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旧題「読書 この秘密の愉しみ」を改めました。
最近本当に読書をしていないので・・・
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村上春樹さんの「走ること」についての文章に共感を覚える。
「僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然にフィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけば良いのか、どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか、どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする」
「同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的をもって、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ」
(村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」)
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子供の頃から足があまり早くなかった自分は、どうも走ることにアレルギーがあるらしい。今年の秋から行きつけのジムのプールが使えなくなってからと言うもの、毎朝会社に行く前に泳ぐ代わりに走ろうかとも考えた。でも、残念なことになぜか今ひとつ抵抗があった。それで、仕方なくジムの自転車を毎日30分こぐことにした。ジムの自転車をこぎながら、同時に、初期仏教のヴィパッサナー瞑想をする。始めはなかなか集中できなかったが、3か月毎朝続けているうちに、こぎ始めるとすぐに集中できるようになってきた。自転車に乗るとすぐ目を閉じて、両掌を上に向けている東洋人の姿はかなり変だと思うが、ぜんぜん気にしまへん。
自転車を30分こぐのは、結構汗だくにはなるが、長距離ランニングに比べるとかなりヤワな運動だ。村上さんの言う「どこまで自分を厳しく追い込んでいけば良いのか、どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?」と言うような葛藤が生まれるはるか前に、30分が過ぎてしまう。だから、村上さんの言う走ることとはちょっと意味が違うかもしれない。でも、自転車と瞑想を毎朝続けると言うことが、自分の生活にリズムと集中力と粘り強さを与えてくれるように思える。
もうひとつ言えるのは、毎朝の自転車こぎ+瞑想を始めてからの3ヶ月間は、余計な物がそぎ落とされて、本当に重要と思われることだけに集中できたということだった。何故か、重要なこととそうでもないこととがすっきりと区別できるようになってきたのでした。そんな感じで、重要と思われる1つか2つのことだけにひたすら注力して、仕事上の義務は果たすにしても、それ以外のことはあえて全部後回しにして、人々からのお誘いも極力断り、ショッピングもせず、好きな小説もビジネス書も読まず、ブログ書きも最低限に抑え、母親が送ってくれたオーラの泉のDVDも見ず、しかし適度に亭主のグリの世話は焼きながら、ひたすら鼻先にぶら下げたニンジンを追いかける馬のように走り続けた今年の後半だった。こう書くと、なんとも殺伐とした人生を送っているようで心配されるむきもあるかも知れませんが、本人は三昧の境地にいると言うか、とても幸せで充実した気分なのであった。
今の自分にとって一番幸せと感ぜられるのはどういうときかと言うと、自分の体を完全にコントロールできていると感ずることができる時だ。15年前ぐらいまでの自分は、迷える子羊と言いましょうか、魂が闇の中をさまよっている状態と言いましょうか、月並みな表現ではあるが自分の体の中に色々な人々がすみついて好き勝手なことをしているような状態であった。それが、余計な者が脱落していったのか、すっきりとしていった。今年の後半は、ヴィパッサナー瞑想のおかげか特にすっきりとした気分になれた。それは色々な方向に向かって乱反射していた意識が、ひとつにしゅっと収束して一つだけの目標をスポットライトのように照らし出す、そんな感じでした。
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自分の場合、師走に今年の自分を振り返ってみて、去年の自分よりも何か一つ優れたことがないととても落ち込んでしまう。だから、ここ15年ぐらいは年末に「1年の総括」ということをやって、「去年までできなかったけど今年できるようになったこと」のリストを作ることにしている。
私はこれを自分の「進歩の強迫観念」と呼んでいます(笑)。人はアングロサクソンの啓発書の読みすぎだとか悪口を言いますが、でもその方が人間の自然な心情として楽しくない?進歩と言う言葉が嫌なら、変化でもいい。とにかく、来年は今年と違うことをやってみたいな、と思います。
最後に付け加えるならば、自分にとって一番の幸せを感じるのは、自分が走り続けていると言う感覚を保てる時だろうか。全力疾走して疲れたら、速度を落とす。速度を落としてもとりあえず前に進む。移動しながら休息する。
| 瞑想 | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
| 瞑想 | 14:45 | comments(2) | trackbacks(0) | ▲
この夏は、自分にとって青天の霹靂のような出来事があった。
でも今になって思い起こすと、いつかこういうこともあるのではないかと言う漠然とした恐れは常にあった。こんな完璧な幸せがいつまでも続くはずがない、という気持ち。いつかは終わりになるだろう、でも、神様、終わりにしないでください。いつまでもこの幸せが続くようにしてください。そう祈りながらも、どこかで心の準備をしているようなところがあった。
青天の霹靂と言うのは、毎朝会社に行く前に早朝水泳をしていたスイミングプールが9月から使えなくなったことだ。カクッとなった方、ごめんなさい(笑)。自分は、ホテルに間借りしているフィットネス・ジムのメンバーだが、メンバーはホテルのプールも使えることになっていた。ところが、ホテルとジムが仲たがいをし、ジムのメンバーは9月からプールが使えなくなると言うのだった。
さて、低血圧・貧血・鬱病・不定愁訴・四十肩・慢性疲労症の自分が、毎朝定時に出勤するのもやっとこさであったのに、亭主のグリに1時間半も早くたたき起こされて、毎朝スイミングプールに引きずって行かれるようになったのは2003年のことであった。
その後も癌の治療で6ヶ月ぐらい休んだ他はずっと通い続けることができ、朝起きるのもだんだん苦痛でなくなってきたのは、普段はいつも機嫌のいいグリが、朝は悪鬼のように私の枕をけっとばして怒鳴りまくり、有無を言わせずスイミングプールに連れて行くためばかりではなく、泳ぐことの気持ち良さ、水に触れることの気持ち良さをしぜんに自分の体が覚えてきたからだと思う。
泳ぎの好きな人は良くわかると思うが、自分の場合、20分から30分ぐらい泳ぐと、浄化されると言うのか、ネガティブな感情がすっきりと抜けてしまう。泳ぎ始めて10分も経つと、脳波がアルファー波になるのか、エンドルフィンが分泌されるのか、セロトニンが分泌されるのかは知らないが、幸福感に包まれる。そして、泳ぎながら神様有難うございますと言いたくなるのだった。
「神様有難うございます」と言うのにはそれなりの理由がある。まず自宅から会社への通勤路の途中に、手頃な値段でこんな綺麗でひと気のないプールがあることが有難い。それに加え7時過ぎに家を出てジムとプールで1時間半過ごし会社に向かうと、交通渋滞が不思議とうまく回避できるのだった。家の周りの交通渋滞と会社の周りの交通渋滞の時間帯がずれるのを、ちょうど上手に縫って行くような感じになり、自宅から会社へ直行する場合の半分ぐらいの時間で行ける。それも有難いことであった。神様のプレゼントとしか思えない。
そうするうちにだんだん元気が出てきたのか、水泳の前に、プールがあるホテルの上階に間借りしているジムで簡単な運動をするようになってきた。始めはヨガの太陽礼拝をやっていたが、最近は、ストレッチ、自力整体、筋トレとだんだんメニューが増えてきていた。もちろんへとへとになるまではやらない。貧血気味の自分が目を覚ますための軽い準備体操と言う感じだ。その後で20分ぐらいさっと泳いで会社に向かう。以前は会社へ行くときは半分寝ぼけ眼で、同僚たちにおはよう!と元気よく言われてあわてて目を覚ますような感じであったが、ここ数年は、「やあ、やあ、やあ!」と言う感じのハイトーンでみんなに笑顔を振りまきながら出社し(笑)、ダッシュで仕事を開始できるようになったと思う。
その水泳が突然できないことになり途方に暮れてしまったが、しかたなく、その代わりに毎朝20−30分ジムの自転車こぎを始めた。ところが、これがなかなかいい。汗をどっとかくし、水泳よりももっと気力が盛り上がる。でも何が一番いいかと言うと、自転車こぎをしながら瞑想ができることだ。忙しさにかまけて、最近は、毎日30分の瞑想の時間を取る心の余裕もない自分であったが、自転車をこいでいる間はきっかり30分、初期仏教のアーナーパーナーサティ(呼吸の気づきによる瞑想)ができる。瞑想中は目をつぶる必要があるので、泳ぎながらするのはかなり難しかったし、外で本物の自転車をこぎながらするのは不可能だ。
このたびのプールとの決別は、何のかんの言い訳をしながら瞑想をさぼっていた自分が瞑想を続けられるように、と言う神様の有難いおぼしめしに違いない。これもまた神様のプレゼントなのだ。と都合よく解釈することにした。
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