さて、前回ブログに書きました「愛の書」はハッピーエンドで終わった!とぬかよろこびをしていた自分でしたが、そうは問屋がおろしませんでした。前回御報告しましたグリの就職がおじゃんになったからです。
お祝いの言葉をかけて下さった皆さん、ごめんなさい。でも、こんなあきれた話からもいくばくの教訓が得られると祈りつつ、ここに顛末を記すことにする。
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話は、前回の続き、ロンドンの郊外のトレーニングセンターで数週間の学科訓練を受けた空のトラック運転手候補生のおっさんたち8人が、フランクフルトのトレーニングセンターでシミュレーターを使っての1週間の訓練を開始した時に遡ります。
この時点で、グリはすでに1カ月後のフライトスケジュール表を渡されていた。サウジアラビアから、パキスタンなどをトランジットし、インドネシアまで飛んで、すぐにとんぼ返りで帰ってくると言う過酷なスケジュールだ。自分はグリがシュミレーター訓練で軽くウォーミングアップを終われば、ドライ・フライとと呼ばれる実地のフライト訓練を数回やり、早速仕事を始められるものと思っていた。
わたしは、そのスケジュール表を自分のオフィスの壁に張った。そして、グリがフライト先でもスケジュール表や業務連絡を見ることができるように、Samsung Galaxy IIを買ってプレゼントした。
シュミレーション訓練は毎日夜の7時頃から12時頃まで続く。最初の晩、フランクフルトのグリから明るい声で電話がかかって来た。
「いやー、まいった。この会社のエマージェンシー・マニュアルがいつも使ってるシート1枚のやつと全然違って、100ページぐらいあるんだよ。ページをさがすだけでも大変でさ。インストラクターから怒られっぱなし」
翌日からは、毎晩、やっぱり明るい声でぎゃははと笑いながら、電話がかかってくる。
「あのインストラクター、ナチスみたいなやつだよ」
「ジョイスティックを右手で持ったとか、左手で持ったとか、細かいことにいちいちでっかい声でケチをつけるんだ」
「あれやれ、これやれ、と指示をしてから、すぐにイライラして『アー、フォアゲット・イト!』って怒鳴るんだよ」
「同僚たちと、彼の、『アー、フォアゲット・イト!』が流行語になっちゃったよ。同僚が宿舎の僕の部屋に電話かけてきてからかうんだ『グリ、今なんで受話器を左手ではなく右手で取ったんだ!アー、フォアゲット・イト!』」
グリの明るい声に、私は、なんだかわくわくしてきた。グリの操縦する飛行機に乗って、サウジアラビアやインドネシアにも行けるかもしれない。カーゴなので乗り心地は悪そうだけど。サウジアラビアでは、ヴェイルをかぶらなければいけないだろうな、とか。
金曜日の晩にグリから電話がある。
「ごめん、週末帰れなくなっちゃった。日曜の晩遅くシミュレーターの追加訓練を受けることになったんだ」
「ふうん、よかったじゃん、訓練をたくさん受けられた方が安心だもんね」
「うん、そうだね・・・」
すっかり舞い上がっていた私はその意味を深く考えなかった。
日曜日の夕方、ポツンとグリの携帯から写真が送られてくる。「フランクフルトの日曜日」と言う題がついている。追加訓練の開始時間を待つグリが、Samsung Galaxy IIで宿舎の部屋の窓から写した雨のフランクフルト郊外の風景。
ふうん。日曜日だと言うのに、宿舎の部屋で一人でいるんだ。ふだん能天気なグリが、同僚たちと一緒に町に出かけて気分転換をしていないのが不思議だった。
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訓練を終えて、ブラッセルの空港のゲートから出てきたグリを車に乗せると、グリがいつものようにぎゃははと笑って、話し出した。
「1998年4月29日、サンディエゴで初めてジェット機のライセンスのテストを受けた時のことを思い出すよ。試験官はパトリック・ヒルという年季の入ったアメリカ人だった。
テストが終わった後、パトリック・ヒルは言った。
『残念だが、君にライセンスをあげることはできない』
そう厳しい声で言って、彼はテスト中に発見したたくさんのミスを丁寧に説明してくれた。
せっかくカリフォルニアまで来て飛行学校まで通ったのに、このままヨーロッパにすごすご帰るのかと思うと自分は心底情けなかった。
打ちひしがれている自分に向って、パトリック・ヒルは言った。
『どうするかね。こう言う時は、何ヶ月か時間を置いて、気分を新たにしてからチャレンジする方がいいね。でも、もし君がそうしたかったら、今すぐ、もう一度テストをやり直してみることもできる。どうするかね』
『やってみます』
そう僕は言った。そして今度は、パトリック・ヒルが指摘した全てのミスをまったく繰り返さずに、飛行テストを終えた。
その時のパトリック・ヒルの言葉を忘れないよ。彼は、後ろの座席に座っていたんだけど、左手で僕の右肩を力一杯叩いて、しわがれ声でこう言ったんだ。
『Well done. I know how hard that was. (よくやった。これがどんなに大変なことだったかよく知っているよ。)』」
それは、グリが何度も私に話してくれたことのあるエピソードだった。でも、今回は、話す内にグリは涙声になり、そして最後の方では泣いていた。自分は車を運転しながら、グリが新しい人生の局面を迎えてエモーショナルになっているだけだと思った。
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家に戻るとグリは、フランクフルトでのトレーニングの様子を笑いながら話してくれた。シミュレーションで担当になったドイツ人のナチスみたいなインストラクターが、グリの一挙一動に対して大声で怒鳴りまくるので、グリがすっかり動転して、自信を失い、普段の実力以下のものしか出せなかったということが、自分にも分かり始めた。
フランクフルトからグリは毎晩笑いながら私に電話をかけてくれたが、それは、このインストラクターに5時間怒鳴りまくられた後のことだったのだ。雨のフランクフルトの街並みを写した写真を送ってくれたのは、グリが不安な重苦しい気持ちで、最後の追加のトレーニングを受ける前に宿舎の部屋で一人100ページもあるマニュアルを予習している時だったのだ。その時、私は能天気に、サウジアラビアやドバイのコンパウンドのホテルで砂漠を望むプールサイドにいる自分の姿を夢見ていたのではなかったか。
でもグリが、シミュレーションテストの失敗のために、他の2人の候補生と共に実質的に不採用になったことに自分が気がついたのは、家に戻って数時間後、
「グリと自分の話がなんだかかみ合わないな」
と思い始めた時だった。
「え〜、それはつまり不採用ってこと?」
「このままでは飛べないんだ。あと数週間、追加でトレーニングを受けないと」
グリは渋々認めた。
「追加トレーニング、受ければいいじゃん、お金ならあるよ」
昔、自動車運転免許の試験に何度も落ちる私を「あきらめるな!」と叱咤激励し、自動車学校の追加のレッスン費用を辛抱強く払い続けてたのはグリだったのだ。
「運転免許のトレーニングとケタがちがうんだよ。航空会社に掛け合ったけど今の所いつ追加トレーニングを受けさせてくれるかの目途が立たないってさ。無期延期と言うところだ」
グリはさらさらとした声で言う。私は、そのまま1日寝込んでしまった。グリには申し訳ないと思ったが、どうすることもできない。風邪をひいて熱があるとだけ言って、1日へたっていた。自分ががんの宣告を受けた時、自分が精神的に落ち込んだのは3秒ぐらいのことだった。やはり、人はみな自分のことより人のことの方にショックを受けるのだろう。
ショックの中には、「これで生活が楽になって、少しは貯金もできるし、もう少しましなアパートにも引っ越せるかもしれない。旅行も、格安のバックパッカー旅行よりももう少し素敵な旅ができるかもしれない・・・」という自分勝手な期待が裏切られたことも、ちょっとはあったかもしれない。
でも、何よりも自分を落ち込ませたのは、「グリに何か能力的に根本的な欠陥があるのではないか」「グリにはパイロットになる能力が根本的に欠如しているのではないか」という疑いに捕らえられてしまったためだった。もしそうだとしたら、グリが本当にかわいそうだ。
グリは、そんな私の心配もよそに、へたっている私にお茶やコーヒーを運んでくれながら、もう別のエージェントや航空会社に履歴書を送り始めている。
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時が経つにつれて、すこしずつ、ポジティブな気分が自然に戻ってきた。まず、ナチスみたいなインストラクターのポジティブな意味付けだった。私はその考えを、口に出してグリに言ってみた。
「あのインストラクターは、あなたに怒鳴り散らして、軽蔑の言葉を浴びせて、自信を失わせ、普段の実力を発揮させず、結果として貴方は職にありつけなかった。でも、あのインストラクターは、絶対に正しいことをしたのよね。本物のフライトでは、怒鳴り散らされるよりももっとひどい状況に遭うかもしれない、両側のエンジンが止まってしまったり、第一操縦士が心臓発作を起こしたり。だから、あそこであそこで試験に落としてくれて、よかったのよね」
するとグリは、目をぱちくりさせて、
「あったりまえじゃん。正直言って、もういちど一緒にコックピットに座るのは気が進まないし、インストラクターとしては最悪と思うよ。でも、彼には本当に感謝してるんだよ。」
「つまり、また彼のようなインストラクターや、操縦士と一緒に飛ぶことになっても、前回みたいに動転したり自信を失ったりしないってこと?」
「そう!1週間の間まいにち5時間ずつ、耳の横で怒鳴り散らされている内に、そういう時、どうやって気分を研ぎ澄ませ、どうやって、今自分がすべきことだけに集中すればいいのかその方法がわかるようになったんだよ。」
「じゃあ、あの一週間は無駄ではなかったってこと?」
「無駄なわけないでしょ、素晴らしい学びの機会だよ。それに、あいつ最後には、しぶしぶだったけど『大分ましになったな』って言ってくれたんだ」
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「ふつう、そういう状況では、自尊心からくるいらだちや涙ですっかりまいっちまうんだがな。少しでも自尊心をもっていると、自分にはなんの価値もないとかんじさせられたときに、ずたずたになっちまうものなんだ。
わしは、いわれたとおりのことを喜んでやったよ。楽しかったし、力強くもあった。自尊心や恐怖心など、まるで問題にならなかったね。わしは、完璧な戦士としてそこにいたんだ。自分を踏みつけにする者がいるときに、精神を調和させるのが管理なんだ」(カルロス・カスタネダ「
意識への回帰―内からの炎 」p.38)
グリと話しながら、カルロス・カスタネダの「
意識への回帰―内からの炎 」で、師のドン・ファンが、戦士の成長の重要な契機となる「小暴君」との出会いについて語った言葉を思い出したのだった。
人間にあって、いちばん無駄なエネルギーを消費させ、人間を弱くするのは自尊心なので、これをなくすために、戦士は「小暴君」との出会いを利用する。戦士の道にあって、小暴君とは、金のわらじをはいても探すべき貴重な存在なのだ。