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その後のブリュッセル

3月22日(火)のブリュッセル空港・地下鉄爆弾事件の後、実にたくさんの人々からお見舞いのお便りをいただいたのが本当に有難く感じられました。日本とアイルランドの家族やお友達だけでなく、ISISのテロ攻撃に甚大な被害を受け、今もそのリスクにさらされているパリ・ロンドン・マドリッド・イスタンブールの同僚たち、2001年9月11日の同時多発テロに遭遇したNYのお友達からもお便りをいただきました。

その中で、以前日系企業のベルギー子会社の社長さんとしてブリュッセルに駐在されていた方からのお便りの中にこんな言葉がありました。

「ISって何なんでしょうか?なんの思想も、発言の中の整合性も感じないです。その昔、社会からあふれた行き場のない若者達がその鬱憤の吐けばを暴走族になって晴らしている のと何ら変わらないです。ましてや、ISの超過激な行動は恐怖心を煽るばかりです。記憶の中に今も 美しく残っているブラッセルをそんな色に変えてほしくないです。」

この言葉に自分なりの回答を見つけようとして、地元紙を漁ったり、テレビのインタビューを見ているうちに、Irish Independent紙に少し単純化されているきらいはあるが、ある程度疑問に答えてくれる解説を見つけたので拙い訳をしてみました。

この記事を読むと、ISISが、なぜ美しい歴史的建造物を次々と破壊するのか、なぜ欧米諸国のみならず、同じ回教徒の国々トルコ・シリア・イラク・・・でさらに多くの虐殺を行うのかがわかるように思います。

 
ビデオは、本日、ブリュッセルと同様約30名の市民の命が奪われたイラクのサッカー競技場でのテロ事件。試合が終わり、表彰でトロフィーが渡される時に爆弾が爆発した。

亭主のグリに「なぜこちらのほうは、あまりニュースにならないのだろうね」と尋ねると「日常化してしまっているからかもな」と言われた。CNNやBBC Worldはかなり丁重にこれらの事件を追っているとは思うが、各国のメディアは、自国民が被害に巻き込まれているかどうかという点を重視する。(日本の報道もそうだが)自国民がいないことがわかると、途端にニュースの優先度は落ちる。ISの活動が現在のように日本に注目してもらえることになったのも、日本の方々がISISに殺害されたということがあってからではないかと思う。当然のことかもしれないが。

***
David McWilliams: West finally needs to admit all radical roads lead back to Saudi Arabia
2016年3月23日 Irish Independent


  青少年・少女が過激化するのは、誰かがそうするように教えたからで、自然に起こることじゃない。かつて、カフェで働くことに満足していた青年が、一夜にしてアラーの戦士になるわけではない。そこには一定のプロセスが必要なのだ。

回教徒の人々、特に年配の回教徒と話すと、皆一様に、このような青年の過激化のプロセスが始まったのは比較的最近のことだと言う。ここ30〜40年ぐらいのことだと。もしそれが本当なら、この30-40年の間に何が起こったのだろう。1979年イランの革命の後、西欧諸国は、イランは敵で、サウジアラビアが新しい友達になったと考えた。サウジアラビアのすることはすべて正しいと。中東において、イランの勢力を抑えられる強力な勢力はサウジで、だからサウジの行うことはすべて認められてきた。

私たちは、サウジアラビアが極端なイスラム主義を実施し、外国でも扇動しようとしていることを理解しようともしなかった。

その極端なイスラム主義は、ワッハーブ主義と呼ばれる。中東を理解したければ、サウジアラビアが最も好み、そして国外に輸出したこのイスラムの一派を理解することは不可欠だ。

ISILや、昨日の爆撃を行った青年たちを理解するためには、これらすべてにおけるサウジアラビアの果たした役割を理解する事が不可欠だ。ローマ、ペルシア、仏教の古代の文化建造物の破壊にISILを導く原動力の元はワッハーブ主義に他ならない。どのようなゆがんだ論理によって、彼らが無実の人々を殺戮するに至ったのかを理解するには、ワッハーブ主義について理解する必要がある。

すべては、はるか昔に始まった。

ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブは、1703年にリヤッド近郊で生まれた。彼は聖人としての教育を受け、多くの宗教家のように、絶えず、聖典への純粋な忠実と日常生活の現実によって変質したより寛容な聖典解釈との間で引き裂かれていた。このような体験は珍しいことではない。ピューリタニズムとプラグマティスムの間の戦いは、つまるところ、西欧のキリスト教会におけるように、宗教改革と呼ばれるものにつながる。

アル・ワッハーブは、イスラム教の純化と原初イスラム教への回帰を呼び掛けた。まだ若い導師であったアル・ワッハーブが、自らの住む地方の街で、姦淫の罪を犯した女の断首を主張した時、人々は彼が本気であることを知っていた。当時アラビア半島を席巻し、住民たちに無慈悲な重税をかけていた人気のないオスマン帝国に対する暴動がなければ、アル・ワッハーブの先鋭主義は、当時のどちらかと言えば宗教的に寛容な土地柄では人気を博すことはなかっただろう。

当時小さなオアシスのリーダーであったアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(サウジアラビアの初代国王)は、おそらく、オスマン帝国に対する戦いにおいて神の加護を得るために、1745年、異端の説教師アル・ワッハーブに命運を託した。サウード家とワッハーブ主義が結びついたのはその時で、以来この盟約は続いている。

当時、イスラム教もまた他の多くの宗教同様、イスラム教以外の複数の宗教・信仰・慣習の寄せ集めだった。伝播される途上で、借用されカスタマイズされたものだったのだ。ご存知の通り中東と言う地域は、文明のるつぼであり、世界の主要な通商路の交差点であり、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教徒いう三大一神教の発祥の地である。キリスト教徒とユダヤ教は、文字通り数ヤードしか離れておらず、イスラム教は数百マイル下ったところで起こった。

アル・ワッハーブは、このような変遷の末に着古された観を呈していた当時のイスラム教に異議をとなえた。純粋主義者である彼は、基本に戻り、イスラム教を原初に戻そうとした。ワッハーブ主義のもっとも重要な原則は「神の唯一性」だ。このため、マイナーな神々、その他の神々、神秘主義、神社、寺院、聖人などへの信仰は偶像崇拝であり、粛清されねばならなかった。

このような考え方に基づいて、ワッハーブ主義はその他のイスラムの宗派(シーア派やスーフィズム)と真っ向から対立することとなった。シーア派やスーフィズムは「家の中の敵」、ユダヤ教とキリスト教は「家の戸口まで来ている敵」だった。ワッハーブ主義は、これらの不信心者に対するジハード(聖戦)を主張した。

それから1世紀の間は、ワッハーブ主義の活動範囲はアラビア半島の中に限られていた。でもゲームの風向きがかわり、サウジアラビアが石油を掘り当てたことにより、この地域は地政学と西欧経済のご都合主義を惹きつける地域へと変貌した。

ここでイスラム教の過激派が、地球上で最も富める国と結びつき、サウジアラビアは石油だけではなく、ISILやその他のジハディストのグループを動かしているラジカルで不寛容なイスラム教の一派をも輸出するようになった。サウジアラビアは、その広範な石油資産を東はマレーシア、西はマンチェスターへと至るイスラム神学校への資金提供に宛てているが、これらのイスラム神学校のうちのいくつかは湾岸諸国からはるか離れた地域でワッハーブ主義の思想を伝えている。

無実の市民を殺戮し、古代の遺跡を破壊し、女性を虐待するISILは上述のワッハーブ主義の権化であり、中東における西欧の最大の友であるサウジアラビアはISILの最大の財政的保護者である。戦いには資金が必要で、ISILは石油、不正な金儲け、人質、外部の民間からの寄付等から資金を得ている。外部の民間からの寄付の多くはサウジから来ている。

ISILの財源の流れをたどって行くと、全てはサウジアラビアに根を持っている。西欧の敵とみなされるリビア、イラク、アサド政権下のシリアなどではない。

9月11日のハイジャック犯の大半や、ビン・ラディンとアルカイダの指導者たち、シリアとイラクにおける5人のISIL支部の指揮官はサウジアラビア人である。アルカイダやISILなどの急進グループは、1730年代の砂漠から来た聖職者ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブと彼が1745年に盟約を結んだサウード家の子供たちと言ってよい。

西欧は少しでも早くこの事実を受け入れるべきである。


***

前述の通り、上述の記事は少々極端でシンプリストかもしれないと思っています。

スンニ派の急進派であるワッハーブ主義は、サウード家による絶対的な支配を保証するものとして利用されてきました。ワッハーブ主義は依然としてサウジの国教ではあるけれど、現代のサウジアラビアはある意味二極化していて、ワッハーブ主義にネガティブなイメージを持つ人々も多くなってきているとも聞きます。

また、この記事のように、ISISによるブリュッセルでの蛮行の責をサウジアラビアだけに求めるのは酷というものかもしれません。

人類に共通の、超越的な価値への帰依による思考停止への誘惑(あさま山荘事件のような)。

(「雇用主」としてこの国にやってくるエクスパットには感じにくいと思いますが、「有色人種の移民」としてこの国にやってきた当時の自分もひしひしと感じてきた)ベルギーに根強い有色人種に対する蔑視。

1930年代に北アフリカからの移民を積極的に受け入れながら移民2世・3世のインテグレーションを後回しにしてきたベルギーの偏った政策。

それぞれお城のように立派な区役所のある19のコミューンと6つの警察部隊を持ち、統合されつつあるとはいえ互いに情報共有がなく非効率なブリュッセルの行政。ビューロクラシーにがんじがらめになり、ある意味やる気を失ってしまった警官たち。

さらには自国の利害のために中東の指導者を操ったり、シーア派とスンニ派の対立を仕掛けたりしながら、結果としてISISをはびこらせる原因となったイラクの政治的な空洞を生み出した別のもっと大きな国の偽善。

それらすべての霊妙な配合が、罪もない市民と自爆した青年たちの死骸の山を作り出し、今後もやむことなく死骸の山を作り続けるということになるのでしょうか。

 
 

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