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ヴィパッサナー瞑想 再び

当地ベルギーのゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想センターでは、10日間のヴィパッサナー瞑想合宿を主催している。最初の3日間でアーナーパーナー・サティ・スートラ(呼吸に関する気づきの経)を実習し、残りの7日間をヴィパッサナー瞑想に費やす。

この10日間コースを修了した’Old Student’は、その後繰り返し10日間コースに参加することもできるし、年3回ぐらいある3日間コース(アーナーパーナー1日+ヴィパッサナー2日)にも参加できる。自分の場合、これまで10日間合宿に2回参加し、3日間合宿に1回参加した。今年の8月も10日間合宿に参加を申し込んでいたのだが、会社の同僚が辞めてしまって超忙しくなったのと、重要案件が突発したりもして、そんな中で携帯電話もPCも持ち込むことができず(あたりまえか・・・笑)外の世界と完全に遮断された状態で10日間も過ごすことは不可能であったので、今回は参加をとりやめにした。

自分は、10日間コースを早いとこ3回修了してしまいたいと思っていた。それには以下のような理由があった。

10日間コースを3回以上修了し、かつ、在家で毎日かかさず瞑想を実践している’Serious Student'に限り、サティーパッターナ・スートラ(気づきの確立に関する経)に従い、日常生活の中であらゆる事象に気付く(サティを入れる)訓練を中心とする10日間の特別合宿に参加することができる。このような厳しい条件をクリアした者だけが、外界と自分の内面で生起する様々な事象に高速度でサティを入れるために必要な集中力と精神の鋭敏性を獲得できるということらしい。

でも、自分の場合、10日間コースを3回以上修了した後でも、毎日の瞑想の実践の方は細々と行っているだけであって、とてもではないが'Serious Student’であるとは言い難い。サティーパッターナ・スートラの合宿に参加するにふさわしい資格を自分が得られるのは、まだまだ先のことになりそうなのだ。

とりあえず、毎日の仕事・勉強・体を整えるための時間の合間に、必ず30分は瞑想の時間を作る。いまのところ、瞑想はジムの自転車をこぎながらしかやっていないが(笑)、その内、瞑想の時間を増やしていくことができる機会が自然と訪れるに違いない。そう信じている。

***

一方、自分がヴィパッサナー瞑想に強烈に惹かれていくきっかけとなった地橋秀雄「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」という本に従って、「随観(ずいかん)」つまり外界と自分の内面で生起する事象を観察する方法を、上述のゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿に参加する以前から、すこしずつ試していた。

一般に瞑想法は、一点集中型のサマタ瞑想と、現在の瞬間の事象の観察を主眼とするヴィパッサナー瞑想に大別される。当時はブッダ自身も、その弟子たちも、まずサマタ瞑想を修し、サマーディー(禅定)に達してからヴィパッサナー瞑想に移った。ただ、現代の多くの初期仏教の寺では、はじめからヴィパッサナー瞑想をまなぶ。

「今、この瞬間に自分の心と体が何を経験しているかに気付き、ありのままに観察していくのです。一切の思考や判断を差し挟まずに、見たものを『見た』、聞いたものを『聞いた』、感じたものを『感じた』と一つ一つ内語で言葉確認(ラベリング)しながら、純粋に事実だけに気付いて行く・…。この作業を『サティ(sati)』と言い、ヴィパッサナー瞑想はサティの訓練を中心に進めていきます。」(地橋秀雄「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」p.5)

ゴエンカ式の10日間合宿でのヴィパッサナー瞑想(4日目以降)でも、ほぼ同じ原理に従って、座位のまま、自分の体に生起する感覚にひとつひとつ気づいて行く。最初の3日間で、鼻の下の一点の感覚を観察できる鋭敏さと集中力を養うので、4日目以降は、頭のてっぺんからつま先まで、ピンポイント的に意識を移動させながら、それぞれの部位の感覚に「気づく」ということを、1日11時間ほど続ける。一方、地橋氏の前述書で紹介されているのは、マハーシ方式というものだそうで、座位の瞑想では呼吸に連れての腹部の動きに気づき、歩く瞑想では足の裏の感覚に気づいて行く。気づく(サティ)だけではなく、それを簡単な言葉で確認(ラベリング)するのも、ゴエンカ式とは違っている。

このように体の感覚に気づくことを「身随観」と呼ぶが、地橋氏は、自分がゴエンカ式合宿では習わなかった心の動きの観察(心随観)の方法についても解説している。

「仏教では、心が実体として永続するものとは考えていません。心とは(・・・)対象が六門(感覚器官)を通して識につながった瞬間に生まれ、次の瞬間には滅し、滅した瞬間に次の対象が識とつながって生まれるというように、刹那に生滅を繰り返すものと理解しています。『あの人は根性が真っ黒や』と言いますが、悪をする瞬間の不善心が連続して生滅しているだけであり、また時には善いことをする善心が一瞬生じて滅することもあるのです。」(地橋秀雄「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」p.77)

その前提で、自分の心を観察すると、心は固定的な実体ではなく、動きであり、炎と同じように、現象であるということがわかる。それが、自分の反応のパターン(カルマ)や縁といった、様々なパラメータの影響を受け、一定の反応の仕方をする。種類の違う金属片を近付けると、炎は様々な炎色反応をする。でもそこには実体があるわけではない。心と言うのは「もの」ではなくて「こと」なのだ。

(少し話がそれますが、前にも引用したジル・ドゥルーズの以下の言葉が、ぴったり呼応してると思いませんか。

「彼の登場人物たちは人でも主体でもなく、強い感覚の集合であり、各々がそのような可変的感覚のひとつの寄せ集め、一つの包み、一つの塊である。(・・・)それは個人そのものがフランス流に一つの人格として把握され、人格として認められているからではなく、まさにその反対に、自らをそして他の人々を、多くの『一回かぎりの偶然』−一つ一つの組み合わせが引き出されてきたような一回限りの偶然−と見るからである。主体なき個別化。そしてそれらの強い感覚の包み、それらの寄せ集め、あるいは組み合わせが、運、不運の戦場を走り抜け、その戦場で彼らの出会い、時には死や殺人にまで至る不幸な出会いがなされるのである。ハーディーはその実験的・経験論的世界に一種のギリシャ的運命を喚起する。個々人、いくつもの感覚の包みが、荒野の上を走る、逃走の線または大地の非属領化の線の如くに。」(ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ「ドゥルーズの思想」p.64)

これはまさに、お釈迦様の言葉のようである。「運、不運の戦場」とはつまり「縁」のことではないか?ハーディーは読んだことはありませんが。

さて、試してみると、判断も評価も分析も差し挟まずに、自分の心の生滅する反応に、淡々と「気づく」という方法がシンプルでありながら、自分にとって、非常にパワフルなツールであることを実感し、感激した。

自分はこれまで様々な心の問題を抱え、それを解決したい一心で、色々な心理学の本を読み漁っていた。でも、あまり実用的ではなかった。それは、自分が読んだ多くの本から、自分は、心を現象としてではなく、「私」とセットになった実体であるというモデルでとらえてきたから、余計話がややこしくなっていたのではないかと思う。自分の心の実体(例えば、フロイトのいう「潜在意識」も実体論的モデルと思うが如何)をすべて明るみに出さねば自分の問題は解決しない、そのためには専門家による分析が必要なのだ、でもお金もないし、なんてことも考えていた。。。

でも、自分と言うものはなく、たんに現象の束があるだけであり、心と言うものもなく、たんに反応の束があるだけ・・・というモデルでは、とりあえずその反応だけを観察すればすむ。分析すべき実体が背後にあるわけではないので。背後に何かあるとしたら、反応のパターンだけかもしれない。すると、うまく説明できないが、それまでは、頭の中に藪が茂っているようにぐちゃぐちゃだったのが、色々なことがずいぶんすっきりするようになった。

たとえば、会社で同僚たちといっしょにクライアントミーティングに出る。ミーティングの内容に集中しつつも、10パーセントぐらいは、自分の心の動きを観察するようにする。ミーティングが進行するにつれて、自分の心に様々な反応が生起するのを、淡々と追って行く。不安感、うらやましさ、嬉しさ、楽しさ、劣等感、心配、屈辱感・・・。でも、自分が気づいたとたん、その感情は感情としてのパワーを失って、無害になる。これに対し、それに気づかない場合、知らぬ間にその感情が繁殖していき、自分はそれに巻き込まれ、拘泥してしまうことがある。特に、ネガティブな感情は有害なパワーで自分を巻き込もうとする。それに飲み込まれると、ミーティングに集中するどころではない。だから、ミーティングをしながら、少しだけ自分の心の観察も怠らないようにしていると、却ってミーティングの内容に集中できるのだ。(これは昨日、ミーティング中に気がついた。)嘘みたいな話ですが、ほんとうです。

だから、たえず自分をどこかで観察するようにしている。特にネガティブな感情の種は生じたと同時に、サティを入れることにしている。これで、そう言う感情に自分の大切なエネルギーを奪われると言う非効率を避けることができる。そのエネルギーを、もっと楽しい、幸せな、建設的なことに使えるのだ。この方法を知ってから、ずいぶん、いろんなことが楽になった。 だまされたと思って(笑)、試してみてください。




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Comment

以下の文章 同意できます。その通りです。わたしもそうです。
感情の塊が一瞬に生起して、気づきとともに崩れ去るのを
観ることができます。

>自分の心の動きを観察するようにする。
>ミーティングが進行するにつれて、
>自分の心に様々な反応が生起するのを、淡々と追って行く。
>不安感、うらやましさ、嬉しさ、楽しさ、劣等感、心配、
>屈辱感・・・。でも、自分が気づいたとたん、
>その感情は感情としてのパワーを失って、無害になる。

感情の塊が一瞬生起して、そして崩れ去るのがみえます。


| k | 2013/06/07 4:29 AM |

Kさん、コメントありがとうございます。

私にとっては、未だに、「気づく」だけでどうして崩れ去るのか、そのメカニズムが未だにとても不思議なのです。

逆に気づかないままだと、感情はどんどんパワーを増して、自分を巻き込んで行ってしまう。更にそれが積み重なると、簡単な気づきだけでは、崩れ去らないような強固な複合体を形成していってしまう。

だから、感情が生起した時に、気づきによってまだ芽の内に摘み取って行くということが大切なのでしょう。

まりあ

| まりあ | 2013/06/07 4:13 PM |

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