最近に亡くなったユング派の心理分析医、河合隼雄さんの著書、特にエッセーや対談が自分は大好きで、数冊の本をいつも枕元の秘密文庫内に置き、仕事に毒されておらずかつ謙虚な気分の時は、時々開いて見ている。
なかでも特に好きな文章は、
こころの処方箋 (新潮文庫)の中のこのブログ記事と同じ表題を持つ章だ。
新潮社さんから文句が出そうですが、思い切って、そのほぼ全文を引用してしまいます。あまりにも見事なエッセーと思うからです。
人間は誰しも幸福になりたいと願っている。不幸になりたいなどと願う人はまずないだろう。そして、不思議なことに、「私は幸福だ」と言う人は少なく、不幸を嘆く人は案外多いのではなかろうか。人間というものは不思議なもので、「自分が行いたいと願っている善を行うことは少なく、悪を行うことが多いのはどうしてか」と嘆いた聖人がいたが、人間というものは、願っていることとすることが異なる存在なのだろうか。
カルメンと言う歌劇は皆さんご存知のことと思う。カルメンという女性がホセを誘惑して、ホセはそのために自分の軍人としての職を擲ってまで、カルメンを愛するようになる。しかし、カルメンはすぐに闘牛士のエスカミリオを好きになってしまい、怒ったホセはカルメンを追いかけてくる。ホセが来ているから危ないとカルメンの友人たちが忠告するのに彼女は逃げない。ホセはカルメンを見つけてよりを戻してほしいと言う。その場をうまく収めて逃げればいいと思うのに、カルメンはホセをもう愛していないと、彼に貰った指輪を棄てるので、激怒したホセはカルメンを殺してしまう。
これはお話と言えばお話である。しかし、そのなかにはいり込んで見ていると、カルメンが何であんな馬鹿なことをやったんだろう、などと思えてくる。あれだけ愛されたのだからホセで満足しておけばよかったのに!などと思ってみたり、エスカミリオを好きになったにしても、もう少し上手にホセから逃げ出せばよかったのにとか、わざわざ目の前で指輪まで投げ捨てなくともとか、凡人としてはいろいろ心を痛めるのである。
ところで、歌手の成田絵智子さんという方がいつかテレビで語っておられたことだが、自分は何度と数知れぬほどカルメンを演じているが、いつも最後にホセに胸を刺される場面で、カルメンとして「ああ、これでよかったのだ」と思う、とのことである。
これは、なかなか示唆深い言葉である。オペラ歌手として、おそらくカルメンになったのと同じ気持ちで演じてきた人が、最後に殺されるときに「これでよかった」と思う。おそらく、カルメンが実在していたら、おなじように思ったのではなかろうか。
(・・・)
表題を見られたときに、「幸福」という文字がわざわざ「」(カッコ)でくくられていることに気がつかれただろうか。人間の幸福ということは難しいことだ。何が真の幸福かはしばらくおくとしても、一般的な意味において、「幸福」を手に入れたい人は、何らかの断念がいるのではなかろうか。
(・・・)「幸福」は大切なことながら、人生の究極の目標にするのはどうかと思う、というところだろう。
断念せずに突き進むのもひとつの行き方である。そのときは、「これでよかった」と言えるにしても、自分や他人の「幸福」を破壊することがあるかもしれぬという覚悟は必要である。覚悟もなしに自分のやりたいことをやって、「幸福」が手に入らぬと嘆いている人は、「全面降伏」の人生ということになろう。
河合隼雄さんって、駄洒落とホラが大好きな方なんですよね。「日本ウソツキ倶楽部」の会長さんであったらしいです。(でもこの関西風な駄洒落の感覚は、いちおう東京生まれの自分にはいまいち・・・)
河合さんがこのエッセーでカルメンに仮託して言っていることは、自己実現は必ずしも幸福になることを意味しないということだと思う。自己実現とは、河合さんがユングから受け継いだ言葉だが、心理療法家としての経験から、「自己実現したためにかえって不幸になってしまう場合がある」、「生半可な決意では自己実現はできない」という意味のことをどこかに書いておられる。
ここで言う「自己」とは、「自我」よりももっと広く深い何かを指している。
ところで、このエッセーで河合さんが言う意味では、私自身は、半幸福と半自己実現の間を、どちらも断念できずにひらひらさまよっているように思うのだった。