2006年7月、乳癌にかかっていると言われた時は、一瞬冷水を浴びたような気もちがしたが、わりとすぐに、
「まー、20年以上も健康診断してなかったんだから自業自得かあ」
とか、
「人間生まれた時から、少しずつ癌にかかって死んでいくようなものだしね・・・」
と自分を納得させ、ちょちょっと切って仕事にはすぐ復帰できるものと安心していた。
でも、手術の前日にMRIでみたら腫瘍がかなり大きくなってまして(5cm)、しかも乳腺の中にとどまっていない浸潤性の癌だったために、すでに血液やリンパ液を通して体全体に癌細胞が広がっている可能性があった。手術はとりやめになり、翌日から「すぐに抗がん剤治療をします」と告げられ、有無を言わせずに6か月の抗がん剤治療が始まってしまった。
抗がん剤治療が終わった後は、腫瘍自体もかなり縮んでいるはずではあるが、やっぱり手術はしなくてはならないらしかった。そして私のようにこんなに腫瘍が大きくなっていた場合は、テュモレクトミー(腫瘍摘出)ではなく、マステクトミー(乳房全摘出)は必須だと言うことだった。
軽佻浮薄な私は、
「やったあ。切った後は、シリコン入れてFサイズの胸になるんだ」
と言って、友人の熟女たちを悔しがらせた。そして、冗談ではなく、本当にその日を楽しみにしていた(笑)。乳癌の手術で乳房を失った女性に対する乳房再建手術の費用は、当地ベルギーでは保険でカバーされるのだ。
手術の日が近づいてきた。手術前のMRIを撮影に行き、結果を待つ間、同じ病院の乳房再建手術の専門医を紹介され会いに行った。ゴールドシュタインという名の(笑)その整形外科医は、パワーポイントのプレゼンテーションで、自分が手がけた素晴らしい再建後の乳房の写真をたくさん見せてくれた。ゴールドシュタイン先生は、しわが全然なくて30代後半にしか見えない顔と、60歳ぐらいと思える老成した声やしゃべり方とがぜんぜんマッチしてなくて、整形手術を受けているに違いなかった。
私は素晴らしい未来の自分のヴィジョンにうっとりしてしまったが、同行した亭主のグリは、その写真を見る内に気分が悪くなってしまったらしかった。そして、
「再建手術なんてよそうよ。シリコンを入れると、癌が再発した時に発見しにくくなるって言うよ」
「でも、保険でただでできるよ。それに、大きなおっぱいの方があんたも嬉しいでしょ」
と私が言うと、
「僕はおっぱいはどうでもいい。僕はレッグ・マンなんだ」
と、グリはおごそかに言った。
「レッグ・マン?」
男には二通りあって、女の人の足に注目するレッグ・マンと、胸に注目するティッツ・マンに別れるのだそうだ。グリによると、前者は自立した女を求める自立した男であるのに対し、後者はマザコンだと言うのだった。前者が狩猟民族であるのに対し、後者が農耕民族であるとも言った。レッグ・マンの偏見というものだろう。
日本から時々激励のメールを送ってくれていた、ブログ「どこかの細道」の著者の老真さまにもその話をすると、
「やはり年末に手術をするのですか?腫瘍が消えても必要なのですか?でも、一つだけ僕の希望を言わせてもらうと、もしそのチャンスが有っても、Fカップの胸にはなってほしくないのです。僕には、胸の大きい女は痴女にしか見えないのです。」(無断転載)
と、真剣に止められた。これも偏見かも(笑)。おっぱいに関する議論は尽きない。
***
さて手術の日が近づき、手術前の最終MRIを撮影があった。しかし、MRIの結果が出てきて、さらにひと悶着があった。
MRIの映像を見て、それに対する評価を書く専門医が、私の最終MRIに腫瘍の影も形も写っていないため混乱してしまったのだ。つまり6か月前のMRIに写っていたばかでかい腫瘍がうそのように消えていたのだった。
抗がん剤治療をしてくれたオンコロジスト(腫瘍専門医)のボンデュー先生の検診でそう告げられた私は、
「ミラークル(奇跡だ)!」
と叫んだ。
「なによ、僕をいったい誰だと思ってるの、ボンデュー先生だよ」
と先生は嬉しそうだった。先生にとっても、自分の処方した抗がん剤治療で患者の腫瘍が完全に消えてしまったのは初めてのケースだったようなのだ。
その時、フランス語がしゃべれないためいつもボンデュー先生と私のやり取りを、ご主人様の会話に耳を傾ける犬のように辛抱強く聞いていたグリが、たどたどしいフランス語で話しだした。
「腫瘍、なくなった。テュモレクトミー(腫瘍摘出)、オーケー?」
「グリ、あんた何を言いたいの?英語で言ってごらん?」と私。
「腫瘍、なくなった。マステクトミー(乳房全摘出)、パ・ネセセール(必要ない)」
わたしより先にグリの言いたいことを理解したボンデュー先生が、優しく言った。
「腫瘍がなくなってもね、マステクトミーは必要だと執刀医のM先生は言っているよ。再発するリスクをなくすためにもね」
グリは納得できないようだった。
「もういいよ〜、先生の言う通りにしようよ。あっちは専門家なんだからさ」
という私に、グリは珍しくしんみりした口調で言った。
「まりあの癌は、僕は自分のせいだと思ってるんだよ。もしまりあが胸を切ることになったら、僕は傷口を見ていつも悲しくなるよ。そんな風になりたくないんだよ」
グリのフィットネスジムの友達や
ジャンおじさんが、別のがんの専門病院の乳癌専門の外科医として当地で大変名高いN先生のことを聞きつけて親切に教えてくれたので、その先生にセカンドオピニオンを仰ぐことにした。手術の予定日は1月12日、名高いN先生とのアポを取るのは不可能であるような気がしたが、なんと正月の1月2日の早朝に10分間だけのアポを取ることができた。
N先生は、枯れ木のように痩せて背が高く、修道士のように静かで飾り気のない、でもとても若い先生だった。これから手術なのだろうか、半袖の白衣を着ていた。グリは、ボンデュー先生からもらいうけてきた、私の古いMRIと最新のMRIを先生に見せ、
「これは、PCR(完全寛解:癌細胞が完全に消えること)ですよね」
と、習い覚えたばかりの専門用語を使って尋ねた。
「手術をしなければ、PCRと言うのはあり得ないんだよ…」
と言いながらMRIをライトに透かして見た先生は、こちらを振り向いて目を輝かせ、
「ははは・・・これは、本当にPCRだな!」
と言いながら初めて笑い顔を見せた。
「マステクトミーをしなくてはいけないのでしょうか?」
と尋ねるグリに、
「私だったら、二段階のアプローチをとると思う。まず最初の手術ではテュモレクトミーとリンパ節除切だけをして、その分析結果を見て必要であればマステクトミーをする」
そう言って、N先生はその場で私の執刀医へのレターを書いてくれた。
グリはそのレターを腫瘍医のボンデュー先生に見せ、
「これがN先生からのセカンドオピニオンです。執刀医のM先生に乳房全摘出ではなく、腫瘍摘出の手術に変えてもらうよう頼めないでしょうか?」
と聞いた。でも、手術は1月12日、M先生は年末年始の休暇でブラジルに行っており、帰ってくるのは前日1月11日の晩だと言うことだった。
ボンデュー先生は、私たちが他の病院の医師にセカンドオピニオンを求めたことに気を悪くする様子もなく、
「1月11日の晩にM先生が休暇から帰ってくるころを見計らって、自宅に電話をかけてあげるよ。まりあさんが、マステクトミーではなく、テュモレクトミーに変えたいと言っていると伝える。執刀医も本人の意思に反してマステクトミーをすることはできないからね」
そう言ってくれた。
***
手術の日が来た。M先生は病室に現れない。ボンデュー先生からM先生に話が通じているのか、果たして定かではない。話が通じてなくて、私が麻酔で眠っている間に、全部切り取られてしまうかもしれない・・・そう思うと、これまでとくに未練もなかった自分の胸であるが、強烈にさびしくなる。もうFカップなんかいらない、とも思う。
同時に、「全摘出されちゃったらそれでも仕方がない。それも運命であろう」とも思う。死ぬかもしれない、と思った時もそうだったが、私はけっこうあきらめが良いのだ。
車輪付きのベッドに寝かされて看護師さんに地下に運ばれ、手術前の患者たちのベッドがザーッと並べられている倉庫のような場所でベッドに寝たまま手術室に運ばれるのを待っている時に、いきなりM先生のでっかい顔がぬっーと私を見降ろして、
「きみ、マステクトミーではなくて、テュモレクトミーを希望するんだってね。全部切らないってことは、とても危険なんだよ。再発のリスクが残るんだよ。どうするかい?えっ?」
と最後の選択を迫るのだった。
M先生のちょっとガマカエルに似たやぶにらみの目で上から迫られて、(こんな恰好で尋ねられたって~)と思うが、グリの努力を無駄にしないためにも、
「はい。テュモレクトミーを希望します。すみません」
と蚊の鳴くような声で、でもはっきり答えた。
***
手術の抜糸のためにM先生のキャビネを訪れた。グリが何気ない顔をして尋ねる。
「1回のマステクトミーの手術はどのくらい時間のかかるものなんですか?」
「90分だね」
「では、テュモレクトミーは?」
「180分かな」
「先生は、1日に何人ぐらい手術をするんですか?」
「昨日は3人、明日は5人」
「全部マステクトミーですか?」
「そうだね」
M先生は私のスティッチを小さいハサミで切りながら、淡々と答えた。
キャビネを出ると、グリは、
「きいたかよ、あのブッチャーの言葉。つまり、テュモレクトミーは、マステクトミーの2倍の時間がかかるんだよ。再発のリスク云々だけじゃなくて、コストパフォーマンスも悪いのさ。あいつ、自分がマステクトミーした患者を、あの整形外科医のゴールドシュタインの所に送り込んで、いい商売をやっているんだ」
「そんなこというの、やめてよ。M先生は私を治してくれたんだから」
そう私は言った。
スティッチを取り終わった時、M先生はガマガエル風の顔を彼なりにほころばせて、
「さあ、悪いことは全部終わって、これからはいいことばかりが起こるんだよ」
と私に言った。ここでM先生は、悪い魔女の「呪い」の逆をやってくれたのだ。ガマカエルみたいな顔をしてるけど、「いいことばかりが起こるんだよ」と愛の妖精のおまじないのようなことをやってくれたのだ・・・。
***
それからしばらくの間グリは、「自分のワイフをマステクトミーのブッチャーからどのように救ったか」を、パブやフィットネスジムの友達や同僚をつかまえては、得意になってしゃべり続けた。パブの仲間の中には、「わたしも乳癌の手術をしたのよ」とか「お母さんを乳癌で失った」という人がかなりいて、皆がそれぞれ真摯にこの話を受け止めて、色々な意見を言ってくれた。
そんな時、父親と母親が来てくれた。抗がん剤治療が始まったころに仕事に無理やり穴をあけて3日間だけの強行軍で駆けつけてくれた両親だったが、今回は4日間ともう少し余裕があった。わたし自身も白血球値がほぼ元に戻り、食欲もあったので、近くの森にドライブに行ったり、おしゃれなイタ飯屋で一緒に冷たい白ワインといっしょに魚料理を楽しむ余裕があった。
そのイタ飯屋で食事が終わりデザートが来た頃、グリがまた「自分のワイフをマステクトミーのブッチャーからどのように救ったか」の話を始めた。静かに話を聞いていた父親が、その時、珍しく反論した。
「でも、マステクトミーをしなければ、それだけ再発のリスクは大きくなるよね」
グリはむっとして、
「でも、PCRだったんだよ。それだけはっきり出てるのにいきなりマステクトミーはひどいよ」
父親は父親で、私の検査の結果が出るたびにそれを日本に送ってくれと言い、それを同僚や知り合いの乳癌専門医に見せて彼なりにセカンドオピニオンをとって、「やはりこういう場合はマステクトミーでしょうね」というコメントを得ていたらしいのだ。遠くに離れていたから、グリみたいに直接私のそばで動いたり、アドバイスをすることもかなわず、ずいぶんもどかしい思いをしていたことだろう。
2人は、私と母親を無視して激論に突入してしまった。ふだん穏やかな父がこんなに熱くなったのをみたことがない。おろおろして割って入ろうとする私に、母親は、
「やらせておきなさい。パパは若い男の子の扱いには慣れてるんだから」
と言って、すました顔でコーヒーをすすっている。
最後に、グリが、
「でも、僕はまりあの胸を守りたいだけだったんだよう」
と言って涙をポロリとこぼしてしまったので、議論は終結した。
***
ボンデュー先生と抗がん剤治療のスタッフを始め、執刀医のM先生、麻酔医の先生、放射線治療科の人々の努力のおかげで、全摘出をしなかったにもかかわらず、今のところ再発もなく元気に生きながらえている。
でも抗がん剤治療の間に生理が完全に止まってしまい、化学治療とその後のホルモン治療のせいで、グリが決死の思いで守ってくれた胸は完全にぺったんこの切っても切らなくてもあまり変わらないような状態になってしまった。また全摘出は免れたにしても、腫瘍を切除した部分がぼこっと陥没していて、一目で「分けありの胸」とわかります。女ではなくなったような感じもするが、なんだかさっぱりしてこれもなかなかいいなと思うようになっていた。
昨夜、以前もブログに登場した
欧州をまたにかける天才セールスマンのタニさんをはじめとするI社の人々と飲み明かした。タニさんは、硬質で時にペダンティックにして知的な作風の短編小説の書き手なのだが、なぜか、夜が更けるにつれ、おっぱいの話を皆で延々とすることになってしまった。その中で、どさくさにまぎれて私はNHK(日本貧乳協会)の所長に任命されてしまった(笑)。
やっぱりペタンコにになったことを皆に気付かれていたのか・・・とショックではあったが、自分の胸にまつわる大騒動の顛末を以前から整理して書きたいなと思っていたのを、これをきっかけに実行することにしました。乳癌の手術をされる方は参考にしていただければ幸いです。参考にならないか。
最初、このブログ記事には「おっぱい騒動」という標題をつけようと思ったのですが、それではあまりに品がないのでこのような表題になりました。「徳は孤ならず」は論語の言葉ですが、堀口大学はそれに
「乳房は二つある」と続けました。 (堀口の詩の全文を引用した、のーらさんのブログに勝手にリンクさせていただきました。)
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