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「セルビアの皇太子」(2)  タインコット墓地の邂逅

先々週末は、亭主のグリの故郷、アイルランドのコーク・シティーから飲み友達のデクランとステファニーが、当地ベルギーにやってきて、第一次大戦で戦没したアイルランド人の一兵卒のお墓を探すと言うので、運転手として付き合うことになった。戦争映画を観るだけですぐ吐気や頭痛に悩まされるデリケートな自分は戦死者の墓場に行くのは本当に気が進まなかったのだが、「墓地や戦跡に行くときは、これをはきなさい」と言って母親が巣鴨のとげぬき地蔵の仲見世で買ってくれた赤いステテコのようなものをジーンズの下にはいて、しかたなく出かけた。

デクランとステファニーがさがしているのは、コーク・シティー出身のデニス・フィールドと言う名の兵卒の墓だった。デニス・フィールドは、第一次大戦末期の1917年、ベルギーのイープル郊外のパッシェンデールの戦いで27歳で戦死した。デニスの二人の兄弟もまた、同じ第一次大戦中にそれぞれフランスとドイツで戦死している。デクランとステファニーの友人が、この不幸な若者デニス・フィールドの曾孫にあたり、第一次大戦で戦没したコーク・シティー出身の兵士の墓所の膨大な記録の中から、自分の曾祖父の名前とベルギーのタイン・コットと言う墓地の名前を発見したのだった。そして、ベルギーで週末を過ごすというデクランとステファニーに「そのお墓を探して写真を撮ってきてくれ」と頼んだのだ。

タイン・コット墓地は、イープルの郊外にある。イープルは、今でこそ猫祭りとかで日本人にも人気のある可愛い町に再生されているが、イープル突出地(Ypre Salient)と呼ばれる西部戦線がぼこっと東側のドイツ側の陣地に突出したこの地域は、市街地も周辺の野畑も、第一次大戦の度重なる砲撃でぼこぼこにされ木々の焼け残る沼地での陰惨な戦いの舞台となった。ドイツ側の銃弾に倒れた者だけではなく、沼地やトレンチで溺死した兵士、味方に銃殺された兵士もいる。

これは、惑星ソラリスの写真ではなく、1917年のイープル郊外の風景である。


ブリュージュでランチを取り、車を走らせていると、なんとなく1917年をほうふつとさせる不穏な空模様となってきた。


そして、タイン・コット墓地。(Photo: Marc Dirickx)


ここには、英国、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等の出身の11,954人の兵士が眠る。その内の8,367は名前を同定することができない無名の兵士の墓だ。私たちが探しているデニス・フィールドの墓には、幸いなことに彼の名前が刻んであるはずだ。でも、墓石はアルファベット順に並んでいるのでもなく、出身隊別に並んでいるのでもない。この膨大な墓石の中からどうやって彼の墓を見つけ出したらよいのだろう。唯一の手がかりはデクランが友人から手渡された、
   L11 C13
と言う記号を記した手書きのメモだけ。

よく見ると、整然と並んだ墓石群には、列の一番右端の墓石の側面に、1A、1B、1C... 2A、2B... と言う番号が刻んであり、それが列を表す記号であることが分かった。デクランが、デニス・フィールドの曾孫から手渡された手書きのメモの記号が何を表すのは不明だが、L11と記された墓石の列、または、C13と記された列を見つけることができれば、そこに目指すデニス・フィールドの墓が見つかるに違いない。そう思い、私たちは11か13で始まる墓石群を探し、13で始まる墓石群を見つけた。でも、C13と言う列の墓石にフィールドの名前を見つけることはできず、11で始まる墓石群も見つけることができない。

墓地の表門の内側の壁に小さな扉があって、それを開くと20冊ぐらいの埋葬者名簿が出てきた。幸いアルファベット順になっていたので、デニス・フィールドの名前と、彼が所属していたという英国陸軍のInfantry Regiment(歩兵連隊)Royal Munster Fusillierと言う手がかりをさがしたが、影も形もない。ステファニーがため息をついて「彼が見たという記録が間違っていたのかも…」と言い出した。「それなら、タインコット墓地には記録がなかったという記録でもとろうか?」そう言って、デクランが、名簿のFで始まる兵士の名前のリストの、フィールドの名前のないページを写真に撮り始めた。

すると、デクランのカメラが突然故障してしまった。

墓地の入口近くにあったビジター・センターに、コンピューター・ベースの検索システムがあるのではないかと期待して行ってみたが、兵士の遺品が陳列されているだけで何のデータもない。

デクランとステファニーとグリは、墓地を囲む石の壁面に刻まれた、遺骸の見つからなかった兵士の名前の中にもしやデニス・フィールドと言う文字が見つからないかと、壁面をひとつひとつ丁寧にチェックして居る。私は、もういちど11で始まる墓石を探しに墓地の反対側の遠い門までゆっくりと歩いて行った。


(Photo: Marc Dirickx)

9と刻んだ墓石群を見つけた。そして10と刻んだ墓石群… それから少し離れて11と刻んだ墓石群が、裏門のすぐそばに見つかった。でも、L11と言う列を見つけることができない。がっかりして、3人のところに戻る。ステファニーが、
「ここにも、名前がなかったわ。あんたの方は、なにかみつかったの?」
「向こう側の門に11で始まるお墓があるんだけど、L11という列がどうしてもみつからないのよ」と私。
「カメラも壊れてしまったし、これ以上続ける元気はないよ」と、デクランが珍しく泣き声を出す。
「ちょっとまって、まりあが向こうの門の隣に11で始まるお墓を見つけたらしいから、行ってみましょうよ」と元気づけるようにステファニーが言うので、皆重い足取りで歩きだす。

門にたどり着いた時、白い墓石の列の間に真っ赤なジャケットが見えた。男の人が、白い墓石の前に大きなカメラを近づけて接写しているのだった。男の人のジャケットは、戦いの終わったフランダースの野に一斉に咲いたポピーと同じ血の色、そして、私がひそかにはいている憑依除けの赤いステテコと同じ色である。

何を思ったのかステファニーが、その男の人に声をかけた。
「L11という墓石の列を探しているんだけど」
すると男の人は、
「Lで始まる墓石は、いちども見たことはないよ」
即座にそう答えると、ステファニーを墓地の裏門に導いた。裏門の内壁には、先程表門の中にあったのとそっくりな小さな扉があった。男の人が扉を開くと、中に入っている沢山のブックレットを一つ一つ取り出した。そこには、なんと、表門にあったのとは全く別の埋葬者リストがあったのだ。
  

そこにはたしてあった。D. Fieldと言う文字が。そして、LII.C.13と言う番号が…


その赤いジャケットを着たおじさんは、
「LIIは、L11ではなくて、L2を意味するのかもしれない。2の墓石群も見てみよう」
と言ってはるか向こうを指さし、先に立って早足で歩いて行った。
デクランが追いついて、
「どうして、あなたはそんなにご親切にしてくれるのですか」と尋ねた。すると、おじさんは、
「私たちベルギー人が侵略され町を破壊されたとき、あなたたちイギリス人やアイルランド人が来て助けてくれたのではないですか。私があなたを助けるのは当然です」
そう答えたという。(それは、感動したデクランが後で私たちに語ったことだ。)

でも、2の墓石群にもLの文字はなかった。がっかりしかけた私たちにおじさんが言った。
「もういちど、裏門に戻ろう。ずっと以前に、門にある資料に墓地の見取り図があったことを思い出したんだ」
そして、私たちが見つけたのは次の見取り図だった。

そこにあったのだ。L IIと言う文字が。そこで初めて気づいたのだが、それはL2でもなければ、L11でもない、「52」を表すローマ数字だったのだ!

おじさんは、もういちど私たちを墓石の列に連れて行って、
「フィールドさんの御墓はこの区画のどこかにあるはずなんだ。手分けして順番にみていこう」
かなり絞れてきているとはいえ、おじさんの指差した方向には、やはり見渡す限りの墓石が並ぶ。その場にへたり込みそうになったデクランとグリを無視して、おじさんとステファニーと私は墓石の海を3列おきにジグザグにすすみながら、墓石に刻まれた名前を一つ一つ見ていった。

もしも自分の見ている列にデニス・フィールドの墓石があり、自分がそれを見落としたら、これからさきデニス・フィールドの墓を訪れる人はいなくなってしまうかもしれない。そうしたら、彼が本当に浮かばれない。なんとしても彼のお墓を見つけたかった。ひとつひとつ、ていねいに名前を見ていく。「無名戦士」と刻まれた墓も多い。

墓を一つ一つ見ながら進むうちに、風が嵐のように強くなってきて、墓地を守るようにそびえている二本の巨大な樹がまるで生き物のように大きく揺れている。自分には、なんだか異常な感じのする風の音が自分の周りで起こっていることなのか、それとも自分の心の中で起こっていることなのかの区別がつかなくなっている。自分が確かに何かに近づいているような気がする。その時、自分の目を疑った。自分の目の下にある墓石に、あれほど探した名前、D. Fieldという名が刻んであったのだ。
「キャー!!!」
私の叫び声に、ステファニーが、デクランが、グリが、おじさんが駆け寄ってきた。それは紛れもなくデニス・フィールドの墓石だった。

私たちは、多分それぞれが深い感動を感じていたのだと思う。そのおじさん、マルク・ディルクスさんに深くお礼を言って、お互いの写真を交換するためにメールアドレスも交換して、言葉少なにその場を離れた。でも、ブリュッセルに戻って、グランプラスでビールを飲んでいる内にじわじわ感激と興奮が戻ってきて、みんなでひとしきり、くりかえし今日の体験を語り合い、あのときマルクさんに会っていなかったら・・・と言う話をした。

「97年7か月も待って、初めて人が自分の墓を見つけてくれて、しかもそれがアイルランド人とベルギー人と日本人の混成チームでデニス・フィールドもうれしかったろうな」
そう、しみじみとグリが言った。

デニス・フィールドが英国軍の兵士としてベルギーにやってきたとき、アイルランドは英国からの独立をめぐってのイースター蜂起の真っ最中で、彼が戦死した2年後にアイルランドは独立戦争を開始し、数年後には独立を勝ち取る。1917年当時に英国軍に参加したアイルランド人は、多くは貧しい農民の若者でお金のために志願した者達であった。だから、戦死した後も、アイルランド共和国にとっては「裏切り者」であり、長い間顧みられることがなかった。

その後、Royal Munster Fusilierという彼の所属した連隊についてWikipediaで調べると、はたして、彼が戦死した1917年11月10日に何が起こったのかが明らかになった。Royal Munster Fusilierは、アイルランドの南部地方Munsterの出身者で形成される歩兵隊で、彼の所属するのは20人の武官と630名の兵隊からなる第二部隊だった。この部隊は、11月6日に前述のイープル突出地のアイリッシュ・ファームと呼ばれる場所に到着する。すでに4か月前から続いていた会戦で、地面は砲弾の穴だらけでそこに水が溜まり、沼地と化していた。英国軍は、最後の試みとして11月10日午前6時に攻撃を再開する。彼の所属する部隊は、重い装備を抱えたまま、腰まで泥と水につかりながら前進し45分の間にすべての目標地点を通過してしまった。背後から砲撃隊がドイツ軍に向かって砲撃を続けていたが、彼の部隊が予想外に早く進行してしまったために、部隊の多くが味方の砲撃の犠牲になった。この日の会戦で部隊は、武官・兵卒共に3分の1に減ってしまった。デニス・フィールドは、死傷した3分の2の一人だったのだろう。

マルク・ディルクスさんは、このページに一部が掲載されている美しい写真をたくさん送ってくださり、私たちも感激と感謝の言葉と共に、アイホンで撮った写真を送った。

これは、マルクさんからのお返事。
「写真を送ってくれてありがとう。先週の日曜日は、私にとっても一生忘れられない日となったよ。何年もの間、わたしはこの土地に永遠に眠る人々の墓石の写真を撮ってきた。でも、あのとき、一つの墓石の陰にある物語を聞き、それが3人兄弟の一人で、3人とも再び故郷に戻ることはなかったということを聞いたら、戦争の残酷さを理解するのに写真は必要なくなるな。この特別な経験をありがとう。あの日、あの場所に来てくれてありがとう。(thank you very much for sending me these pictures. Last sunday will be a day I'll never forget. During the years I created a "band" with the men who are eternally resting in our soil. When the story behind one of these men became visible and when I heard they were three and they never went home again, I didn't need any pictures to understand the cruelty of war. Thank you for sharing this special with me and thanks to all of you for being there. )」
 
写真は、マルクさんが送ってくれた、どこか清らかな、恥じらいを含んだような、デニス・フィールドの墓石。
(Photo: Marc Dirickx)


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Comment

マリアさん、久しぶりの投稿ですね。セルビアの皇太子(1)(2)興味深く読みました。100年近く前の兵士の墓を数字の謎解きしながら探し求めて、マルクさんと出会ってついに目的の墓を見つけることができた話は、対象が「墓」だけにどこかミステリアスです。所で、私はマリアさんよりも多分20歳以上も年上ですが、私の中学時代の教科書には残念ながらサラエボ事件の犯人が皇太子だったとは書いてなかったと思います。ただ、誰が犯人だったかはあまり意識していなくて(と言うよりも忘れてしまって)ただ事件の発端はオーストリア大公がセルビア人から暗殺されたという事だけしか記憶には有りません。
もっとも、あの時代は暗殺されたオーストリア大公の叔父フランツ・ヨーゼフの息子で有る皇太子のルドルフが謎の死を遂げたり。妻のエリザベート王妃もまたスイスで暴漢に刺されて衝撃的な死を遂げたり、何やらやら王家と帝国主義と共和主義が絡んで、この歳になると色々な記憶が曖昧になります。少し前、NHKのBS放送で「世界大戦と人間」という番組でヒットラーの抬頭から世界大戦に至った顛末をドキュメンタリ形式で数回に渡って放送していました。とりあえず録画していますので、ゆっくり見ながらこの時期に対するの曖昧な知識をはっきりさせていこうと思っています。ともあれ、マリアさんの忘れた頃のブログ投稿に安心し、忘れた時代背景を思い出すきっかけをくれて感謝します。

| 老真 | 2014/08/26 12:09 AM |

老真さま、

お便り有難うございます。
実はこの記事を書いてマルクさん撮影の美しい写真を貼りつけているとき「歴史+謎解き+写真…と、『どこかの細道』にどこまで迫れるか…」などと思ってにやにやしていましたので、著者の老真さまからお便りをいただけ大変嬉しいです。

やっぱり「セルビアの皇太子」と教科書に書いてあったというのは、自分の思い込みだったのだと思います(涙)。それにしても、皇太子ルドルフの謎の死のことも、お母さんのエリザベートもまったく知りませんでしたので、大変有難うございます。

この辺はいろいろ探していくと面白そうですね。早速Wikiで調べてみると、お母さんのエリザベートとはシッシ王女として映画(テレビドラマ?)の主人公になったひとですね?あのノイシュバンシュタイン城の狂王ルードヴィッヒ2世のいとこにあたる人ですね。

今回の話がきっかけで、当時のヨーロッパの王室・皇室相関図を観ていくと大変面白いものがあります。当時の大英帝国のヴィクトリア女王はハノーヴァー朝、つまりドイツ系の家系、そしてドイツ帝国皇帝ウィルヘルム2世はヴィクトリア女王の孫、ロシア帝国のニコライ2世の皇后アリックスもヴィクトリア女王の孫で、ウィルヘルム2世の従妹… と、第一次大戦の発端は実は家族喧嘩だったのではないかと言うような気もしてまいります。

まりあ

| まりあ | 2014/08/31 6:10 AM |

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