7月から、仕事と勉強のことばかりを考えながら、いつも全速力で走っているような感じだった。ところが、10月に入るとほぼ同時に、何か胸騒ぎがし、息切れがし、スピードがにぶってきた。
毎晩10時ごろに家に戻り、ベッドの中で30分だけ古代中国の戦記物を読んでは、自分の仕事に当てはめてあれこれ考えるのが楽しみだったのだが、10月に入ると、ベッドの横に積んであったアルボムッレ・スマナサーラ師によるアビダンマ講義録「
ブッダの実践心理学 」を読むようになった。
2巻を読み終え、3巻を読み終えようとしていた先週の10月24日(日)の朝、アイルランドはコーク・シティーにあるグリの実家を訪ねるべく、グリと2人飛行機に乗った。
グリの実家は、クリスマスシーズンに訪ねるのが常だったが、去年に続き、今年もクリスマスは暖かい場所に行きたいという私の願いを聞き容れてくれる代わりに、10月24日(日)の自分の誕生日は故郷のアイルランドで、友人や兄弟たち、大好きな父親のジェリーと過ごしたいというのがグリの望みだった。
7月には飛行機の切符も予約したが、旅行の日が近づくにつれ、10月の繁忙期に4日間も休みを取るのは自分にとって少々気が重かった。でも、グリはこのアイルランド旅行をとても楽しみにしていたので、仕事のスケジュールを何とか調整し、PCを持って行けば向こうでも仕事ができるだろうと自分に言い聞かせた。読みかけのアビダンマ講義録もかばんに入れた。私たちは親戚や友人に配るベルギーチョコレートやビスケットをトランクいっぱいに詰め込み、いざ!と出発した。
でもグリがこれほど楽しみにしていたアイルランド旅行は、初日から、グリにとっても私にとってもとんでもない展開になった。
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当日、ダブリン空港でレンタカーを借り、南に向けて車を走らせていたとき、グリの携帯電話が鳴った。運転席でハンドルを握っているグリの代わりに私が携帯電話を取ると、しゃがれ声が何か叫んでいる。泣いているようにも聞こえる。私は、一瞬、義父のジェリーが心臓発作を起こして助けを呼んでいるのかと思ったが(ジェリーは心臓が弱く去年のクリスマスに2度目の発作を起こしていた)、相手は、グリの弟のデニスだった。
その声が、「ジェリーが死んじゃった」と泣き叫んでいる。でも私の聞き違いかもしれない。グリにそう言って「車を停めて」と何度も頼んだが、グリは停めようとしない。コークシティーまであと200キロ。グリの表現を借りると、ジンみたいに透明な快晴の日だ。ぞっとするほど綺麗な紅葉に縁取られた緑の丘の中の道を、グリは顔をこわばらせたまま無言で車を走らせ続ける。
果たして、コーク・シティーのアールウッドの実家に飛び込んだ私たちを迎えたのは、ベッドの上で冷たくなっているジェリーだった。ベッドの横に腰掛けて、手と額に触ると、まだやわらかくて、冬の日に外を歩きすぎて冷たくなった、生きている人の手みたいだった。
義母のジョーンの話によると、ジェリーは死の数分前に心臓が苦しくなり、自分で医者に電話をかけようとしていたそうだ。そうするうちに心臓が止まってしまったので、ジョーンはデニスに電話をかけた。数分後に駆けつけたデニスが救急車を呼び、自分も心臓マッサージを試みたが、止まってしまった心臓を救急隊の人も元に戻すことはできなかった。
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私とグリがジェリーの冷たい手を握ったまま呆然としている内に、黒いフロックコートを着て、青白い顔に目の下に隈のある、とても陰気くさく重々しい顔をした男が2人やってきた。2人は一家の男たち(グリ、デニス、末っ子のノール)と一緒に、狭い応接間に入ってなにやらごそごそ相談している。
2人が帰った後、「あの人たちだれ?」と聞くと「フュネラル・ディレクター」と言うことだった。日本で言う葬儀屋に相当するのだと思うが、「ディレクター(導く人)」と言う響きは、途方にくれている遺族たちを導いて全てを滞りなく執り行い、無事に故人を天国に送り届けてくれるような安心感を与えてくれる。
この時初めて知ったのが、アイルランドの葬式は、死の翌日から3日間続くということだった。
・翌日:お通夜
・翌々日:告別式の後、お棺を閉じ、教会に運び、安置する
・翌々々日:教会でのミサ→埋葬→披露宴(?)
アイルランドの山間部では、亡くなってから埋葬までは、家に遺体を安置し、親族が交代で寝ずの番(Wake)をすると言う風習が今でも残っているそうだが、ここ、コーク・シティーのような都市部ではその風習は廃れ、亡骸はお棺に入れられたままフュネラル・ディレクターの管理する霊安所に二晩、教会に一晩安置される。
お棺は、親族の男たちが8人で肩に担ぎ、霊安所から教会、教会から墓地へと運ぶ。グリと弟のデニス、ロジャー、ノール、従兄弟のジョン、友人も入れた8人の男が、重い樫の棺を肩に担いで歩く後ろを、女たち、義母のジョーン、デニスの奥さんのヒラリー、ジェリーの姉のパッツィ、ジョンの奥さんのロール、ジェリーの従妹のブリード、私が、4人ずつ互いにしっかりと腕を組み合ってその後に続くのだった。
びっくりしたのは、告別式とミサに来てくれた人の数の多さだった。かなり大きな教会がぎっしり埋まってしまった。200人はいたと思う。ジェリーは有名人でも金持ちでもない。家具を作ったり、家の内装を手がけたりする職人さんだ。参列者の中には、ジェリーの同僚や友人だけでなく、近所の人もいたし、グリの友人もたくさん来ていた。
お棺を乗せた霊柩車がゆっくりと町を横切っていくときは、すれ違う見知らぬ人々がさっと十字を切る。アイルランドの人々が暖かいなあと思うことはしばしばだが、このときほどそれを感じたことはなかった。
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ジェリーは本当に優しい人だった。私が抗がん剤治療中は、時々優しい声で電話をかけてくれた。グリが実家に帰ると、「まりあの好物だよ」と言って必ずチキンの丸焼きを作ってグリに持たせてくれたし、私の両親がヨーロッパに来ると知ると、アイリッシュ・ウィスキーをグリに持たせてくれた。ウィスキーには、私の父に宛てた「処方箋」が添付されていて、「1日三回服用すること」と書かれていてみんなで大笑いした。
クリスマスに実家に行くと、「ホーム・スウィート・ホーム!」といって迎えてくれた。私とグリが寝るベッドは必ず湯たんぽを入れて暖めていてくれた。
ジェリーが綺麗に手入れしていた庭には、鳥たちのために小さな水浴び所が作ってあった。クリスマスの翌朝、グリは「温泉だ」と言ってそこに熱湯を入れてしまった。もうもうと湯気を立てている水浴び所を見たジェリーが「オー・マイ・ゴッド!」と叫んであわてて水を取り替えていた。
グリも私もジェリーの優しさに守られて、甘えていたのだ。
初日からお通夜の晩までは、グリも私も捨て子の姉弟みたいに手を取り合っておいおい泣いてばかりいたが、告別式の後、お棺のふたを閉じるときにはだいぶ落ち着いていた。ミサでは、グリはほとんど涙を見せず、200人の聴衆を前に壇上で立派な告別のスピーチをした。原稿も読まず、簡潔で力づよいびっくりするほど立派なスピーチだった。埋葬の時には2人とも完全にジェリーとお別れをする覚悟ができていた。そして、最後のパーティーでは、誰もが、昼から晩までみんなで食べたり飲んだり騒いだりして楽しくすごすことができる心境になっているのだ。
4日間の間に、色々なことを思い出したり、考えたりする。4日間、故人の死と別れとを色々な角度から、さまざまに感じ、味わうのだ。でもこの4日間は、何を見ても、どんなに飲んで騒いでも、どこか非現実的だった。少し気を抜くと、ジェリーの死と言う現実に押しつぶされそうになる。私もグリも「リンボ」をさまよっているような気持ちだった。
ジェリーの死以前の世界と死以後の世界は一見同じように見えるけれど、何かがガラッと入れ替わってしまったようだった。
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でも、お通夜からパーティーまで、ジェリーとグリの親族と親密な時を過ごせたのは嬉しく楽しいことだった。特にめったに会えないアメリカに住むグリの弟のロジャー、ダブリンに住むジェリーの従兄弟のデビッド・ハリントン、イギリスのヨークシャーからはるばる駆けつけた、義母のジョーンの兄夫婦ジョンとフランシスとその娘のレイチェルにいっぺんに会えたのは本当にうれしかった。
義母のジョーンと久しぶりにゆっくり話せたのも嬉しかった。(ジョーンは心の防衛機構が働いているのか涙をほとんど見せず、「ジェリーはバチカンの陰謀によって殺された」と言い続けている。この数年間はジェリーと二人でアールウッドの家に住みながらもお互いにほとんど口をきかない冷たい関係になっていた。ジェリーがいなくなった後、がらんとしたアールウッドの家でひとりきりになり、孤独からますますおかしくなってしまうのではないかと心配だ。それについてはまた書きたい。)
特にうれしい驚きは、グリの末の弟のノールにパートナーができたことに気がついたときだった。初めて会った時(ノールが17歳の頃)から34歳になる今日まで、ノールにはパートナーらしき人がいず義姉の私も少々心配していた。やんちゃで喧嘩っ早く、子供っぽい長男のグリと違って、三人の弟たちは皆大人っぽく、とてもやさしく感じがよい。その中でも一番無口なノールは人一倍気を使い、どこか一人で何かを耐えているようなところがある。ところが、今回、ジェリーの死の日からお通夜、告別式、パーティーと、最後までノールに付き従い、親族と共に棺を担ぎ、私たちにもさまざまに気を配ってくれた見知らぬやさしい青年がいた。その青年ブレンデンがノールの新しい(初めての?)パートナーだった。
ウェスト・コークの美しい入江キンセイルにあるデニスの家でのパーティーの後、飲みすぎたグリは、真っ暗な山道を川に落ちずにコークシティーまで運転して帰ることができそうになく、私たち2人の酔っ払いは近隣のベルグリにあるノールとブレンデンの愛の巣にお世話になる事になった。
荒野の一軒家みたいなその家で、4人でまたワインを飲みなおした。ブレンデンは恥ずかしそうに、ドビュッシーのアラベスクや、ショパンのワルツをピアノで弾いてくれた。それから、酔っ払ったノールとブレンデン、グリと私はエリック・サティのJe Te Veuxワルツに合わせて抱き合って踊った。その後、私もウン十年触っていなかったピアノに恐る恐る触り、フォーレのドリー組曲(らしきもの)をブレンデンと連弾した。
せっかく持ってきた「
ブッダの実践心理学 」は一度も読む暇がなく、弟のロジャーがくれたジェリーの写真を中にはさむのに役に立っただけだった。
さよなら、ジェリー。長い間ほんとうにありがとう。
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