数年前にクライアントのTさんが、「主人公がまりあさんに似てるから・・・」と言って、松本大洋の「
GOGOモンスター」と言う劇画を貸してくださった。Tさんは新聞社の人だが、ちょっと変わった日本の劇画を貸してくれる。同じ松本大洋の「
花」や、しりあがり寿の「
真夜中の弥次さん喜多さん」を貸してくれたのもTさんだ。
私に似ていると言う主人公は、立花雪という名の小学生の男の子で、大人の言葉を借りれば自分を閉ざして「空想の世界」に生きている、髪の毛がぼさぼさの暗い子供だ。彼が「暗い」とか「不気味」とかの印象を他の子供たちに与えるのは、彼が周囲の現実にはほとんど関心を示さず、人の目には見えない世界にひたすら注力しているためだ。
たしかに自分も、髪の毛がぼさぼさで周囲の現実にほとんど関心を示さなかった時期もある。でも、今では髪の毛もまともだし、かつてのそんな姿の片鱗も、(特に仕事の相手には)見せたことはないと思っていたので結構ショックだった。
さて、完全な精神的ひきこもりを体験した高校時代から、対人恐怖症を徐々に克服して行った大学時代、渡欧、就職などを経て人との距離のとり方や接し方を試行錯誤していく中で、自分が特に人との関係について経験的に発見した単純な原則がある。それは、人は自分の方に「ポジティブな気」を向けてくれている相手に自然と心を開くと言うことだ。
「ポジティブな気」の向け方にはいろいろある。相手のことを気遣う、相手に気づく、相手が気になる、相手に気をもつ、相手に気を許すなど。どうしてこんな当たり前のことを今更言うのかと言うと、先程「経験的に」と言ったように、かつてのひきこもり高校生の自分には、上記のいずれもがまったくできなかったからだ。ただし、表面上は人との摩擦なく進んでいく。人に対して攻撃的になるのでも、エゴを振りかざすわけでもない。ただ「気」、つまり注意力や興味や情愛などがほとんど外部の対象に向かって行かないだけだ。
そういう自分の姿を反省したり、周囲を観察することにより、愛情や興味が一種のエネルギーの流れで、それが向けられた対象にエネルギーが流れ込み、対象の方は元気付けられ相手に好意を持つらしいということを経験的に学んだ。逆に、主人公の立花雪のように、エネルギーがすべて自分の内側に収束しているような相手に対して、人は心を開かないだけではない。しばしば、苛立ちや嫌悪感さえも感じるということに気づいた。
また人には、自然にそういうエネルギーを惜しげもなく外側に発散している人と、自分のように外に発するエネルギーが乏しい人とがいるらしいことがわかった。たとえば、「気」を見ることができるジャーナリストの山口玲子さんが、こんなことを言っている。
「教室で二人一組で気をめぐらす練習をしているでしょ。そうするとなかにはやたらと自分の気を相手にあげる人がいるんですね。逆にやたらと人の気を取る人間がいる。(・・・)発散タイプはエネルギッシュだけど消耗しやすいしどちらかというと自己中心的、溜め込むタイプは逆にけっこうけちで保身を考える体がいつもだるいタイプです。」(別冊宝島「
気は挑戦する―二十一世紀は「気の時代」だ!」p.34)
さらに、このエネルギーの乏しさを補足するために、あるいはエネルギーをセーブするために、外に対してはお金や物を使うと言う場合があるのにも気がついた。すぐにいい例が思い浮かばないが、自分の子供に対し、自分の時間と心的エネルギーを消費する代わりに、お金や物を与えると言うような場合だ。また、自分のエネルギーが欠乏しているときに、人のエネルギーを「買う」ためにお金を使う場合もある。これも良い例が思い浮かばないが、お金と交換に人から愛情や友情などのエネルギーを得ようとする場合・・・。それから、遠くの人を気遣うときに、メールや花束や電話に自分の気遣いと言うエネルギーを乗せて届けると言う場合もある。
こんな風に、あるときから、お金や物の流れ、政治力や軍事力と言うものも、熱力学の第一法則みたいに、同じエネルギーがさまざまに形を変えて流れているように見えるようになった。
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こういう見方は、10年ほど前に読んだジェームズ・レッドフィールド著の「
聖なる予言」というとても面白い小説の影響かもしれない。感情障害を持つ青少年のためのセラピストでもあった著者は、宇宙のすべてをエネルギーの流れとして捉える最新の物理学の考え方から、人間関係もまたエネルギーの与え合いと奪い合いのドラマとして説明していく。たとえば、恋愛についてのくだり。
「恋愛関係にいる二人の間に、なぜ権力闘争が起こるのか、(・・・)なぜ、愛の喜びや陶酔感が終わり、急に争いになるのか、ずっと不思議でしたが、今、その謎がとけたのです。それは二人の間のエネルギーの流れの結果です。
まず恋が芽生えると、二人は無意識のうちに愛を与え合います。二人の気持ちは高まり、気持ち良くなります。『恋に落ちた』状態というのは、信じられないほど、気持ちが高ぶるものです。ところが残念なことに、こうした気持ちが恋の相手から得られるものだと期待すると、宇宙のエネルギーから切り離されてしまいます。そしてますます、エネルギーを相手から得ようとします。ただそうなると、エネルギーが十分にないように感じて、お互いにエネルギーを与え合うのを止めてしまい、自分のコントロールドラマに逆戻りしてしまいます。そして、相手をコントロールして自分流のやり方でエネルギーを奪い始めるのです。ここに至ると、二人の関係は普通の権力闘争のレベルに落ちてしまうのです」(上述書p.306)
人は、生まれてからというもの家族の中でこのエネルギーの奪い合いをしており、その中でエネルギーを得るために最も効果があったドラマの役割を、大人になって家族以外の人々と接するときにも繰り返して演じている、という説明もとても納得できるものだった。(本書については、また書きたいです。)
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そんな中で、何の因果か、電話を取ったりかけたり人を訪問したりされたりなど、自分が人一倍苦手とする、人々との直接的コミュニケーションが中心となるクライアント商売をすることになった。自然にコミュニケーションの才能のない自分のような内向的な人間は、クライアントに会うとき、電話を取るとき、「えいっ!」と気合を入れる必要がある。人は敏感なもので、表面だけ取り繕ってもすぐ見抜かれてしまう。だから良い関係を作るには、会話の一つ一つに、誠心誠意、ポジティブな気を入れることが必要なのだ。
だんだんそれが無理なくできるようになってくると(もちろん、自分の体調などによって波があるのだが)、ビジネスの世界で出会う人々の多くが、意識的か無意識的か、自分の「気」をつねにポジティブなものに更新していくことを、とても大切にしていることが分かる。
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さて、「気」の方向性について書く気になったのは、前回ちょっと触れたTV番組「オーラの泉」の中で、須藤元気という拳闘家の回を観た時だった。1980年代に日本を離れてからほとんど帰っておらず浦島太郎状態の自分は、ゲストとして出演する俳優さんやスポーツ選手をぜんぜん知らない。(20人程のゲストのうち、顔と名前を知っているのは研ナオコさんだけでした。)彼らのオーラがどんな色をしているかとか、前世が何だったのかとかにはぜんぜん興味はないが、熾烈な日本のマーケットで名を成した人々だけあって、それぞれ個性的で彼らの話す人生のドラマがものすごく面白い。
須藤元気だが、あまりうれしくない意味で「自分とすごく似ているな」と思った。それは一言で言うと「気」の方向性ということだ。須藤元気は、若いころから肉体的・精神的修行に興味があって自分を駆り立てるところがあった。フランス外人部隊に志願するつもりで資料などを集めたが、やがて拳闘家になった。退行催眠で見た前世の自分の姿は、殉教者セバスティアヌスであったと言う。瞑想は毎日、朝晩2回。四国のお遍路をしながら空海の「求聞持法(ぐもんじほう)」と言う百万回呪文を唱えるという修行の経験もある。ただ、彼の修行への情熱の中に、強烈な「力」への渇望があるのがわかる。「力」というのは、たんにエネルギーを指すのではなく、他人を圧倒し支配するような力と言う意味だ。それが彼を修行に駆り立てている。そして、そう感じるのはこの自分にもその片鱗があるからかもしれないな、そんなことを考えながらDVDを見ていた。
「力」への渇望はさておいて、自分と共通点があるなと思ったのは、彼が「自分は携帯電話も切ってしまうし、メールも書かない」と言った時だった。私自身は、基本的には独りでいるのが好きだし電話恐怖症のようなところもまだ少しはあるが、携帯電話を切ることはないし、メールをもらえばできるだけ早く返事を書くように努力する。でも、須藤がそう言う気持ちが良く分かる気がするのだった。そして、この人も自分にしか興味のない人なのだなと思った。つまり、「気」が人々に向かわず、強烈に自分の内側に向かって収束していると言うことだ。
そんな中で、江原啓之が、「須藤には慈悲を表す紫色のオーラが欠けている」という意味のことを言った。そして番組の最後の方で、それは人への恐怖心と傷つきやすさからきているのだとも。そして、「余計なお世話かもしれないけれど・・・」と遠慮しながら須藤の手を取り、「自分の魂の経験から来るエネルギー」を注入した。その後で、須藤の表情にはっきりとした変化が出て、緊張の取れた子供っぽい表情が現れたのが、面白かった。(この回のやりとりは、
ブログ「星が生まれて消えるまで」に採録されている。)
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前述の「
GOGOモンスター」の中で、いちばんすきなのは、自分と似ている主人公の立花雪ではなくて、そのクラスメートの鈴木誠だ。鈴木誠は、もちろん立花雪が「見ている」ものを見ることはできない。でも、立花雪が見ていると言っている世界が実在することを信じてくれる。(自分には見えもしないし理解もできないものを、相手のために信じれるってすごい愛じゃない?)そして、消えてしまった立花雪を助けるために、魔物がすむと言う人気のない校舎を、恐怖をこらえて探索するのだ。鈴木誠は無力で、立花雪の世界に入り込むことはついにできない。でも、彼が最後に屋上で吹くハーモニカの音色が闇の世界に浸透していき、闇の力に飲み込まれようとしている立花雪を救ってくれるのだ。
自分もこの鈴木誠くんのようになれればいいな、と思う。