前出のスティーヴン・コヴィー著「
7つの習慣―成功には原則があった! 」は自分の好きな本ベスト5に入るが、ひとつだけ気になっていたのが、著者は、潜在意識の恐ろしい力を無視している(というのが言いすぎなら、少なくとも軽視している)のではないかということだった。
それは、上手く言えないが、たとえば同書の次のような部分を読むとき、そんな印象が強くなる。
ある時、著者は運動生理学博士である友人と一緒にジムに行く。友人は筋肉を強化するために、「血管が今にも破裂して飛び出すかに」思えるほど、執拗にバーベル上げを続ける。
「『なぜそこまでやるんだ』と、私は訊いた。
かれは、『運動効果のほとんどは一番最後にくる。私は筋肉を強化しようとしている。そのためには、筋肉の繊維が破れて神経がその痛みを感知するまで続けないとだめなんだ。そこまで続ければ自然の過補償が起きて、四十八時間以内にその繊維が以前より強化されるんだよ』と答えた。
それは、私には、よく理解できる話だった。これと同じ原則が、精神的な筋肉(忍耐など)にも作用している。自分の今までの限度を超えて忍耐し続けると、精神的な筋肉繊維は強められ、自然に過補償が起きて、次にはより強い忍耐を示すことができるようになるのである。」(「
7つの習慣―成功には原則があった! 」p.437)
果たしてそうだろうか。たとえば、ダイエットをしようとして食事の量を減らした人は、自分の食欲に対する忍耐力がついていくのだろうか。食欲に反して食事の量を減らしたことのストレスが積み重なって、緊張の糸が切れたときに、大きなリバウンドが来て、かえって太ってしまうという話を聞いたことがある。心は、肉体のような過補償のシステムとは違う働き方をするんじゃないか。
また、潜在意識の大きなブレーキの働きにより、ジムに行こうという元気さえない人、ダイエットをしようとする元気さえない人、自己啓発本なんか手にとる元気もない人には、スティーヴン・コヴィーの著作は何の役にも立ちはしない。元気になりたいと意識は思うのだが、潜在意識の何かがブレーキをかけていて、彼の本を手に取らせない。スティーヴン・コヴィーの本は、すでに戦う元気のある人が、さらに元気になるために読む本であると言う気がする。
さらにこんな件り。
「では、この内的な安定性はどこからくるのだろうか。それは、他人が私たちのことをどう思うかとか、何を言うかとか、どう扱うかなどから、もたらせるものではない。ましてや、人から譲り受けた脚本に起因するものでもなければ、自分のおかれている状況や持っている地位からもたらされるものでもない。
それは自分の中から生まれるものである。つまり、自分の精神と心に深く根付いた、正確なパラダイムと正しい原則に従って生活することから、もたらされるものである。インサイド・アウトの誠実・廉潔、自分の習慣と自分のもっとも深い価値観を一致させた生活から、もたらされるのである。」(「
7つの習慣―成功には原則があった! 」p.449)
まるで、人の意識が、「自分のもっとも深い価値観」が何であるかを知っているような言い方である。でも、潜在意識を含めたより深い自分の価値観を、意識はどうやって知ることができるのか。何をもって、「自分の精神と心に深く根付いた、正確なパラダイムと正しい原則」であると言えるのだろうか。
自分だって、「誠実」や「廉潔」が気持ちよいと思う。でも、これらの原則に従って生きるにはある程度のディシプリンと自己管理を必要とする。意識のテンションが必要なのだ。人間は矛盾する存在なので、原則からからはみ出るものは必ずあるはずだ。そんな負のベクトルを切り捨て、抑圧していくことによって、ストレスが生まれ、ある日大きな揺り返しがあるのではないか。それが、フロイトの時代のヒステリー症状になって現れたり、二重人格、三重人格という心の病気を生み出したり、プロウザックなどの精神高揚剤を手放せない多くのアメリカ人を生み出したのではないか。
スティーヴン・コヴィーは、「刺激と反応の間にはスペースがある」と言う。パブロフの実験の犬は、ベルが鳴るという刺激に対し、よだれを出すと言う反応をするよう脚本付けられてしまったが、人間は自由意志によりこの脚本付けを逸脱することができる。脚本付けは個人の一生の中でセットアップされたものもあれば、世代を超えてセットアップされたものもある。
「仮にあなたが子供の頃両親に虐待されたからといって、あなたもじぶんの子供を虐待する必要はない。心理学の研究によると、そうした脚本どおりの行動をする確立が極めて高いという。しかし、あなたには主体性があり、その脚本を書き直す力を持っているのだ。自分の子供を虐待するどころか、彼らを愛し、肯定し、彼らに良い脚本をあたえることができるのだ。」(「
7つの習慣―成功には原則があった! 」p.477)
この部分を読んだとき、本当に目が覚める思いがあり、前述の日本にいるクチナくんに興奮して手紙を書き送った。
クチナくんからはすぐに返事が来なかったが、それから1ヶ月ほど経った1998年3月19日にこんな返事が来た。
「最近僕はどういうわけだか妙に、今の自分と、二十歳くらいの自分とはどういう違いがあるのかなどということを、酒を飲みながら考えることがあります。OやTとも、この話題について話したりするのですが、二人はどちらかというと、やはり違っているし、段階的に進歩しているといった意見です。でも、僕が二人を見ていると、ある意味では変わっているようには見えないのです。(・・・)僕は、当時の「僕」と、今の「僕」との間にある同質性からは、逃れることが出来ないものがあるような気がするのです。
確かに、大学生の頃は、フランス人恐怖症とも云えるぐらいにフランス人、パスカル夫人,レゾンなどを恐れていたにもかかわらず、約五年間の留学生生活をおくったわけだし、その中では修士論文を書いたり、何人かのフランス人と知り合ったりしたし、知識だって多少は増えた。思考方法も若干でもより綿密になったでしょう。そして何よりも大きいのは、たとえ拙いとは言え、日本語以外の言語によって考えるという行為をしたことで、従来のものとは明らかに違った思考の筋道を体験したことです。
しかし、それでも今、驚くほど変わっていない自分を見出すのです。それは表現しにくく、思念というか、志向性というか、発想のメカニズムというか曖昧なものだけど、自分が存在し生きている状態のなかで、自分のコアのようなもの、そういうようなものを見極めると、まったく同じ自分に出会うような気がしてしょうがありません。これは多分、君が手紙の中で書いている『一人の人間の一生の中で繰り返してしまい逃れられない行動とか反応のパターン』と同じことのように思われます。」
このなんだかすごくペシミスティックに思える手紙には深く共感できるものがあった。でも、共感できてしまう自分が恐ろしかった。その時以来、今とは違う自分になると言うことが、自分の強迫観念になった。自分の枠組み、反応のパターンを変えるということが興味の中心になった。自分の十年間を振り返ってみると、こんな風に総括できると思う。ただ、この十年の間に、光を目指そうとする意識に抑圧された影の部分が噴出するように、無意識の大きなしっぺ返しを受けたこともある。知らぬ間に、癌が5センチまで肥大していたというのも、抑圧された影のなせる業だったのかもしれない。
スティーヴン・コヴィーも、この影の部分の揺り返しについて、まったく語っていないわけではない。彼はそれを、社会学者のカート・レビンの「場の分析モデル」を引用して、「成長と変化を妨げる抑止力」と呼んでいる。「このモデルによると、現在得られている結果は、上向きの成長を促す駆動力と、それを妨げる下向きの抑止力の均衡であると言う。一般的に言うと、『駆動力』は、正の、合理的、論理的、意識的、経済的なものとされる。それと対照的に、『抑止力』は、負の、感情的、非論理的、無意識的、社会的あるいは心理的なものといえる。(・・・)駆動力を増加させると、短期的には欲しい結果が得られるだろう。しかし、そこに抑止力が残る限りは、改善は徐々に難しくなっていく。それはバネを押しつぶすようなもので、強く押せば押すほど、押すこと自体が難しくなり、やがては、そのバネは跳ね返ってくるからだ。まるでヨーヨーのような浮き沈みを何回も繰り返したあげくに、『人は変わることができない』『そんなものなんだ』『変わるなんて難しすぎる』と感じるようになる。」(「
7つの習慣―成功には原則があった! 」p.420)
ただ、この記述はそこで終わっており、具体的にどのようにこの抑止力を氷解させるか、それを駆動力へと変換するかについての具体的な方法が書いていない。スティーヴン・コヴィーが駆動力を高めることに注力しているのに対し、むしろ抑止力の方に注力し、「抑止力の問題さえ解決すれば、物事はほとんど実現したも同じ」だというのが、最近の
NLPの考え方だと思う。
NLPは、抑止力を、「心のブレーキ」とか「心のウィルス」という言葉で表現し、その分析と解消のさまざまな実用的なテクニックを提唱している。
例えば
以前にも書いた、石井裕之の「
人生を変える!「心のブレーキ」の外し方」は、変化し成長しようとする意識の力に対し、それを抑止しようとする「潜在意識の現状維持メカニズム」があると言う。石井は、この潜在意識の現状維持メカニズムを解除する方法としては、行為を少しずつ、少しずつ積み重ねることによって、徐々に潜在意識を慣らしていくしかないと言っている。この、ミクロ前進という考え方は、フォトリーディングで有名なポール・シーリィも言っている。
ポール・シーリィは、(スティーヴン・コヴィーの言う「脚本付け」「反応のパターン」と重なる部分があるが)、人には、ストップサインに囲まれた居心地のよいエリア(コンフォート・ゾーン)の中で自分の行動を選択する傾向があると言っている。「一度、安全地帯が確立されると、その境界線を踏み越えることはめったになくなります。(・・・)クリエイティブな自分を含め、ストップサインの外側にあるさまざまな行動形態が、オプションから削除されてしまいます。(・・・)学習を喜びに変える鍵となるのは、感情的にも肉体的にも知的にも、自分が幅広いオプションを持っているのに気づくことです。しかし、それらのオプションについてただ考えるだけでは、神経システムを再訓練するのに十分ではありません。長年にわたって無視してきたオプションを実際に使ってみる必要があります。」(ポール・シーリィ「
潜在能力であらゆる問題が解決できる」p.64) シーリィは、自分のコンフォート・ゾーンを抜け出すための具体的な方法と、潜在意識の揺り返しがあっても、「揺れの中で平衡を見つける」ための具体的な方法を解説している。
この中で必要となる集中と自己観察の方法が、ヴィパッサナー瞑想のテクニックに非常に近いのが興味深い。
でも、コンフォート・ゾーンを抜け出ようとするには、エネルギーが必要だ。エネルギーには、プラスのモチベーション(欲望)、マイナスのモチベーション(恐れ)も含まれる。卵が先か鶏が先かの議論になるが、コンフォート・ゾーンを抜け出すためには元気が必要で、元気を全開にするにはコンフォート・ゾーンを抜け出す勇気が必要なのだ。ただひとつ言えることは、ミクロ前進するということ(一度に、大きな前進を目指そうとすると、揺り返しが大きい)、自分は毎日少しずつ良くなることができると言う希望を持ち続けることではないだろうか。