私は自分でかなり薄味な人間だと思っている。でも友人にはかなり濃い口の人、つまり個性的で凄みのある人が多い。この友人たちの波乱万丈の人生を描いたら大河小説のようなものができそうだ。
その中でとても愉快で、細やかな思いやりもある一方、いつも激しく怒っている友人がいる。「いつも」と言うのは語弊があるかもしれない。会う度に1度はかならず、誰かについての怒りを口角泡を飛ばし顔を紅潮させて激しくぶちまけるのだ。怒りの対象は自分の保身しか考えない会社の上司であったり、高慢な同僚だったり、無愛想なレストランのオーナーだったり、自己中心的な友人だったりする。怒りをぶちまける時間も10分ぐらいだったり、30分ぐらいだったり、溜め込んだ怒りの度合いに比例するのだと思うが、様々だ。
聴いている私たちは呆気に取られながらも「いやー、あれだけストレートに怒りをぶちまけられると気持ちいいだろうね!」と言い合いながら楽しむ余裕もあるのだが、それはその怒りが常に「そこにいない誰か」に向けられているからであって、万が一それが自分に向けられたら、強力毒ガスを浴びたハエのように死んでしまうか、しばらくは立ち直れないことだろう。それほど激しい怒りなのだ。
自分の場合、このくらい激しい怒りを感ずることはほとんどなく、たまにそれがあってもこういう方法で表現はしないし、持続もせずにすぐに消えてしまうだろう、と思っていた。そもそも自分は怒りと言う感情がほとんどないのだろうと。「まりあが怒ったり泣いたりするのを子供の時から見たことないわね」と実の母親から言われていたくらいだ。
3週間前にヴィパッサナー瞑想を始めて得られた成果の一つは、じつは自分が意外としばしば怒っている・・・ということに気づくようになったことだ。
ヴィパッサナー瞑想と上座仏教に興味を持っていると言った所、母親がスリランカ上座仏教長老アルボムッレ・スマナサーラ著の「
怒らないこと」と言う本を送ってくれた。
この本によると、仏教で言う「怒り」は私達が日常普通に用いる「怒り」と言う言葉よりはるかに範囲が広い。
「自分が今怒っているかどうか分からない場合は、『今、私は楽しい?』『今、私は喜びを感じている?』と自問自答してみればいいのです。『べつに楽しくはない』『何かつまらない』と感じるならば、そのときは心のどこかに怒りの感情があります。」(前掲書p.17)
続いて怒りを意味するパーリ語が紹介されているが、これらはどれも自分にも馴染み深い感情ばかりだ。ドーサ(濁ったような穢れたような暗い感情)、ウパナーヒー(いつまでも続く怨み)、マッキー(軽蔑)、パラーシー(競争心)、イッスキー(嫉妬)、マッチャリー(吝嗇)、ドゥッバチャ(反抗心)、クックッチャ(後悔)、ビャーパーダ(激怒)・・・。これらはすべて怒りの一種なのだそうだ。
3週間前にヴィパッサナー瞑想を始めて自分の心的反応に以前より少し注意を払うようになってから、1日の内で人々に対する時ははっきりと「怒り」とは言えないまでも、実に様々な不快感(傷ついた気持ち、嫌な気持ち、重苦しい気持ち・・・)が自分の心の中を去来していることにはじめて気づいた。これらはすべて仏教の定義では「怒り」に分類できる感情なのだろう。
上述の友人が瞬間ガス湯沸かし器なら、自分はなかなか着火しない湿気た薪のようなもので、火の元である怒り自体には変わりがない。むしろ友人の方が自分の怒りを意識し表現できると言う意味で、ずっと魂がきれいかもしれない。
そんなとき実に神様が仕組んだとしか思えない絶妙のタイミングで、この怒らない自分が机をひっくり返して激怒したくなるような出来事が起こった。そう思ったのは、ヴィパッサナー瞑想のお陰で自分の怒りを意識する習慣ができていたからで、それ以前だったら重苦しい不快な感情に飲み込まれ、その不快感を意識することも客観視することもできずに、潜在意識の中で相手への怨みを深めていたのかもしれない。
自分の不快感を観察することは、虫歯の痛みのせいで眠れない夜、痛みにサティを入れ続け痛みを自分から切り離そうとする努力と同じくらいつらいものだった。
このつらさの中で自分を観察すると同時に、相手に対する慈悲の瞑想を続けたが、何よりも自分を救ってくれたのは前掲書「怒らないこと」の中の次のような言葉を繰り返し読んだことだった。
怒るのは、「わたしは正しい。相手は間違っている。」と思うからだ。(前掲書p.32)
「『私は正しいとは言えない。私は不完全だ。間違いだらけだ』ということが心に入ってしまうと、もうその人は二度と怒りません。」(p.36)
「『ここに私がいるんだ』『私は何々さんだ』『私は会社の何々部長だ』『私は課長だ』とか、『私は女性だ』『私は男性だ』などと、『私』に対して色々な概念を使っているから、他人と接触して、そういう概念が壊れた時に怒りが生まれます。」(p.56)
これらの言葉を心にしみこませながら自分を観察すると、自分が感じているこの不快感は、頭をたたかれたとか、おなかが痛いといったような物理的な原因のある不快感ではなくて、自分自身の心がつくりだした不快感であることに気づく。つまり今自分が不快感を感じているのは、自分の期待や思惑が裏切られたから、自分の自尊心が傷つけられたから、自分が正しく相手が不当だと思っているから、相手の言動に悪意があると自分が感じているから・・・であることが感得されるのだった。
「相手が何か勝手な誹謗中傷を言ったとしても、それで自分が本当に舐められるわけではありません。(・・・) 自分を水晶の玉のようにイメージするのもいい方法です。心を、光り輝いている水晶の玉のようにしておけば、相手からどんな色の水をつけられても、たとえすごくくさいものをつけられても、拭けばすっかりきれいになるでしょう?」(p.176)
「我々は怒らないことによって、精神的にも肉体的にもすごく力強い人間になれるのです。」(p.201)
これらの言葉を繰り返し読み、自分のケースに当てはめて考えるたびにびっくりするほど不快感が消失し、翌日にはその当の相手にもさわやかな気分で接することができてしまった。もしこう言う気分で接することができなかったら、自分の相手への悪意が自分の言動に表れ、それに連れて相手の私への悪意がさらに強いものになったかもしれない。重苦しく心をふさいでいた怒りが嘘のように解消されてしまうのは、なんと心が軽く気分がいいことだろう。もしこの怒りが解消されずに週末を迎えていたら、集中力も得られないし、随分と時間とエネルギーの無駄遣いをしたかもしれない。
ただ、今回は運よく解消することができたが、次回も上手く行くとは限らない。こう言う事件には人生の内であとなん千回と遭遇するだろうし、ということはあとなん千回も自分は試され、鍛えられるチャンスがあるということだ。
次の言葉も、深く心にしみこんだ言葉だ。
「みんなが自分のことをほめているときに怒らないのは、当たり前ですね。そういうときに『私はあまり怒りません』などと偉そうなことを言うのは感心しません。(・・・)本当に『怒りがない』ということは、怒る条件がそろっていても怒らないことなのです。みんなにけなされているときでも、ニコニコできることなのです。」(p.132)
スリランカ初期仏教長老
アルボムッレ・スマナサーラ
怒らないこと
サンガ新書 700円+税