12月23日(日)から27日(木)の4泊5日でイスタンブールに行くことにした。
トルコに行くのは三度目だ。1度は学生の頃の貧乏旅行で、前出のクチナくんとのでこぼこコンビで1ヶ月かけてイスタンブールから東方のロシア(当時はソ連)との国境に接する古のアルメニア王国の廃墟、アニまでバスを乗り継いで旅をした。2度目はそれから10年ぐらい後で、両親を連れて1週間ぐらいイスタンブールからパムッカレ、カッパドキアをバスや飛行機を乗り継いで旅した。父親と自分とが1度ずつお腹をこわした他は、何事もなく、トルコの人々に親切にされ楽しい旅だった。カッパドキアの親切なタクシーの運転手さんが、アンカラで甥の割礼式に出るからと言って、カッパドキアからアンカラまで230kmの砂漠の中をただで車に乗せて行ってくれた。砂漠の真ん中のキャラバンサライで停まったり、握りこぶし大の岩塩がごろごろしている塩の湖に車を停めてくれたりした。アンカラに着いたら、ついでに甥っこの割礼式の飲めや歌えやの大パーティーにそのまま連れて行ってくれてとても楽しいときをすごした。
久々に訪れるイスタンブールは、びっくりするほど小奇麗になっていた。まず、以前貧乏旅行で愛用していたドルムシュという乗り合いタクシーが消えて、ぴかぴかのトラムが町の目抜き通りを走っている。
それから町から子供の姿が消えている。以前訪れたときは町のいたる所に5歳から70歳ぐらいまでのあらゆる年齢の男がうろうろしていて、ちょっと立ち止まって地図を広げる度に、あっという間に大小取り混ぜた10人ぐらいが集まってきて皆で道を教えてくれようとする。ブルーモスクと呼ばれるスルタン・アフメット・ジャミーの中庭で、「ワン・ダラー」と呼びかける澄んだ小さい声に振り向くと、まだ3、4歳にしかならない小さな子供が絹糸を巻きつけた独楽をニコニコ笑いながら差し出している。シルケジ駅から出る電車の外側にわざと鈴なりにぶる下がっていく少年たち。歯切れのいい声でじゅうたん屋の客引きをする男の子たち。20年前のことだ。その元気がよくて、大人っぽい男の子たちの姿が今はどこにもない。
今のイスタンブールの町の小奇麗さは、アテネやリスボンや最近EUに加盟した中欧の国々の首都よりも豊かさと活力を感じさせるくらいだ。EU加盟国候補としてトルコの人たちが頑張っている様子が嬉しいのはもちろんだが、少しさびしいような気もするのは旅行者の勝手な感傷というものだろう。
年末のどたばたの中でイスタンブール旅行の荷物をまとめているとき、偶然、本棚にまだ読んだ事のない塩野七生著「
コンスタンティノープルの陥落」を見つけて鞄に放り込んだ。飛行機の中で読み始め、3日目の晩にホテルの部屋で読み終わった。この本のおかげで5日間の短いイスタンブール滞在が随分と重層的で豊かなものになったような気がする。
「一都市の陥落が一国家の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与え続けてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史の上でも、幾例を数えることができるであろうか。そして、それがしかも、年がはっきりしているだけでなく、何月何日と、いや時刻さえもはっきり示すことができるとしたら・・・。」
素敵な書き出しだ。西暦330年にコンスタンティヌス帝により設立され、六世紀には「西はジブラルタル海峡から東はペルシアとの境まで、北はイタリアのアルプスから南はナイルの上流まで」広がる東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルは、1453年5月29日、弱冠21歳のスルタン・マホメッド2世の率いる大軍により陥落する。
陥落前のコンスタンティノープルは、ギリシア正教を信ずるビザンチン人だけではなく、この地に移民した第二世代・第三世代のジェノヴァやヴェネツィア出身の商人が、ボスフォラス海峡を伝って黒海貿易をする重要な拠点になっていた。ボスフォラス海峡を通過する商船に圧力をかけるためにスルタン・マホメッド2世が築いたという城塞ルメーリ・ヒサーリを見たくなって、ボスフォラス海峡の真ん中あたりまでボートで行ってみた。翌日は、マルマラ海に浮かぶブユカタ島にやはり船で行った。
同行した観光客は西洋人がぜんぜんいなくて、レバノン人の夫婦、ロンドン在住のパキスタン人の夫婦、サウジアラビアのビジネスマン・・・となぜか全員が回教徒だ。レバノンと言えば、去年の7月ヘズボラーに占拠されて、イスラエルの攻撃で町を破壊されたことが記憶に新しい。よくのんきに観光旅行なんかできるなあ、と言うのが日本人の自分の感想だ。
いっしょに食事をした後お祈りの時間になると、回教徒の人々は街角の簡易モスクにさーっと入ってしまう。私たち夫婦(仏教徒とカトリック教徒)とトルコ人のガイドのムラット君はその間チャイハネ(茶店)でお茶を飲んで待っている。ムラット君も回教徒のはずなので「あんたはお祈りしなくていいの?」と訊くと、照れ笑いをした。
ムラット君は大学生で、21歳だ。「スルタン・マホメッド2世がコンスタンティノープルを攻略したのと同じ年だよ。それなのに僕は、大学を休んで、1日50ユーロの給料で観光ガイドなんかしている」と言って嘆く。でも、パンクチュアルで、でしゃばらず、押し付けがましくなく、丁寧で誠実、優秀なガイドだと思う。出身はブルサだそうだ。ブルサはオスマン・トルコが始めに首都を築いた場所だと、塩野七生の本にはあった。スルタン・アフメット・ジャミーでしゅすの独楽をワン・ダラーで売っていた小さな子供も彼と同じくらいかそれ以上の年になっているのだろうなと思う。
レバノン人夫婦とサウジアラビアのビジネスマンの方は、食事中もアラビア語らしき言葉で夢中になって話している。(話がそれるが、以前、語学学校で、ヨルダン人の学生が、モロッコ人の学生に「君、モロッコ人かあ」と言って突然懐かしそうにアラビア語を話し始めたのにすごくびっくりしたことがある。当たり前の話なのだが、でも、自分にとってはアラブ言語コミュニティーの地理的な広さに生理的なショックを受けたわけだ。)話を戻すと、アラビア語を話す2人の間に挟まったムラット君は退屈そうだ。「トルコ人は、回教徒である前にトルコ人なんだよ」とうちの旦那が解説する。(もちろんアラブ人が全員回教徒であるわけではなく、キリスト教徒だって存在するのだというが。)
トルコ共和国の憲法は政教分離を標榜していると言う。(この辺は、もちろん
ウィキペディアの受け売り。)前掲書「
コンスタンティノープルの陥落」にも、スルタン・マホメッド2世は、イスタンブールがビザンチンの首都コンスタンティノープルであったときに建設された、聖ソフィア寺院をはじめとするギリシャ正教会を次々とモスクに改装していく一方で、トルコ民族の支配を認めた旧ビザンチン人にはギリシア正教の信仰を認めたと言う。これは驚きだ。「回教徒ではあっても、宗教上のことでは、トルコ民族は寛容」(「
コンスタンティノープルの陥落」p.227)ということなのだった。
ブユカタ島を一周してくれる4人乗り馬車に、パキスタン人の夫婦と一緒に乗る。馬車が瀟洒な木造の別荘の並ぶ小道を抜け、やがてさわやかな松林に入っていく間も、パキスタン人のご主人とアイルランド人のうちの旦那は、口角泡を飛ばして話に夢中になっている。2ヶ月前に暗殺されたかけたパキスタンの元首相ベナズィル・ブートーの話題も出る。奥さんの方はつまらなさそうにしている。「外国人と話すときは、政治の話と宗教の話は避けるように」とどこかで聞いたような気がするが、この二人には当てはまらないようだ。さっきから、政治の話と宗教の話しかしない。
帰りの船では、寒さを忘れて、夕焼けの中を追ってくるかもめの群れに向かってパンを投げた。
かもめはどこまでも追ってくる。
ブユカタ島からの船がイスタンブールの船着場に着き、大通りの向こう側にあるバス乗り場に行くために、地下鉄の駅を通る。まだ新しいぴかぴかの駅だ。前に来たときはこんなのなかった。
「ヘイ、これじゃまるでロンドンと同じじゃないか!」パキスタン人が感心する。
「ロンドンと違うのは、小便のにおいも落書きもないことだな」とうちの旦那。
ムラット君は控えめに笑っているが嬉しそうだ。私も何だか嬉しいようなさびしいような気持ちになる。
同行したみんな気持ちのよい、素敵な人々だった。ミニバスがひとりひとりをホテルの前に降ろすとき、手を握り合ってよいご旅行を!と言い合った。
帰りの飛行機は、どこかの国の回教徒の老人夫婦たちでごったがえしていた。トルコ人のスチュワーデスたちが目を吊り上げて英語で指示をしているので、トルコ人ではないらしい。奥さんの方が夫以外の男の隣に座ることができないため、席の割り当てでおおもめにもめているのだ。そんなわけで、カトリックと仏教徒の私たちは、別々に空いた席に座らせられることになった。後ろの方で、パキスタン人のおっさんを捕まえて、またイスラム・フォンダメンタリストの悪口を言っているうちの旦那の馬鹿でかい声が聞こえてきて、はらはらする。おっさんがきんきん声で何か言い返している。「そんなにむきにならなくてもいいでしょ。俺だって、アイルランドに生まれて狂信的なカトリックの被害者なんだから」(アイルランドは、1985年まで医師の処方箋なしにはコンドームを買えなかった国だ。1995年11月までは離婚も法律的に許されなかった。)
私の両側は両方ともベルギー人だった。でも、左側はダッチ・スピーキングのおばちゃん、右側はフレンチ・スピーキングのおじさんで、二人は私には話しかけるが、お互いはなぜか言葉を交わさない。反感を持っているというわけではなく、何語で話しかけてよいか戸惑っているのだろう。(ところで、ベルギー国はご存知の通り現在二つの言語圏に分裂しかかっている。嗚呼。)
ブラッセル空港から家に戻る車の中で、ラジオがベナズィル・ブートーがテロリストに暗殺されたことを告げていた。車上に立ち上がった彼女が狙撃されたのは、私たちが、イスタンブールのホテルの前から、空港へ向かうトラムにのんのんと乗り込んだちょうど同じ時刻だ。飛行機の中で、パキスタン人のおっさんに向かって主人が大声でムスリム・テロリスト批判をしていた時に、彼女は息を引き取ったのだ。これはかなりショックで、主人も自分も帰りの車の中でしーんとしてしまった。
短かったイスタンブール旅行は自分の心にえぐったような跡を残していった。それは、端的に言えば「自分の悩みなど、くそみたいなもの」という感じに近い。でも、この雑多で錯綜した印象が何なのかをはっきり言葉にするのには、まだ時間がかかりそうだ。