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ダイビングによって瞑想の初心に立ち返りました(2)

前回の続きを早く書かなければと思っていたのですが、エジプトの革命騒ぎで中断してしまいました。

エジプトは紅海のほとりのダイバー村に、亭主のグリと10日間の予定でやってきました。

10日間、ダイビング三昧で過ごそうと意気込んでやってきたグリと自分だったが、ダイビングは1年ぶりで今一つ自信がない。夜遅く到着し浜辺のテントで一夜を明かした我々は、翌朝、さっそく他の3人のダイバーたちにくっついて海に入っていった。機材一式をしょって、浜辺からジャブジャブ海の中に歩いていき、水面が腰の辺りに来たところで、フィン(足ひれ)をつける。ところが、グリがもたもたもたもたして、なかなかフィンをつけられない。他の3人の無口なダイバーたちは辛抱強く待っていてくれる。いらいらする私。ようやくグリのフィンがついて、みなで一斉にBCD(浮力コントロールのついたチョッキ)の空気を抜き海中に下がっていくときになって、私だけどうしても体が沈まない。紅海は内海なので塩分が濃く、いつもつけているウェイトベルトでは軽すぎるのだった。

しかたなく3人のダイバーたちは私たちを残して行ってしまい、グリと私はとぼとぼと浜辺に戻ってきた。

その時、濡れて体に冷たくまつわりつくウェットスーツのせいかもしれない。まだ小学校一年の私が見た総武線の水道橋駅の汚くてじめじめしたトイレの光景が突然鮮やかに思い出された。私は学校の帰りに、急におしっこをがまんできなくなって駅のトイレに駆け込んだ。でも女子トイレのドアはどれも冷たく閉じている。ドアの一つ一つをがんがん叩いていく私。どれも開こうとはしない。絶望が私を襲ったと思ったとたんに、じょー!とおしっこが出てきてしまった。すると、真ん中のドアが突然開いて背の高いOL風の女の人が出てきた。

小学校一年の私は、何故かその時とっさに、
「まあ。まりあ、おしっこしちゃったのね。だめねえ」
と言った。

それは、今思うと、出てきた女の人に対し、「わたし」は、ここでおしっこを漏らしている小学生とは別人だと思わせようとする、むなしい試みであったのだと思う。女の人は、無表情な一瞥をこちらにくれると、そのまま出て行ってしまった。恥と惨めさと劣等意識の原体験。思えば私の小学校時代はこのような体験の連続であった。

グリもしょんぼりと沈み込んでいるところを見ると、かれも別の原体験を思い出しているのだろう。

***

気を取り直した私たち二人は、翌日、インストラクターについて初級のおさらいコースを受けることにした。インストラクターは、落ち着いたパリジェンヌのカロリーヌ。いっしょに授業を受けるのは、エジプト人の男の子メッギーで、この人はカナダでダイビング救助隊員の免許を取ったくせに、なぜか酸素ボンベとレギュレーターの装着の仕方も忘れてしまったというツワモノだ。

昨日の3人の無口なダイバーの一人がやってきて、
「どうだい」
とグリに声をかける。彼は、ドイツから一人で潜りに来ているのだ。
「うん。初級のおさらいコースをもう一度うけることにしたんだ」
グリが悪びれずに言う。
「そうか、がんばってな」
と言いながら他のダイバーと一緒に海に出て行く彼を、グリはうらやましそうに見送っている。

5メートルぐらいの海底にインストラクターと4人で潜る。水中でマスクが外れてしまったとき、マスクに水が入ってしまったとき、ボンベに酸素がなくなってしまったとき、レギュレーターが作動しないとき、BCDと酸素ボンベが脱げてしまったとき、ウェイトベルトが外れてしまったとき等々の非常事態の対処のおさらいをする。波が強くて透明度が悪く、お互いがよく見えないが、3人とも劣等生だししっかりしたインストラクターも一緒なので気楽な感じで始めた。

ところが、異変が起こったのはその後だった。水中でウェイトベルトをはずし、また装着する練習で、バランスを崩した私の体がいきなり荒波にさらわれて吹っ飛んでしまった。グリが追いかけてきて、かなり遠くの水面近くでまだウェイトベルトと格闘している私を見つけて海底まで引っぱって戻る。

つぎにBCDと酸素ボンベをはずして装着する練習で、また私の体が突然消えてしまった。グリが水面まで追いかけて行ってみると、水面に浮かんだままよじれたBCDと格闘している私が見えた。そして、ゾディアック(モーター付ゴムボート)が私の方に向かって来るのを。グリは必死で泳いできて私を捕まえると、水中に引っ張り込んだ。私のすぐ頭の上を、ゾディアックのプロペラが通り過ぎていった。

水中に私を引っぱってみなのところに戻ったグリだったが、その直後突然苦しそうな顔になった。そしてもがくように水面に上がってしまった。私も水面に上がった。後から、カロリーヌとメッギーが追いついてきた。

「どうしたの」
と言うカロリーヌに、グリは自分の酸素メーターを見せた。メーターの目盛がゼロになっていた。私を追いかけて、水面と海底をかなりなスピードで往復したために、酸素をすっかり使い果たしてしまったらしい。それを見たカロリーヌは泣き出した。
「ごめんなさい。インストラクターの私があなたのメーターをチェックすべきだったのよ。でも、インストラクター生活長いけど、生徒が酸素を使い果たしてしまうなんて事初めてだったものだから・・・」
そういって、カロリーヌはいつまでも泣いていた。

私も自分の失敗が原因でみんなに迷惑をかけてしまったことに、本当に落ち込んでしまった。エジプトの紅海のほとりで太陽を浴びながら、水道橋駅の汚いトイレにいるような気分だった。

ドイツ人の無口なダイバーがまたやってきて、
「どうだったい」
と優しく声をかける。
「インストラクターの心を、立ち直れないほど傷つけちゃったのよね」
憮然として私が答える。
「インストラクターの心を、立ち直れないほど傷つけたのか」
ドイツ人は面白そうに眉を上げる。
「グリ、話してあげてよ。一部始終を」
私がそう言っても、ぐりは下を向いて何も言わない。

***

翌日、自分たちはこりずに昨日のやり直しに挑戦することにした。

昨日の体験で水中で体のバランスを崩して波にさらわれる怖さがわかったので、カロリーヌとの待ち合わせの時間より早く砂浜に出て、グリを相手に昨日習った動作をひととおり復習した。カロリーヌや他のエジプト人のインストラクターたちもやって来て、皆でアドバイスをしてくれた。

海底に潜ると昨日より更に波が強く、透明度も悪い。体のバランスを崩すとおしまいなので、細心の注意をはらい一つ一つの動作を確認しながらゆっくり課題をこなす。

そうするうちに自分の集中力がこれまでになく研ぎ澄まされて、同時に心がしんとしていることに気づいた。そして、その状態が何かに似ていることに。この極度な集中状態が、ヴィパッサナーのサティパッターナ・スートラ、つまりサティ(気づき)による瞑想について本に書かれている状態に非常に似ているのだった。

2日目は、1日目と違って、グリも私もメッギーも3人ともすばらしい成績で効率的に課題をこなすことができた。1日目に酸素不足で窒息死しかけた体験や、モーターボートのスクリューに頭を丸刈りにされかけた恐怖の体験が、この例外的な集中力をを可能にしたのかもしれない。

翌日から3人は、気が狂ったようにダイビングに明け暮れ美しいサンゴ礁や魚の群やウミガメを見たが、いちばん感動的な体験は、この初級コースの1日目と2日目の体験だった。それは荒い海流の中で体のバランスを取りながら装置を操作する集中力を発揮できるようになったことで、なにかずしんとした自信が自分の中に生まれたという体験かもしれない。

水道橋駅の汚いトイレから一歩外に出られたような気持だった。

***

ビデオは、最近のBBCのドキュメンタリーHuman Planetより。この人のように水の中で体を垂直にして立つのは本当に難しいのです。肺に空気をためながら同時に、ウェイトベルトもつけず20メートルの海底に足をつけることができるほど、浮力をコントロールできることも信じられない。





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ダイビングによって瞑想の初心に立ち返りました(1)

 「呼吸と瞑想の日々」と言うタイトルでブログを書いている自分であるが、瞑想のために最後に座ったのはいつのことだろうか?と自問してみる。

たぶん、2008年秋にドリパールのゴエンカ式瞑想センターで3日間の瞑想合宿をしたときが最後ではないだろうか、という情けない回答にたどりつく。

上述の3日間合宿で、自分の場合本当に深い瞑想に入るには3日間の助走期間が必要だということに気付いた。つまり3日間合宿では、助走期間を経ていよいよこれからと言うときに合宿が終わってしまう。そのため自分の場合、瞑想合宿に参加するとしても10日間合宿でないとあまり意味がないことに気づいた。

とはいえ、仕事も忙しくなってきており、特にサービス業の自分の場合、休み中もPCと携帯電話を手放すのは不安になっていた。10日間も外界との連絡を遮断される10日間合宿への参加はちょっと無理だろうなあという感じである。

一方で、これまで瞑想合宿に参加しても、合宿を終えると日常生活ではほとんど瞑想をしない。短い時間でも毎日瞑想をする方が、10日間の合宿に年1回参加するだけで終わってしまうよりいいじゃないか、と気が付きました。

とりあえず、2008年の3日間合宿で同室になった妖精のおばさんに倣って、1日20分から始めることにした。ただ、この1日20分を確保するのが大変に難しい。

ます、狭いアパートの南西の窓際に置いたソファを自分の瞑想場所と決める。このソファは、なぜか亭主のグリはほとんど座らず、わたしも意識しないと座らない特別な場所なのだ。瞑想の場所にぴったりだ。亭主のグリに、
「私は、これから毎日20分間、ここで瞑想するからね」
と言ってみる。
「うん。わかった」
とグリは意外と素直に応じてくれた。
「瞑想するって事は、その間、音を立てたり話しかけたりしてはいけないってことなのよ」
「うん」
「テレビもラジオつけちゃだめなのよ」
「うん」
「20分間よ」
「うん」
「新聞に面白い記事があって、私に話しかけたくなってもよ」
「わかってるよお」

合意が得られたので早速始めることにした。5分ぐらい経ったとき、グリが私のそでをつんつんと引っ張る。
「ねえ、なにやってるの?」
無視していると、
「ねえ、ねえ。なにやってるんだよ?」
「瞑想」
その途端、
「ゴ〜〜〜ン」
と言う厳かなグリの声が響いた。グリは、瞑想には銅鑼の音が必要と思ったらしい。私は狭いアパートでこれ以上瞑想をすることはあきらめることにした。

そこで、2009年秋から、ほぼ毎朝通うジムで30分間の自転車こぎをする間、目を閉じて体の各部分に意識を移動させていくゴエンカ式瞑想をすることにした。ジムであるから、チアフルなバックグラウンドミュージックが流れており、ちょっと通常の瞑想のをできる環境ではないのだが、とりあえず目的は果たせる。隣で新聞を読みながら自転車をこいでいるグリにも瞑想を妨げられることはほとんどない。これは当初はなかなか功を奏したのか、2009年秋から年末まで意志薄弱な自分としては結構すごい気力と集中力を出せた

***

ただ、人は(というよりも、私は)どこまでも自分を甘やかすようにできているのだろう。毎日の習慣のジムのトレーニングも瞑想も、無意識的に自分が楽できる方法を見つけるようになっていたらしい。それに気づいたのは、この年末年始の紅海のダイビングでの痛〜い経験のお陰であった。

ジムの自転車と筋トレとストレッチであるていど体力がついていると思っていたのだが、一年ぶりにダイビングをした翌朝は肩から背中にかけて筋肉痛でばりばりであった。酸素タンクの重さは20キロちょっとで、ジムの筋トレで持ち上げている重量より軽いはずなのだが、水の外では何故か50キロぐらいの感じで腰と背中にずんと来る。日頃の鍛え方が甘かったことを思い知った。

それと同じように、2日目の12月28日と3日目の29日に指導員と一緒に水中10メートルで、非常時のテクニックについておさらいをしている時、

「本当の瞑想の集中とは、こうあるべきなんだ。これまで私が毎朝自転車をこぎながらしていた瞑想の集中は偽物だった」

と気づく体験をした。

このように気づくことができたのは、生命の危険にさらされたからだった。逆に言うと、楽観的な私は生命の危険にさらされないと、本当の集中力を発揮できないと言うことがわかった(笑)。

つづく

***

ビデオはダイビング村から見る砂漠の日没。砂漠と海のように、厳しく、優しい年末年始でした。




 
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瞑想には危険もあるかもしれない

瞑想には危険もあるかもしれない。瞑想合宿に何度か参加するうちにそう思うようになった。10日間のヴィパッサナ瞑想合宿の5日目ぐらいで、突然、悲しみの発作に陥り途中退場する女性を見たことがある。合宿途上で宿舎の窓から飛び降りてしまった男性もいる。10日間の合宿の間に、100人の内かならず10人ぐらいはそれ以上瞑想を続けることに耐えられず、脱落者が出る。理由は様々だが、毎日11時間の瞑想を続けることで知らず知らずの内に心の深い部分まで下降していくので、生半可な気持ちで始めると怖い目に会うかもしれない。

***

以下は、ヴィパッサナ瞑想を通じて知り合ったある日本人女性から聞いた話だ。「瞑想には危険もあるかもしれない」と私が本当に思ったのは、彼女が合宿中に遭遇した体験について私に語った時だった。少々前置きが長くなるが、彼女の話はこんな風に始まる。

彼女は、東京の私立の女子高校に通っていたが、友達を作ることができずひとりで本ばかり読んで、クラッシック音楽ばかりを聴いていた。3年間の高校生活で、ほとんど学友たちとまともに話すことができず、人の目を見ることができなかった。

そんな彼女に始めて友達と言える人ができた。しかもそれは、男性だった。

彼女は、毎週水曜日の晩、学校の帰りに予備校でドイツ語の授業を受けていた。そのクラスには彼女と同じ高校生はほとんどいず、かなりの数の大学生がいた。

ある初秋の水曜日の晩、授業が終わって国鉄の駅に向かって歩き始めた彼女に追いついてきた男の人がいた。

「きみ、今の授業に出てたよね」

とはなしかけてくる。眼鏡をかけた大学生だった。彼女は当たり障りのない受け答えをして、自分の電車の来るプラットホームに上る階段まできてようやく気詰まりな会話から開放された。

その次の水曜日の晩、授業が終わった後、またその大学生に話しかけられるのがなんとなくいやで、彼女は別の出口から予備校の外に出た。その出口から出ると、駅にはかなり遠回りになる。でも仕方がなかった。

予備校の出口の前に、おかしな家があった。それは、傾きかけた古い木造の小さな平屋だった。草庵といってもよい。ぼさぼさの植木鉢の向こうの硝子の開き戸からは、小さな部屋の中が見える。なぜか石膏像が置いてある。そして、チェロとヴァイオリンが。

変な家だなあ。何だか、宮沢賢治の童話みたい。と思いながら、彼女が小さな家の中を覗き込んでいると、中から、真っ白なおじいさんの姿が、にこにこ笑いながら手招きしている。

おじいさんは、中華料理のコックさんが被るような真っ白い帽子と白衣を着て、髪も真っ白、顔もまるで洗いざらしにされた白骨のように真っ白だった。

気の弱い彼女はおじいさんの手招きを無視するわけにもいかず、またちょっと好奇心にも駆られながら、背をかがめて草庵の中にはいった。正面には大きな錆びた鏡があり、その前に大変古びた椅子。そこは、おじいさんの経営する床屋さんだったのだ。

その時、どんな会話をしたのかを彼女は思い出すことはできない。でもおじいさんは、長年培った床屋さんと言う職業のプロフェッショナリズムというものだろう。暖かく包み込むような雰囲気があり、また、90歳と言う高齢なのに大変な聞き上手だったのだと思う。これまで人とまともに口を聞けなかった彼女も少しずつ話をすることができるような気がした。

その日を境にして、毎週水曜日の晩、彼女は予備校の授業に戻ることはなく、学校が終わるとそのままおじいさんの草庵に直行した。

彼女が来ると、おじいさんは、小さなでこぼこのお鍋でサツマイモを煮てふるまってくれた。おじいさんから渡された割り箸は、おじいさんがその前にお魚を食べたらしき匂いがまだ残っていて、ちょっと「こまったな」と思ったが、水で煮ただけのサツマイモは甘く、とても美味しかった。

おじいさんは、
「京大の○×先生からいただいたものです」
と言って、立派な装丁の「平家物語」を見せてくれた。そして彼女に、
「平家物語の○×章がとても良いのです」
と言って、『音楽天にきこゆ』と言うくだりを含む章を教えてくれた。
彼女は、すごく美しいと思った。そして、おじいさんにその部分を朗読して聞かせた。

彼女は、高校のクラスで習った「平家物語」のなかでも自分が特に好きな、「那須与一」の部分も綺麗な声で朗読してあげた。

「与一 鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、誤たず扇の要ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上りける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。」

それからと言うもの彼女がおじいさんを訪れる水曜日の晩ごとに、おじいさんは、
「あの『音楽天にきこゆ』の章を読んで頂けませんか」
「那須与一を読んで頂けませんか」
とせがむようになった。

彼女はおじいさんが演奏するチェロとヴァイオリンに耳を傾け、自分も恐る恐るチェロとヴァイオリンを試してみた。彼女は、ちょっとした指の使い方で音が狂ってしまうセンシティブなヴァイオリンよりも、おおらかなチェロの方が好きだな思った。

こうして水曜日の晩ごとに彼女はおじいさんを訪れた。秋が過ぎ冬が来た。12月の初めての水曜日、彼女は風邪を引いて学校を休み、おじいさんの家にも行けなかった。その翌週の水曜日、いつものようにおじいさんを訪れると、おじいさんは、

「もうあなたが来ないのかもと思いました」

と言って、彼女を驚かせた。

「風邪を引いただけだったのです」

と言う彼女に、おじいさんは、家の奥から古い茶色の革のブリーフケースを出してきて、たくさんの書類の奥から、長さ1.5センチ、直径5ミリぐらいの小瓶をとりだし、

「もうあなたがこないかもしれないと思って、これを飲んで死んでやろうかと思いました」

と言って見せた。小瓶には小さな塩の塊のようなものが入っていた。

「これは戦争が終わる前、『鬼畜米英が来たらこれを飲んで死ぬように』と言われて女たちに配られたものなのです。戦争が終わったので、ある女が私にくれたのです。ふたを開けると酸化してただの塩の塊になってしまうのですが、しっかり栓がしてあるので大丈夫です。これを飲めば5人は楽に死ねるのですって」

彼女はおじいさんがふとした勢いでそれを飲んで死んでしまうかもしれないこと。また、おじいさんが自分にふるまうお茶の中にそれを入れてしまうかもしれないことについては特に何の感慨もなかった。それほど当時の彼女は、彼女自身、死というものに近い場所にいたのだ。

***

冬が終わり春が近づいていた。

ある女性週刊誌に、「90歳のおじいさんが、10億円の資産の相続人をさがしている!」というセンセーショナルな題で、おじいさんのことが掲載された。

聞くとおじいさんは、確かに床屋さんをしながら少しずつためたお金で国債や公社債を買って資産があるようだが、ちゃんと娘さんたちもいて相続人を探しているわけではない。週刊誌ってずいぶんいい加減なことを書くもんだなと思い、彼女は驚いていた。

「それからというもの、こんな手紙をたくさんもらいました」

と、おじいさんはにこにこしながら少し困ったように手紙の束を見せてくれた。それは、どれも女性からの手紙で、自分の窮状をうったえたり、週刊誌に掲載されたおじいさんの写真を見て「優しそうな方だと思いました」と言うような事を書いていた。要は自分と結婚してほしいという主旨の手紙だった。会ったこともない人にこんな手紙を書くなんて、世の中にはずいぶんかわいそうな人がいるもんだなと言うのが彼女の感想だった。

ある日、彼女が学校帰りにおじいさんの家に来て話をしていると、お客さんが来た。その人は、読売新聞の記者さんだと言う40歳ぐらいの人だった。その人はおじいさんの友達で、時々遊びにくると言うことだった。おじいさんが彼女のことを紹介すると、その人は、セーラー服を着た彼女を上から下まで眺めて、哀れみと軽蔑と若干の好奇心が混じった目をした。

「あなたを上野の精養軒に連れていきたいんです」

とおじいさんは彼女に言っていた。そして、ある日、おじいさんと彼女は初のデートをした。まだ春も浅い日で、ぼうぼう風が吹いており、おじいさんはインバネスというのだろうか、彼女が始めてみるような古臭いマントを翻して彼女の手を引いて上野の精養軒に向かった。

床屋さんをかねた草庵の外で見るおじいさんは、とてもとても小柄で、上野駅の雑踏の中で消え入るようだった。ただでさえ人ごみ恐怖症の彼女は、とても心細く感じた。彼女は上野の精養軒で何をいただいたか憶えていない。おじいさんと何を話したかも憶えていない。

それが、彼女がおじいさんと会ったほとんど最後の日となった。

***

春が来た。大学に入ると、彼女の人生がまるで花が開いたようになった。彼女のいた女子高校では誰も彼女の言葉に耳を傾けてくれる人がいなかったのが、大学に入ってから突然彼女に興味を持ってくれる人が少なからずいるようになった。

これまで彼女が自分の欠点だったと思っていた内気さまで好意を持って認めてくれる人がいると言うことがわかった。そして、彼女に興味を持ってくれた3人の男友の一人が彼女のボーイフレンドになった。

彼女がボーイフレンドにおじいさんとの交流のことを打ち明け、「しばらく会いに行っていないのが気になる」と言うと、彼は、「君は子供だなあ。そうやって人を傷つけているんだよ。おじいさんに会いに行こう」と言った。

彼女はボーイフレンドと一緒におじいさんの草庵を訪ねた。おじいさんは、以前の通り感じがよかった。淡々とボーイフレンドの髪を刈ってくれた。でも、別の訪問者をもてなしており、あまり話すことができなかった。おじいさんの彼女に対する様子は、髪を伸ばして、少し薄化粧もした彼女を、あの水曜日の夜長ごとに平家物語を一緒に読んですごした女子高生とは別の人と思っている様子があった。それが、彼女とおじいさんの最後の日となった。

***

その後、大学を卒業すると彼女はヨーロッパに渡り、長い年月が過ぎた。あるとき、彼女は人生に絶望し本当に死んでしまいたいと思った。でも苦しみながら死ぬ勇気はなかった。その時ふと、「楽に死ねるんですって」というおじいさんの言葉を思い出して、あの薬をおじいさんからもらうことを考えた。そのために日本に帰ってきたが、何故かタイミングが合わずおじいさんを訪ねることはなく、彼女は生きながらえることになった。

***

おじいさんと最後に会ってから30年が過ぎようとしていた。あのとき死ななかったお陰で、彼女は本当に幸せな日々を送っていた。信頼できる夫と愛する仕事、深く充実した日々だった。おじいさんとの短い交流も、他の様々な人生の経験と感動の内で、彼女の半生を豊かにしてくれた心温まるエピソードのひとつになっていた。

そんなとき、彼女はヴィパッサナ瞑想の合宿に参加した。2回目の合宿の半ばで、彼女は突然おじいさんのことを思い出した。おもいだしたのはもちろんそれが初めてではない。でも、それはいつもあくまで自分の立場から感謝と共におじいさんのことを思い出したという経験だった。でも合宿の半ばで彼女が得たのはそれとは異質の体験だった。その時彼女は、自分ではなく、突然おじいさんになってしまったのだ。

瞑想の途中で、突然彼女はおじいさんになってしまった。彼女が風邪のため1週間おじいさんを訪問しなかったときのおじいさんの気持ちを、春の嵐の中を精養軒に向かって手を引いていったおじいさんの気持ちを、そして、彼女が初めてのボーイフレンドを連れて行ったときのおじいさんの気持ちを感じたのだ。

その感覚は彼女を打ちのめした。その後、合宿の数日間、8月の半ばと言うのに、彼女は自分の体がまるで死体のように冷たくなったと感じた。合宿の間は、早朝6時と昼の12時に食事が用意されているのだが、何も食べる気がせず、ひたすら瞑想を続けていた。自分が死んでしまったようだった。

瞑想の8日目ぐらいから、体温が戻ってきて人心地がついてきた。食べ物も食べられるようになってきた。彼女はどうも危機を脱したようなのだ。でもこれが何を意味するのか、彼女には説明できないでいる。この間彼女に何が起こったのかについての解釈は、
「おじいさんが彼女の中に入って悲しんでいた」
のでも、
「彼女自身のおじいさんに対する隠れた罪悪感が浮上した」
のでもどちらでもよい。(どちらでも同じようなものだ。)

どちらにしても肝心なのは、霊魂にしても、罪悪感にしても人を殺してしまう場合があると言うことだ。瞑想は、日常の意識をいったん封鎖し人を空っぽにするので、霊魂なり罪悪感なりが一気に力を増して、その人を占領してしまうことがあるのだ。それはとても危険なことだ。

でも、それをのりこえることが、たましいを生き返らさせ強くするのかもしれない。

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師走の候

村上春樹さんの「走ること」についての文章に共感を覚える。
 
「僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然にフィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけば良いのか、どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか、どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする」


 「同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的をもって、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ」

(村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」)


****


子供の頃から足があまり早くなかった自分は、どうも走ることにアレルギーがあるらしい。今年の秋から行きつけのジムのプールが使えなくなってからと言うもの、毎朝会社に行く前に泳ぐ代わりに走ろうかとも考えた。でも、残念なことになぜか今ひとつ抵抗があった。それで、仕方なくジムの自転車を毎日30分こぐことにした。ジムの自転車をこぎながら、同時に、初期仏教のヴィパッサナー瞑想をする。始めはなかなか集中できなかったが、3か月毎朝続けているうちに、こぎ始めるとすぐに集中できるようになってきた。自転車に乗るとすぐ目を閉じて、両掌を上に向けている東洋人の姿はかなり変だと思うが、ぜんぜん気にしまへん。


自転車を30分こぐのは、結構汗だくにはなるが、長距離ランニングに比べるとかなりヤワな運動だ。村上さんの言う「どこまで自分を厳しく追い込んでいけば良いのか、どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?」と言うような葛藤が生まれるはるか前に、30分が過ぎてしまう。だから、村上さんの言う走ることとはちょっと意味が違うかもしれない。でも、自転車と瞑想を毎朝続けると言うことが、自分の生活にリズムと集中力と粘り強さを与えてくれるように思える。

もうひとつ言えるのは、毎朝の自転車こぎ+瞑想を始めてからの3ヶ月間は、余計な物がそぎ落とされて、本当に重要と思われることだけに集中できたということだった。何故か、重要なこととそうでもないこととがすっきりと区別できるようになってきたのでした。そんな感じで、重要と思われる1つか2つのことだけにひたすら注力して、仕事上の義務は果たすにしても、それ以外のことはあえて全部後回しにして、人々からのお誘いも極力断り、ショッピングもせず、好きな小説もビジネス書も読まず、ブログ書きも最低限に抑え、母親が送ってくれたオーラの泉のDVDも見ず、しかし適度に亭主のグリの世話は焼きながら、ひたすら鼻先にぶら下げたニンジンを追いかける馬のように走り続けた今年の後半だった。こう書くと、なんとも殺伐とした人生を送っているようで心配されるむきもあるかも知れませんが、本人は三昧の境地にいると言うか、とても幸せで充実した気分なのであった。

今の自分にとって一番幸せと感ぜられるのはどういうときかと言うと、自分の体を完全にコントロールできていると感ずることができる時だ。15年前ぐらいまでの自分は、迷える子羊と言いましょうか、魂が闇の中をさまよっている状態と言いましょうか、月並みな表現ではあるが自分の体の中に色々な人々がすみついて好き勝手なことをしているような状態であった。それが、余計な者が脱落していったのか、すっきりとしていった。今年の後半は、ヴィパッサナー瞑想のおかげか特にすっきりとした気分になれた。それは色々な方向に向かって乱反射していた意識が、ひとつにしゅっと収束して一つだけの目標をスポットライトのように照らし出す、そんな感じでした。

****

自分の場合、師走に今年の自分を振り返ってみて、去年の自分よりも何か一つ優れたことがないととても落ち込んでしまう。だから、ここ15年ぐらいは年末に「1年の総括」ということをやって、「去年までできなかったけど今年できるようになったこと」のリストを作ることにしている。

私はこれを自分の「進歩の強迫観念」と呼んでいます(笑)。人はアングロサクソンの啓発書の読みすぎだとか悪口を言いますが、でもその方が人間の自然な心情として楽しくない?進歩と言う言葉が嫌なら、変化でもいい。とにかく、来年は今年と違うことをやってみたいな、と思います。

最後に付け加えるならば、自分にとって一番の幸せを感じるのは、自分が走り続けていると言う感覚を保てる時だろうか。全力疾走して疲れたら、速度を落とす。速度を落としてもとりあえず前に進む。移動しながら休息する。






JUGEMテーマ:夢・目標










 

ヴィパッサナー瞑想 再び

当地ベルギーのゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想センターでは、10日間のヴィパッサナー瞑想合宿を主催している。最初の3日間でアーナーパーナー・サティ・スートラ(呼吸に関する気づきの経)を実習し、残りの7日間をヴィパッサナー瞑想に費やす。

この10日間コースを修了した’Old Student’は、その後繰り返し10日間コースに参加することもできるし、年3回ぐらいある3日間コース(アーナーパーナー1日+ヴィパッサナー2日)にも参加できる。自分の場合、これまで10日間合宿に2回参加し、3日間合宿に1回参加した。今年の8月も10日間合宿に参加を申し込んでいたのだが、会社の同僚が辞めてしまって超忙しくなったのと、重要案件が突発したりもして、そんな中で携帯電話もPCも持ち込むことができず(あたりまえか・・・笑)外の世界と完全に遮断された状態で10日間も過ごすことは不可能であったので、今回は参加をとりやめにした。

自分は、10日間コースを早いとこ3回修了してしまいたいと思っていた。それには以下のような理由があった。

10日間コースを3回以上修了し、かつ、在家で毎日かかさず瞑想を実践している’Serious Student'に限り、サティーパッターナ・スートラ(気づきの確立に関する経)に従い、日常生活の中であらゆる事象に気付く(サティを入れる)訓練を中心とする10日間の特別合宿に参加することができる。このような厳しい条件をクリアした者だけが、外界と自分の内面で生起する様々な事象に高速度でサティを入れるために必要な集中力と精神の鋭敏性を獲得できるということらしい。

でも、自分の場合、10日間コースを3回以上修了した後でも、毎日の瞑想の実践の方は細々と行っているだけであって、とてもではないが'Serious Student’であるとは言い難い。サティーパッターナ・スートラの合宿に参加するにふさわしい資格を自分が得られるのは、まだまだ先のことになりそうなのだ。

とりあえず、毎日の仕事・勉強・体を整えるための時間の合間に、必ず30分は瞑想の時間を作る。いまのところ、瞑想はジムの自転車をこぎながらしかやっていないが(笑)、その内、瞑想の時間を増やしていくことができる機会が自然と訪れるに違いない。そう信じている。

***

一方、自分がヴィパッサナー瞑想に強烈に惹かれていくきっかけとなった地橋秀雄「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」という本に従って、「随観(ずいかん)」つまり外界と自分の内面で生起する事象を観察する方法を、上述のゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿に参加する以前から、すこしずつ試していた。

一般に瞑想法は、一点集中型のサマタ瞑想と、現在の瞬間の事象の観察を主眼とするヴィパッサナー瞑想に大別される。当時はブッダ自身も、その弟子たちも、まずサマタ瞑想を修し、サマーディー(禅定)に達してからヴィパッサナー瞑想に移った。ただ、現代の多くの初期仏教の寺では、はじめからヴィパッサナー瞑想をまなぶ。

「今、この瞬間に自分の心と体が何を経験しているかに気付き、ありのままに観察していくのです。一切の思考や判断を差し挟まずに、見たものを『見た』、聞いたものを『聞いた』、感じたものを『感じた』と一つ一つ内語で言葉確認(ラベリング)しながら、純粋に事実だけに気付いて行く・…。この作業を『サティ(sati)』と言い、ヴィパッサナー瞑想はサティの訓練を中心に進めていきます。」(地橋秀雄「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」p.5)

ゴエンカ式の10日間合宿でのヴィパッサナー瞑想(4日目以降)でも、ほぼ同じ原理に従って、座位のまま、自分の体に生起する感覚にひとつひとつ気づいて行く。最初の3日間で、鼻の下の一点の感覚を観察できる鋭敏さと集中力を養うので、4日目以降は、頭のてっぺんからつま先まで、ピンポイント的に意識を移動させながら、それぞれの部位の感覚に「気づく」ということを、1日11時間ほど続ける。一方、地橋氏の前述書で紹介されているのは、マハーシ方式というものだそうで、座位の瞑想では呼吸に連れての腹部の動きに気づき、歩く瞑想では足の裏の感覚に気づいて行く。気づく(サティ)だけではなく、それを簡単な言葉で確認(ラベリング)するのも、ゴエンカ式とは違っている。

このように体の感覚に気づくことを「身随観」と呼ぶが、地橋氏は、自分がゴエンカ式合宿では習わなかった心の動きの観察(心随観)の方法についても解説している。

「仏教では、心が実体として永続するものとは考えていません。心とは(・・・)対象が六門(感覚器官)を通して識につながった瞬間に生まれ、次の瞬間には滅し、滅した瞬間に次の対象が識とつながって生まれるというように、刹那に生滅を繰り返すものと理解しています。『あの人は根性が真っ黒や』と言いますが、悪をする瞬間の不善心が連続して生滅しているだけであり、また時には善いことをする善心が一瞬生じて滅することもあるのです。」(地橋秀雄「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」p.77)

その前提で、自分の心を観察すると、心は固定的な実体ではなく、動きであり、炎と同じように、現象であるということがわかる。それが、自分の反応のパターン(カルマ)や縁といった、様々なパラメータの影響を受け、一定の反応の仕方をする。種類の違う金属片を近付けると、炎は様々な炎色反応をする。でもそこには実体があるわけではない。心と言うのは「もの」ではなくて「こと」なのだ。

(少し話がそれますが、前にも引用したジル・ドゥルーズの以下の言葉が、ぴったり呼応してると思いませんか。

「彼の登場人物たちは人でも主体でもなく、強い感覚の集合であり、各々がそのような可変的感覚のひとつの寄せ集め、一つの包み、一つの塊である。(・・・)それは個人そのものがフランス流に一つの人格として把握され、人格として認められているからではなく、まさにその反対に、自らをそして他の人々を、多くの『一回かぎりの偶然』−一つ一つの組み合わせが引き出されてきたような一回限りの偶然−と見るからである。主体なき個別化。そしてそれらの強い感覚の包み、それらの寄せ集め、あるいは組み合わせが、運、不運の戦場を走り抜け、その戦場で彼らの出会い、時には死や殺人にまで至る不幸な出会いがなされるのである。ハーディーはその実験的・経験論的世界に一種のギリシャ的運命を喚起する。個々人、いくつもの感覚の包みが、荒野の上を走る、逃走の線または大地の非属領化の線の如くに。」(ジル・ドゥルーズ、クレール・パルネ「ドゥルーズの思想」p.64)

これはまさに、お釈迦様の言葉のようである。「運、不運の戦場」とはつまり「縁」のことではないか?ハーディーは読んだことはありませんが。

さて、試してみると、判断も評価も分析も差し挟まずに、自分の心の生滅する反応に、淡々と「気づく」という方法がシンプルでありながら、自分にとって、非常にパワフルなツールであることを実感し、感激した。

自分はこれまで様々な心の問題を抱え、それを解決したい一心で、色々な心理学の本を読み漁っていた。でも、あまり実用的ではなかった。それは、自分が読んだ多くの本から、自分は、心を現象としてではなく、「私」とセットになった実体であるというモデルでとらえてきたから、余計話がややこしくなっていたのではないかと思う。自分の心の実体(例えば、フロイトのいう「潜在意識」も実体論的モデルと思うが如何)をすべて明るみに出さねば自分の問題は解決しない、そのためには専門家による分析が必要なのだ、でもお金もないし、なんてことも考えていた。。。

でも、自分と言うものはなく、たんに現象の束があるだけであり、心と言うものもなく、たんに反応の束があるだけ・・・というモデルでは、とりあえずその反応だけを観察すればすむ。分析すべき実体が背後にあるわけではないので。背後に何かあるとしたら、反応のパターンだけかもしれない。すると、うまく説明できないが、それまでは、頭の中に藪が茂っているようにぐちゃぐちゃだったのが、色々なことがずいぶんすっきりするようになった。

たとえば、会社で同僚たちといっしょにクライアントミーティングに出る。ミーティングの内容に集中しつつも、10パーセントぐらいは、自分の心の動きを観察するようにする。ミーティングが進行するにつれて、自分の心に様々な反応が生起するのを、淡々と追って行く。不安感、うらやましさ、嬉しさ、楽しさ、劣等感、心配、屈辱感・・・。でも、自分が気づいたとたん、その感情は感情としてのパワーを失って、無害になる。これに対し、それに気づかない場合、知らぬ間にその感情が繁殖していき、自分はそれに巻き込まれ、拘泥してしまうことがある。特に、ネガティブな感情は有害なパワーで自分を巻き込もうとする。それに飲み込まれると、ミーティングに集中するどころではない。だから、ミーティングをしながら、少しだけ自分の心の観察も怠らないようにしていると、却ってミーティングの内容に集中できるのだ。(これは昨日、ミーティング中に気がついた。)嘘みたいな話ですが、ほんとうです。

だから、たえず自分をどこかで観察するようにしている。特にネガティブな感情の種は生じたと同時に、サティを入れることにしている。これで、そう言う感情に自分の大切なエネルギーを奪われると言う非効率を避けることができる。そのエネルギーを、もっと楽しい、幸せな、建設的なことに使えるのだ。この方法を知ってから、ずいぶん、いろんなことが楽になった。 だまされたと思って(笑)、試してみてください。




JUGEMテーマ:スピリチュアル 

人間万事神様のプレゼント

この夏は、自分にとって青天の霹靂のような出来事があった。

でも今になって思い起こすと、いつかこういうこともあるのではないかと言う漠然とした恐れは常にあった。こんな完璧な幸せがいつまでも続くはずがない、という気持ち。いつかは終わりになるだろう、でも、神様、終わりにしないでください。いつまでもこの幸せが続くようにしてください。そう祈りながらも、どこかで心の準備をしているようなところがあった。

青天の霹靂と言うのは、毎朝会社に行く前に早朝水泳をしていたスイミングプールが9月から使えなくなったことだ。カクッとなった方、ごめんなさい(笑)。自分は、ホテルに間借りしているフィットネス・ジムのメンバーだが、メンバーはホテルのプールも使えることになっていた。ところが、ホテルとジムが仲たがいをし、ジムのメンバーは9月からプールが使えなくなると言うのだった。

さて、低血圧・貧血・鬱病・不定愁訴・四十肩・慢性疲労症の自分が、毎朝定時に出勤するのもやっとこさであったのに、亭主のグリに1時間半も早くたたき起こされて、毎朝スイミングプールに引きずって行かれるようになったのは2003年のことであった。

その後も癌の治療で6ヶ月ぐらい休んだ他はずっと通い続けることができ、朝起きるのもだんだん苦痛でなくなってきたのは、普段はいつも機嫌のいいグリが、朝は悪鬼のように私の枕をけっとばして怒鳴りまくり、有無を言わせずスイミングプールに連れて行くためばかりではなく、泳ぐことの気持ち良さ、水に触れることの気持ち良さをしぜんに自分の体が覚えてきたからだと思う。

泳ぎの好きな人は良くわかると思うが、自分の場合、20分から30分ぐらい泳ぐと、浄化されると言うのか、ネガティブな感情がすっきりと抜けてしまう。泳ぎ始めて10分も経つと、脳波がアルファー波になるのか、エンドルフィンが分泌されるのか、セロトニンが分泌されるのかは知らないが、幸福感に包まれる。そして、泳ぎながら神様有難うございますと言いたくなるのだった。

「神様有難うございます」と言うのにはそれなりの理由がある。まず自宅から会社への通勤路の途中に、手頃な値段でこんな綺麗でひと気のないプールがあることが有難い。それに加え7時過ぎに家を出てジムとプールで1時間半過ごし会社に向かうと、交通渋滞が不思議とうまく回避できるのだった。家の周りの交通渋滞と会社の周りの交通渋滞の時間帯がずれるのを、ちょうど上手に縫って行くような感じになり、自宅から会社へ直行する場合の半分ぐらいの時間で行ける。それも有難いことであった。神様のプレゼントとしか思えない。

そうするうちにだんだん元気が出てきたのか、水泳の前に、プールがあるホテルの上階に間借りしているジムで簡単な運動をするようになってきた。始めはヨガの太陽礼拝をやっていたが、最近は、ストレッチ、自力整体、筋トレとだんだんメニューが増えてきていた。もちろんへとへとになるまではやらない。貧血気味の自分が目を覚ますための軽い準備体操と言う感じだ。その後で20分ぐらいさっと泳いで会社に向かう。以前は会社へ行くときは半分寝ぼけ眼で、同僚たちにおはよう!と元気よく言われてあわてて目を覚ますような感じであったが、ここ数年は、「やあ、やあ、やあ!」と言う感じのハイトーンでみんなに笑顔を振りまきながら出社し(笑)、ダッシュで仕事を開始できるようになったと思う。

その水泳が突然できないことになり途方に暮れてしまったが、しかたなく、その代わりに毎朝20−30分ジムの自転車こぎを始めた。ところが、これがなかなかいい。汗をどっとかくし、水泳よりももっと気力が盛り上がる。でも何が一番いいかと言うと、自転車こぎをしながら瞑想ができることだ。忙しさにかまけて、最近は、毎日30分の瞑想の時間を取る心の余裕もない自分であったが、自転車をこいでいる間はきっかり30分、初期仏教のアーナーパーナーサティ(呼吸の気づきによる瞑想)ができる。瞑想中は目をつぶる必要があるので、泳ぎながらするのはかなり難しかったし、外で本物の自転車をこぎながらするのは不可能だ。

このたびのプールとの決別は、何のかんの言い訳をしながら瞑想をさぼっていた自分が瞑想を続けられるように、と言う神様の有難いおぼしめしに違いない。これもまた神様のプレゼントなのだ。と都合よく解釈することにした。

JUGEMテーマ:健康

ワイス博士の過去生退行瞑想

退行催眠を進めていくと、前世の記憶までさかのぼることができたという証言が報告されている。「心を癒す ワイス博士の過去生退行瞑想 [CD]」と言う本では、付録のCDでワイス博士の誘導に従って瞑想をしていくうちに、前世の記憶をよみがえらせることができると言う。

自分は、2007年からゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想を細々ながら続けている。ゴエンカ氏は、この瞑想を深めたい人は、他の色々な瞑想法には手を出さない方が良いと言っている。そこで、自分も「ゴエンカ式一筋で10年ぐらい頑張ろう!」と決意した矢先に、自分のブログに張ってあるAmazonのバナー広告で「過去生退行」と言う言葉を見つけ、つい誘惑に負けて買ってしまいました。こういうのに、弱いんですよね。だって、3千円ちょっとの本を買って、自分の過去生が分かったら楽しいじゃない(涙)。
 
それでも気がとがめたのか、自分がやる前に、まずはスピリチュアル・フレンドのあけみさんに試してもらった。スピリチュアル度が高く、アーティストでもあるあけみさんは、あっという間に過去生の記憶の片鱗を取り戻し、前世で子供と生き別れになると言う身を引き裂かれるよな体験を思い出してしまった。

さっそく自分も、その晩ぐりが向いのパブに出かけたのを見計らって、部屋の明かりを消して瞑想を始める。ディスクマンのイヤフォーンを通じて聞こえるワイス博士の声は思いがけなく若々しく、さわやかで、軽やかで、聞いていて気持ちが良い。

付録のCDのワイス博士の録音の後に吹き込まれている、山川亜希子さんの日本語の誘導(内容はワイス博士の誘導をそのまま日本語に訳したもの)も、まるでプロのヒプロテラピストのように、びっくりするほど上手なのだが日本語の訳が少々説明っぽく、ワイス博士の英語の誘導の方がシンプルで心に直接響くような気がする。

その声に誘導されるままに、自分は10歳の子供に戻っていた。東京の自宅の庭にいる。庭はあまり大きくないのだが、なぜか色々な形の大きな石や岩が池の周りに配置されていた。その中で、すっかり忘れていた、大きな平らな黒いスレート岩のすべすべとした感触を思い出した。池の向こうには、大きなずんぐりとした丸い岩、その横に平べったい大きな岩が半分土に埋もれている。そして、スレート岩の左側に、角ばって真っ黒で、表面に細長い穴がたくさん開いた岩があった。(今では、それが溶岩だと分かるのだが、当時はもちろんそんなことは知らない。)もうずっと忘れていたことだ。

自分はいつもこの庭で遊んでいたのに、すっかり忘れていたのだ。

それから、次々と当時庭に置いてあったオブジェが見えた。きれいに並べた植木鉢や、茶の間の開き戸の下に置かれた大きな直方体の石、その左脇につくられた小さな物置き。その中にきちんと整理されたシャベルや、のこぎりや、ほうきや、ふるい等の道具類。これはおじいちゃんが庭をきれいに整備する時に使った道具だ。石や植木を並べたり、隣家との間の垣根のつる薔薇の手入れをしていたのもおじいちゃんだ。

おじいちゃんは、かなりハードボイルドな老人で、こわかった。顔は三船敏郎風で、背も180センチぐらいあり、目もブルーだったので、わたしはガイジンだと思っていた。今考えると、目は白内障でブルーに見えたのだろう(笑)。背も170センチぐらいだったかもしれない(笑)。何か悪いことをした時、両足をつかまれて、池の上にさかさにぶらさげられて「いい子にしないと、池に落とすぞう」と言われたりした。自分がのんびり庭で遊んでる時におじいちゃんが出てくると、なんとなく緊張した。子供心に間がもたず、ある日しかたなく、「おじいちゃん、いいお天気ですね」と声をかけたら、大笑いされた。

とにかく怖いばかりで、あまり好きになれなかったのだ。でも、瞑想の中ではっきり当時の庭を細部まで見たことで、おじいちゃんがどれだけ愛情をこめて、あの庭を手入れしてたかを感じることができた。ワイス博士の退行瞑想によって子供に戻った自分は、あの庭の中にいて、おじいちゃんの愛情に包まれているようにも感じた。

おじいちゃんは20年ぐらい前に亡くなったのだが、数年前に私が病気になる直前に夢に出てきて、夢の中の私の家を一生懸命修理してくれた。色々修理するのが好きなおじいちゃんらしかった。その話を母親にすると「夢の中の自分の家は自分の体を象徴していることもあるから、検査をしなさいよ」と言われた。おじいちゃんは町医者だったので、そう言うこともあるかも知れない。そうしたら、しばらくして自分が癌になっていることがわかった。それから、抗がん剤治療中、夢の家の中(これも私の体の象徴?)のどこか見えない部屋ででおじいちゃんが刀を構えて、何者かと戦おうとしてくれている夢を見た。

10歳の自分がいる庭を鮮やかに体験した感激にまだひたっている。過去生までは遡らなかったが、これも、自分にとっては一種の深いスピリチュアル体験であった。それで満足してしまったので、以来、ワイス博士の退行瞑想の2度目はまだやっていない。



スピリチュアル
 

2月の反省

2月は変な月だった。

「変な」と言うのは、2月にはいって、自分の感性というか価値観が微妙に変わってしまったように感じたためだ。端的に言うと、食に対する興味の感じ方がらっと変わってしまった。

皆さんはそういうことありませんか?

たとえば、料理をするのも嫌いだし、レストランに行くくらいなら家でサンドイッチかじっていた方が気楽、週末に食材屋に買出しに行っても電子レンジ食品を1週間分買い込むだけ、食事の支度にも食事自体にも時間を取られたくない、食物は空腹を満たすだけのもの、と言った感じ方しかしていなかった人が、突然、フォワグラのブレゼ、とか、鱒の蒸したのにバターとロースト・アーモンドをかけたの、とか、帆立貝のタルタールが食べたくなったりする。

自分の場合、そこまでは行かなかったが、子供のとき食べたカレーや、ハンバーグや、餃子や、シチューが、とつぜん無性に食べたくなって、自分で作るしかなく、スーパーマーケットで色々と食材を買い込むはめになった。これまで、特に何を食べたいと言うことがなく、旦那のグリが作ってくれるものや、スーパーで買った電子レンジ食品を5分ぐらいでお腹に詰め込むだけというのが常だった自分にとっては、画期的なことだ。

もうひとつ顕著なのは、体に悪いと思ってこれまで無意識的に自分に禁じていた、子供の頃の好物だったポテトチップスを、週末にスーパーに行くたびに買ってしまうのだった。それも、普通のポテトチップスではなく、子供の頃に食べたような、ジャガイモの切り方が少し厚めで、油と塩がたっぷりしみた昔風のポテトチップスを選んで買ってしまう。

自分の場合、食べ物に対する執着や興味を持つということをどこか恥ずかしいことのように思っていた。それは、食物だけではなくこの世の官能的な喜びにはほとんど興味を示さずひたすら自分に厳しかった自分の父親と祖父が、超自我のように私に君臨しているせいかもしれない。それが、この2月に少し変わったようなのだ。

この変化に伴う自分の気持ちをよくよく観察すると、それは、これまで割と厳しく律していた自分を、とつぜん、子供のように甘やかしたくなったと言う感じに近い。昨年秋以来、自分の設定した目標に関係のない本を読んだり、目標達成の利益にならない行為をすることをできるだけ自分に禁じていた。それがポテトチップスを自分に許したくなるのと同時に、勉強の追い込みのための貴重な週末の時間を、かなりな罪悪感に悩みながら、勉強とは関係ない本をとめどもなく2・3冊読むことに使ってしまったということが起こる。

記録を見ると2月の29日間の内、23日間は出社前に早朝ジムに行ってヨガをし水泳を20分−30分している。一見したところ、相変わらずの起床→ジム→会社→就寝の繰り返しの、なんとも華のない生活だ。でも、昨年秋から今年の1月にかけては、ほとんど毎晩、会社→就寝の間に勉強の時間があったのだが、2月の後半からこれがなし崩し的になくなり、ワインを飲みながら料理をして食べるという習慣に取って代わった。週末も、ジムと仕事メールのフォローアップ以外は、勉強をさぼって、のんびり読書と料理をしてすごすようになった。勉強をサボり始めると、これまで時間が足りなくて1分1秒が惜しかった週末が、すごく長く感じられる。2月は、自分を甘やかすこのスウィートな感覚を思い切り楽しんだ。

一方、この変化がうちの旦那グリに非常に喜んでもらえることとなった。これまで、夜遅くカリカリして帰宅する私を、いつも食事を作って待っていてくれ、私が5分もかけずにそれを平らげ、また勉強や瞑想に入ったりするのを文句も言わずにいてくれたグリだったが、やっぱり私がへたくそながら料理をするようになったのがすごく嬉しかったのだと思う。「あの和風ハンバーグまた作ろうよ」とか、「カレーの材料買っといたよ」とか言うようになった。これまで、グリが出してくれる料理を2人でぼそぼそ食べるという、貧乏男所帯風生活がもうすこし家庭らしいというか華やいだ感じになった。

2月も終わりに近づくと、先月から続いていたヒステリックな飲酒や、ポテトチップスへの執着もやがて静まっていき、本来の禁欲的なペースにもどすべく、再び自分をコントロールできるようになって来たが、この週に2−3回は私が料理すると言う習慣はそのままで、定着してきた。

この突然の変化が、星々の運行のせいなのか、ホルモンバランスのせいなのか、守護霊が入れ替わったせいなのかは分からない。確かに言えることは、性格とか人格とか言うものはない―――すべては一定の条件下で起こり絶えず移ろう化学反応のようなものらしいと言うことだ。自分にできるのは、ひたすらこの化学反応を観察することだ。そうする内に、いつかはそれを思うがままに制御できるようになるのかもしれない。

3月は徐々にペースを戻しながら、次の行動を習慣づけることにした。

一日の終わりに一日の反省記録をつける(これは日記と言うかたちでやっている)際に、翌日にこなすべき「緊急で重要なこと」と「緊急ではないが重要なこと」を6つ上げる。これは、デニス・ウェイトリー「成功の心理学―勝者となるための10の行動指針」で推奨されていた方法。(「5つ」でもなく「7つ」でもない、「6つ」なのがわけがありそう。) そして、その6つの内2つは、自分にとってめんどくさいこととか、自分の嫌いなことをやること。「自分の嫌いなことを1日二つづつやると、魂が磨かれていく。」 これは、「オーラの泉」(笑)でゲストの東山紀之さんという人が言った言葉。(こちらのブログに採録されています。)

JUGEMテーマ:夢・目標


呼吸と瞑想の日々(4) 睡眠、食事、そして・・・

10月1日(月)からの3週間は、呼吸法とヨガと水泳はほぼ毎日継続したが、座って瞑想をしたのはその内の半分ほど(12日間)だった。

1)睡眠
この期間の大きな収穫は、自分の場合、いろいろな意味での心的エネルギー(特にやる気とか元気とか気分といったもの)と、前夜の就寝時刻との間に、はっきりした関係があることが分かったことだった。

6ヶ月の治療の後に職場復帰してからの自分の最大の関心事は、いかに人並みに日々の仕事をこなして行けるかで、呼吸法とヨガと水泳と禁酒を含む生活の完全管理はそれだけを目的としている。ただ仕事が究極の目的かと言うと(以前の自分にとってはそうだったのかもしれないが)、そうではない。仕事は今では「里の行」的な意味合が強いと思う。ヴィパッサナー瞑想はこの「里の行」に方向性を与えてくれる強力なメソッドだ。

この4月頃から、就寝時間、睡眠時間、呼吸法・ヨガ、運動、瞑想、自分の体調や精神的なコンディション、気分の流れ、考えたことなどを克明に記録しており、ワードファイルで70ページほどになっていたが俯瞰的に読み直すと言うことをしていなかった。それが、10月21日(日)に6ヶ月間の記録をすべて読み直してみて、自分には心的エネルギーがガクッと下がっているときがあり、それは体調の良し悪しや、肉体的な疲労とは関係なく起こるという事に気づいた。また、それはバイオリズムのような規則的なものでもない。日記を読み直しても、具体的な出来事が引金となっているわけでもなさそうだ。

しいて原因を探すと、「今日は、ものすごく元気が高まって、素晴らしい効率で仕事を片付けた!」みたいな記述がある前夜は、かならず11時前に就寝している。一方、当日の起床時刻は7時だったり、5時だったり様々で、たっぷり眠った日もあれば、睡眠不足の日もある。睡眠時間は体調には関係があるが、心的エネルギーには関係ないようだ。

病気になってからは不摂生に気をつけて、12時すぎて就寝することはないのだが、「元気が出ない」とか「集中力がない」という記述のある週は、毎晩12時頃に就寝している。11時就寝と12時就寝では、睡眠時間にはあまり差がないはずなので、時間帯がポイントなのだと思う。

前述した江原啓之編集の雑誌「A・NO・YO (あのよ) 2006年 12月号」の中で、江原さんが「夜十一時に眠りにつけば、午前一時から二時頃はちょうど熟睡していられます。この時間帯は、この世と霊的世界の距離がもっとも縮まる時。このときに里帰りしていれば、密度の濃いエネルギー補給ができます。」(p.145)と言うのはほんとうかもしれない。他にも、「夜の11時から2時ごろにかけてが、内臓が最も休まる時刻なのでその時間に眠りについていることが大事」と中国の気学の本で読んだ記憶がある。同僚のW嬢に話すと、彼女も11時就寝が「お肌にいい」とどこかで読んだそうで、早速始めてみると言っていた。

21日の晩から、7時以降は食事を取らず、11時前に就寝するという生活を徹底したら、確かに調子がよかった。

2) 食事
弱い生命力をなんとかやりくりして、人並みに日々を過ごしている自分であるが、自分の周囲にはものすごく元気な人々が多い。会社の同僚達や、以前登場したアケミさんもその1人だが、その他にさとーさんというものすごいキャリアママもいる。出張者を毎日夜遅くまでご接待した翌日、朝6時に子供達の洋服を洗濯し、またその翌日はアメリカに出張に出かけている・・・というすごい人だ。

さて、元々、あまり食事に気を使わないたちだった自分だが、瞑想など始めてから益々食べる事に興味を失って行く傾向にあり、10月はほとんど夕食抜きで過ごしていた。昼は、主人が買っておいてくれるスーパーのレトルト・パウチ食品を会社の電子レンジで暖めて10分ぐらいで食べる。そんな事情を透視したのか、さとーさんがある日ビーフシチューとカレーを冷凍にして持ってきてくださった。アケミさんも、時々家によんで下さり、繊細な京風焼肉やサーモンの押し寿司なんかをご馳走してくれる。「どーせ、ろくなもの食べてないんでしょ!」と、みんな思うらしい。そういう人々に助けられてどうにか生きているような感じだ。元気でうつくしい女性に共通して言えることは、食べ物にとても気を使っていること、そして食べることを心底楽しんでいることだろう。

睡眠はどうにかクリアしたので、来月の目標はもう少し、食事に気を使う事にします。

3) 瞑想
上述のさとーさんから、「瞑想を続けてると、以前ブログに書いていたように、ほんとうに頭の回転が速くなったり、集中力がついたり、記憶力が良くなったりした?」と聞かれた。たしかに、瞑想を始める前より、頭の回転と集中力は確実に高まっていると思う。記憶力は、数字に関する短期記憶力が以前より増した。
でも、それが瞑想のお陰なのか、それとも、たんに禁酒・早寝早起・規則的な運動のお陰なのかは分からない。ただし、自分が今ここで、体と心で感じていることをより繊細に観察できるようになったのは、確実に瞑想のお陰だと思う。

前述のとおり、3週間のうち、瞑想をやったのはその半分ぐらい。確実に「ためになる」ことは分かっているのに、やるのがつらい。咳が止まらなくなったり、何か悲しみのような感覚が嗚咽のようにこみ上げてきたり・・・。来月の目標は、短時間でも必ず毎日続けて、このつらい感覚を観察すること。

4) 肩の痛み(おまけ)
先月まで塗っていた痛み止めのクリームをきっぱりやめてしまった。単なる痛み止めで、治療効果がないと分かったからでもある。その代わり、Sさんから教えていただいた体操を毎日続けながら、じっくり痛みを観察する事にした。
痛いというよりも、いらだたしい。無意識の内に、これには何か精神的な原因があるのだということが分かっている。その精神的な何かの内容も見当がついている。色々と「ラベリング」をしてみるのだが、痛みは消えない。痛みそのものよりも、痛みが消えない事のいらだたしさがつらい。
ただ、あるとき、「精神的な問題を考えさせてくれるように、常にそれを忘れないでいるように、鳴り続ける警報のように痛みがそこにあるのだ」と言う事に気づき、それをありがたいと思うと、なぜか痛みが消える。(しばらくすると、また戻ってくるのだけれど・・・。)

無我に関する覚書 (2)

毎朝水泳をしながら「サティの瞑想」をしようとしている。たいていは、思考の雪だるま状態になって、うまく行かない。調子のいいときには、雪だるまの「芯」が生まれた直後にそれに気づくことがある。どのように雪だるまの芯が生まれるのか、それがどのように大きな雪だるまへと展開していきそうになるのかを観察することができる。

雪だるまの「芯」は、わたしの場合、視覚や聴覚の刺激と言った外的な要素から生まれるのではなく、突然ふってわいたように意識の中に現れることが多いような気がする。昨日職場であった出来事の記憶であることもあるが、意味不明の外国語の単語の断片だったり、ずっと以前に会ったことのある人の顔だったりすることの方が多い。

でもこんな風に、雪だるまの芯が生まれる一瞬をとらえることができるのは、自分にとってごくごく稀なことだ。たいていの場合、その芯に付着してひとりでに思考が回転しだし、雪だるまが途方もなく巨大化してから気づくのがやっとだ。それでも何も気づかなかった昔よりは、いい。なぜ「いい」のかは、うまく言えない。でも、闇の中から薄明かりへ一歩近づいたような気持ちになれるのだ。

さて、せっせと平泳ぎを続けながら、こうして大きくなった思考の雪だるまを観察してみて、それがどういう芯から生まれたのかを逆にたどれることに気がついた。そして芯の周りにくっついている雪の部分だが、自分の場合、それが三通りしかないことが分かった。ひとつめは過去の場面の想起、ふたつめは将来の場面の想像、そして前者二つが音と映像を伴う映画のようなものであるのに対し、みっつめは純粋な思惟と言ったら聞こえがよすぎるが、イメージも音もない言葉のブロックの積み重なりだ。このブロックを無意識に入れ替えたり、並べ替えたりしているうちに、それが一続きの思考と言うか、言葉の流れになっていく。そして、正直に言うと、この言葉の流れの文体が、このブログの文体にそっくりなのだった!

自分はこのブログの文章をできるだけ正直に書こうとしている。自分を元気付けるために書いているものである以上、正直に書かないと意味がないのだ。それでもなお、このブログの文章によって生成される「自分」が、じっさいの自分(そんなものがあればですが)に対して、藤子不二男の「パーマン」に出てくる「コピーロボット」のような、似て非なるものであることは否めない。言葉や表現の限界ということもあるし、無意識の取捨選択、矛盾の切捨てなどがあるからだ。

そういう意味で、このブログの中の「自分」は、ユングが言う意味での「自我」―矛盾を許さない統合的な自我―に似ているのかも知れない。(自我に似ていると言うのは、それがブログを読む他者の存在を前提として、形成されてくるものであるということもあると思う。)まるで脆い自我が自分を支えているように、このブログの一連の文章が自分を支えてくれているように思えるのはそのためだろう。

出典が明らかでない言葉を引用するのは好きではないのだが、前回登場のクチナくんがその昔、「ユングにとっては、『自我』もまた、『感情に色づけられた複合体(コンプレックス)』のひとつにすぎない」と教えてくれた。これは仏教の考え方に近いのかもしれない。ただし、ユングは自我の背後により実体的な「自己」というものを想定しているらしいのだが。

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