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旧題「読書 この秘密の愉しみ」を改めました。
最近本当に読書をしていないので・・・
そのむかし友人から借りた萩尾望都のSF叙事詩「銀の三角 」で印象に残っているのは、殺された一人の少年の叫びによって宇宙が歪んでしまったと言うくだりだった。
失業中だった若いチュニジアの野菜売が、商品と秤を警察官に没収され、さらには婦人警官の1人から暴行を受け、没収品の返還と引き換えに賄賂を要求され、抗議の焼身自殺を遂げたのは昨年の12月だ。青年の怒りと悲しみが、チュニジアからエジプト、リビアへと波及し、あっという間にアラビア半島にも飛び火した2011年だった。2011年の正月にエジプトから帰った直後に、エジプトが炎上したと聞いた時さいしょに思い浮かべたのはウン十年前に読んだ「銀の三角」のこのエピソードだった。
一人の名もない青年の絶望や死が、今回のように地域や国境を越えて人々に行動を促すと言うことは、FacebookやTwitterの存在なしには考えられなかったと言われている。
最近のモスクワでのウラディミール・プーティン反対デモも、規模はちっちゃいがわが町ブリュッセルののジョゼフ・カビラ反対デモもこの余波を受けてのものではないかと言う気がする。
ジョゼフ・カビラ再選反対デモは、12月17日の我家の御近所のポルト・ド・ナミュール(コンゴ出身者が多い)で和やかな感じで始まったが、最後にはなんだか暴力的な感じになり、結局144人が逮捕され、可哀そうなベルギーの警察官16人が負傷した。
一本隣のアベニュ・ルイーズに住み、アパートの前に路駐している自分は車のガラスを割られるのは慣れているが、イクセル通りに路駐してたらボコボコにされるところだった。イクセル通りに路駐してなくて、ほんと、ヨカッタ・・・。
ディクテーターのいない西欧諸国の人々は抗議するターゲットがないので(?)、しかたなくEU本部の前で「キャピタリズム」に対する抗議集会をしたり、最近では「バンクスター」と呼ばれている銀行の前に抗議のテントを張ったりしている。打倒すべき具体的な顔が存在しないせいか、何を要求しているのかがわかりにくいデモンストレーションで、いまひとつ迫力にとぼしい。
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個人の絶望や死が、言葉や映像としてリアルタイムで世界中に共有されてしまう。3月11日の東北地方太平洋沖地震のすさまじい映像もリアルタイムでヨーロッパまで入ってきて、(日本で放映されたかどうかはわからないが)被害者の骸などの映像も含めて繰り返しこちらのテレビで放送された。1995年1月の阪神・淡路大震災の時は、週刊誌のグラビア等を通してわずかに映像を見ることができるだけだったので、隔世の感がある。
世間はコロネル・ガダフィやオサマ・ビン・ラディンやキム・ジョン・イルなどの大人物がこの世からいなくなり、シルビオ・ベルルスコーニや、ブライアン・カウエンが退陣したにぎやかな一年であったが、自分はと言うと、昨年からチャレンジしていた試験にようやく受かったことを除けば、あとは粛々と自宅と職場を往復しながら、仕事では鼻先にぶら下げたニンジンをひたすら追っかけ、毎朝ジムに通い、瞑想をし、試験も終わり少し時間の余裕ができた週末には、買い集めた脳関係の本を読みふけり幸せ感に浸ると言う地味な一年だった。
その中で一番のイベントは、以前登場したジャンおじさんのお陰で、6月に、狭いアパートの古い木の床を張り替えられたことだったろうか。
あまり執着するものはないのだが、自分が一番大切に思っているのはやはり自分の住居だとおもう。小さいアパートであるし、家具や食器もぶっ壊れたようなものしかないのだが、火事で焼けてしまったり、津波で押し流されてしまったりすれば、たぶん、しばらくの間精神的に立ち直れないのではないかと思う。
だからアパートは大切に綺麗に住みたいのだが、平日はほとんど外にいるし、週末の限られた自由時間を何に使うかと言えば、インテリアの優先順位は低い。
友人が、
「なんか、いつ来ても引越しの途中みたいなアパートだね」
と言えば、亭主のグリもしみじみと、
「なんか、爆弾テロの後みたいだね」
と言う。
爆弾テロの後みたく見えるのは、片付けても片付けても、グリの脱ぎ捨てた洋服や読み捨てた新聞や雑誌がアパート中に散乱しているのが主な原因だが、数十年も経っていると思われる木の床が相当痛んでいることも大きいと思えた。
6月にグリが10日間位旅行に出かけることが分かったので、この隙にジャンおじさんに床を張り替えてもらうことにした。床の張り替えは結構大変な仕事だ。アパート中の家具を片方に寄せ、古い床をはがし、新しい床板を張り、つぎに家具を別の方に移しまた同じことを繰り返す。
ジャンおじさん一人では無理そうだったので、友人のギイおじさんを連れてきた。ジャンおじさんとギイおじさんは、毎日9時から夕方の5時まで、コカコーラを飲む他は昼飯も食べずにものすごい勢いで無言で働き、1週間ほどで仕事を終えてしまった。
見よ、2人のおっさんの丁寧な仕事ぶりと、うつくしい床。床がきれいだとIKEAの安い家具や、救世軍で買いたたいたり道端で拾ってきた家具も立派に見える。おじさんたちのお陰で、ささやかではあるが幸せな年越しができそうだ。今はこの時のささやかな幸せに感謝し、これを大切に味わうことが自分たちにできるすべてだ。ある日ほんとうにテロリストに爆破されても、津波で押し流されることになっても。
| イスラム教徒・我が隣人 | 21:25 | comments(1) | trackbacks(0) | ▲
みなさんは、子供のころ自分の右手と左手の区別がはじめてついた瞬間を憶えていますか?
自分の場合、幼稚園の初日に先生がいきなり「右側を向いて」と何げなく言った時に、どちらが右側か分からなくて大変困ってしまった。右側・左側と言う言葉は知っている。家に帰って母親に、
「右側ってどっち?」
と聞いたら、あきれたように、
「お箸を持つ手の方よ!」
と言われて、またこまってしまった。実際にご飯がはいったお茶碗を持って、食べはじめてみないとどちらの手にお箸を持っているかなんて分かりはしない。先生に号令をかけられる度に、そんなことをしているわけにはいかない。
今思えば、「右」とか「左」とかは、「目」や「手」や「足」とかと比べるともう一段抽象度の高い概念で、右手と左手の形が違っていればまだしも、左右対称に思われる体に右とか左の概念を結び付けるのはもうひとつ高度の作業だったので難しかったのかもしれない。
また、「右」とか「左」は一定の物や場所に結びつくわけではない。こちらを向いて立っている先生がお箸を持つ手は、自分から見るとお箸を持たない方の手だ。多分そんなことで混乱してしまったのだと思う。
それから間もなく、お茶の間で庭を見るように立っているたとき、そこにいた誰かに、もう一度どちらが右手か聞いてみた。その時自分が立っている位置と向きからは、お台所があるのが右側、廊下に続く扉のあるのが左側であった。それからというもの、どこにいても、幼稚園にいても、どちらが右か左かわからなくなった時は、人気のない春の午後に茶の間にたたずむ自分から見た台所と廊下の位置を眼に浮かべて、右と左を区別することにしたのだ。
それは、自分にとって右と左の概念が理解できたというよりも、右と左と言う決めごとをとりあえずも便宜上身につけるためのショートカットを思いついた感動的な瞬間であった。
***
こんなことを思い出したのは、先週、亭主のグリと、彼の故郷のアイルランド共和国と英国の北アイルランドとの国境に近いドニゴールの近辺を車で走っていた時だった。その時、自分の体の位置や向きによって変わる相対的な左右ではなくて、絶対的な左右の感覚が自分の中にあることに気付いたのだった。
ドニゴールのロック・エスクという湖のほとりの1860年代のお城を改造したホテルに日暮れ時に投宿し、翌日、湖のほとりまで下りてみたが、午後1時過ぎというのに夕暮時のように薄暗い。
以前、「水と夢」でも書きましたが、自分の場合、坂道を下って行くとものすごく美しい水辺に着くと言う夢を良く見ていた時期がある。今目にしているロック・エスクの水辺は、まさにその夢の中で見た水辺のようなうつくしさなのだった。
また、高所から突然ものすごく美しい渓谷の裂け目に青い水が見えると言う夢も見たことがある。ロック・エスクに近い大西洋岸に面したキルカーの入江はその風景にそっくりな非現実的な美しさなのだった。
夢の中の水辺や入江は、なぜかかならず自分の左下にあるのだった。キルカーからキリベッグの港に車を走らせながら、過去に観た夢を色々思い出してみる。夢の中の自分は歩いているか眺めているかなのだが、歩みや視線と言うなにかしらの動きないしは方向性がある。一連の登る夢はどちらかと言えば右に向かっており、一連の下る夢は左に向かっているのだった。
夢の中で右側は秩序や理性や社会を表象し、左側は無意識や混沌を表彰すると言われている。自分の夢にはこのルールがぴったり当てはまるような気がする。他の人々はどうなんだろう。もし人々の夢がすべて同じような構造をしているとすれば、それはなぜだろうか?
そして、今思い出す現実のロック・エスクの水辺は、自分の意識の中では、何故か左に坂を下ったところにあるし、キルカーの入江も、記憶の中で自分のはるか左下に見えているのだった。
もっと不思議なのは、大西洋岸を海岸線に沿って現実に車を走らせながら、自分が今「左側」に向かっていると感じていたことだった。自分は正面に車を走らせていたので、右にも左にも行っていない。
自分の視線とは関係のない、なにか絶対的な左と右という場所ができてしまっているようなのだった。これはどういうことなのだろう。またも、答えのないまま記事が終わる。
| 心と現実 | 08:44 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
自己イメージと、他人が自分に対して持っているイメージが随分ちがっているのに気づく時がありませんか。
以前にも書いたことがあるが、母親がある日、
「そう言えば、まりあが子供の頃怒ったり泣いたりしたのは見たことがなかったわね」
と言った。
たしかに泣くところを親に見られたことはなかったかもしれない。子供の頃の記憶は1歳半ごろまでさかのぼれるが、人に泣くところを見られるのが大嫌いだったので、親の前でも泣かないようにしていた。泣く時は茶の間のお仏壇の下に小さなビルトインの引き戸があってそこに入って泣いていた。
ただし、怒りや不快感を感じていたことは良くあった。人が笑い声を立てるのが耐えられなくて、良く笑う若い女性や、同年代の女の子が大嫌いであった。
ピーピー泣く子も嫌いだったので、近所の子供や、「かものはし日記」の著者の従弟のひろちゃんのこともぶんなぐって、
「泣くな」
と怒鳴った記憶がある。ひろちゃんに、「あの頃はいじめてごめん」と言うと、
「いじめられたこと? 憶えてないな」
と言う。
今の自分が思い出す、当時の自分1歳半から3歳半ぐらいまでの自分は、なんだか阿修羅のようなイメージである。でも周りの人のイメージはそれとは違うようなのだ。
さて、小さな小粒の宝石のような、炎のような阿修羅が、幼稚園に入り、小学校に入り、別の阿修羅たちといっしょに、磨かれ、すり減って、溶けてへにょへにょになったキャンディーと化していく。たしかに幼稚園から小学校にかけての自分は、物語を書いたり、本を読むのが好きな目立たない子供だったと思う。
でも、幼稚園を卒業する時、園長先生(オークマ先生と言う、えくぼの可愛い、とても優しいおばちゃん先生だった)が、私に別れの言葉を書いた紙をくれた。
「まりあちゃん、いつもきれいなお花のことを考えていてね・・・」
母親は、
「オークマ先生、なんであんなことを書いたのかしらね」
と言う。オークマ先生は、実の母親にも見抜けなかった阿修羅の存在に気づいていたのかなあ。もう亡くなったが、今思いだしても偉い先生だったなあと思う。
自分の育った家は、サザエさん一家のような三世代家族に、さらにナミヘイおじいちゃんの甥っ子・姪っ子、住み込みのお手伝いさん、看護婦さんとその亭主、みたいな人々がいっぱい住んでいて、いつも誰かが口論していた。
母親とおじいちゃんの後妻のスミエさま(これは素敵なおばあちゃんだった)がいつも大きな声をあげて口論しているので、
「おねがい、ケンカしないで」
と割って入ったことがあった。そうしたらふたりは、
「ケンカしてるんじゃないのよ」
と口々に言いながら笑い出してしまった。たぶん日常会話で大きな声で口論するのが習慣になって、自分たちでもそれに気づかなかったのだろう。
そんな環境で育ったせいか、つい最近になるまで、家族というものは、同僚というものは、恋人というものは怒鳴りあったり傷つけあって生きて行くのが普通で本物だと思い込んでいたのだった。
それがごく最近になって、そうではないことに気づいたのだった。優しい人々に囲まれていることによって、徐々にそう教えられたのだ。
写真は文章と関係ないですが、この夏、家のイチジクの鉢植がかろうじてつけた、それはそれは小さなイチジクの実。
| 心と現実 | 01:18 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
| 病と死 | 21:17 | comments(9) | trackbacks(0) | ▲
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