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自分を外から見ると言う呪い

 いつの頃からか、自分を外側から自己査定して、
「去年の今頃はできなかったクロールができるようになったね」
とか、
「去年の今頃はできなかった瞑想ができるようになったね」
とか、
「あの時、来年の今頃、これからは毎晩10時には寝るという決心をしたのに、お前はまだそれができるようになっていないね」
とか、思うようになってしまった。

一年前の自分に比べて、今の自分が変化または進歩していないとがっかりするようになってしまった。一年前の自分に比べて今の自分の有形無形の資産内容になにも変化がないと、怒りを感じるのだ。

以前の自分のように、今も一年前と同じで幸せ、十年前と同じで幸せ、これからもずっと幸せ・・・と言う風には思えなくなってしまった。自分が存在しているだけで幸せという時代は(つまり「幸せ」という言葉も自分にとっては存在しない幸福な時代は)、たぶん7年前に癌で死にそこなってこの世に復帰した時に終わったのだ。

動物には幸せも不幸せもないように、幸せは、自分の外側に出るという人間の宿命を受け入れることによって初めて得られるものなのかもしれない。

自分が死ぬ前にこの目標に到達していたいという、絶対的な地点があると言うわけではない。ただ、死ぬまでにすこしでも前に進んでいること、昨日より進んでいることを毎日確認することだけが私の幸せ、それだけ。

http://youtu.be/sLErPqqCC54


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Comment

御無沙汰しています。まりあさんの久々の記事とそれに続くアマゾンの森の奥深くに住む未開の部族の映像に触発され、今日は少し長いコメントを書こうと思っています。

アマゾンの森に住むアンタッチャブルな部族の映像は自分もBBC Worldかなんかで見た記憶がありますけど、切ないですね。森の中で何百年も前から同じような形態で生活していて、森に守られている限りその閉じた形態の中で何百年も充足していられる。でも、文明の容赦ない波が訪れて、森は切り開かれ、やがて彼らも現代文明、資本主義の波にさらわれてしまうことは目に見えている。資本主義って何かと言うと、今持っているものよりももっと多く、もっと上を得ようとして努力すると言うこと。まりあさんの言う「進歩」と言うこともこれとつながるように思える。

動物はお腹が一杯になれば満足する。冬のために食べ物を蓄積する動物だって、その冬を越せる分だけの木の実を集めればそれで満足する。「スキルが向上したお陰で、短時間に再来年の分まで木の実を集めたぜい。余った労力をもっとさらなるスキルの向上と効率化に投資して来年はもっと木の実を集めよう」なんて決して思わない。

大変古い話で恐縮だけど、これを読んだ時最初に頭に思い浮かんだのは大学時代、湯浅博雄先生のジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」を学生4人位で読むと言う授業で、先生は、ヘーゲルの「内在」と「超越」という概念を説明してくれた。バタイユはこの著書をまさにこの二つの概念に沿って展開していくことが、本を読み進むに従って明らかになった。ブログのタイトルの「自分を外側から見る」ということが、まさにこの「超越」と言うことを言っているのだなと想像しました。そして、「幸福」と言う言葉なんかが生まれる以前の状態から強引に引きはがされた状態と言うことで、それは「呪い」なのだなと。

たしかに「わたしの命は有限です」なんてことは動物は言わない。
「時間との戦い」である宗教なんてものを考えついたのも人間だ。

ユングがアフリカをフィールド・ワークした時、村のアフリカ女性の充足した姿に感銘を受けたと言うことをどこかに書いている。おそらくそこには、時間もなければ、外という概念もない。変化も進歩もなく、そこにいて充足しているのだ。
もっと言うならば、歴史的に、領土を広げようとして戦争をしてきたのは人間と言うよりも男だし、その延長で資本主義なんて言うものを考えついて、飽きもせずに続けているのも男であった。
男と女の原型としてのこう言う差異はユングも言っているし、何とかという日本人の哲学者もオルフェウス(欠乏により進歩を求める存在)とエウリディケー(充足・豊穣の象徴として地下に潜る存在)を対比して論じていたと思う。(でも、最近は、わたしのような草食系男子が増え、まりあさんのような肉食系女子も増えているので、ジェンダーによる区別はあまり意味をなさなくなりつつあるのかもしれないが。)

ともあれ、「一年前の自分に比べて今の自分の有形無形の資産内容になにも変化がないと、怒りを感じる」というまりあさんの言葉は、その日暮らしで、どちらかと言えば有形無形の資産を食いつぶしながらとっても幸せなわたしのような人間に対する怒りでもあるのだろうなあ(笑)と思いながら読んでいました。

| フロレスタン | 2013/06/17 12:41 AM |

自分を外側から見る呪いは必要悪(人によってはつらい葛藤がうまれるがそれによって何かを変えるプラスにもつながる)と私は解釈してます、
最近自分の状態を外側から見る事が唯一より良い状態に変化できる頼みの綱ではないかとすら思うので。でもって自分を客観視すると愕然とする事が多い、丁度マルセルマルソーのムーンウォークみたいに本人は歩いてるつもりなんだけど進まないで後退してたり...どうしてだろう?とまた
客観視して分析。本当は判ってるんです、思い切って今の状態を変える事が怖い、リスクが怖い、がそれらを怖がって止まっていると行く末に残るのは後悔だけである可能性大。と言う事で、分析するには外側からの自分の観察は良い事なんですが、解決出来ない場合焦りばかりで不幸になるので呪いと言えるかもしれないですね。

| り | 2013/06/17 4:57 PM |

まりあ様、夏休みはまだですか?私は今週いっぱいと来週の月曜まで休暇をとって家にいます。バカンスではなく飽くまでも休暇でどこにも出かけません、予定外出費がかさみ娘のバカンス(もう親とは出かけない)を支払ったらスッカラカンになってしまいました。

負け惜しみでなく、バカンスというと目の色をかえて「それっ」とばかりに出かけ、そして秋に焼けた肌をみせびらかして「どこそこに行った」というのがステータスシンボルになっているヨーロッパの大多数の人をなんだか白々と見ている自分が居ます。肌が白いままだとなんだか不幸で惨めなどと思う様になったら完全に情報に踊らされているのだと言うのが私の見解です。

出かけられるのは良い、がまたそれは義務でもない。何年も毎年のバカンス先を選び、お金を工面してせっせと出かけ、それが毎年のストレスになっていたという変な状況がありました。でもお膳立てしてもらってる家族は当たり前でその陰にかくれている苦労の1/10も分かってないのにもある日大きな理不尽さも感じたのです。

幸せな事に私は是が否でもバカンスに出かけないと不幸になる類の人間ではないのでこの機会に物置に積みあがった訳の判らない服(ほとんどもらったもの)の整理、繕い物と縫いかけの袋を完成、同様に積み上がった書類の整理ととにかくうっちゃらかしてあったものの整理をしています。箇条書きにして終わったものから消していくという作業で、リストの最後が天気がよければ近所の森やらちょっと面白い建物を写真にとり日本の友人や肉親に送ろうと思っています。

リストを作ってこんな事をするのは自己管理が出来ない自分を外側から見る怖さからで、だらだらとしていると実に荒廃した気持ちになってしまうからです、あ、もちろん徹底的にだらける休みを否定している訳ではないのです、バカンスの語源は「空っぽ」という事であれば責任から完全に解き放たれたひと時も必要とは思いますので。

まりあさんの仰る「呪い」は私にとっては自分が脱線しない唯一の方法という気がします、少なくともこれがないと客観性をうしなったまま同じことを繰り返すだけになったり、鬱状態になったりする恐れが大なので自分を過小評価も過大評価もしない為にこの呪いは不可欠なのだと改めて思ったりするこの頃です。




| り | 2013/07/12 5:23 PM |

りつこさん、

いい天気が続きますね。
お返事が遅れごめんなさい!

こんなに気持ちのいい天気が続くと、夏休みは旅行するより、森に囲まれて涼しいベルギーで過ごすのが一番と思いますよ。

だらだらしていると荒廃した気持ちになってしまう、と言うのは私も本当に分かります。りつ子さんも私もそう言う性分なんでしょう。

ゆったりとした夏の時間に、普段やりたくてもやれなかったことのリストを作って一つ一つこなして行くなんて最高に気持ちの良いことと思います。

(うちのグリなんかは、何もすることがなくても本当にハッピーでいれるのだそうです。それはそれで、素晴らしいこと、うらやましいことと思います。悟りの境地と言えるんでしょうかね!?)

まりあ

| まりあ | 2013/08/04 9:10 PM |

フロレスタンさん、

フロレスタンさんが書いてくださった長いコメントが、自分の言いたかったことをぴったりと理解し補足していてくださっていたので、お礼のコメントをお送りしようと思いながら、こんなに時間がたってしまいました〜。すみません!

フロレスタンさんが引用してくれたバタイユの「宗教の理論」は、まさにこの記事の下敷きになっていたと思います。(というよりも、ヘーゲルからバタイユへと続く考え方が、自分のものを考える時の基礎であり、縛りであり、ということがあると思います。)ただ、自分のブログの中では、そういう哲学者の名前とか引用とかは出したくなかったのですね。フロレスタンさんのように現役で日々哲学している方たちにぼこぼこに突っ込まれるでしょうから。

オルフェウスとエウリディーケーの類型は、加藤義泰先生の「リルケとハイデッガー」でしょうか?これも若干は下敷きになっていたかもしれません。ただ前述のとおり、類型は色々なことを考える時の基礎になっている同時に、縛りになる場合もあります。

そういう基礎も縛りも超越して、アマゾンの未開部族の映像は本当に心に直接響いて、自分の中にある類型をごちゃごちゃにしてしまいました。

正直に言うと、深い森に抱かれるように暮らしている小さな人々の美しさにまずは打たれたということでしょうか。でも「美しさ」はその人々の側にあるのではなく、それを「美しい」と感じているのは自分の心の中で起こっているということ。BBCの動物ドキュメンタリーが好きなのと同じように、文明の側にある自分のノスタルジーにすぎないのかということがあります。

部族への直接的な接触や影響を最小限にとどめるために、BBCの協力を得て高性能カメラで上空から部族の映像を撮影したNPOのおじさんは、「違法な狩猟者や採掘者がこの部族と接触したら、彼らはカメラではなく銃を向けるだろう。私たちが目指すべきなのは、彼らを永遠に外界との接触から保護することではなく、外界と接触するかしないかの自由を彼らに与えることなのだ」

ところで、私はフロレスタンさんが自称しているような「その日暮らし」の人を批判するために、このブログを書いたのではありませんよ。これを読んで、フロレスタンさんが「批判された」と感じたならば、あなた自身が「その日暮らしはいやだ」と思っているからではないでしょうか(笑)。

| まりあ | 2013/12/15 10:53 PM |

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