2年半前のカー強盗のときもそうだったが、取られたハンドバッグには自分のアパートのキーが入っていて、スペアキーを持っている亭主はそんな時いつも出張中なのだった。特にその晩は、北京から帰ってくる亭主を会社の帰りに空港に迎えに行く予定だったのが、朝会社に電話がかかってきて、
「じつはまだ北京にいるんだよ。明日の便で同じ時間に帰るから」
と言ってきた。それでその晩は、空港に行かずに直接オフィスから帰宅したのだった。そうしたら、アパートの前で泥棒さんに遭遇してしまったと言うわけだ。
困った、どこかで一夜を明かさねば。と思うが、現金もクレジットカードもない。幸いなことに、車のキーだけがポケットに残っていた。友達の家に行くか。でももう12時を過ぎている。一番近くに住んでいる友達のジャンおじさんのアパートに行ってみると、幸い窓にまだ灯りがついていたので、そっと呼び鈴を押してみる。
ジャンおじさんは、自分がこの国に着いたばかりの時初めて知り合ったベルギー人だ。自己紹介をしあって、年齢を訊いたら「45歳だ」と言っていたが、後で訊いたら55歳だったことが分った。なかなかの食わせ者だ。それから何故か、サン・テグジュペリの「星の王子様」が大好きで、フランス古典主義の悲劇ラシーヌの「フェードル」の一部を暗唱できたりする。
「兵役の時、陸軍病院に入院している間に本を読みまくって、憶えたのさ」
と言う。
「へえ、何の病気だったの?」と訊いたら、咳払いをして、
「結核だ」
と言った。それから20年ぐらい経ったつい最近、その話が出て、
「たしか結核で入院してたのよね・・・」
と言ってみると、目をぱちくりさせて、
「いんや、わし結核になったことなぞないぜ。入院させられたのは、夜尿症のせいだ」
とあっさり白状した。おじさんも、聞き手の私もお互いに歳を取って、見栄をはらなくて済むようになったということだろう。
ジャンおじさんにまつわる話は山ほどある。「わたしの周りのすごい人々」(仮題)というブログを開設したら、筆頭に掲載したい人だ。戦前にブリュッセルのアレクシアン通りの貧乏所帯に生まれ、子供の頃は吸殻を集めて作ったタバコをドイツ兵相手に売って立派に食い扶持を稼ぎ、14歳で電気工の見習い、船乗り、バーテンダー、私が会った頃は失業者、この10年は年金所得者だが、闇の大工仕事や引越しの手伝い、古道具売りとかでバリバリ働いている。船乗り時代には世界中を旅し、アフリカにも南米にも行った。キューバに寄航すると、町の娼婦が「今日は全部タダよ!革命1周年記念だからね!」と言った。当時のトレンディーなディスコ「レ・ザンファン・テリーブル(恐るべき子供達)」の花形バーテンダー時代はひと財産築いて、似合いの彼女ダドゥーと一緒にボワ・フォールの結構な住宅街に家も買ったが、その後別の男と逃げてしまったダドゥーに家もくれてやり、気がついたらバーテンダーとして稼げる歳でもなくなっていた。アレクシアン通りの貧乏所帯から出発し世界中を旅したが、気がついてみたらアレクシアン通りから一区画しか離れていないサマリテーヌ通りの低所得者用公共アパートに戻ってきていたというジャンおじさんの半生は、チャールズ・ディケンズやヴィクトル・ユーゴーの小説みたいだ。でも自分や亭主のグリがこんな風にドツボにはまったとき、何度このおじさんにお世話になったことだろう。これほど頼りがいがあって、真心がある人はいないのだ。
呼び鈴を押したらすぐに2階の窓が開いてジャンおじさんの影が見えた。
「ジャンおじさん・・・!」
と呼んでみると、
「ちょっと待ってな、すぐ降りてくから」
と影が言った。すると、すぐにその隣の窓が開いて女の人の影が見えた。降りてきたジャンおじさんに、
「彼女と一緒なんじゃないの?」
と訊いてみたら
「あれは隣のアパートの婆さんじゃい。失礼な」
と言われた。ジャンおじさんのアパートに上がってみると、泊めていただいた相手にこう言っては失礼とは思うが、日本で言う四畳半ほどのフラットにはもうもうとタバコの煙が立ち込め、客観的に相変わらずの貧乏男所帯風だ。おじさんは、大音響で画質の悪いテレビを見ている最中だった。
「なんか飲むかね」
というおじさんに、
「なにがあるの?」
と訊くと、
「コーヒー、紅茶、日本茶、マテ茶、ワイン、ビール、ウィスキー、ブランデー、コニャック、アルマニャック、コアントロー、テキーラ、グラッパ、ウォッカ、ジュネーヴァー・・・」
といい始めたので、あわててジュネーヴァーをもらう。おじさんの癖は、何かを人にオファーするとき、自分の持っているありったけを出し切ってしまうということだ。私のアパートにおじさんが遊びに来たとき、階下に住んでいたイタリア人が何気なく、
「ジャン、あんたは古道具商をやってるけど、あまってるズボン吊が1本ないかね。俺は最近ズボン吊を壊してしまってね」
と言うと、
「ちょっと待ってろ!」
と言って自分の家にすっ飛んで帰った。ところがいつまで経っても戻って来ない。イタリア人と「やっぱり見つからなかったのかね・・・」と言い合っている所に、夜になって、嬉しそうに顔を紅潮させたジャンおじさんが戻ってきた。両手いっぱいにズボン吊(50本ほどもあっただろうか)をかかえて、
「さあ、好きなのを選べ!」
と言いながら。数時間かかって、自分の家の地下室をぜんぶひっくり返してありったけのズボン吊をかき集めていたらしいのだ・・・。
ある日曜の朝、亭主のグリと自分がジャンおじさんとサブロン広場のカフェで待ち合わせした。日曜日のサブロン広場は、蚤の市がたつので駐車がすごく難しい。約束の時間に少し遅れて広場に着くと、カフェの前の特等席とも言うべき駐車スペースにジャンおじさんが陣取って、真剣な顔で車を誘導してくれる。どうやら私達の到着を待ってずっとその場所にに立っていてくれたらしい・・・。カフェに座ってコーヒーとクロワッサンを注文すると、店の人に「クロワッサンは今日は売り切れです」と言われた。私達ががっかりした表情をしたのかもしれない。その途端ジャンおじさんの姿が消えている。と思うと隣のカフェ・ウィタメールから必死の形相でクロワッサンの包みを差し出しながらこちらに走ってくるおじさんの姿に気付く・・・。
そういえばウン十年前のある春の日、「ジャンおじさん、わたし、日本にいたときみたいに桜が見たいな・・・」と何気なく言ったときもそうだった。「ボワ・フォールに行けば桜が見れるぞ。これから行こう!」とおじさんが言って、自分のライトバンに乗せて、ボワ・フォールまで連れて行ってくれた。ボワ・フォールはおじさんが彼女ダドゥーと幸せだった頃、一緒に家を買って住んでいた場所だ。ボワ・フォールの住宅街は、通りの両側が桜並木になっていて、日本のソメイヨシノよりもう少し濃いピンク色の桜の花が一斉に咲いていた。「どうだい!」と嬉しそうにこちらを振り向いたおじさんの目に映った私の表情が「有難う!」と口に出しながら、「これは日本の桜じゃない」と言っていたのかも知れない。おじさんは「こっちにもあるぞ!」と言いながら、別の通りに車を運転して行った。「こっちも行ってみよう!」と言いながら、ボワ・フォールの地域をぐるぐる車で回った。それから、おじさんは「隣の町にも、すごくいい桜並木があるんだ」と言いながらそれから1時間ぐらいかけて、3つの町を回ってくれた。今でも有難うと言う気持ちと同時に、胸が痛む。
こんなことが重なって、おじさんにうっかり物を頼むのが恐くなってしまった。いつも全力を出し切るまで徹底的にやってくれるからだ。でも、どじな私と亭主のぐりは、時々とんでもない事をやらかして、絶体絶命の窮地に陥り、仕方なくジャンおじさんの世話になることが多い。(これについては、いつかまた話したい。)
おじさんが黙ってグラスに注いでくれたジュネーヴァーを飲みながら、心底ほっとしている。一通り事情を話して「今夜は泊めてくれ」とお願いをした。そう言った後で気づいたのだが、床は工具やガラクタでいっぱいで、おじさんの狭い1人用ベッドのほかには寝られる場所がない。そこで、私が一計を案じて、おじさんと頭と足の側が互い違いになるような向きで就寝した。おじさんの頭を蹴っ飛ばさないかどうか、心配でなかなか寝付けない。おじさんは、すぐにゴーゴーいびきをかき始めたが、私は毎晩飲んでいる睡眠薬もないし、様々な思いが去来してほとんど眠れなかった。
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