イルカの映像を前回掲載したばかりですが、今日、同僚のTさんからお借りした貴重な朝日新聞を昼休みに読んでいる時に、和歌山の古式イルカ漁を隠し撮りしたドキュメンタリー映画がアカデミー賞を受賞して、和歌山の人々が憤慨しているという記事を見た。昼休みが短かったので、残念ながらヘッドラインしか見れなかったのだが。
自分はその映画を見ていない。それに、亭主のグリと違い、自分は世間で起こることにいつも憤慨したり、喝采を送ったりしている訳ではないし、特に意見らしきものもない。でも次のような感想を持った。
イルカと泳いだ時、一番印象的なのはその目だった。前回の映像を見ていただけるとお分かりのように、イルカが泳いでいる人間にスッと寄り添ってくる時、こちらの目をじーっと見る。こちらの目をじーっと見つめ続けながら、すっと通り過ぎていく。あの目に見つめられたら、いちころです。
そういう体験をしてしまった人は、たしかに、イルカがこんな風に扱われているという事実には耐えられないのだろう。魚が捕えられたり、牛がトサツされたりするのには無関心であってもである。
自分にだってその気持ちは分からないでもない。でも、「イルカが魚ではないから、殺されてはならない」と言うのは後からくっつけた理由のように思える。イルカは殺される時悲しみ苦しむが、魚は苦しまないとでも言うのだろうか。もっと言うならば、「イルカが殺されてはならない理由」があるとしたら、それはイルカの側にあるのではなく、人間の心の側にあるような気がする。
自分だって、この間釣りに出かけて、自分が海の中にたらした釣り針に魚の子供がわき腹を引っ掛けて死んでしまってから、しばらく魚を食べられませんでしたよ。(こんなことで凹むと分かっていたら、そもそも釣りなんかにでかけるべきではなかったのだが。)以前、友達からもらって大事に育てていたアヒルの子供が死んでしまった後、しばらくの間好物の北京ダックが食べられなかった時と同じである。
自分は極度な肉食だが、(とくにヴィパッサナー瞑想を始めてからは)ビーフステーキを前にすると悲しげな牛の顔が思い浮かび、以前ほど無心に食事を楽しめなくなった。「申し訳ない、有難う」と思いながら食べるので、食欲と悲しみとが入り混じった妙な状態になるのだ。逆に、会社の近くの牧場でかわいい牛の姿をみつけると、「かわいい!」と思うと同時に、「おいしそう!」とも思うようになってしまった。池で、アヒルが泳いでいるのを見ても、同様だ。この「かわいい」と「おいしそう」の拮抗が崩れると、レストランや肉屋に走ることになる。(「呼吸と瞑想の日々」の読者を失うかもしれませんね。)
だから、他に何も食べるものがなくなって、それでも生きなければならないと思えば、「ごめんね、ごめんね」と泣きながらイルカだって食べてしまうかもしれない。
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小学校の時、アンデスの山中に不時着した飛行機に乗っていたチリのラグビー選手たちが、生き残るために死んだ仲間の肉を食べたということについて、同じクラスのケイコちゃんと議論になった。
「私もそういう状況になったら、友達の肉を食べるかもしれないな」
という私に対し、ケイコちゃんは、
「自分はぜったいに人間の肉なんかたべない」
と言い張った。その時私は、それは彼女が人の身になって考える想像力が欠如しているのか、単純な三段論法(人間は必要とあれば人の肉を食べることもある。私は人間である。私は必要とあれば人の肉を食べることもある。)ができない人なのだろうと思った。ただ今では、彼女にはそう言い張らねばならない深い心のバリアがあったのだろうと想像できるようになった。(ケイコちゃんはその後ユング派の精神分析医になった。)
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人は、自分が生きることによって、他の生き物を(時には自分の愛するものを)殺し続けていることを自覚するべきなのだ。
イルカの目は、そういうことも全部見通しているようにも見える。というのも人間の勝手な思い込みなのかもしれない。