すこし前のことになるが、わたしが敬愛する河合隼雄さんの作になる「
猫だましい (新潮文庫)」と言う本を母親が送ってくれた。
母親は、私と妹が道端で拾ってきた子猫を全部引き取って、大事に育ててくれた。母親にうんとかわいがられて、猫たちはその貧しい生い立ちを感じさせないほど、毛並みがつやつやした太ったトラ猫やブチ猫に成長していった。拾ってきた猫たちはぜんぶで9匹もいて、みんな20年近くも生きたので、最盛期は家の中が猫でいっぱいで、人の肩身が狭くてそれは大変だった。
安全な環境で、甘やかされて育った猫たちは元気いっぱいで、若者になってくるとリビングのカーテン伝いに天井の近くまで駆け上り、そこからムササビみたいに飛び降りると言う遊びを繰り返した。カーテンは全部猫たちのジャングルジムと化し、壁紙やソファーもカーペットも猫たちの爪とぎ場になって、ぼろぼろであった。
一番初めに、私が晴海埠頭で拾って来た猫は、チャオくんと言う名前がついた。ちょうどその少し前、母親が夜床についていると、ふすまの外で「母上、ここをお開けくだされ」という声が聞こえるので開けてみると、はたして、カミシモをつけたかっぷくのいい猫がそこに鎮座していた。「これは何の夢のお告げじゃろうか」と母親が首をかしげている所に、娘の私が、夢に出てきたのとそっくりのトラ猫を連れて帰ってきたと言うわけだった。
その他にも、母親には猫にまつわる様々な不思議な出来事があった。
前述の猫たちの内、8匹はそれぞれ大往生していったが、タロ子という名の黒白ブチ猫が現在19歳でまだ生きている。下半身不随のくせに、ねこじゃらしを出すとおもむろにじゃれ始め、だんだん熱くなる。白内障の兆候もないきらきら光る黒い目の輝きも、上半身の敏捷な動きも、子猫みたいで怖いくらいだ。母親によると、この猫は人間の言葉をしゃべれるのだそうだ。おととし私の病気見舞いでベルギーにきた母親が、私のお友達のアケミさん(このサイトにも写真のあるタオちゃんの飼い主)と猫の話で盛り上がった時、真面目な顔でそう言ったのだ。
「ほんとうよ。ご飯を食べたいときは、ご・は・ん って言うのよ。」と母親。
「はあ〜」と、どう反応していいかわからず、にこにこしているアケミさん。
「あのね、ママ。あまり人前でそう言うこと言わない方がいいと思うよ」と私。
「ほんとうよっ。お水飲みたいときは、おみじゅっ て言うんだから。」と母親は譲らない。
そんなタロ子が、ある日癌で倒れてしまった。母親は、お医者さんに駆け込んで、
「何とか助けてください!」と言った。お医者さんは、
「やってみましょう。まず、核磁気共鳴画像法(MRI)検査をやりますか。費用はかかりますがどうしますか?」
「お願いします」と母親は言った。
タロ子はMRI検査の後、手術を受けて一命を取りとめた。その後、お医者さんからMRI検査の請求書が送られてきた。請求書の金額は10万円とちょっとだった。母親と父親は、頭を寄せ合ってその請求書を眺め、「ふーん、高いものなんだねえ」とため息をついた。その時、母親に棚ぼた式に思わぬところから臨時収入があった。宝くじではなかったが、かなりそれに近い完全な不労所得である。その金額が、タロ子のMRIの請求書の金額と同じであった。
こんな話を聞くと、「猫だましい」というものは誠に霊妙で恐ろしいものだなあと思い、河合隼雄さんのこの本を早く読んでみたかったのだが、自分が読む前に友人の何人かに貸しているうちに、人々の手から手へと渡っているらしく、どこに行ったのかわからなくなってしまった。行方不明になった猫みたいに、ある日ふらっと戻ってくるのかもしれない。