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旧題「読書 この秘密の愉しみ」を改めました。
最近本当に読書をしていないので・・・
| 自然 | 20:48 | comments(4) | trackbacks(0) | ▲
| 脳力 | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
| 心と現実 | 00:33 | comments(3) | trackbacks(0) | ▲
| 抑鬱対策 | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
表題は映画「砂の器」を見ながら落ち込んでいた万霊節の連休に、あれこれ苦しみつつ考えた末に自分なりに到達した結論だ。なかなか名言ではないか?(またも自画自賛。)
落ち込みの原因はたぶん「砂の器」だけではない。じぶんのすぐ後に乳がんに罹り、同じように抗がん剤治療・手術・放射線治療を受けた同僚の「がん友」が、さいきん背骨と肺への転移が発見されまた抗がん剤治療に戻ることになった。この抗がん剤が効かなければ、また別の抗がん剤を試さなければならないという。
「もう疲れちゃった」
ふだん明るくポジティブな彼女もさすがに力なく笑う。
***
去年の初夏、(このページの右側にも写真のある猫のタオちゃんの飼主の)明美さんの友達のパッツィが長い闘がん生活の後、抗がん剤の効き目もなく苦しさに耐えかねて自分の意思で天国へと旅立っていった。やはりまだ三十代だった。
パッツィには会ったことがあったし、明美さんが看病をしながらいつも彼女の話をしてくれていたので、彼女が亡くなった時は、どっと落ち込んでほとんど寝込んでしまった。
その少し後、明美さんの家におよばれして、霊視者のまさみちゃんに紹介された時、彼女が私の背後をみて、「うわあ、なんだか怖い〜」と言った。「ねえねえ、何が怖いの?」と聞いたが、彼女からの説明はなかった。その日は、猫のタオちゃんすらも私の近くには寄ってこなかった。
そのまた少し後、森のはずれのテラスのレストランで、明美さんとニューヨークから来たDragon Treeさんと3人でお食事をした後、Dragon Treeさんが、
「非常に重いものを背負っているようにお見受けします」
とおっしゃり、体の中の闇を追い払う光の瞑想を教えてくださった。
私の自己イメージは、「ライトでさらっと明るく」だったので(笑)2人にそう言われたことが、ちょっとショックであった。
パッツィが亡くなったことの悲しさが、たぶんまだスポンジのように自分の中にしみ込んでいたせいなのかもしれない。
(数カ月後に霊視者まさみちゃんにお会いした時は、「今日は全然ふつう」と言われた。)
***
今度も万霊節の連休中、落ち込んでごろごろしており、枕元の本も読みつくして最後に手に取った本を開くと、こんなくだりが啓示のようにあった。
「人の問題に心を痛め、一緒に苦しむことを優しさのように考えている人たちがいますが、そうではありません。本当の思いやりと、感情移入は別のものです。
誰かが『体の痛みがひどいのです』と言うとき、私はそれに対して思いやりを持ちます。ドアを開けてあげたり、代りに買い物に行ったりして助けます。でもその人の痛みは共有しません。(・・・)私はホームレスの子どもに思いやりは持ちますが、一緒に感情的に苦しむことはしません。それは問題の解決にはつながらず、誰の役にも立たないからです。」(ウィリアム・レーネン「直観力が高まる生き方」)
Amazonで手当たりしだいに買った大量の本の中で、なぜか最後まで手をつける気がせずに積んであった本だった。
明美さんは、闘病中のパッツィにご飯を作ってあげたり、話し相手になりに通っていた。最後は痛みに耐えかねてモルヒネ漬になったパッツィに淡々と最後まで付き合った。同情するというようなそぶりは少しもなく、「パッツィはいつもポジティブで明るいので、話していて楽しい」と言いながら。
私のようにパッツィの悲しみを想像して落ち込んで寝ているだけの人間は、自分にとってもパッツィにとってもクソの役にもたたない。行動というかたちを取らない同情は、うらがえしの自己憐憫にすぎない。
役に立たないだけでなく、自分を傷つけ、生産性を失わせるという意味では、他人の不幸を喜ぶことより始末が悪い。
| 心と現実 | 08:36 | comments(3) | trackbacks(0) | ▲
| 心と現実 | 21:37 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
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