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瞑想には危険もあるかもしれない

瞑想には危険もあるかもしれない。瞑想合宿に何度か参加するうちにそう思うようになった。10日間のヴィパッサナ瞑想合宿の5日目ぐらいで、突然、悲しみの発作に陥り途中退場する女性を見たことがある。合宿途上で宿舎の窓から飛び降りてしまった男性もいる。10日間の合宿の間に、100人の内かならず10人ぐらいはそれ以上瞑想を続けることに耐えられず、脱落者が出る。理由は様々だが、毎日11時間の瞑想を続けることで知らず知らずの内に心の深い部分まで下降していくので、生半可な気持ちで始めると怖い目に会うかもしれない。

***

以下は、ヴィパッサナ瞑想を通じて知り合ったある日本人女性から聞いた話だ。「瞑想には危険もあるかもしれない」と私が本当に思ったのは、彼女が合宿中に遭遇した体験について私に語った時だった。少々前置きが長くなるが、彼女の話はこんな風に始まる。

彼女は、東京の私立の女子高校に通っていたが、友達を作ることができずひとりで本ばかり読んで、クラッシック音楽ばかりを聴いていた。3年間の高校生活で、ほとんど学友たちとまともに話すことができず、人の目を見ることができなかった。

そんな彼女に始めて友達と言える人ができた。しかもそれは、男性だった。

彼女は、毎週水曜日の晩、学校の帰りに予備校でドイツ語の授業を受けていた。そのクラスには彼女と同じ高校生はほとんどいず、かなりの数の大学生がいた。

ある初秋の水曜日の晩、授業が終わって国鉄の駅に向かって歩き始めた彼女に追いついてきた男の人がいた。

「きみ、今の授業に出てたよね」

とはなしかけてくる。眼鏡をかけた大学生だった。彼女は当たり障りのない受け答えをして、自分の電車の来るプラットホームに上る階段まできてようやく気詰まりな会話から開放された。

その次の水曜日の晩、授業が終わった後、またその大学生に話しかけられるのがなんとなくいやで、彼女は別の出口から予備校の外に出た。その出口から出ると、駅にはかなり遠回りになる。でも仕方がなかった。

予備校の出口の前に、おかしな家があった。それは、傾きかけた古い木造の小さな平屋だった。草庵といってもよい。ぼさぼさの植木鉢の向こうの硝子の開き戸からは、小さな部屋の中が見える。なぜか石膏像が置いてある。そして、チェロとヴァイオリンが。

変な家だなあ。何だか、宮沢賢治の童話みたい。と思いながら、彼女が小さな家の中を覗き込んでいると、中から、真っ白なおじいさんの姿が、にこにこ笑いながら手招きしている。

おじいさんは、中華料理のコックさんが被るような真っ白い帽子と白衣を着て、髪も真っ白、顔もまるで洗いざらしにされた白骨のように真っ白だった。

気の弱い彼女はおじいさんの手招きを無視するわけにもいかず、またちょっと好奇心にも駆られながら、背をかがめて草庵の中にはいった。正面には大きな錆びた鏡があり、その前に大変古びた椅子。そこは、おじいさんの経営する床屋さんだったのだ。

その時、どんな会話をしたのかを彼女は思い出すことはできない。でもおじいさんは、長年培った床屋さんと言う職業のプロフェッショナリズムというものだろう。暖かく包み込むような雰囲気があり、また、90歳と言う高齢なのに大変な聞き上手だったのだと思う。これまで人とまともに口を聞けなかった彼女も少しずつ話をすることができるような気がした。

その日を境にして、毎週水曜日の晩、彼女は予備校の授業に戻ることはなく、学校が終わるとそのままおじいさんの草庵に直行した。

彼女が来ると、おじいさんは、小さなでこぼこのお鍋でサツマイモを煮てふるまってくれた。おじいさんから渡された割り箸は、おじいさんがその前にお魚を食べたらしき匂いがまだ残っていて、ちょっと「こまったな」と思ったが、水で煮ただけのサツマイモは甘く、とても美味しかった。

おじいさんは、
「京大の○×先生からいただいたものです」
と言って、立派な装丁の「平家物語」を見せてくれた。そして彼女に、
「平家物語の○×章がとても良いのです」
と言って、『音楽天にきこゆ』と言うくだりを含む章を教えてくれた。
彼女は、すごく美しいと思った。そして、おじいさんにその部分を朗読して聞かせた。

彼女は、高校のクラスで習った「平家物語」のなかでも自分が特に好きな、「那須与一」の部分も綺麗な声で朗読してあげた。

「与一 鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。」

それからと言うもの彼女がおじいさんを訪れる水曜日の晩ごとに、おじいさんは、
「あの『音楽天にきこゆ』の章を読んで頂けませんか」
「那須与一を読んで頂けませんか」
とせがむようになった。

彼女はおじいさんが演奏するチェロとヴァイオリンに耳を傾け、自分も恐る恐るチェロとヴァイオリンを試してみた。彼女は、ちょっとした指の使い方で音が狂ってしまうセンシティブなヴァイオリンよりも、おおらかなチェロの方が好きだな思った。

こうして水曜日の晩ごとに彼女はおじいさんを訪れた。秋が過ぎ冬が来た。12月の初めての水曜日、彼女は風邪を引いて学校を休み、おじいさんの家にも行けなかった。その翌週の水曜日、いつものようにおじいさんを訪れると、おじいさんは、

「もうあなたが来ないのかもと思いました」

と言って、彼女を驚かせた。

「風邪を引いただけだったのです」

と言う彼女に、おじいさんは、家の奥から古い茶色の革のブリーフケースを出してきて、たくさんの書類の奥から、長さ1.5センチ、直径5ミリぐらいの小瓶をとりだし、

「もうあなたがこないかもしれないと思って、これを飲んで死んでやろうかと思いました」

と言って見せた。小瓶には小さな塩の塊のようなものが入っていた。

「これは戦争が終わる前、『鬼畜米英が来たらこれを飲んで死ぬように』と言われて女たちに配られたものなのです。戦争が終わったので、ある女が私にくれたのです。ふたを開けると酸化してただの塩の塊になってしまうのですが、しっかり栓がしてあるので大丈夫です。これを飲めば5人は楽に死ねるのですって」

彼女はおじいさんがふとした勢いでそれを飲んで死んでしまうかもしれないこと。また、おじいさんが自分にふるまうお茶の中にそれを入れてしまうかもしれないことについては特に何の感慨もなかった。それほど当時の彼女は、彼女自身、死というものに近い場所にいたのだ。

***

冬が終わり春が近づいていた。

ある女性週刊誌に、「90歳のおじいさんが、10億円の資産の相続人をさがしている!」というセンセーショナルな題で、おじいさんのことが掲載された。

聞くとおじいさんは、確かに床屋さんをしながら少しずつためたお金で国債や公社債を買って資産があるようだが、ちゃんと娘さんたちもいて相続人を探しているわけではない。週刊誌ってずいぶんいい加減なことを書くもんだなと思い、彼女は驚いていた。

「それからというもの、こんな手紙をたくさんもらいました」

と、おじいさんはにこにこしながら少し困ったように手紙の束を見せてくれた。それは、どれも女性からの手紙で、自分の窮状をうったえたり、週刊誌に掲載されたおじいさんの写真を見て「優しそうな方だと思いました」と言うような事を書いていた。要は自分と結婚してほしいという主旨の手紙だった。会ったこともない人にこんな手紙を書くなんて、世の中にはずいぶんかわいそうな人がいるもんだなと言うのが彼女の感想だった。

ある日、彼女が学校帰りにおじいさんの家に来て話をしていると、お客さんが来た。その人は、読売新聞の記者さんだと言う40歳ぐらいの人だった。その人はおじいさんの友達で、時々遊びにくると言うことだった。おじいさんが彼女のことを紹介すると、その人は、セーラー服を着た彼女を上から下まで眺めて、哀れみと軽蔑と若干の好奇心が混じった目をした。

「あなたを上野の精養軒に連れていきたいんです」

とおじいさんは彼女に言っていた。そして、ある日、おじいさんと彼女は初のデートをした。まだ春も浅い日で、ぼうぼう風が吹いており、おじいさんはインバネスというのだろうか、彼女が始めてみるような古臭いマントを翻して彼女の手を引いて上野の精養軒に向かった。

床屋さんをかねた草庵の外で見るおじいさんは、とてもとても小柄で、上野駅の雑踏の中で消え入るようだった。ただでさえ人ごみ恐怖症の彼女は、とても心細く感じた。彼女は上野の精養軒で何をいただいたか憶えていない。おじいさんと何を話したかも憶えていない。

それが、彼女がおじいさんと会ったほとんど最後の日となった。

***

春が来た。大学に入ると、彼女の人生がまるで花が開いたようになった。彼女のいた女子高校では誰も彼女の言葉に耳を傾けてくれる人がいなかったのが、大学に入ってから突然彼女に興味を持ってくれる人が少なからずいるようになった。

これまで彼女が自分の欠点だったと思っていた内気さまで好意を持って認めてくれる人がいると言うことがわかった。そして、彼女に興味を持ってくれた3人の男友の一人が彼女のボーイフレンドになった。

彼女がボーイフレンドにおじいさんとの交流のことを打ち明け、「しばらく会いに行っていないのが気になる」と言うと、彼は、「君は子供だなあ。そうやって人を傷つけているんだよ。おじいさんに会いに行こう」と言った。

彼女はボーイフレンドと一緒におじいさんの草庵を訪ねた。おじいさんは、以前の通り感じがよかった。淡々とボーイフレンドの髪を刈ってくれた。でも、別の訪問者をもてなしており、あまり話すことができなかった。おじいさんの彼女に対する様子は、髪を伸ばして、少し薄化粧もした彼女を、あの水曜日の夜長ごとに平家物語を一緒に読んですごした女子高生とは別の人と思っている様子があった。それが、彼女とおじいさんの最後の日となった。

***

その後、大学を卒業すると彼女はヨーロッパに渡り、長い年月が過ぎた。あるとき、彼女は人生に絶望し本当に死んでしまいたいと思った。でも苦しみながら死ぬ勇気はなかった。その時ふと、「楽に死ねるんですって」というおじいさんの言葉を思い出して、あの薬をおじいさんからもらうことを考えた。そのために日本に帰ってきたが、何故かタイミングが合わずおじいさんを訪ねることはなく、彼女は生きながらえることになった。

***

おじいさんと最後に会ってから30年が過ぎようとしていた。あのとき死ななかったお陰で、彼女は本当に幸せな日々を送っていた。信頼できる夫と愛する仕事、深く充実した日々だった。おじいさんとの短い交流も、他の様々な人生の経験と感動の内で、彼女の半生を豊かにしてくれた心温まるエピソードのひとつになっていた。

そんなとき、彼女はヴィパッサナ瞑想の合宿に参加した。2回目の合宿の半ばで、彼女は突然おじいさんのことを思い出した。おもいだしたのはもちろんそれが初めてではない。でも、それはいつもあくまで自分の立場から感謝と共におじいさんのことを思い出したという経験だった。でも合宿の半ばで彼女が得たのはそれとは異質の体験だった。その時彼女は、自分ではなく、突然おじいさんになってしまったのだ。

瞑想の途中で、突然彼女はおじいさんになってしまった。彼女が風邪のため1週間おじいさんを訪問しなかったときのおじいさんの気持ちを、春の嵐の中を精養軒に向かって手を引いていったおじいさんの気持ちを、そして、彼女が初めてのボーイフレンドを連れて行ったときのおじいさんの気持ちを感じたのだ。

その感覚は彼女を打ちのめした。その後、合宿の数日間、8月の半ばと言うのに、彼女は自分の体がまるで死体のように冷たくなったと感じた。合宿の間は、早朝6時と昼の12時に食事が用意されているのだが、何も食べる気がせず、ひたすら瞑想を続けていた。自分が死んでしまったようだった。

瞑想の8日目ぐらいから、体温が戻ってきて人心地がついてきた。食べ物も食べられるようになってきた。彼女はどうも危機を脱したようなのだ。でもこれが何を意味するのか、彼女には説明できないでいる。この間彼女に何が起こったのかについての解釈は、
「おじいさんが彼女の中に入って悲しんでいた」
のでも、
「彼女自身のおじいさんに対する隠れた罪悪感が浮上した」
のでもどちらでもよい。(どちらでも同じようなものだ。)

どちらにしても肝心なのは、霊魂にしても、罪悪感にしても人を殺してしまう場合があると言うことだ。瞑想は、日常の意識をいったん封鎖し人を空っぽにするので、霊魂なり罪悪感なりが一気に力を増して、その人を占領してしまうことがあるのだ。それはとても危険なことだ。

でも、それをのりこえることが、たましいを生き返らさせ強くするのかもしれない。

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Comment

まりあさま。

先ほど言い忘れた事を付け加えます。前に誰かが人間は社会の中にある点であるが時々それが「平面化」してしまっている人がいる、というコメントをしてたのが面白かったのです。確かに周りを見渡すと限りなく平面化しつくしている
人がいる、つまり客観性を失ってしまっているという事でしょうか?やたら広がってるけど底が浅い、視点がもう固まってしまってて自分に対する?と言うものがない、これは怖いのです。最もあんまり??ばかりだと進めなくなってしまってこれも困りますが。まりあさんは素晴らしい「点」だと
思います、点を一旦除くとその内面は底深いという点です。

私も願わくば多少なりとも深度のある点でありたいと思うのですが....



| り | 2010/12/06 5:59 PM |

りつこさん、

点と平面ですかあ。イメージがわく例えですね。

確かに、点だと多方向・多次元に無限に展開できますよね。

平面だと行ける方向がある程度定まってしまうというか。点である自分をいったん経済力とか、ブランド力とか、学歴とかの平面においてしまうと、その延長で展開していくしかない、またはその延長で展開していくのが楽になってしまったりするのかもしれません。

たしかに点である我々も色々な切り口の様々な平面上にのっているのかもしれませんが、ひとつの平面で人生終わらないほうが面白そうですよね。

| まりあ | 2010/12/08 4:08 AM |

マリアさん、
なかなか深い話です。楽天家の私にはどんなに努力しても瞑想によって日常の意識を空っぽにする事は出来ないと思います。世俗的な空想が精いっぱいの様な気がします。例えば、マリアさんがヴィパッサナの瞑想で知り合った日本人女性の女学生の頃の話を、そのままマリアさんの女学生時代に置き換えたとしても、それはそれでマリアさんらしい体験ではないかと思って読んでいました。私の場合、つまりその程度なのです。「瞑想には危険があるかもしれない」。これも、鍛錬を積んだ人だけが到達できる境地なのでしょうね。羨ましく思います。

| 老真 | 2010/12/12 10:08 PM |

老真さま

お便り有難うございます。

実を言いますと、初期仏教のヴィパッサナ瞑想を始めて4年近くたちましたが、この私も瞑想合宿以外の場所で日常の意識を完全に空っぽにすることができないのです。毎朝25分くらい瞑想をしているのですが、その中で完全に集中できるのは5分ぐらいしかもちません。

でも瞑想合宿の間は、10日間誰とも話さず、本も読まずに瞑想だけに集中するので、本当に誰でも4日目ぐらいから非日常的な意識に入って行けるのです。

それはすばらしい体験ですが、人によっては、自分が心の中に隠し持っていたものにいきなり直面して恐ろしい体験をしてしまう人もあるようです。

老真さまも、瞑想合宿で毎日11時間、じっと体の感覚に集中すると言うだけのことを10日間続ければ、合宿中は集中力と感受性が増大して、「楽天的」だと思っていた自分が全く知らなかった別の自分の心に出会うかもしれません。

日本にも、私が行っているのと同じヴィパッサナ瞑想合宿所が千葉と京都にあるそうですので、もし御興味がありましたら御連絡ください。(胡坐がかけない人は、椅子に座ってやってもいいようですヨ。)

| まりあ | 2010/12/13 1:01 AM |

通りすがりに失礼します。
この日記に紹介されたエピソードのおじいさんに懐かしさと怒りと哀れを感じます。
童話の世界を思わせるかわいらしい床屋さんはY駅近くの予備校向かいにありました。
わたしも十代のころ訪ねたことが。別の日に花を持っていった友人はおじいさんからまた必ず来てといわれ何度か訪ねるうち毒薬も見せられました。お金持ちと私も本人から聞きましたっけ。毒薬のことで友人はおじいさんに過剰な思いを抱かせたと悩みましたが、ある日外から別の女の子を楽しげにもてなす彼を見て訪問を卒業しました。
毒薬も財産話も寂しい甘えん坊老人の少女の気をひくテクであったと思います。でも罪作りですね。  

| neige | 2012/12/02 11:48 PM |

neigeさま

コメントをいただきまして、有難うございました。
予備校裏の床屋さんとは、実在の人物だったのですね。
私はまた、「青い鳥」や「ペレアスとメリザンド」のメーテルリンクが好きでベルギーに来てしまったという、夢想がちの私の友人の記憶違いか、少々脚色の入った記憶ではないかと思っておりました。
でも「青酸カリを見せた」と言う所や、「お金の話で女性週刊誌に載った」と言う所が、この童話みたいな話に生々しさと毒気を加えているなあとは思っていました。

その友人とは昨年から連絡が途絶えてしまいすぐに確認するすべがないのですが、おじいさんが他の女の子にも毒薬を見せたり、お金持ちだと言う話をしていたという事実を知っても、彼女が瞑想中に感じ、それ以来彼女が心の中に引き受けていると言う「ある気持ち」はずっと変わらないのではないかと思います。(ブログにも書いた通り、毒薬を見せられた時も、お金持ちと言われた時も、彼女は「へえ…」と思っただけだったと言うことだからです。)

以下は自分の推測ですが、彼女を叩きのめしたのは、高校生の時(死にたいと思い何度も自殺未遂のようなことをしながらも)彼女の前には生きようと思えば無限に思えるほどの輝かしい時間があったこと、一方で、当時誰にも心を開けなかった彼女の心を開き、暖かく元気づけてくれたおじいさんの方には死へと向かって行く短い時間しか残されていなかったことを体感したことであったことと思います。

まりあ

| まりあ | 2012/12/03 1:36 AM |

まりあさん、時々ページを開いていたのですが半年も更新がないので体でも壊したのではと少し心配しました。新しいコメントが入っていたので、生きていたことだけは分かった。
まりあさんのコメントを読んだ時、最近読んだ苫米地英人の「新・福音書」の中の「時間は、過去から未来へと向かって流れているのではなく、未来から現在、現在から過去へと流れている」という一節を思い出しました。苫米地は宇宙は瞬間瞬間で消滅と発生を繰り返すと言う仏教の一念三千に言及しながら、現在も過去も未来からの解釈によって決まる。未来には、過去から現在に至る自分を一瞬にして幸福の絶頂に導くような出来事が待っていると言う。
おじいさんしか友達もいない彼女の高校時代は、たとえその時彼女が孤独で悲しくて死のすれすれをさまよっていたにせよ、幸福な現在により、幸福そのものになってしまった。一方でおじいさんは、同じように孤独で悲しくても、待っているのは本物の死であって、現在の悲しみの意味を幸福に転じてくれるような輝かしい未来はない。おじいさんも、風の中で彼女の手を引きながらそれを感じていた。
そして、瞑想している彼女は、不意にその時のおじいさんになってしまった。
そんな風に思いながら、記事を読み直していました。

| フロレスタン | 2012/12/09 9:33 PM |

フロレスタンさん、

コメントありがとうございます。5月頃から大変仕事が忙しくなり、ブログを更新していませんでした。昨日久々に風邪の話を書く気になれたのは、フロレスタンさんからのコメントと、この町に初雪が降った日に、奇しくもneigeさんと言う名の読者からコメントをいただいたからでした。

フロレスタンさんの書いてくださった、苫米地さんの著書からの引用は、まさに彼女から聞いたエピソードと響き合うような気がいたします。

それにしても、フロレスタンさんのような方が、苫米地英人さんの本を読んでいらっしゃるとは思いませんでした。ずいぶん読書の幅が広いんですね。

まりあ

| まりあ | 2012/12/11 6:03 AM |

(少しむっとして)苫米地さんのこの本は、買ったわけではなくて立ち読みです。待ち合わせ場所に本屋を使うことが多いので、目についた本は、フォトリーディングで3分ぐらいで読み、待ち時間の間に5冊読むこともあります。もっとじっくり読み直したいと思った本はその場で買いますが、後で読んでも、大筋はフォトリーディングで得た情報と同じです。

忙しくて夏休みも取れなかったと誰かから聞きました。風邪の話も疲れがたまっているのでは。

| フロレスタン | 2012/12/15 8:11 PM |

フロレスタンさん、

夏休みを取れなかったのではなくて、敢えて取らなかったのです。優先順位を考えて、自分にとって夏休みより重要で、楽しくて、エキサイティングなことが仕事であったと言うことになりますでしょうか?

問題は、心がエキサイトして元気なのに体が動かなかったり、体がぴんぴんしているのに気分が沈んでいたりすることがあると言うことでしょうか。これがシンクロできれば、大分効率がいいでしょうね。

フォトリーディング、うらやましいなあ。自分も読むのは速いと思いますが、何よりうらやましいのはフロレスタンさんのように記憶の引き出しからさっと取り出せると言うこと。

| まりあ | 2012/12/20 5:57 AM |

まりあ様

大変引き込まれる文章で、どきどきして最後まで読みました。下手な小説よりも、おもしろかったです。ふと、この女学生はまりあさん自身だったのでは?と思いました。あまりに生き生きとした描写をされるので。

ここ2,3年の間に私もヴィパッサナ瞑想合宿に行こう、と何度も思ったのですが、そのたびに夫に反対されたり、タイミングが合わなかったり、参加できずにいました。だから、合宿にいった人の話を聞くと、胸がどきどきします(笑)。

この女学生が、おじいさんの気持ちになった、というあたり、よくわかる気がしました。おじいさんも、わたしも、あなたも、みんなひとつになるところに、瞑想は連れて行ってくれるんですね。だから、自分の中で準備ができていないと、その体験は恐ろしいものになるし、でも準備ができていると、きっとすばらしい体験なのだと思います。

私の予想では、瞑想合宿は、死後の世界をプレビューできる宇宙小旅行なのではないかな? それを自分自身で確かめるためにも、ぜひ近い将来参加したいなあ。

| ジンジャー | 2013/02/19 10:46 PM |

ジンジャー様

コメントいただきまして、有難うございます。

このごろつくづく思うのですが、実話には、本当に下手な小説よりもっと不思議で、怖くて、面白い話が多いのですね。というわけで、最近はお金を出して小説を買うことはほとんどなくて、人々の打ち明け話に耳を傾けたり、社会欄や三面記事を見ながら色々想像を膨らませる方が楽しいのでした。

ジンジャーさんのブログも拝見しましたよ! 10日間のヴィパッサナ瞑想合宿、是非参加されてレポートをアップしてくださいね。よかったらご主人も一緒に参加されては? (でもベバちゃんのベビーシッターが必要かな。)

瞑想の体験は、人によってずいぶん違うようなので大変興味があります。

小生も、10日間のに2回、3日間のに1回参加しましたけど、そのたびにずいぶん違う感じがしました。実は、その時の体験をまだ全部ブログに書き切れてません。(次回参加する前に、とりあえず前回の参加体験をブログに書いてからにしようかと思っているうちに、数年たっちゃいました。)

まりあ

| まりあ | 2013/02/21 6:33 AM |

なんでしょう...何となしに、心が休まりました。
調べものの最中、まま読み入ってしまいここまで、そしてコメント...ふふ
マリアさんがどんな方かも知らないのですが、なんか嬉しいです。
私も、ヴィパサナーの瞑想者ですが、おっしゃる通り深い瞑想に浸れる時間ってナゼか日常に少ないですよね、坐れば座っただけの恩恵は在るのですが、なかなかです...
それにしても、ありがとう。機会があれば、また。。

| fumi | 2013/03/03 6:55 PM |

fumiさま、お便り有難うございます。
ヴィパサナー瞑想者の方にお便りいただけるのって、本当に嬉しいのです。私の周りには全くいないものですから。

深い瞑想に浸るためには、それなりの助走期間がいるような気がして、日常生活の中では毎日瞑想するのは本当に難しいです。一人で続けるのは、特に難しいですね。

fumiさんはどうやって時間を作っていらっしゃるのですか? 私は、騒がしい夫がいて自宅で瞑想をする時間を作るのは本当に難しいです。自宅の外で、瞑想のグループを見つけられると一番いいのですが。また色々教えて下さい。お便りをお待ちしています!

まりあ

| まりあ | 2013/03/06 6:05 AM |

行ったけどさ、ってかさ、バカバカしくなって帰ったんだけどね、なんていうの?話してはいけない分、一人一人の本質、そこのセンターのそれぞれの人や組織の本質が見えてきて、バカバカしくなってやめたんだよね。で、ほとんどの人たちが寝てるって…バカバカしくなるよ。
でも、大事な事を気づけたってことが行って体験してみて意味があったと今思う。

| 通りすがり | 2014/07/27 2:57 AM |

通りすがりさま、

コメントありがとうございます。お返事がおくれて、ごめんなさい。

そうか〜、そのセンターでは、瞑想しながらほとんどの人が寝ていたの? 真面目な気持ちで何かを求めて参加したので、同じような真摯な人々に出会えることを期待してたのなら、がっかりするよね。

私は、参加した3回の瞑想合宿とも、周りの人のことはあまり目に入らなかったので、そこにいる人の本質までは見えなかったなあ。ただ、前に書いた通り、お互いに言葉を話さないだけに、人々の気のようなもの、優しい気を出している人と、荒々しい気を出している人の違いは、よりビビッドに感じることができた。

最後のメッタバーナの日(お互いに話してもいい日)に、こっそりタバコを吸っている女性がいたので、「この人は何を求めてここに来たのかな。戒を破ると、それだけ瞑想の効果も台無しになるのに」と不思議に思ったけど、それだけ。

結局、自分を救えるのは、センターの主催者でもないし、組織でもなく自分だけだと思う。

でも、大事なことを気づくことができた体験の場を提供してくれたセンターやそこで働く人々には、謙虚に感謝すべきだと思います。

瞑想、ぜひ続けてくださいね。また、瞑想を通じて考えたことを聞かせてください。

まりあ

| まりあ | 2014/08/18 5:43 AM |

たいへん興味深く読みました。

ぼくもゴエンカさんのところとブッダダーサさんのところと、二回、十日感のコースに参加したことがあります。

精神福祉に関わっていたこともあり、こうした瞑想などの危なさは感じていましたが、まりあさんのお話は実に深いお話で、また。物語として読んでも、十分心動かされる表現で、今、言葉で何を書けばよいのか、よく分からないまま書いています。

危険を「のりこえることが、たましいを生き返らさせ強くするのかもしれない」、この言葉に強く共感します。

それでは、また。

| とし兵衛 | 2016/03/31 12:32 PM |

とし兵衛さま、

お便りをいただきまして、ほんとうに有難うございます。ブッダダーサさんの瞑想にも参加されたんですね。瞑想合宿は、やはり自分一人で自宅で実践している時よりも、大きなインパクトがたぶんありますね。

私の場合、合宿で得たものはつねにポジティブなインパクトではなかったように思いますが、また是非参加したいと思っています。

とし兵衛さんのブログも読ませていただきました。これまで「無我」ということがどうしてもよくわからないと思っていたのですが(自我が強すぎるのかも 笑)、とし兵衛さんのブログのたとえがすばらしく腑に落ちましたので、勝手に引用させていただきます。

****
「無我」とは文字通り、「自分というものはない」ということです。

「そんなこといっても、自分はここにあるよ」と当然思われるでしょう。
けれども、例えばヴィパッサナーなどの方法によって、言葉を減らしていって、実際に起こっていることを、こまかく見ていくと、「自分」だと思っているものが、ただ、言葉でラベルを貼っていただけのものに過ぎず、実は存在しないことが最終的には分かるのだと、仏教では言うわけです。

分かりやすいところからいきますと、あなたが大切にしている茶碗があって、家族がそれを割ってしまったとします。
あなたはがっかりして悲しい気持ちになったり、怒りが湧いてきたりします。
「自分の茶碗が割れてしまった!!」というわけです。

けれど一体「自分の茶碗」というのは何なのでしょうか。確かにそこに「茶碗」はありました。その「茶碗」は割れてしまいました。けれど、そこにくっつく「自分の」というラベルは、あなたがそう思い込んでいるというだけのことではないでしょうか。

毎日毎日、これは「自分の」茶碗だ、と思って使っていたから、そう思い込んでいるだけのことで、ほかの家族も知っているとか、法律上はどう、ということも含めて、すべてはあなたや、家族や、世間の、思い込みにすぎないのではないでしょうか。

「自分の」という観念がなければ、ただ「茶碗」が割れただけですから、あなたは悲しみもせず、怒りもせず、「茶碗が割れたな」と認識するだけのはずなのです。

こうした見方が、あなたのすべての物の見方において徹底したとき、「自分」は消え、「執着」も「嫌悪」も消え、心の落ち着きだけが残る、というのが仏教のもともとの考え方です。

さて、ここで、脳科学の話になりますが、スーザン・ブラックモアという作家の書くところによると、「経験の統合された流れ」としての「意識」というものは錯覚にすぎない、という立場が最近では科学的なものとしてあるのだそうです。
(例えば http://s.ameblo.jp/zhiliangzhi/entry-10748554129.html 参照)

ここで「意識」といっているものを「自分」というふうに読み替えると、仏教の見方とほとんど同じに思えます。

(「魂の次元」より)

***

「意識」とは、カスタネダが言う無数にある「集合点」の一つに過ぎず、「自我」とはユングの言う「コンプレックス(感情に色づけられた複合体)」の一つと言う言い方もできると思います。でも、とし兵衛さんのご説明がとても分かりやすいように思いました。そして、何よりも(苦しんでいる)人々に向けて語りかけてくれているように思いました。

私の場合、「私の!」とか、カッとする度に何度も上記のとし兵衛さまのお言葉を読み直さねばならないでしょう。

***

瞑想と危険について、この記事を書いたのは2010年のことでしたが、最近は瞑想のように人の心がVULNERABLEになる場合だけでなく、人の心は本当にもろいと言う感じがしています。日常生活を保って行くための(とし兵衛さんのおっしゃる)「集団催眠」からさえも、何かの拍子で簡単に逸脱してしまうような感じがする日があります。

ただ残念ながら、「集団催眠」から逸脱して、覚醒に向かうのではなく、集団催眠状態から別の孤独な妄想の中に落ち込んでいき抜け出せなくなるのではないかと言う恐怖があります。

孤独な妄想よりは、集団催眠のほうがまだ安全そうですので、そっちのほうにしがみついている状態です 笑

| まりあ | 2016/04/08 5:13 AM |

まりあ様ご無沙汰しております、でもちょっと前にセミナーでお会いしましたけどあれはまりあさんでなくて職業人としてのキャリアウーマンの方でしたね。

さて、私なんて超サボって何も書いてない間にやっぱり素晴らしいポスト(FBじゃないからそういわないかな?)がありやっぱりその筆力に圧倒されてます。テロ騒ぎ以来Social networkにモスリム=テロリストみたいな記事を載せる底の浅い人が居てうんざりしてます。もっと実に様々な要因で結果的に起こっている途中のの過程だと思うんですが、これは長い長い平行論争になりそうですね。

| りつこ | 2016/04/14 3:36 AM |

りつこ様、ここでお会いするのは本当にお久しぶりですね!

セミナーに来ていただき、本当に有難うございました。セミナーの最後に鋭いご質問をしてくださったりつこさんこそ、職業人としてのキャリアウーマンでしたね。

「モスリム=テロリスト」記事にもうんざりしてますが、証券取引所前でソリダリティーの集会をする人々に殴り込みをかけた右翼(と言うか、もうやくざですねあの人たち)にも驚いています。なぜか、皆スキンヘッドでしかもデブ、うちのグリちゃんそっくりなおじさんがなんと200人も。こちらの方がモレンベークよりももっと、ベルギーの暗部だと思いましたわ。

| まりあ | 2016/04/15 7:04 AM |

まりあさん、今さっき、こちらのコメントに気がつきました。「魂の次元」、読んでいただき、引用までしていただいて恐縮です。
世界的に雲行きの怪しい時代になってきましたが、それだけに瞑想的暮らしを日頃から心がけたいものだと思っています。実際にはなかなか難しいですけれども。
それでは、また。

| とし兵衛 | 2016/09/14 4:54 PM |

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