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旧題「読書 この秘密の愉しみ」を改めました。
最近本当に読書をしていないので・・・
・・・と言う体験をした方はいませんか?
多くのフォロアーを持つ人気ブログ「どこかの細道」の著者として名高い老真様に、辻邦夫の「夏の砦」 と言う長編小説をお借りしたことがあった。もう○十年ぐらいも昔のことだが、その小説には、記憶力の悪い私が以来一度も忘れることができない、そして折に触れては思い出す印象的な場面がある。
それは、主人公の孤独な若い女、冬子が北欧のある都市の美術館で中世のタピスリの前に立った時の情景だ。
「(・・・)私がそのタピスリの前に立った瞬間、一切は消えて、ただ葡萄葉文様がからみ合ってつくる不思議にしんと澄んだ世界がそこに現れていたのでした。それは一年前に見た色褪せたタピスリでもなければ、美術学校の図書館でみた色刷りのタピスリでもありません。
そこにはこの布地やガラス・ケースや陳列室をこえた別の世界ー異様に澄んだ甘美な別世界が、ちょうど水の底にゆらめき現れるように、現出していたのでした。私は自分が今どこにいるかということを忘れました。自分の見ているのが糸を織ってつくった布地にすぎぬことも忘れていました。私は、そうしたものの中を通って、不意に、その向こう側へ出てしまったのでした。ですから、私の見ているのは、タピスリをこえて、そのタピスリのなかに湛えられた水底の世界のような、澄んだ別世界だということができるのでした。」
何故この情景がこれほど自分にとって忘れられないのか。何故この情景を反芻し、一体これはどんな体験なのだろうと、何度も思いをめぐらしてしまうのか。それは、恐らく、美術作品を前にしてこれほど強烈な体験をしたことが自分には一度もないからだろう。
また、大学の時、1年先輩のKさんと言う人が、
「先日、美術展に行って始めて見たミロの抽象画の前で震撼した!」
と言うのを聞き、
「ふうん、そんなことってあるんだ!」
と感嘆した時のことを思い出す。その感覚が自分にはどうしても想像できないので、その時のKさんとのやりとりも後で繰り返し思い出すことになった。
上述のタピスリを見て別の世界が現れてしまう体験や、ミロの作品を見て震撼してしまう体験は、文学的な比喩では決してなく、本当に実在する体験なのだろうと言う確信はある。ただ、自分が、ボナールやドガやマックスフィールド・パリッシュやボッティチェリやフェルメール、フリードリッヒの絵を繰り返し眺めては、うっとりしてしまうという絵画の体験(*)とは、全く別の種類の体験のようなのだ。これはどういうことなのだろう、という思いがいつもあった。
(*)何となくお分かりですよね、これ。要は自分がうっとりしていたのは、たんに、具象的にそこに描かれた美しい世界に自分も入り込んでそこの住人になりたいと言うようなノスタルジーにすぎないんですね。(下はパリッシュの絵。)
***
謎の解決の糸口になったのは、お昼寝であった。そして、その時偶然かかっていた、シューベルトのアンプロンプチュOp 142の第2番であった。
ある日曜の午後、自分はアパートのCDの山の中から適当に選んだシューベルトのピアノ曲集のCDをかけっぱなしにして眠ってしまったのだった。特別シューベルトのピアノ曲が好きと言うわけではない。でも、眠りの中で聴くその曲が、不意に言葉らしきものを語り出したため、私は半分目が覚めてしまい、その言葉(のようなもの)を一心に聞き、意味を理解しようとしていた。
言葉とは言っても、それはドイツ語でも日本語でもなく「音楽」としか呼べない言葉なのだけれど、その音楽が、感覚や印象のほとばしりではなく、確かにある思惟の流れのような、意味を紡ぐようなシンタックスを持っているように思われたのは、今思うと、その楽曲の構造にあったのかもしれない。主題Aがひとつのメロディーをかなでると、それによく似た主題A'が、まるでAに呼応するように歌うのだ。それは、テーゼAがアンチテーゼA'に反駁され、アウフヘーベンしてBへ、BからB'へとらせん階段を上って行くようなのだった。(そういう意味では、その音楽の言葉は、ドイツ語に近い言葉であったかもしれない 笑)
その時分かったことは、平常の意識では気が付かない音楽の言葉を不意に聞けたのは、半睡によって脳の状態がいつもと違っていたからであろうと言う事であった。脳生理学に還元したくなければ、カルロス・カスタネダの言う「左側の意識」でもいい。アーノルド・ミンデルの「ドリーム・ボディー」でもよい。「脳って本当に、何でもありなんですよ!」(と、茂木健一郎先生も言っていた。)
それ以来、半睡状態のときほど鮮烈にではないが、平常の意識であっても、シューベルトのアンプロンプチュ2番を聞くたびに確かにそこで何者かが謎の対話をしている言葉を聞くことができるようになった。(でも、アルフレッド・ブレンデルが演奏するアンプロンプチュ2番ではよく聞き取れない。何故かはわからないが。)
ちなみに、こちらは、ブレンデル演奏のアンプロンプチュOp 142の2番。
***
ここ数年、遠いお客様の会社などへ行くため一人で車を走らせることが多くなり、フランダース地方の平坦な田園地帯や森の中を1時間近く車を走らせている間、電話をしている時以外はベルギーの二つのFMラジオ局の「Klara」か「Musique 3」を聴いている。車の中で聴く音楽は、自分が自宅に持っているどの音響機器で聴くよりも、はるかに鮮明できれいな音を出す。夕方は、少し疲れて気持ちもゆったりしているせいか、午後4時〜5時頃は何故か音楽が一層美しく聞こえることが多い。
昨日は夕方5時ごろオフィスに戻ってきて、パーキング・ロットに車を駐車している時、流れてきたバッハのピアノ・パルティータ2番の音色を聴くなり、自分はそのまま固まってしまった。パルティータはバッハの中ではめちゃくちゃ好きな曲ではない。でも、固まってしまったのは、ラジオから聞こえてきた演奏がこちらに極度の集中力を強いるような、1つ1つの音を分子の振動に分解できるような極度の集中力をその名も知れぬ演奏家が発揮しているように感じられたからだ。その時、
「ああ、すぐれた音楽家は、こんな風に、ヴィッパサナ瞑想の時の極度の集中状態みたいな、こんな異常な脳の使い方をしているのか〜。」
と目からうろこが落ちた様な気がしたことであった。
それは、これまでフォーレやペルゴレージやモンテベルディ―やコダーイやブリテンの綺麗な音楽を繰り返し聴いてはうっとりするというような、子供のころからの自分の音楽体験を覆すような体験でした。
このピアニストの名前は、Zhu Xiao-Mei。問題のパルティータ2番はYoutubeでは残念ながら見つからないのですが、彼女の弾くバッハは全部いい。好きです。ただ、当方のラップトップでの再生の音が悪いのか、あの時の、こちらの意識までナノ秒単位に分解するような異常な集中力へと引きずられていくという体験を再現するには至らず。
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