夏休みを2日間取れたので、亭主のいるアイルランドではなく、ベルギーのムーズ川のほとりプロフォンドヴィルまで1人でドライブして、川と森に接した旅籠屋に週末と合わせて2泊することにした。Profonde(深い)Ville(町)という名前が気にいって、えいや!と選んだ町です。
昨日の夕方着いて、今朝朝食を下のダイニングで食べた以外は、ぜんぜん部屋から出なかった。持ってきた本を読んで、ブログを書いた。お風呂に1度入り、お茶を3杯飲んだ。
高い窓がひとつついていて、そこから外を見ると、川と森。人の姿はない。至福のひと時。
でもせっかくきれいな場所なのに、散歩をするために外へ出る気になれないことに気がついた。昨夜の夕食にも外出しなかったし、今日の昼も抜いてしまった。
午後になって、旅籠屋のお姉さんがドアをノックする。
「タオルをかえましょうか?」と言うので、
「いえ、大丈夫です。まだ綺麗だから・・・」と言う。
あやしまれないようににこにこして言ったつもりだが、お姉さんが心配そうな顔をするので、仕方なく、
「ティーバッグとお砂糖をいただけますか?」
というと、少し安心したような顔をしてティーバッグとお砂糖を山のように持ってきてくれる。
これを書いている今は夜の9時だが、ついに一歩も旅籠屋を出なかった。その間、腹が減ったが、外に出るのが面倒くさいのでそのまま部屋にいて、お茶で空腹をしのいでいた。外に出るつらさと、空腹を我慢するつらさを天秤にかけると、自分にとっては前者の方が重いのだった。
旅籠屋のおばちゃんとお姉さんから、変人だと思われているのではないかと少し心配になる。あ、ブリュッセルから100キロ近くも離れた森と川のほとりまで来て、旅籠屋から一歩も出ないわたしって、じつは変人?と自分でも気が付く(笑)。
部屋にいる間、せっかくの機会なので、「なぜ自分は外に出たくないのだろう?」と自分の今の気持ちを観察してみる。観察の末、部屋から外に出ると旅籠屋のおばちゃんやお姉ちゃんや泊り客を始め、人と接触しなければならないからだという事に気付いた。
旅籠屋のおばちゃんもお姉ちゃんもとても感じがいい。朝食の時隣に座った泊り客も静かで感じのいい人ばかりだった。でも、部屋で一人になっている自分と、人々の間にいる自分とを比べると、後者の場合、ほとんど人との直接的な接触がなくても自分が多大なエネルギーをつかっていたことに気づき、そこに戻るのがおっくうになり、次第に怖くなるのだった。
青少年の「ひきこもり」の問題は、たぶん多くの場合、心的エネルギーの使い方の問題なのだ。自分の限られたエネルギーをこれっぽっちも他人のためには使いたくないという、ケチと言うか、非常に心の狭い状態なのだ。
以前、友達の誰かが、
「学生の時、友達と電話で話すのが大好きで、持ち運びのできる電話ができないかしら・・・と思っていたら、携帯電話ができた」
と言っていた。その人は他人とのエネルギーの交流を愛せるほど、エネルギーの豊かな人だったのだろう。
自分の場合、こちらが話したくもない相手から一方的に、自分の貴重な一人の時間を邪魔しにかかってくる電話はもちろん、どこまでも自分についてきて鳴り響く携帯電話ときたら土に埋めてしまいたいくらいなので、その友達の気持ちは今でも理解できない。
こんな自分の性向は今ではひた隠しにしているが、子供のころはそれがむき出しになっていた。「お友達」といって親が連れてきたヘンな子供を見ると、自分の邪魔をするうざったいやつと思い、すぐぶんなぐって泣かせてしまったし、一人で自分の遊びに没頭している時に近所の子がやってくると、邪魔をされたことにものすごく腹が立って棒をふりまわして追いかえしたりしていた。
そう言えば、一番古い記憶は2.5歳ぐらいだが、当時の気持ちを思い出すと何かに愛情を感じたり、いつくしみの気持ち、優しい気持ちを感じたりしたことがない。なんだかさつばつとして荒ぶれた子供だったのだ。(子供って実はみんなそうなんだろうか? そうでない気がする)それが幼稚園に入り、学校に入り、大人になるにつれて、自分一人で遊び続けるわけにはいかず、邪魔する他人をぶんなぐって蹴散らすわけにはいかず、にこにこせざるをえなくなる。その過程でわたしの心的エネルギーは独特の歪み方をしてしまったのだろう。
私は、その歪んでしまった自分の心的エネルギーをまっすぐにするために、必死で戦っています(笑)。まっすぐになった自分がどうゆう姿をしているのかは想像もつかないのだが。
プロフォンドヴィルを去る前に、散歩をしながら撮った映像。奇麗な場所なのだ。