地橋秀雄著「
ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」に感動し、本格的に「サティの瞑想」と「慈悲の瞑想」を開始する前に、まだ本書を読みかじりの段階で半分しか理解していないサティのテクニックを試してみて、抑鬱症発作にびっくりするような効果があったと言う意味のことを以前書いた。(
5月13日の記録)
3月末に原久子の瞑想呼吸法を始めて以来、なぜか早朝定時に自然に眼が覚めるようになり、いそいそとヨーガとプールに行った後は、ほとんどスキップするように会社に向かうことができるようになった自分だった。ところが、ある朝目覚めてみると、あの長年馴染んだ鉛のような朝の憂鬱が胸の上に重くのしかかり、ベッドから身体も動かせないような状態になっていた。まるで、これまで早朝すっきり起きることができていたのが嘘のように、ずっと毎朝こうしていたかのように馴染み深い感覚だった。
3月末から呼吸法の「実験」を始めた目的は、1日100回もの呼吸法を本当に続けることができるのか、呼吸法によってどのように自分の心と身体が変化するのかを観察することだった。同時に、もし呼吸法を続けられなくなったり、調子の良い状態が崩れることがあれば、その瞬間を観察しその外的・内的なメカニズムをつきとめてやろうということもあった。
だから、朝の憂鬱が戻ってきていたことは大変なショックだったが、学びのチャンスでもあった。だからあまりがっかりせずに、冷静になることができた。この状態を観察し、記述し、後々に役立てようと思った。
まず、読みかじりの前掲書に従い、「身体の重さ」に気づき、そうラベリングする。「手を動かせないと思った」、「そのことにショックを感じている」、「眠りが心地よいと思う」・・・などと観察を続け言葉でラベリングする。一歩進んで観察を深め、「憂鬱を感じている」、「恐怖を感じている」とラベリングしてみる。最後に「昨日のクライアントKさんとのやりとりでプレッシャーを感じている」、そうラベリングしたときに突然予期していなかったことが起こった。身体がひとりでに動き、すっと立ち上がれ、すたすたと洗面所まで行き、まるで何事もなかったかのように朝の支度をすることができたのだ。
そんなことが2度あった。
前掲書は、ある心的反応に対する適切な観察とラベリングは、その心的反応自体を霧散させるという意味のことを言っている。でも、なぜ観察による気づき(サティ)とラベリングが、身体をベッドに釘付けにするほどの心の葛藤を一瞬の内に解消したのかが自分には分からない。「クライアントKさんとのやりとりによるプレッシャー」は、いったん意識に上りラベルを貼られればどうと言うこともない物であるのに、ラベリング以前は名前を与えられないというまさにそのために、過大に膨らんでいたということなのだろうか?「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」と言うことか?(無意識の自縄自縛の力は意識化・言語化されることにより解消されるという、この辺は心理学の領域なのかもしれないが不勉強の私には定かではない。)
さて、もしもサティのテクニックを知らなかったら、朝ベッドの上で起きられないことに気がついて発せられる言葉は「もっとがんばらなければ」という叱咤激励だったり、「自分はやっぱりだめなんだ、呼吸法の調子の良さは一時的なものだったんだ」という自分を責める言葉だったかもしれない。それは、別の心的反応を導き出し、結局どこにも導いてくれない。善悪の判断を加えず事実をありのままに観察することが大切なのだ。「認知するだけで、格闘しないことが最大のポイントです。」(前掲書p.261)
上述の自分の話は他愛もない例だったが、もっと深刻なうつ病に苦しむ人がサティとラベリングのテクニックを利用してパニック・アタックを消失させたというレポートが
グリーンヒル瞑想研究所のサイトにある。これは、心によって認知された世界と現実を分離するサティのテクニックにより、深刻な抑鬱症がいかに劇的に解消するかを、逆に言えば人の精神作用がいかに恐ろしい働きをするものであるかを伝えている。
さて、本書を読んでいるとだんだん分かってくるのは、観察の客観性とラベリングの適切性に磨きをかけるために真に必要なのは分析力だということだ。
「分析力と言うものは、(・・・)仏教の智慧を形成する因子として最重要の能力の一つです。普段からものごとを要素に仕分け、構成因子に還元していく訓練をすると、物に対しても、人に対しても、心に対しても、洞察力が養われていくでしょう。(・・・)困った問題が発生した時に、その問題を構成しているあらゆる要素を徹底的に仕分けて紙やカードに書き出してみるのです。(・・・)同じことがだんだん頭の中だけで瞬時にできるようになっていきます。」(前掲書p.204)
何か心の問題が起こったとき、批判や嫌悪を微塵も混ぜることなく、パズルを解くのを楽しむように、純粋に現象として分析してみることが自分にもできるようになればいいと思う。しかし苦しんでいる心の自分から、それを面白いと思って観察する自分を分離するのは容易ではない。概念が生まれる以前の瞬間を、言語・概念によってラベリングするのが難しいように、心の現象を心で分析することの自縄自縛。
自分の心を見る瞑想(心髄観)に着手できるのは、サティの訓練によって「法(現実の事象)と概念の仕分けができるように」(前掲書p.180)なってからだと言う。このふたつが分離されていないと、心の現象とエゴとを自己同一視する錯覚が生ずる。「怒りを例に取ると、法(事象)として生起したのは、『怒りの心』と『怒りの心を私のものだと錯覚した心』のふたつです。しかるに、『私は怒りっぽい』『怒っているのは私だ』のように感じてしまうのが普通です。(・・・)法と概念が混同され、エゴ妄想が生まれる『無明』の瞬間です。このように、心の現象に対する自己同一化は一瞬にして起き、そのままのめりこんでしまいます。(・・・)『・・・している私』・・・といった心の状態を対象化するのは至難の業です。」(前掲書p.188)
今は、身体感覚のサティを地道に続け、観察と分析力を徐々に養うことが、自分が無明の状態から脱していく確かな道だと言う予感がしている。