現実の中に不意に夢が侵入してきたという体験をされた方はいませんか? 私は、一度だけあります。もうずいぶん昔、2006年3月のことです。
ある晩、巨大な廃工場のような建物を誰かの案内で地下室に降りて行くと、そこは、床が黒い湿った土に一面に覆われた部屋で、土に根を下ろすように黄緑のぽっかりとしたみずみずしい巨大な植物があった。柔らかい黒い土に食い込んだ、その植物の白い根が見える。
「すごいものをみちゃった・・・」
と感嘆しながらさらに下に下りていくと、そこは窓のある天井の低いバラックのようながらんとした部屋であると言う夢であった。
その頃の自分は、深夜残業が慢性化した状態が何年も続いていて、自分ではあまり意識していなかったが、今の自分と比べるとかなりイライラして憔悴していたと思う。夜は四十肩が痛くて、こむら返りもひどくよく眠れない。平日の早朝と週末には、亭主のグリに引きずられるようにしてジムとプールに行くのと仕事の他は、疲れ切って家で寝ているばかりだった。どこにもでかけられないし、グリが、テレビを一緒に見ようと言うのにも、起き上がることができない。
グリはおもしろくない。
「タイクツ、オバン!」
と日本語でののしる。その内、フランス語のようにリエゾンさせて、ワンワードで、
「タイクツォバン!タイクツォバン!タイクツォバン!」
と、私が渋々一緒にテレビを見るまで続ける。
そればかりか、パブ仲間全員に、
「うちのワイフは、怠け者のパンダだ」
と言うメールを送った。寝転がって、竹のはっぱをかじるパンダの写真入りだ。しかも、あろうことかCCに私が入っている。そのメールを、会社で受け取った私はついに切れてしまった。
ふだん亭主のグリが何をしても、めったに怒りを感じない自分であるが、怒る時は本気で怒る。そう言う時は、王様が軍隊を引いてきても私の怒りを止めることはできないし、自分でも収拾をつけることができない。
自分は家に戻り、荷物をまとめると、結婚指輪をはずして、近隣のメヘレンの町まで車を飛ばすと旧市街の一角のホテルに投宿した。そこからグリのメールへの返事を書き送る。
「私は怠け者でも、パンダでもありません。私がどれほど必死で働いているかは、あんたがよく知っているでしょう」
するとすぐに、
「まりあ、よくぞ言った!」
と言う返事が返ってくる。グリからではない。メールを送るとき「全員に返信」ボタンを押してしまったので、グリのパブ仲間全員に送られてしまったのだ。すぐに今度はグリから返信が来る。またもや全員がCCにはいっている。
「君が必死で働いているのは知っている。でも、週末に起き上がれないなんて異常だよ。君は、タイムマネージメントとデレゲーションを学ぶべきなんだ」
「問題をすり替えないで。あんたは、私を怠け者だって確かに呼んだわよ。そもそも、デレゲーションをできる人手がないから、私が残業をしているんでしょう。それに、あんたみたいな暇人にタイムマネージメントをうんぬんする資格はないわよ」
「そうだ、もっとやれ!」
「きついなー、お前のかあちゃん」
外野からやじがとぶので、ひじょうに議論がしにくい。それにこれ以上続けると、グリに要らぬ恥をかかせてしまいそうだ。
そこで、気を落ち着けてグリにだけメールを書く。
「貴方のお友達たちに、私を怠け者のパンダだと吹聴した貴方の思いやりのない行為に、私はほとほと愛想がつきました。私はアパートを出ますので、貴方はそこに好きなだけ住んでください」
そうして、携帯電話もPCも切って、その晩は本当に久々の深い眠りに落ちた。いつもは、亭主のグリが横でテレビとラジオをつけているので、眠りが浅いのだ。
翌日は土曜日だった。ホテルの部屋には、明るい春の光が差し込んで、本当に静かだ。ゆっくりと自分のペースで朝食をとり、のんびりとメヘレンの町に出てみる。
とてもピトレスクなメヘレンの町を散歩しながら、これからどうしようかなあとぼんやり考える。ブリュッセルに別のアパートを見つけて・・・等と考えながら旧市街のはずれまで差し掛かった時、体育館のような建物の窓に強く注意を惹きつけられた。
その異常な、何か懐かしい強い感じを無視して、建物を通り過ぎようとした自分は、また何か強い力に引っ張られるようにして、建物の窓の中をもう一度覗きこんだ。
その建物の何にそれほど引き付けられたのか、その時も、今も、謎なのだが、敢えて言うならば、スポットライトがあまりにも低い位置(私から見ると地面の高さ)にあったことだろう。つまり窓から見えない下方の方に、見えない空間が広がっていることを感じたからだったと思う。
しばらく呆然と眺めていた後、その場を去ろうとして、その建物の脇の土の上に、ぽっかりと一輪だけ紫色のみずみずしいクロッカスが花を開いているのを見つけ、はっとした。そのクロッカスがまるで何かを語りかけるような強い存在感でそこにあって、私は震撼した。
***
そのしばらく後で、あのクロッカスの花は、自分が1週間前に夢の中で見た巨大な地下茎が、現実という地上にあらわれて咲かせた花なのだなあと言うことに気がついた。あの小さい花は、私の無意識の地下の巨大な何かとつながっているので、あれほどの存在感を持って自分に語りかけてきたのだなと。
あの夢も、クロッカスの花も、それを見た私はそれが何かの予兆ではないかと思ったのだが、今思えば、その2カ月後に発見された乳癌の予兆だったのかもしれない。
今思えば、あの時の自分は、色々なものとわかれる瀬戸際だった。たかが、パンダと呼ばれたことぐらいでグリと別れることをなんとも思わなかったし、自分の会社にも愛想が尽きていて別の会社との契約寸前まで言っていた。それが、がんが発見されたことで、どたばたと療養に入り、6カ月の治療生活が終わった後には、会社との関係や、デレゲーションの問題、グリとの関係、全ての問題がなぜか解決していたのだ。
***
グリと仲直りしてから、ジムに顔をだすと、受付の女の子ブランシュが、
「久々ね〜 大丈夫だったの? 心配しちゃったわよ。貴方に出て行かれた時、グリったら、ぼろぼろ泣きながら筋トレしてたわよ」