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旧題「読書 この秘密の愉しみ」を改めました。
最近本当に読書をしていないので・・・
| 心と現実 | 01:19 | comments(2) | trackbacks(0) | ▲
| わたしの周りのすごい人々 | 20:15 | comments(2) | trackbacks(0) | ▲
以前、「鼓笛隊が攻めてくる」
戦わなければ敗北もない。自分の場合、何かと戦うと言うこと自体があまりない。競争と言う意味では、自分の知らない内に勝ったり負けたりしているのかもしれないが、競争はすきではない。人口の多い狭い国で他人と競争するのが嫌さに、こんなだれも見向きもしない穴場に逃げてきたのかもしれないとも言える。
唯一、「あ、いま自分、戦っているのかな」と思えたのは、抗がん剤治療の末期に「運動した方がいい」という主治医の言葉を真に受けた亭主のグリに、むりやりジムに連れていかれ筋トレをさせられた時ぐらいだろう。「痛くてもう動けない」とグリに泣き言を言うと「痛みを無視しろ!」と言われた。「我慢しろ」ではなく「無視しろ」である。赤血球も白血球も減っていて歩くのもやっとの頃で、あの時はもう死ぬかと思いました(笑)。
唯一の戦いが自分との戦いで、他の人間との戦いを経験しなくても済む自分は本当に幸運だと思う。でも、まんがいち他人と戦わなければならない日が来たら、戦わなければ自分と自分の愛する者を守れないと知ったら、やむを得ず戦うだろうと思う。武器はないので、その辺の棒を必死で振り回すのだろう。多分あっけなく負けてしまうのだろう。
勝つにしても負けるにしても、そんな日が来ないことを祈るばかりだ。勝ち負けの世界では、自分が何かを得たら、相手は何かを失っている。だから全体的に見たらプラスマイナス・ゼロだ。そして双方のエネルギーは確実に失われている。こんなつまらないゲームからは早く卒業した方がよい。
***
そんな自分の子供の頃の脳みそにインプットされた最初の画像は、母の顔でもなく、父の顔でもなく、会ったことのない「敗者の肖像」だった。それは、父の実家の伯父の書斎に飾られている大きな祖父の肖像画だった。
海軍の将官服を着て制帽の陰で優しく包容力のある笑みを浮かべているその目を、当時から「敗者」のそれと思っていたわけではない。大きくなってから、特に最近になってから、彼についての資料などを読み、その厳しい克己とストイシズムと部下や家族に対する優しさに感銘を受けるとともに、次第に「敗者」としての側面にひきつけられるようになったためだ。
「敗者」と呼ぶのは失礼なのかもしれない。ただ、この呼び名は、彼の最期に対する安易なセンチメンタリズムとか敗者の美学といった形容を拒む、なんとも苦いものだ。謎は人間の数だけあるのだと思うのだが、彼は自分にとって今でも一番大きな謎であり、ときどき立ち戻ってはあの不思議な笑顔を思い浮かべることになる。
彼がフィリピン東方沖で敵艦につっこんで戦死したのは、昭和十九年十月十五日のことだ。米軍二十万がフィリピンのレイテ島に上陸し、大西瀧治郎が神風特別攻撃を考案する5日前のことだ。
それまでも被弾した戦闘機が敵艦に体当たりした例はしばしばあったが、操縦士自身の決意によるものであり、艦隊司令官がみずから指揮官機に搭乗して攻撃に参加するのは「異常」かつ「非合法な」事態であった。
戦記文学から風俗作家に転じたKさんという作家がこのマイナーな海軍軍人に興味を持って、生前の彼を知る人々に克明なインタビューをし、ちょっと推理小説仕立のドキュメンタリーを本にしている。
「どうすれば戦争に勝てるか、あるいは戦争に勝つにはどうしたらいいか、というのは彼の口癖のようなもので、彼はだれかれの区別なく、人と顔をあわせれば決まってこの問いかけを発した。自宅に出入りする御用聞きに対しても、こう問いかけた。」
「勇気というのは、指揮官が自分の欲するところをそのまま正確にはっきりと部下に命令し得るということだ、と思うんだ。(・・・)どんなことをしてでも、自分がしようと欲するところを部下に命じて実行させること、これが指揮官の勇気というものだ。俺にはそれができなかったんだ(・・・)蘭州の攻撃の時も、俺は部下の犠牲を恐れて出撃命令を下すことができず、無為に終わってしまった。俺は自分の生死を忘れることはできたが、部下の生死を忘れることはできなかった。これでは指揮官は落第だ。自分の生死も他人の生死も、つまり一切の生死を超越して任務を遂行するのでなければだめだ、と痛感した。鉄腸の人になりきらなければいかんと思うね」
Kさんの本の中の証言を読むと、彼は自らのストイシズムと使命感から日本を勝たせるという強迫観念にとりつかれながらも、実は戦い自体はあまり好きではなかった人であったように思える。そこが大西瀧治郎とは大分違うタイプのリーダーだったようなのだ。
Kさんの克明な取材が、敵の爆撃を艦が受け火災を受けた時の応急防御措置の整備などの地道な試みや、彼の軍人と言うよりも実務家としての功績を明らかにしていく。
敵機の急降下爆撃を受け、完璧な消火設備のため火災は免れたにもかかわらず、通信装置を不能にされ、飛行甲板も破壊された艦を修理するため戦列から早く外した方が良いという上層部の意見により、艦隊の旗艦と言う機能を失うことになる。艦に乗り込んでいた長官と参謀が司令部と共に別の艦に移ろうとする時に、彼は「傷ついた艦で敵に追い打ちをかけ、おとりになって敵機をひきつけ、その際に他の残存勢力で敵艦を壊滅させる」という案を目に涙を浮かべて必死に具申する。ただこの案は受け入れられず、彼は失意の中で、修理のためにトラック島に引き上げる艦と共に陸に上がる。
ちなみにこの時の戦闘での艦上戦死者は144名、飛行機隊の戦死者は54名だった。艦の乗員数は士官・兵員合わせて1660名だったというから、今の自分の勤め先の人数とちょうど同じくらいだ。
トラック島に上陸してから、連合艦隊司令長官山本五十六に戦況を報告しに行った時、
「艦長、あのとき、もう少し追撃することはできなかったのか」
と言われ、上司をかばうために、
「あの時はあれが精いっぱいでした」
と答える。心の中では本当に無念だったのではないだろうか。
彼の艦で主計長を務めていたNによる証言。(艦は一個の会社のようなもので、主計長は経理・人事部長みたいな立場の人。)
「『あなたは自由主義についてどう思いますか』
『・・・・・・』
『私は軍人としての教育しか受けていません。一般的な常識においてはいろいろ欠けているところがあります。あなたは一般大学を出ておられるし、社会的な常識や教養もお持ちです。それでおたずねするのです』
彼は謙虚なまなざしをNに注いだ。
『私は自分にとって自由とは何か、ということをずっと考えつづけました』と彼は言葉をついだ。『そうして私は一つの結論に達しました。海軍の軍人である私にゆるされた自由とは、自分自身の判断で自分の死を選べるということ、これ以外にないのではないか、そう考えたのです。死ぬべき時期を自分で選ぶということ、これが私の自由だと思う。主計長、どう思いますか』
彼にそう言われた時、Nは答えられなかった。しばらく間をおいてから、
『自由についての解釈はいろいろあります。艦長がそう解釈していらっしゃるのでしたら、私はそれについて別に申し上げることもございません』
とNは言い、それでこの奇妙な対話は打ち切られた。」
彼の戦死と戦果は6日後の朝日新聞一面に四段抜の見出で華々しく書きたてられた。敵の航空母艦に突入して飛行甲板に命中したと表向きは公表されたが、後に確認された所によると相手の母艦は全く損傷を受けておらず、彼の機はそのまま海中に没したと判断される。49歳。
その時の彼の気持ちを想像するのは難しい。彼は書類カバンを持って攻撃機に乗り込んだということなのだが、そのカバンの中身も今となっては謎である。本を読みながら目に涙を浮かべていると、亭主のグリがやってきて慰めてくれる。
「泣くなよ。次はきっと日本が勝つよ・・・」
***
彼を「敗者」と呼んでしまうのは、Kさんの本につづられる彼の後半生が、多くの部下を無為に失うという失意の体験に彩られているからだ。同じ海軍司令官の大西瀧治郎が割腹自殺を遂げたのも、第五航空艦隊の司令長官の宇垣纏が沖縄の敵艦に突っ込んで爆死を遂げたのも終戦の日またはその翌日のことだ。ところが、彼が死んだのは、大本営発表では大勝利を収めたことになっている台湾沖航空戦(その戦果のほとんどが誤認だった)の最終日だ。彼だけは、すでにその時日本の敗北を無意識に予見していたのだろうか? 今となっては切れ切れの証言から、様々に想像するしかないのだが。
アーネスト・ヘミングウェイの「人間の価値は、絶望的な敗北に直面していかにふるまうかにかかっている」という言葉にも心を惹かれる。
***
ブログの後日談だが、これをかいた1週間後に、茂木先生の「クオリア日記」に、先生が2003年に「文学界」に掲載した小津安二郎の記事を再掲載されていた。その中で語られている小津の映画のあるシーンが、自分が20年ぐらい前に当地のMusée de Cinémaで見た小津の映画の一シーンであることに気付いた。(当時見た時は、「Goût du Sake(酒の味)」というフランス語のタイトルがついていて、自分はあのシーンをもう一度見たさに「酒の味」という映画を必死で探したのだが勿論見つけることは出来なかった。でもこの記事のお陰で、自分が見たのは小津の遺作「秋刀魚の味」であることが分かり、Youtubeで簡単に見れることに気付いた。)
自分がもう一度見たいと思っていたそのシーンとは、笠智衆扮する元「海軍の艦長」が酒場で飲むシーンだ。
(日本が戦争で)「負けてよかったじゃないか」と言う、笠智衆扮する元海軍の艦長の笑顔。
上述「敗者の肖像」の艦長も、あそこで死なずに生き残っていれば、酒をほとんど飲まないながらも、町でかつての水兵にばったり再会して一緒にバーに入るというようなことがあったかも知れない。そして、あるいはこういうシーンが現実のものとなったかもしれない。生き残ることが果たして彼にとってよかったのか悪かったのかは、誰にもわからないが。そう思うと、複雑なものを秘めた笠智衆の笑顔に、あの肖像の複雑な笑顔を重ねて、自分も複雑ななんだか泣きたいような気持になる。
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| シンクロニシティ | 06:30 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
このページの右下の方にリンクを張ってある茂木健一郎先生のブログ「クオリア日記」にこんなくだりがあった。(すみません、無断掲載。)
その「幸せ」の定義だったら、ぼくもありったけの力をもって肯定できる。そんな「幸せ」のかたちがある。
それは、できない、手に入らないとあきらめていたものが自分のものになること。
届かない、と思うと、人は「皮肉のスタンス」をとるようになる。きつねがブドウを見上げて「あれは酸っぱい」と合理化するように、あれこれとブツブツつぶやいて。
そうではなくて、無理だ、と心の中で諦めていたものが僥倖を通して自分のものになるとき、それはかたちがあるものかもしれないし、ないものかもしれないし、自分の努力を通して来たものかもしれないし、偶然の幸運(セレンディピティ)の結果かもしれないし、とにかく自分と縁がないと思っていたものと自分が触れあったとき、そこにぼくは「幸せ」を感じる。
それは、人生に訪れた一瞬の夕凪のようなものである。ずっと一カ所には留まらない。いつか、それが当たり前のものになってしまう。変化率は逓減する。だが、日々は、見知らぬ前提のもとに更新される。そう、階段を一歩上ったのだ。違う風景が見えている。そして、人生は続いていく。
「そうなんだよ。実にそうなんだ! ぼくにとっての幸せが、今日、ここで見つかったんだ!」
茂木先生のこの正直な言葉はいいなあ、と思う。同時に、自分の幸福の定義は少し違うなあ、とも思う。
自分の場合も「絶対に無理だ」と思えていたことにいつの間にか到達していることがある。到達していることに気がついた時、もしかしたら自分も一瞬のあいだは幸福感を感じているのかもしれない。自分にも先生が言うところの「人生に訪れた一瞬の夕凪」があるのかもしれない。でも、それがあまり短いために、幸福感と意識するまでには至らないのだと思う。
自分がむしろ幸福感を感じているのは、「絶対に無理」と思える目標に向かって、じたばたと足を動かしながら遅々として進んでいる時のような気がする。
自分の場合「絶対に無理」と言う周囲の大合唱の中であきらめずに続けられてこれたとすると、それはジョゼフマーフィーが言うような「絶対にできる」と言う確信のお陰ではなく(そんな確信は自分にはない)、続けること自体が面白くて楽しいからだと思う。
特に、自分の半生を振り返ると「絶対に無理」と思っていたことに、僥倖の波に乗って自然に到達してしまった言う事が多かった。だから、10年前ぐらいから、それでは面白くないので、これからは自力で目標に到達しようと心に命ずるようになったのだった。その過程が楽しい。到達点は意外とどうってことない。それよりも、次の到達点をはるかに望みながら「ああ、絶対に無理」と言って、じたばた足を動かし始めている自分がいる。
それにしても、自分はいつからこんなに「まとも」なことしか言わない人間になってしまったのだろう。
到達点ではなく、道そのものに味わいがある。ルイス・ブニュエルの映画La Via Lattea(原題は、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼路を表すミルキー・ウェイつまり「天の川」ですが、邦題は「銀河」。1968年の作)。最初のロードムービー? ラテン系の言語フランス語では「道」も「人生」も奇しくも同じ「Vie」という言葉であるらしい。
| 心と現実 | 18:40 | comments(3) | trackbacks(0) | ▲
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