妙な生態系のバランスを、外圧で一気に崩そうとするのはいかがなものか。

後でベルギーの新聞で読んだ話だが、過去5年にリオのパラミリタリー・ポリスに殺された人数は1519人に及び、リオでの殺人の被害者の6人に1人はポリスの手によるものだそうだ。多くの場合、怪我をして動けなくなった、または、無抵抗の者も射殺されるケースがあったという。(The Week誌に掲載されたアムネスティ・インターナショナルによる調査報告。)

「ファヴェラに生まれ住んで70年、人生悔いはありません」と言いたげな、ファヴェラの主みたいな風格のおじさん。ファヴェラの住人の危険性について(自分も住人の一人のくせに)、そしてまた、正月やカーニヴァルの混沌について語ってくれる。「カーニヴァルの後に生まれた子供は、誰が父親なのかわからない。このおっさんだって実は僕の父親かもしれない」とエドゥアルド。

ファヴェラを上から下まで1時間半ぐらいかけて横切った後、子供がサッカーをして遊ぶ小さな広場まで来た。
「ここでサッカーをして遊んでいるとき、今の雇い主が僕を見つけてくれたんだ。彼は、僕に英語を習えと薦め、励ましてくれた。」

リオでは、ホテルやビーチ沿いのレストラン以外では、ほとんどポルトガル語しか通じない。そんななかで、エドゥアルド君は2年半で英語を猛特訓して、なまりのほとんどない、きれいな英語を流暢にしゃべれるようになった。

「じつは、ブラジルのサッカー選手の99%はファヴェラ出身なんだよ。」

連なる岩山の上に何か暗く過剰な混沌としたものがあり、ものすごく澄み切って明るい海と空がそれをやさしく平等に受け止めている。そんな特異な都市の形。
 
JUGEMテーマ:旅行

「セルビアの皇太子」(2)  タインコット墓地の邂逅

先々週末は、亭主のグリの故郷、アイルランドのコーク・シティーから飲み友達のデクランとステファニーが、当地ベルギーにやってきて、第一次大戦で戦没したアイルランド人の一兵卒のお墓を探すと言うので、運転手として付き合うことになった。戦争映画を観るだけですぐ吐気や頭痛に悩まされるデリケートな自分は戦死者の墓場に行くのは本当に気が進まなかったのだが、「墓地や戦跡に行くときは、これをはきなさい」と言って母親が巣鴨のとげぬき地蔵の仲見世で買ってくれた赤いステテコのようなものをジーンズの下にはいて、しかたなく出かけた。

デクランとステファニーがさがしているのは、コーク・シティー出身のデニス・フィールドと言う名の兵卒の墓だった。デニス・フィールドは、第一次大戦末期の1917年、ベルギーのイープル郊外のパッシェンデールの戦いで27歳で戦死した。デニスの二人の兄弟もまた、同じ第一次大戦中にそれぞれフランスとドイツで戦死している。デクランとステファニーの友人が、この不幸な若者デニス・フィールドの曾孫にあたり、第一次大戦で戦没したコーク・シティー出身の兵士の墓所の膨大な記録の中から、自分の曾祖父の名前とベルギーのタイン・コットと言う墓地の名前を発見したのだった。そして、ベルギーで週末を過ごすというデクランとステファニーに「そのお墓を探して写真を撮ってきてくれ」と頼んだのだ。

タイン・コット墓地は、イープルの郊外にある。イープルは、今でこそ猫祭りとかで日本人にも人気のある可愛い町に再生されているが、イープル突出地(Ypre Salient)と呼ばれる西部戦線がぼこっと東側のドイツ側の陣地に突出したこの地域は、市街地も周辺の野畑も、第一次大戦の度重なる砲撃でぼこぼこにされ木々の焼け残る沼地での陰惨な戦いの舞台となった。ドイツ側の銃弾に倒れた者だけではなく、沼地やトレンチで溺死した兵士、味方に銃殺された兵士もいる。

これは、惑星ソラリスの写真ではなく、1917年のイープル郊外の風景である。


ブリュージュでランチを取り、車を走らせていると、なんとなく1917年をほうふつとさせる不穏な空模様となってきた。


そして、タイン・コット墓地。(Photo: Marc Dirickx)


ここには、英国、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等の出身の11,954人の兵士が眠る。その内の8,367は名前を同定することができない無名の兵士の墓だ。私たちが探しているデニス・フィールドの墓には、幸いなことに彼の名前が刻んであるはずだ。でも、墓石はアルファベット順に並んでいるのでもなく、出身隊別に並んでいるのでもない。この膨大な墓石の中からどうやって彼の墓を見つけ出したらよいのだろう。唯一の手がかりはデクランが友人から手渡された、
   L11 C13
と言う記号を記した手書きのメモだけ。

よく見ると、整然と並んだ墓石群には、列の一番右端の墓石の側面に、1A、1B、1C... 2A、2B... と言う番号が刻んであり、それが列を表す記号であることが分かった。デクランが、デニス・フィールドの曾孫から手渡された手書きのメモの記号が何を表すのは不明だが、L11と記された墓石の列、または、C13と記された列を見つけることができれば、そこに目指すデニス・フィールドの墓が見つかるに違いない。そう思い、私たちは11か13で始まる墓石群を探し、13で始まる墓石群を見つけた。でも、C13と言う列の墓石にフィールドの名前を見つけることはできず、11で始まる墓石群も見つけることができない。

墓地の表門の内側の壁に小さな扉があって、それを開くと20冊ぐらいの埋葬者名簿が出てきた。幸いアルファベット順になっていたので、デニス・フィールドの名前と、彼が所属していたという英国陸軍のInfantry Regiment(歩兵連隊)Royal Munster Fusillierと言う手がかりをさがしたが、影も形もない。ステファニーがため息をついて「彼が見たという記録が間違っていたのかも…」と言い出した。「それなら、タインコット墓地には記録がなかったという記録でもとろうか?」そう言って、デクランが、名簿のFで始まる兵士の名前のリストの、フィールドの名前のないページを写真に撮り始めた。

すると、デクランのカメラが突然故障してしまった。

墓地の入口近くにあったビジター・センターに、コンピューター・ベースの検索システムがあるのではないかと期待して行ってみたが、兵士の遺品が陳列されているだけで何のデータもない。

デクランとステファニーとグリは、墓地を囲む石の壁面に刻まれた、遺骸の見つからなかった兵士の名前の中にもしやデニス・フィールドと言う文字が見つからないかと、壁面をひとつひとつ丁寧にチェックして居る。私は、もういちど11で始まる墓石を探しに墓地の反対側の遠い門までゆっくりと歩いて行った。


(Photo: Marc Dirickx)

9と刻んだ墓石群を見つけた。そして10と刻んだ墓石群… それから少し離れて11と刻んだ墓石群が、裏門のすぐそばに見つかった。でも、L11と言う列を見つけることができない。がっかりして、3人のところに戻る。ステファニーが、
「ここにも、名前がなかったわ。あんたの方は、なにかみつかったの?」
「向こう側の門に11で始まるお墓があるんだけど、L11という列がどうしてもみつからないのよ」と私。
「カメラも壊れてしまったし、これ以上続ける元気はないよ」と、デクランが珍しく泣き声を出す。
「ちょっとまって、まりあが向こうの門の隣に11で始まるお墓を見つけたらしいから、行ってみましょうよ」と元気づけるようにステファニーが言うので、皆重い足取りで歩きだす。

門にたどり着いた時、白い墓石の列の間に真っ赤なジャケットが見えた。男の人が、白い墓石の前に大きなカメラを近づけて接写しているのだった。男の人のジャケットは、戦いの終わったフランダースの野に一斉に咲いたポピーと同じ血の色、そして、私がひそかにはいている憑依除けの赤いステテコと同じ色である。

何を思ったのかステファニーが、その男の人に声をかけた。
「L11という墓石の列を探しているんだけど」
すると男の人は、
「Lで始まる墓石は、いちども見たことはないよ」
即座にそう答えると、ステファニーを墓地の裏門に導いた。裏門の内壁には、先程表門の中にあったのとそっくりな小さな扉があった。男の人が扉を開くと、中に入っている沢山のブックレットを一つ一つ取り出した。そこには、なんと、表門にあったのとは全く別の埋葬者リストがあったのだ。
  

そこにはたしてあった。D. Fieldと言う文字が。そして、LII.C.13と言う番号が…


その赤いジャケットを着たおじさんは、
「LIIは、L11ではなくて、L2を意味するのかもしれない。2の墓石群も見てみよう」
と言ってはるか向こうを指さし、先に立って早足で歩いて行った。
デクランが追いついて、
「どうして、あなたはそんなにご親切にしてくれるのですか」と尋ねた。すると、おじさんは、
「私たちベルギー人が侵略され町を破壊されたとき、あなたたちイギリス人やアイルランド人が来て助けてくれたのではないですか。私があなたを助けるのは当然です」
そう答えたという。(それは、感動したデクランが後で私たちに語ったことだ。)

でも、2の墓石群にもLの文字はなかった。がっかりしかけた私たちにおじさんが言った。
「もういちど、裏門に戻ろう。ずっと以前に、門にある資料に墓地の見取り図があったことを思い出したんだ」
そして、私たちが見つけたのは次の見取り図だった。

そこにあったのだ。L IIと言う文字が。そこで初めて気づいたのだが、それはL2でもなければ、L11でもない、「52」を表すローマ数字だったのだ!

おじさんは、もういちど私たちを墓石の列に連れて行って、
「フィールドさんの御墓はこの区画のどこかにあるはずなんだ。手分けして順番にみていこう」
かなり絞れてきているとはいえ、おじさんの指差した方向には、やはり見渡す限りの墓石が並ぶ。その場にへたり込みそうになったデクランとグリを無視して、おじさんとステファニーと私は墓石の海を3列おきにジグザグにすすみながら、墓石に刻まれた名前を一つ一つ見ていった。

もしも自分の見ている列にデニス・フィールドの墓石があり、自分がそれを見落としたら、これからさきデニス・フィールドの墓を訪れる人はいなくなってしまうかもしれない。そうしたら、彼が本当に浮かばれない。なんとしても彼のお墓を見つけたかった。ひとつひとつ、ていねいに名前を見ていく。「無名戦士」と刻まれた墓も多い。

墓を一つ一つ見ながら進むうちに、風が嵐のように強くなってきて、墓地を守るようにそびえている二本の巨大な樹がまるで生き物のように大きく揺れている。自分には、なんだか異常な感じのする風の音が自分の周りで起こっていることなのか、それとも自分の心の中で起こっていることなのかの区別がつかなくなっている。自分が確かに何かに近づいているような気がする。その時、自分の目を疑った。自分の目の下にある墓石に、あれほど探した名前、D. Fieldという名が刻んであったのだ。
「キャー!!!」
私の叫び声に、ステファニーが、デクランが、グリが、おじさんが駆け寄ってきた。それは紛れもなくデニス・フィールドの墓石だった。

私たちは、多分それぞれが深い感動を感じていたのだと思う。そのおじさん、マルク・ディルクスさんに深くお礼を言って、お互いの写真を交換するためにメールアドレスも交換して、言葉少なにその場を離れた。でも、ブリュッセルに戻って、グランプラスでビールを飲んでいる内にじわじわ感激と興奮が戻ってきて、みんなでひとしきり、くりかえし今日の体験を語り合い、あのときマルクさんに会っていなかったら・・・と言う話をした。

「97年7か月も待って、初めて人が自分の墓を見つけてくれて、しかもそれがアイルランド人とベルギー人と日本人の混成チームでデニス・フィールドもうれしかったろうな」
そう、しみじみとグリが言った。

デニス・フィールドが英国軍の兵士としてベルギーにやってきたとき、アイルランドは英国からの独立をめぐってのイースター蜂起の真っ最中で、彼が戦死した2年後にアイルランドは独立戦争を開始し、数年後には独立を勝ち取る。1917年当時に英国軍に参加したアイルランド人は、多くは貧しい農民の若者でお金のために志願した者達であった。だから、戦死した後も、アイルランド共和国にとっては「裏切り者」であり、長い間顧みられることがなかった。

その後、Royal Munster Fusilierという彼の所属した連隊についてWikipediaで調べると、はたして、彼が戦死した1917年11月10日に何が起こったのかが明らかになった。Royal Munster Fusilierは、アイルランドの南部地方Munsterの出身者で形成される歩兵隊で、彼の所属するのは20人の武官と630名の兵隊からなる第二部隊だった。この部隊は、11月6日に前述のイープル突出地のアイリッシュ・ファームと呼ばれる場所に到着する。すでに4か月前から続いていた会戦で、地面は砲弾の穴だらけでそこに水が溜まり、沼地と化していた。英国軍は、最後の試みとして11月10日午前6時に攻撃を再開する。彼の所属する部隊は、重い装備を抱えたまま、腰まで泥と水につかりながら前進し45分の間にすべての目標地点を通過してしまった。背後から砲撃隊がドイツ軍に向かって砲撃を続けていたが、彼の部隊が予想外に早く進行してしまったために、部隊の多くが味方の砲撃の犠牲になった。この日の会戦で部隊は、武官・兵卒共に3分の1に減ってしまった。デニス・フィールドは、死傷した3分の2の一人だったのだろう。

マルク・ディルクスさんは、このページに一部が掲載されている美しい写真をたくさん送ってくださり、私たちも感激と感謝の言葉と共に、アイホンで撮った写真を送った。

これは、マルクさんからのお返事。
「写真を送ってくれてありがとう。先週の日曜日は、私にとっても一生忘れられない日となったよ。何年もの間、わたしはこの土地に永遠に眠る人々の墓石の写真を撮ってきた。でも、あのとき、一つの墓石の陰にある物語を聞き、それが3人兄弟の一人で、3人とも再び故郷に戻ることはなかったということを聞いたら、戦争の残酷さを理解するのに写真は必要なくなるな。この特別な経験をありがとう。あの日、あの場所に来てくれてありがとう。(thank you very much for sending me these pictures. Last sunday will be a day I'll never forget. During the years I created a "band" with the men who are eternally resting in our soil. When the story behind one of these men became visible and when I heard they were three and they never went home again, I didn't need any pictures to understand the cruelty of war. Thank you for sharing this special with me and thanks to all of you for being there. )」
 
写真は、マルクさんが送ってくれた、どこか清らかな、恥じらいを含んだような、デニス・フィールドの墓石。
(Photo: Marc Dirickx)


JUGEMテーマ:旅行

「セルビアの皇太子」(1)  トレンチ

みなさんは、中学校の歴史の授業で、第一次大戦のきっかけとなったサラエボ事件を何と習いましたか? わたしは、「セルビアの皇太子」がオーストリア大公夫妻を射殺した事件、と習ったんです。

おかげで、自分は○十年の間、第一次大戦と聞くたびに、ひよわで青白い薄幸の王子(頭にはなぜか大きな羽飾りのついた王冠をかぶっていた)が、毛皮のむくむくしたコートを着込んだ太った大公の胸に、ピストルを突き付けてパンと撃った図を思い浮かべてきたのです。

それが最近、亭主のグリと第一次大戦の話をしているときに、わたしが「セルビアの皇太子」に言及すると、息も絶え絶えになるほど笑った挙句、オーストリア大公夫妻を狙撃したのは、頭に羽根飾りを付けた憂愁のプリンスならぬ、プリンセップという名のセルビア系ボスニア人の若い結核持ちのテロリストであることを教えてくれました。

たぶん多くのみなさんも「ぶっ。セルビアの皇太子?」と思われたことでしょう。でも、わたしの日本語の歴史の教科書には、ほんとうにそう書いてあったんですってば。まんがいち、わたしとおなじように、オーストラリア大公夫妻を狙撃したのが「セルビアの皇太子」であったと記憶されている方がいましたら、ぜひお便りください。

ともかく、それ以来、「セルビアの皇太子」は亭主のグリが、私の、ひいては日本人の戦後世代の歴史音痴を揶揄する時の決まり文句になりました。この私だけではなく、日本人の戦後世代もやり玉に挙がってしまったのは、私の元同僚のWちゃん(当時35歳ぐらい)がその昔、「えっ? 原爆って、日本に何発落ちたんですかっ?」と口走ったことを、さすがにショックを受けた自分がグリに話した時以来のことである。

****

いずれにしても、なぜ、青年の銃弾が欧州各国や日米を含む16か国に飛び火する大戦争へとつながったのかは、自分にとっては大きな謎だった。

かろうじて理解できたのは、当時、欧州の大国の帝国主義がほぼ飽和状態で、各帝国の勢力争いが一触即発の状態であったこと、そして、各帝国は複雑な同盟網にがんじがらめにされていたということだった。

まず、青年の銃弾にオーストリア大公が倒れたことをきっかけとして、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに攻め込むと、セルビアをバックアップしていたロシア帝国が牽制、これに対しオーストリアと同盟を結ぶドイツ帝国がロシアと、ロシアと同盟関係にあるフランス帝国に宣戦布告。ドイツは、フランスを攻撃するために中立国ベルギーを通過しようとし、1914年8月2日、ベルギー国王アルベール一世に対し軍の通行権を要求し、国王は中立権に基づきこれを拒否。これに対し、8月4日、ドイツ軍が東の国境からベルギーに侵攻すると、大英帝国が参戦。

これは、同年6月28日のサラエボ事件からわずか1か月強のことで、これにより、戦死者8,530,000人、民間戦没者7,750,000人を巻き込む5年間の大戦争が始まってしまった。

特に、西部戦線が通過するここベルギーからフランスにかけては、激戦場になり、町や村や野畑や森も砲撃やトレンチ(塹壕)堀りでぼこぼこにされた。ジョルジュ・ブラサンスの唄に、「Mais, mon colon, celle que je préfère, c'est la guerre de 14-18! (でも、大佐、あたしはやっぱり14-18年の戦争のほうが好きでさあ! 」というセリフがあったと思うが、この戦争の思い出はこの地に生きる少し年取った人々のDNAにも深く食い込んでいるのか、繰り返し語られ、想起され、再現される場面にしばしば遭遇する。

今でも、ベルギー・フランダース地方の工場用地の真ん中に、よく保管された英軍のトレンチ跡を見ることができるし、毎年11月11日のドイツと連合国の休戦協定記念日には、各地で記念行事が行われる。3回の激戦で完全に破壊されたベルギー・イープルのメニン門の英国軍戦没者の記念碑には、毎晩8時に欠かさず慰霊式典が行われ、イギリス人をはじめ多くの人々が集まり、真っ赤なポピーの花輪を供える。

第一次大戦の西部戦線でとりわけ悲惨なのは、2016年7-11月、開戦から数時間で2万人の戦死者を出したと言われるフランス北部のソンムの会戦かもしれない。英仏連合軍は、100年前とそれほど変わらない戦法で、間隔1ヤードの横隊で徒歩でドイツ軍に向かって前進する。100年の間に機関銃・速射砲が発明され、大変整備された強固なトレンチから攻撃してくるドイツ軍に向かって、イギリス軍は銃剣を携えたまま前進していく。まあ、この戦法がどれほどあほらしいか、このBBCドラマ「ザ・トレンチ」の映像の後半3分の1を見てください。



一方、こちらはドイツ軍側のトレンチ。レマルク原作「西部戦線異状なし」から。



ソンムの会戦は4か月後に、連合軍・ドイツ軍それぞれ60万人ずつの死傷者を出し終結したが、戦線自体はほとんど動かなかった。大いなる浪費。

この映画のドイツ兵士の一人が呟いたように、自分の命を犠牲にしてまで守るべき祖国などない。皇帝も将軍も政治家も同盟を結ぶのは勝手だが、その同盟に従って、「自分たちが、リングの中で棒を持って、服を脱いで戦えばいい」。

JUGEMテーマ:旅行

魔の十字架

みなさん、人生の節目はほぼ10年ごとに来ると思われた方はいませんか?
 
自分の場合、次のような大きな節目がありました。
 [梢討慮気鯲イ譴董東京にやってきた歳
◆‘本を離れて、ヨーロッパに住み始めた歳
 今の会社に入社した歳
そして、私の場合、この´↓の節目が、きっかり10年ごとにやってきたのです。

そんなわけで、から10年ほどたった時、
「うわー、そろそろい来るぞ、い来るぞ…」
と思っていたら、なんと、癌になってしまいました。

癌になった歳に、このブログを始め、禁欲と精進と呼吸と瞑想の日々が始まりました(笑)。

ともあれ、このような周期があるのはなぜだろうと考え、四柱推命や気学などを探し回っている内に、西洋占星術の説明が自分の周期にぴったりと符合していることに気付き驚愕しました。

しかも、自分の,鉢以降の時期は占星術でいう「転落」、0聞澆了期は「障害」と出ており、自分のつらかった時期とぴったり符合しております。ぐ聞漾∨榲に居心地がよくなってきたらと思ったら幸運星と言われる木星が「あるべき場所(居所)」に収まっているという良い時期であることがわかった。ふうん。

上記のようないきさつで、西洋占星術をいつかきちんと勉強したいと思って色々ネットを渉猟していたのですが、なかでもつぼぼさんのページが、いちばん網羅的で充実しており、整理されており、醒めておりプラクティカルであるように思いました。(つぼぼさんはメールで鑑定もうけつけてくれましたので、半年間の鑑定をお願いしました。しばらくはこれを頼りに生きていけそうです。)

***

さて、つぼぼさんからは、4月20日頃は「人間関係で少々トラブルがありませんか。思考が乱れていますね。」というご注意を受けていました。

たしかに、今年になってから忙しいのに加え、先週末から頭の中が混乱しており、昨日は、「タイヤのプレッシャーが落ちてます」というランプがついているのを無視して高速道路をぶっとばしたため、ついに、タイヤがバーストしこんなことになってしまいました。

すいません。アイホンで撮った写真がどうしても横倒しになってしまいます。車が横倒しになっているわけではありません。

場所は、この矢印の場所です。高速の真ん中。


びゅんびゅん脇をトラックが通り過ぎる高速道路の端っこで頓挫した車の中に座ったままレスキューを待つ数時間、クライアントからの電話に答えたり、アイホンでメールを送ったりして、わりと普通に仕事をしていました(笑)。

そうする内に、この1週間ほど、もやもや、いらいらしていた頭の中がすっきりしてしまいました。ちょうど、爆発後の私のタイヤ(下図)のように。


おかげで、今日は久々に仕事がはかどりました。

ところで、この数日は、占星術では天王星・冥王星・火星・木星がスクエアを形成する魔の十字架よばれる時期でした。つくづく、無事で良かった。

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気功で指先から煙が出てしまいました。

心身ともに元気になる方法を手当たり次第に試している自分ですが、以前、気功教室に通っていた母親から教えられた香功(しゃんごん)という気功を試してみました。簡単で、やっているうちに良い香りがしてくるという楽しそうな気功である。

最近は、You-Tubeで手軽に実践ビデオを見ることができるのでうれしい。「香功」で検索したらあっという間にたくさんの画像が見つかったが、なかでも、いかにも「中国の人」という感じの婦人が実演している解像度が悪い画像が気に入って、布団の上に座り目の前にラップトップを広げて、やってみた。


 
さて、一通りやり終えて、ふと自分の手を見ると、両手の先から煙が立ち上っていました(笑)。少し薄暗いところでやっていたのですが、白く光るオーラとかそういうものではなくて、まるで線香の煙のようなものが、ひと筋かふた筋、指先から上に向かってただよいながら立ち上っているのです。

以前、「オフィスの裏で鹿を見た」と言って同僚にきちがい扱いされたばかりなので、家族にも友人にも話せず悩んでいます。

今になり、
「ああ、あの煙がお香のように良い香りを発するわけであるな。不思議なものよのう…」
と思うのですが、なぜ煙が出るのかはわかりません。もういちどやって煙の正体を確かめればよいのかもしれないが、正直言って怖くなってしまい、あれ以来、香功はしていません。

香功をして、同じように指から線香のような煙が出てしまった方の、コメントを募集します。

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誰かが代わりに泣いてくれた

先週末、瞑想を終日続けたお蔭で「うぁーん」という自分の心の泣き声を聞くことができた顛末を書きました(「誰かが泣いている」)。

好きなだけ泣かせてあげたせいか、今週はひさびさに毎日しゃっきり5時半に起きて、バリバリ仕事をできるようになりました。泣くことは人間にとって必要なカタルシスのプロセスなのだろう。それができない自分は、汗をかけない人が体に毒ををためていくように、心に毒をためていくことになるのかもしれない。

癌になった時も、やはり一回も泣かなかった。(日本人って、けっこう私みたいな人が多いんじゃないでしょうか。)検査の結果を先生に聞いて、「えーっ?そーですか…」と言って、そのまま会社に行って上司たちに報告して、いつものように夜の11時ごろまで仕事をして、夜中頃に家の前の駐車場に車を停めた時、車の中でちょうど亭主のグリのCDが「First the thunder... then the storm...」と歌っていた。5階のアパートの窓には暖かな灯りがともり、グリが私の帰りを待っていることがわかる。でもすぐに車を出てアパートに帰る気になれずに、しばし呆然としてその歌声を聴いていた。(これまで注意して聞いたこともないその歌は、後で調べたらアイルランドのグループClannadとU2のBonoが歌う「In a life time」という歌でした。)

***

それからドタバタ手術をすることになり、手術の前日に撮影したMRIで癌が予想以上に大きく広がっていることがわかり、「これでは、切っても無駄である。取り急ぎ、体中に散らばっているに違いない癌細胞をやっつけよう」ということで、ドタバタ手術が中止になり、いきなり6か月の抗がん剤治療に入ることになった時も、一番くやしいと思ったのは死ぬかもしれないということより、仕事を休んで同僚たちに後れを取ることだった。仕事上の懸念を除けば、癌の治療期間はむしろ自分にとっては楽しみと発見と感謝の体験ばかりだった。

今思うと、自分の心を死への恐れや不安に対して鈍感にすることによって、自分を守っていたのかもしれない。そういうことに気付くようになったのは、瞑想のおかげで自分の心の観察力が増してきたためかもしれない。たとえば、洋服ダンスを整理しているときに5年前に抗がん剤治療中にかぶっていたカツラが出てきたときの、ほんの0.0001秒ぐらいのかすかな心のちくっとした痛みを、見逃さずに気づくことができるようになってくる。

それでも、癌の治療期間が自分にとって楽しく幸福な6か月間だと思えたのは、泣けない自分の代わりに、誰かが泣いてくれていたおかげではないかなあ…と、最近になって思う。

検査の結果を当時の日本人の上司のTさんにまずは報告しなくてはと思い、オフィスに行き「すみません〜。癌になってしまいまして…」と切り出すと、Tさんは「えーっ!? えーっ!? えーっ!?」と叫んで椅子から転げ落ちそうになった。(Tさんの写真をここに掲載できないのが残念だが、しいて言えば55歳ぐらいのコアラが流暢に大阪弁を話している姿を思い浮かべてほしい。だから、椅子から転げ落ちそうになる姿は本当に可愛かった。)私自身が癌の宣告をされたときの3倍ぐらいのびっくりの仕方をTさんがしてくれたので、非常に癒される感じがしました。

2回目の抗がん剤治療が終わって頭の毛がすっかりはげてしまった後、はげあたまにスカーフをかぶって会社に仕事の道具を取りに行った。私は同情を引くのが嫌だったのでカツラをかぶって行こうとしたのだが、グリにはその気持ちが理解できない。「はげあたまを恥と思うな」とかとんちんかんなことを言って強硬にカツラをかぶらせないので、しかたなくはげあためにスカーフだけかぶって行くことになった。オフィスの駐車場の前で私を見つけた秘書のロランスが、いきなり私に抱きついて「うぁぁぁぁ」と泣きだした。(だからカツラをかぶって来たかったのにい… 人に泣かれるのが嫌なのにい…)と思いながらも、彼女が泣いてくれたことで、泣けない自分が癒されていたのではないかと、今では思うのです。

その他にも、随分いろいろな人が、泣けない私の代わりに泣いてくれました。同僚のWちゃんが電話をくれて、「まりあさんの病気の発表があった後、あのプライドの高いジェシカがオフィスで一人で泣いていましたよ」と教えてくれた。「え〜、困るなあ」とか言いながらも、私はそれによって深く癒されていたのではなかったでしょうか。

***

さて、話は最初の場面にもどりますが、ようやく気を取り直して車のエンジンを切り、アパートに戻ると、やはり亭主のグリが「おれ、ちょっとこの状況、耐えられないよ」と言って、子供のようにぽろぽろ涙を流し、しくしく泣き始めた。グリを泣かせてしまったことの方が本当に心が痛んで、「大丈夫。ぜったいに死なないからねっ。心配するな」と力強く言いました。

でもそんな風に言えたのは、グリが、家族が、友達や同僚が私の代わりに泣いてくれたからではなかったからでしょうか。

誰かが泣いている

前回、早起きについての記事を偉そうに書いた直後、朝起きるのが大変しんどくなってしまいました(笑)。会社の自分の所属するチームに1人が長期病欠、もう一人が海外出向で、いきなり2人も欠員が出たせいか、体力の消耗とストレスが激しいせいかもしれない。

何とかこの体勢を立て直さねばなあと思い、今週末は、亭主のグリが旅行に出かけているのを幸いに、瞑想ウィークエンドにすることにしました。「呼吸による気づき」で書いたように、昨年夏、森のコッテージに週末こもってやったのと同じ瞑想三昧のプログラムを、今度は自分のアパートにこもって行うことにしてみる。金曜日はいつになく早めに退社して、スーパーで野菜のスープや大量の果物を買い込んで帰った。

1日目の土曜日は、早起きして1時間おきに瞑想と作務(と称する部屋の掃除や洗濯)を繰り返し、なかなか快調な出だしであった。ところが、午後になると、瞑想で体の緊張が緩んでくるにつれ、強烈な眠気が襲ってきて、1度などは瞑想の格好をしたまま眠ってしまった。瞑想中に眠くなったのは生まれて初めてなので非常にショックであった。愛読している「一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本 」で、眠気を抑えるツボを押すとなんとか生き返り、瞑想を続ける。予定通り、夜の9時に消灯する。体が緩んでいるせいか爆睡。

2日目の日曜日。二日酔いのように、頭が痛く、胃がむかむかする。もちろん、先週末にグリとワインを飲んで以来、アルコールは一切飲んでいない。体が緩みすぎたのか。心を静めて座り、頭の痛みと胃のむかむかに意識を集中する。すると、例によって、痛みと思っていたものも、むかむかと思っていたものも、明滅する断続的な感覚の集合にすぎないことが感じられるようになる。

そのうち、喉のところに小さな、嗚咽のような、悲しみの感覚が感じられた。さらにそこに意識を集中すると、誰かが、
「うぁーん」
と泣き叫んでいるかすかな声が聞こえる。なんだ、これ?と思ってさらに意識を集中すると、その声が、だんだんおおきくなり、
「うぁーん」
というはっきりとした泣き声になった。そして、その泣き声が、自分のいくつかの記憶の束と連動しているらしきことに気付いた。幼児期の記憶とか、前世の記憶とか、そんなたいそうなものではない。わりと最近の日常の記憶。自分の意識では、悲しいとも感じられなかったいくつかの出来事の記憶。でもそれに対して、
「うぁーん」
と泣き叫んでいるのは、確かに自分自身の声なのだった。

そうか〜。子供の時、母親から、
「あなたが怒ったり泣いたりしたのを見たことがないわね」
とよく言われた。怒ったり泣いたりする顔を見られるのは、プライドが許さなかったのだ。
大人になってからも「自己憐憫」とか言われるのが何よりも嫌いで、自分のためには、泣けない性格になってしまったのだ。

「そうか。かわいそうに。もっと泣いていいんだよ」
泣いている声に向かって、半信半疑のままそう呼びかけてしばらく泣かしてやったら、本当にすっきりして色々なことがクリアになった気がしたのであった。ほんとの話だよ。



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悩んでいるときは、とりあえず尊敬する人の形だけでも真似してみました。

昨年も悩みの多い年であった。悩みはもちろん、外側からやってくるのではない。自分が作り出しているのであった。だから悩みの解消も外側からやってくるのではない。自分で解決するしかないのだ。

たとえば、2013年の正月に、
「今年中に、綱渡りをしながらジャグリングをできるようになる」
という目標を立てる。荒唐無稽な目標を立てたのではない。どうすれば、自分が働くサーカス団で生き残っていけるかを冷静に考えた結果、「これしかない」と得られた結論である。ジャグリングには自信がある。綱渡りは、ジャグリング一筋できた自分については全く新しい分野だ。数年前から必死で練習して、どうにかできるようになったのだがまだ心もとない。でも綱渡りの名人がひしめいているこのサーカスで、何かお役にたてる存在になるには、綱渡りだけでも駄目だし、ジャグリングだけでも駄目なのだ。でも、いったいどこから練習を始めたらよいのか見当もつかない。

2013年のはじめぐらいまでは、「どうしよう、どうしよう・・・」とおろおろして、自分でストレスを作り出した結果、大事な綱渡りの練習もおろそかになり、得意であったはずのジャグリングの自信も失うありさまであった。

同僚が、
「いいじゃん。ジャグリングがこんなにうまいんだから。綱渡りも、なんとなくサマになってきたよ」
と言ってくれる。でもそんな言葉は自分にとって何の慰めにもならない。

2013年に学んだことは、どうしたらいいのかわからなくて混乱し、やる気を失いかけたり、安きに逃げたくなっている時、とにかく尊敬している人の形だけでもまねることが、自分を支えてくれ、とりあえずロボットのようにでも自分を正しい方向に向かわせてくれるということだった。

そこで、2013年の春ごろから、具体的には、以下のような努力をしてみた。(これを読まれる読者は、「割とふつーね?」と思われる内容かもしれませんが、私にとっては自分の自堕落な本性にかなりメスを入れる行為であり、これを1年続けるのに、自分の薄弱な意志の力は当てにできないので、かなりな創意工夫が必要でした。)

1)平日は毎朝は5時15分に起床後、ジムで運動し、オフィスに8時前に到着。
2)1)を実現するために、晩はできる限り小食にし、23時以前に就寝。
3)1)を行いながら、短時間でも質の良い眠りを確保し、仕事中の体調をよくするため、平日の晩はお酒を一滴も飲まない。(金曜・土曜の晩だけは、少しだけ飲んでもよい。)
4)オフィスのデスク周りはできる限りペーパーレスにし、つるつるに磨く。

一番大変だったのは、2)と3)かもしれない。亭主のグリが毎晩のように夜更けの酒盛りに誘うので、これを振り切って23時に就寝するのが大変であった。始める前に一番難しいと思っていたのは1)でしたが、2)と3)を厳守したら、自然にできるようになったのが意外であった。

初期仏教の修行僧の睡眠時間は、夜の10時ごろから夜中の2時ごろまでとどこかで読んだ。内臓が一番休むこの時間帯にしっかりした眠りを取れば、あまり長く眠らなくとも元気なのだそうだ。たしかに、睡眠時間は6時間と以前より短くなったが、お酒をやめたせいもあり、ほとんど疲れは感じない。

こうやって1年近く続けて見ましたが、ジャグリングをしながら綱渡りをするという最終目標には、けっきょくミクロ前進でしか近づいていない。でも、ミクロ前進しながら時には不安になったり、自暴自棄になる自分の心を、支えてくれ、整えてくれるのが、どうやらこのような形の上での縛りを自分に課すことなのだった。仏教の戒にも、道徳的な意味ではなくて、そういう実際的な意味があるのではないかと思う。

JUGEMテーマ:夢・目標

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