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空即是色

昨年2014年11月に日本出張で東京・大阪を往復している間、長年の同僚でガン友でもあったカリーンが亡くなった(2011年12月10日のブログに登場)。私だけよくなって、彼女はその後何度も転移・抗がん剤治療を重ねたけれど結局戦いに疲れ果てて、最後は静かに亡くなったのだった。

その少し前に、やはり長年の同僚だったグレーテルも亡くなった。(グレーテルは、2010年6月13日のブログにちょこっと登場。優秀な彼女は、この時税理士試験に一発合格したのだったのに。)彼女の方はストレス性のエピレプシーであった。何度か発作に悩まされていたけれど、豪快で気丈な性格で、私が抗がん剤治療中も元気が出るようなメールをくれたのだった。
 
イタカレの街
冬休みになり、ブラジルくんだりまで出かけて行ったのは、とにかく、できるだけ遠くへ行きたいと言う衝動が高まっていたからだった。

ブリュッセルから15時間近くかけてリオに着いてから、それでもまだ懲りずに飛行機を乗り継いで4時間ぐらいかけてブラジル北部のバイーア州のイレウスまで飛んで、そこからまた長距離バスに乗ってイタカレまで行った。ブリュッセルと東京を二往復する位の時間とお金を使ったが、この際どうでも良くなっていた。

イタカレの優しい風景と優しい人々に囲まれ、ひきこもって一週間を過ごした。





日焼けしすぎて右足に水ぶくれができたら、イタカレの街のお医者さんが無料で治療してくれ、お薬も処方してくれた。お医者さんと助手のお姉さんはポルトガル語しか話せなくて、話がぜんぜん通じず、みんなで爆笑の連続だった。
でも、100年後には、もう誰もこの世にいないんだなあと思うと、寂しい。














この子供たちも。









このサトウキビ・ジュース売りのおじさんも。

色即是空。
















イタカレの海や、木々や、青空や、豊富な果物、海風になぶられて少しくすんでいるけれどイタカレの街の看板の原色が目に染みる。



これらすべて、いつか消えてしまうとはわかっている。すべては空だとわかっているのではあるけれど。

それでも、空即是色。



写真はイタカレの街と海岸の間に広がる熱帯林の中のエコロッジの朝食に出てきた、フルーツとブラジル風パン・ペルデュ、タピオカ、チーズトースト。朝食の内容は毎日少しずつ違っていて、繊細で、心がこもっており、普段食べ物に関心の薄い自分も感動してしまいました。

右下は、魚を素手でもって、イタカレ海岸べりの通りをのんびり歩くおじさん。

JUGEMテーマ:スピリチュアル

同じひとつの樹に咲く花々

 年を取ってくると当然なのかもしれないが、最近になって、入社当時から知っていた同僚の女性の死を2度続けて体験した。マリアンとイルセ。ふたりとも癌だ。36歳と44歳。若すぎるよ。

白い花の咲く鉢植えを手入れしている時、枯れた花をハサミで切り取ろうとして、間違ってまだぴちぴちの花を2輪切り落としてしまってあわてる。でも、同じ木から生えている花なんだ。植物自体は死んでいないんだと思いなおして、少し安心する。

人間もこの花みたいに、同じひとつの樹に咲く花々だとよいのになと思う。

***

少し前に書いたが、同僚で自分のガン友のカリーンの癌が再発した。浸潤性のがんで肺と骨に転移していたのだ。他人の不幸を嘆くだけでは意味がないと思い、何か元気づける方法はないかと思いを巡らす。

抗がん剤治療中自分が一番うれしかったのは本をたくさん読めたことだ。ビジネス書とかは、読む元気がなかった。闘病中のカリーンにも、ストーリーテリングで読んでいると時間を忘れるような、わくわくするような小説を読ませてあげたいなと思う。

週末に重い体をひきずって、FNACまで歩きオランダ語の書棚まで行く。狙っていた村上春樹の「海辺のカフカ」のオランダ語訳があった!週末明けの晩、カリーンの彼氏のゲールトに届ける。ゲールトは、私と同じ会社の同じ部署で、いつも夜遅くまで残業しているのだ。

ゲールトはありがとうと言った後、こう付け加えた。
「何回か抗がん剤治療をしたんだけれどね、腫瘍が全然小さくならないんだ。先週は彼女もすっかり落ち込んでしまって、副作用もすごいんだ。あんまり苦しいんで、来週の検査で腫瘍がまだ小さくなっていないことが分かったら、もう治療を辞めたいって言っているよ・・・」

お見舞いの言葉で、「貴方の病気がよくなるように祈っています」というのは一番相手をいらっとさせる言葉ではないかと思う。だけどその週の自分は、そんなことはへの足しにもならないと知りながら、祈ってしまった。昼休みにデスクでサンドイッチを食べる時も、スーパーマーケットの待ち時間も、プールで泳ぐ時も、暇さえあればガンガン祈っていた。

翌週の晩、ぽっとSMSメッセージが携帯にはいった。

「本を有難う!村上春樹は私も大好きな小説よ。(私たちもう一つ共通点があったのね。)『海辺のカフカ』は読んだことはなかったけど、きっと気に入ると思うわ。」

副作用の中で彼女がSMSメッセージを打っている姿が目に浮かぶ。文面に彼女の気遣いが現れていてつらいくらいだ。メッセージはまだ続く。

「それはそうと、今日のスキャンの結果はすごくよかったのよ。新しい腫瘍はできていなかったし、これまでの腫瘍が小さくなっていたの。いいニュースでしょ。Big Hug!」

私は思わず、「ありがとう!」を連発していた。神様にではない。彼女に対してだ。

病気と闘う人はなんでこれほどまでに、私たちをを元気づけてくれるのだろう。

敗者の肖像

以前、「鼓笛隊が攻めてくる」  とか「不運な友へのメッセージ」の中でも書いたが、精いっぱい戦っても負けてしまうことがあると言うことについて、ここ数年、繰り返し考えることがある。

戦わなければ敗北もない。自分の場合、何かと戦うと言うこと自体があまりない。競争と言う意味では、自分の知らない内に勝ったり負けたりしているのかもしれないが、競争はすきではない。人口の多い狭い国で他人と競争するのが嫌さに、こんなだれも見向きもしない穴場に逃げてきたのかもしれないとも言える。

唯一、「あ、いま自分、戦っているのかな」と思えたのは、抗がん剤治療の末期に「運動した方がいい」という主治医の言葉を真に受けた亭主のグリに、むりやりジムに連れていかれ筋トレをさせられた時ぐらいだろう。「痛くてもう動けない」とグリに泣き言を言うと「痛みを無視しろ!」と言われた。「我慢しろ」ではなく「無視しろ」である。赤血球も白血球も減っていて歩くのもやっとの頃で、あの時はもう死ぬかと思いました(笑)。

唯一の戦いが自分との戦いで、他の人間との戦いを経験しなくても済む自分は本当に幸運だと思う。でも、まんがいち他人と戦わなければならない日が来たら、戦わなければ自分と自分の愛する者を守れないと知ったら、やむを得ず戦うだろうと思う。武器はないので、その辺の棒を必死で振り回すのだろう。多分あっけなく負けてしまうのだろう。

勝つにしても負けるにしても、そんな日が来ないことを祈るばかりだ。勝ち負けの世界では、自分が何かを得たら、相手は何かを失っている。だから全体的に見たらプラスマイナス・ゼロだ。そして双方のエネルギーは確実に失われている。こんなつまらないゲームからは早く卒業した方がよい。

***

そんな自分の子供の頃の脳みそにインプットされた最初の画像は、母の顔でもなく、父の顔でもなく、会ったことのない「敗者の肖像」だった。それは、父の実家の伯父の書斎に飾られている大きな祖父の肖像画だった。

海軍の将官服を着て制帽の陰で優しく包容力のある笑みを浮かべているその目を、当時から「敗者」のそれと思っていたわけではない。大きくなってから、特に最近になってから、彼についての資料などを読み、その厳しい克己とストイシズムと部下や家族に対する優しさに感銘を受けるとともに、次第に「敗者」としての側面にひきつけられるようになったためだ。

「敗者」と呼ぶのは失礼なのかもしれない。ただ、この呼び名は、彼の最期に対する安易なセンチメンタリズムとか敗者の美学といった形容を拒む、なんとも苦いものだ。謎は人間の数だけあるのだと思うのだが、彼は自分にとって今でも一番大きな謎であり、ときどき立ち戻ってはあの不思議な笑顔を思い浮かべることになる。

彼がフィリピン東方沖で敵艦につっこんで戦死したのは、昭和十九年十月十五日のことだ。米軍二十万がフィリピンのレイテ島に上陸し、大西瀧治郎が神風特別攻撃を考案する5日前のことだ。

それまでも被弾した戦闘機が敵艦に体当たりした例はしばしばあったが、操縦士自身の決意によるものであり、艦隊司令官がみずから指揮官機に搭乗して攻撃に参加するのは「異常」かつ「非合法な」事態であった。

戦記文学から風俗作家に転じたKさんという作家がこのマイナーな海軍軍人に興味を持って、生前の彼を知る人々に克明なインタビューをし、ちょっと推理小説仕立のドキュメンタリーを本にしている。

「どうすれば戦争に勝てるか、あるいは戦争に勝つにはどうしたらいいか、というのは彼の口癖のようなもので、彼はだれかれの区別なく、人と顔をあわせれば決まってこの問いかけを発した。自宅に出入りする御用聞きに対しても、こう問いかけた。」

「勇気というのは、指揮官が自分の欲するところをそのまま正確にはっきりと部下に命令し得るということだ、と思うんだ。(・・・)どんなことをしてでも、自分がしようと欲するところを部下に命じて実行させること、これが指揮官の勇気というものだ。俺にはそれができなかったんだ(・・・)蘭州の攻撃の時も、俺は部下の犠牲を恐れて出撃命令を下すことができず、無為に終わってしまった。俺は自分の生死を忘れることはできたが、部下の生死を忘れることはできなかった。これでは指揮官は落第だ。自分の生死も他人の生死も、つまり一切の生死を超越して任務を遂行するのでなければだめだ、と痛感した。鉄腸の人になりきらなければいかんと思うね」

Kさんの本の中の証言を読むと、彼は自らのストイシズムと使命感から日本を勝たせるという強迫観念にとりつかれながらも、実は戦い自体はあまり好きではなかった人であったように思える。そこが大西瀧治郎とは大分違うタイプのリーダーだったようなのだ。

Kさんの克明な取材が、敵の爆撃を艦が受け火災を受けた時の応急防御措置の整備などの地道な試みや、彼の軍人と言うよりも実務家としての功績を明らかにしていく。

敵機の急降下爆撃を受け、完璧な消火設備のため火災は免れたにもかかわらず、通信装置を不能にされ、飛行甲板も破壊された艦を修理するため戦列から早く外した方が良いという上層部の意見により、艦隊の旗艦と言う機能を失うことになる。艦に乗り込んでいた長官と参謀が司令部と共に別の艦に移ろうとする時に、彼は「傷ついた艦で敵に追い打ちをかけ、おとりになって敵機をひきつけ、その際に他の残存勢力で敵艦を壊滅させる」という案を目に涙を浮かべて必死に具申する。ただこの案は受け入れられず、彼は失意の中で、修理のためにトラック島に引き上げる艦と共に陸に上がる。

ちなみにこの時の戦闘での艦上戦死者は144名、飛行機隊の戦死者は54名だった。艦の乗員数は士官・兵員合わせて1660名だったというから、今の自分の勤め先の人数とちょうど同じくらいだ。

トラック島に上陸してから、連合艦隊司令長官山本五十六に戦況を報告しに行った時、
「艦長、あのとき、もう少し追撃することはできなかったのか」
と言われ、上司をかばうために、
「あの時はあれが精いっぱいでした」
と答える。心の中では本当に無念だったのではないだろうか。

彼の艦で主計長を務めていたNによる証言。(艦は一個の会社のようなもので、主計長は経理・人事部長みたいな立場の人。)

「『あなたは自由主義についてどう思いますか』
『・・・・・・』
『私は軍人としての教育しか受けていません。一般的な常識においてはいろいろ欠けているところがあります。あなたは一般大学を出ておられるし、社会的な常識や教養もお持ちです。それでおたずねするのです』
彼は謙虚なまなざしをNに注いだ。
『私は自分にとって自由とは何か、ということをずっと考えつづけました』と彼は言葉をついだ。『そうして私は一つの結論に達しました。海軍の軍人である私にゆるされた自由とは、自分自身の判断で自分の死を選べるということ、これ以外にないのではないか、そう考えたのです。死ぬべき時期を自分で選ぶということ、これが私の自由だと思う。主計長、どう思いますか』
彼にそう言われた時、Nは答えられなかった。しばらく間をおいてから、
『自由についての解釈はいろいろあります。艦長がそう解釈していらっしゃるのでしたら、私はそれについて別に申し上げることもございません』
とNは言い、それでこの奇妙な対話は打ち切られた。」

彼の戦死と戦果は6日後の朝日新聞一面に四段抜の見出で華々しく書きたてられた。敵の航空母艦に突入して飛行甲板に命中したと表向きは公表されたが、後に確認された所によると相手の母艦は全く損傷を受けておらず、彼の機はそのまま海中に没したと判断される。49歳。

その時の彼の気持ちを想像するのは難しい。彼は書類カバンを持って攻撃機に乗り込んだということなのだが、そのカバンの中身も今となっては謎である。本を読みながら目に涙を浮かべていると、亭主のグリがやってきて慰めてくれる。
「泣くなよ。次はきっと日本が勝つよ・・・」

***

彼を「敗者」と呼んでしまうのは、Kさんの本につづられる彼の後半生が、多くの部下を無為に失うという失意の体験に彩られているからだ。同じ海軍司令官の大西瀧治郎が割腹自殺を遂げたのも、第五航空艦隊の司令長官の宇垣纏が沖縄の敵艦に突っ込んで爆死を遂げたのも終戦の日またはその翌日のことだ。ところが、彼が死んだのは、大本営発表では大勝利を収めたことになっている台湾沖航空戦(その戦果のほとんどが誤認だった)の最終日だ。彼だけは、すでにその時日本の敗北を無意識に予見していたのだろうか? 今となっては切れ切れの証言から、様々に想像するしかないのだが。

アーネスト・ヘミングウェイの「人間の価値は、絶望的な敗北に直面していかにふるまうかにかかっている」という言葉にも心を惹かれる。

***

ブログの後日談だが、これをかいた1週間後に、茂木先生の「クオリア日記」に、先生が2003年に「文学界」に掲載した小津安二郎の記事を再掲載されていた。その中で語られている小津の映画のあるシーンが、自分が20年ぐらい前に当地のMusée de Cinémaで見た小津の映画の一シーンであることに気付いた。(当時見た時は、「Goût du Sake(酒の味)」というフランス語のタイトルがついていて、自分はあのシーンをもう一度見たさに「酒の味」という映画を必死で探したのだが勿論見つけることは出来なかった。でもこの記事のお陰で、自分が見たのは小津の遺作「秋刀魚の味」であることが分かり、Youtubeで簡単に見れることに気付いた。)

自分がもう一度見たいと思っていたそのシーンとは、笠智衆扮する元「海軍の艦長」が酒場で飲むシーンだ。



(日本が戦争で)「負けてよかったじゃないか」と言う、笠智衆扮する元海軍の艦長の笑顔。

上述「敗者の肖像」の艦長も、あそこで死なずに生き残っていれば、酒をほとんど飲まないながらも、町でかつての水兵にばったり再会して一緒にバーに入るというようなことがあったかも知れない。そして、あるいはこういうシーンが現実のものとなったかもしれない。生き残ることが果たして彼にとってよかったのか悪かったのかは、誰にもわからないが。そう思うと、複雑なものを秘めた笠智衆の笑顔に、あの肖像の複雑な笑顔を重ねて、自分も複雑ななんだか泣きたいような気持になる。

iPhoneの日(2)

Steve Jobsが逝って、しばらくの間追悼記事が紙面を埋める。

彼のお気に入りのジャーナリストの一人であったらしいウォルター・S・モスバーグの追悼文。

「時々、いつもではないけれど、スティーブは重要な新製品を世界に公表する前に私をオフィスに呼んで見せてくれた。他のジャーナリストにも同じようなことをしていたのかもしれない。巨大な重役室で、ほんの少しのアシスタントの助けを借りながら、新製品を覆った布をショーマンのようにひきはがすのだった。目を輝かせ、声音に情熱を込めながら。その後で、私たちは座って、長い長い間、現在と未来の話をし、そして業界のゴシップを交換するのだった。

彼が、最初のiPodを見せてくれた日のことを今でも思い出す。コンピュータ会社が音楽プレイヤーの分野に手を伸ばしたことに私はびっくりしたが、彼は、アップルはデジタル製品会社であって、コンピュータ会社ではないと言った。iPhoneの時も同じだった。ついで、iTune Music Storeの時も。そして、iPadの時も。でもこの時、彼はオフィスではなく自宅に私を呼んだ。オフィスに行くには病が重すぎたからだ。

第五回 All Things Degital Conferenceに、なんとスティーブと長年のライバルのビル・ゲイツが二人で参加し、長いオンステージインタビューに応じてくれることになった。でもこの企画は、あわよくば台無しになる所だった。

ビル・ゲイツの到着前に、私はスティーヴにオンステージの単独インタビューをしていて、その中で、『Windowsのメジャー・デヴェロッパーになる気分はどんなですか?』とたずねた。その頃すでに1億台のWindows PCにAppleのiTuneがインストールされていたからだ。
スティーヴは、『地獄で、氷水をほどこすような気分だね』と答えた。

その後で到着したビル・ゲイツがくだんのコメントを耳にして、当然かっとなった。インタビュー前の打ち合わせで、ビルが、スティーブに向かって、『ふん。僕は地獄の住人てわけだな』と言った。

すると、スティーブはビルに向かって冷たい水の入ったボトルをぽっと差し出した。緊張が一気に氷解した。そしてインタビューでの2人は2人の勝利者のように振る舞い、インタビューは大成功だった。」



(「Appleは船底に穴のあいた船のようなもので、そこから水が入り込んでくる。僕の仕事は、その船が正しい方向に行くようにかじを取ることです」と言うスティーヴ・ジョブズ。ビル・ゲイツにも受けた。)

「腎臓移植の後、パロ・アルトの自宅での療養中に、スティーブは私を自宅に呼んでその後の積もる話をしてくれた。その訪問は結局3時間にも及んだが、その間に彼は近くの公園まで散歩に行こうと言った。彼があまりに弱々しい感じだったので私は気が気でなかったが、彼がどうしても行きたがったのだ。

彼は私に説明した。毎日散歩し、毎日少しずつ遠くのゴールまで歩くことを自分に課しているのだと。そして、今日のゴールは近くの公園だった。話しながら歩いている時、彼は突然立ち止まった。苦しそうだ。私は家に戻ろうと懇願した。CPRのやりかたは知らないし、『スティーヴ・ジョブス散歩中に死亡−同行のレポーターの介護もむなしく』という新聞記事が目に浮かぶ。

すると、彼は笑って、私の懇願を拒絶した。そして、ちょっと休んだ後、再び公園に向かって歩き出した。到着すると、ベンチに座って、生活について、家族について、そしてそれぞれの病気について語り合った。(その数年前に私は心臓発作を起こしていた。)彼は私に健康法を講釈した。そして私たちは元来た道を戻った。

ほっとしたことに、あの日スティーヴ・ジョブズは死ななかった。でも、今彼は行ってしまった。あまりにも若く。そして、彼の死は世界にとっての損失だ。」(ウォールストリート・ジャーナル 2011年10月7−9日号)

無念だっただろうな。「天国に行く人だって、死ぬのは嫌だろう」とスタンフォード大学のスピーチで言っていた。生きたいと思って、徹底的に自分の死と戦ってきた人が、ついに亡くなるのを見るのは自分が死ぬのよりも心が痛む。まあ、自分ごときが心を痛めるのは失礼と言えるかもしれないが。今日リリースされたiPhone4Sの完成を、彼が死ぬ前に見ることができたことに少しほっとしている。

見わたすかぎりの海の真ん中で

船で沖に出て、見渡す限りの海の真ん中で夫のグリとふたりで泳いでいると、海が荒れている時などすごく怖くなることがある。グリの方も同じことを感じているのか、ペンチのような馬鹿力で私の腕をがっちりはさんで泳ぎ続けている。

それは、なにか過去に同じような状況があって、海の上で生き別れになってしまったような(ありえない)記憶がよみがえるような感じだ。グリとは知り合ってから20年ぐらいたつが、いつもお互いに顔を見合わせて、
「ああ、今日もぶじ生きてたね、よかった〜」
と言い合う事が多い。それは、まぬけな2人が何度か一緒に、または、どちらかが、死ぬような危ない目に何度もあっているという言う事もある。

だけどそれだけではない。

私は、多分グリが先に死んでしまったら、何もできなくなって今の仕事も辞めて、お寺か何かに入ってしまうような気がする。無気力体質の自分がせっせと仕事や勉強に励めるのも、こんなブログを書く元気があるのも、いつもグリがそばにいて過剰な元気をわけてくれているからだ。

私が死んだらグリは「ハートがぶっつぶれてしまう」と言っている。彼のハートがぶっつぶれることを考えると、それだけでこっちのハートがぶっつぶれそうだ。そうならないために「死んだら、グリの守護霊になってあげるよ」と約束している。

ただ、その日はいつか来るのだろう。私たちのどちらかが、見わたすかぎりの大海原に一人取り残される日が。だから時々は心の中で予行演習をしたりしている。

****

1995年の阪神大震災の後に書かれた村上春樹の素敵な短編集「神の子どもたちはみな踊る 」にこんなくだりがある。


ニミットはコーヒーカップを手にとってひとくち飲み、それから音をたてないように注意深くソーサーの上に戻した。
「彼は私に一度、北極熊の話をしてくれました。北極熊がどれくらい孤独な生き物であるかという話しです。彼らは年に一度だけ交尾をします。年に一度だけです。夫婦というような関係は、彼らの世界には存在しません。凍てついた大地の上で一匹の牡の北極熊と一匹の牝の北極熊とが偶発的に出会い、そこで交尾がおこなわれます。それほど長い交尾ではありません。行為が終了すると、牡は何かを恐れるみたいにさっと牝の体から飛び退き、交尾の現場から走って逃げます。文字通り一目散に、後ろも振り返らずに逃げ去ります。そしてあとの一年間を深い孤独のうちに生きるのです。相互コミュニケーションというようなものはいっさい存在しません。心のふれあいもありません。それが北極熊の話です。いずれにせよ、少なくともそれが、私の主人が私に語ってくれたことです」
「なんだか不思議な話ね」とさつきは言った。
「たしかに。不思議な話です」とニミットは生まじめな顔で言った。「そのとき私は主人に尋ねました。じゃあ北極熊はいったい何のために生きているのですか、と。すると主人はわが意を得たような微笑を顔に浮かべ、私に尋ねかえしました。『なあニミット、それでは私たちはいったい何のために生きているんだい?』と」

****

BBCプラネット・アース。陸地をさがして大海原を泳ぎ続ける牡の北極熊の姿。このBBCの映像は圧巻です。



「陸地が見つからなければ、泳ぎつかれてこどくにおぼれ死ぬしかない」と、デイヴィッド・アッテンボローのナレーションが言う。とても悲しくて美しい。

死をめぐるストーリー・三題                

夫ジェリーを心臓発作で亡くした後の、義母のジョーンの不思議な平静さについて前回少し触れた。

それに気づいたのは私だけではなく、最初の悲嘆の嵐がいったん静まった後、グリと三人の弟たちが、
「お袋の様子が変だな・・・お袋にとっては、ジェリーが死んだことと、『今日は雨でした』ということが並列的な出来事になっている気がする」                                                                                                      
と言い出した。

ジョーンは昨年頃から、
「バチカンの陰謀で自分が監視されている」
と言ってはみんなをあきれさせていた。グリは、
「母さん。自分がそんなに重要人物と思ってるのかい。自意識過剰だぜ」
と言ってからかっていた。

ジェリーの亡くなった晩、ジェリーの死の影に包まれたアールウッドの家にいたたまれなくなって、グリとジョーンと私は、ウェスト・コークの入江の町キンセイルにある弟のデニスとヒラリーの家に避難してきた。末っ子のノールとブレンダンもやってきて、テークアウトのカレーをつつきながらみんなでしんみりと夜遅くまで語り合った。

そんなとき、ジョーンがバチカンの陰謀の話を始めた。みながその話を無視していると、ジョーンの声はだんだん高くなって重々しい演説のようになった。私は何かジョーンに別の人がとり付いているような気がして、その時は怖くなってだまっていた。

でも、翌日二人きりになったとき、ジョーンがまたバチカンの監視カメラの話を始めたので、思い切って、
「・・・監視カメラに気づいたのはいつ頃からなの?」
とそっと聞いてみた。
ジョーンの英語は、とても早口でケリー地方の訛があって分かりにくいのだが、どうにか、次の言葉が聞き取れた。

「2002年頃から自分はここアイルランドではいつも危険にさらされていると思うようになった。オランダに旅行に行った時は安全に思えて、初めてほっとすることができたわ。アメリカにいるロジャーの結婚式に飛行機に乗るのが怖いといって行かなかったわね。大事な息子の結婚式なのに。それも陰謀が怖かったからなの。ジェリーは、2年前に私に『お前と旅行するのはこりごりだ。もう絶対一緒に旅行しない』と言ったの。そして私を全く無視するようになったわ。それはジェリーが陰謀に巻き込まれて、操られていたからなの。ジェリーが死んだのも陰謀のせい。この国を離れていれば、ジェリーは死ななくてすんだのよ。」

2002年と言えば、アメリカに次ぎアイルランドでも聖職者による幼児の性的虐待とその隠匿が大問題になって、カトリックの権威が失墜した頃だ。私たち日本人にはぴんとこないが、それまで毎週日曜日には教会のミサに行き、聖職者を全面的に信頼し、実生活や人生観がカトリックの教義に根ざしていた人々が受けた心の傷は計り知れないものがある。グリは当時自分の受けたショックについては何も言わなかったが、今思うと、グリがそれまで毎週通っていたミサに行くのも止め、毎晩のお祈りをしなくなったのもその頃だったかもしれない。

自分を包み守ってくれていたと思っていたバチカンを頂点とするローマン・カトリックの社会組織が、実はおぞましく危険なものであったという、当時ジョーンが感じたかもしれない深いショックと、彼女のバチカン陰謀説とを結びつけるのは、自分の深読みかもしれない。

でも、ひとつ確かにいえるのは、
「自分の夫に『もうお前とは二度と旅行したくない』と言われたこと」
「自分の夫に無視されるようになったこと」
「自分の夫が自分の目の前で苦しみながら死んでしまったこと」
という事実の重みを自分のものとして受け止める強さを持たないとき、「バチカンの陰謀」などという、自分の力の及ばない巨大な組織を背景とするサスペンスまがいのストーリーの中にこれらの出来事を位置づけることが、心の平衡を保つのに役立っているのではないかと言うことだ。

それにしてもバチカンだなんて、荒唐無稽でどことなくおかしみがあるのが、さすがにグリの母親だなあと思う。グリとジョーンは犬猿の仲といってもよいが、私から見るとグリは大好きだった父親のジェリーとは何の共通点もなく、本当にジョーンにそっくりだ。政治経済社会を論じたがり結構知識もあるところ、ちょっとドジなところ、びっくりするほど服装に構わないところ、そして料理が下手なところがそっくりなのだ。これは、グリがジェリーからではなく、ジョーンから受け継いだ性質だ。(私もジョーンにはイライラすることもあるし、ジェリーのように「ジョーンと一緒に旅行するのはこりごりだなあ」と今でも思っているが、いつも心の中で「こんなに素敵な息子を産んで育ててくれて有難う!」とも感謝しているのだ。だから私にとってはとても大切な人だ。)

不思議なことに、この日の私とジョーンとの会話を境に、ジョーンはぴたりとバチカンの陰謀の話をしなくなった。これまで皆に無視されていたためにエスカレートしたのが、耳を傾けてくれる人に向かって話すことによって、逆に自分の言うことの矛盾に気づいたのかもしれない。

したり顔でこんなことを言っている自分も、ジョーンとそう違いはしない。愛する人の死は、ナマのまま受け止めるにはあまりに強烈過ぎる。死はあまりに理不尽なのだ。だから荒唐無稽であれ常識的であれ、何かのストーリーの中に押し込め、死を意味づけることによって消化するしかないのだ。

****

ジェリーの死をめぐって、他のみんなも様々なストーリーをつむぎだしていくようだった。

死の翌々々日の朝、セントフィンバーグ教会のミサでは、教区司祭が「死は終わりではなく、将来私たち皆が行く場所での、新たな生の始まり」と壇上で言った。そう信じたいが、本当にそうなのだろうかと私は考え込んでいる。

この教区司祭は、グリが7歳のときのコミュニオンの司祭だったそうだ。この神父はその後すぐ教区を去ったが最近になって戻ってきて、はからずもグリの父親の葬儀のミサの司祭となった。グリはそこに偶然とは思えない不思議さを感じている。でも、この神父は、通夜の晩にスニーカーをはいたまま現れたり、埋葬ではサングラスをかけていてまるでマフィアみたい、参列者を見下したような話し方をすることから、グリも親族の誰も、彼の言葉を感動をもって心に納めることができないでいる。

司祭自身も信じていないように思える死後の生というストーリーの外側で、ノールもグリも、ジェリーの魂がまだ生きていることを信じたいのだろう。

末っ子のノールは、
「ジェリーが倒れたとき、僕は自分の家のバスルームで眉毛を切りそろえていたんだよ。ちょうどその時、鏡が床に落ちて砕けたんだ」
と言う。

グリは、ジェリーの死の翌朝まだ夜の空けきらないうちにベッドの上に起き上がって朝焼けのさしてきた空を見ていた。その時、白くて丸い雲が空のとても低いところにひとつだけ浮かんでいるのを見た。その雲は、まるでグリに話しかけるようにゆっくりとゆっくりと流れていった。

グリは、
「あれはきっとジェリーだったんだよ」
とぽつんと言う。

****

一方、子供の頃から「あなたの知らない世界」などの霊界番組に日頃からさらされており、最近では「オーラの泉」の影響や(笑)立花隆の「臨死体験」などから霊魂の存在をほぼ科学的事実のように受け入れてしまっている自分が、ダブリンからコークに向かう車の中でジェリーの死の知らせを受け取ってまず感じたのは、
「ジェリーともうパブでビールが飲めないのか。さびしいなあ」
と言う気持ちと、
「ジェリーは今どんな気持ちでいるかしら」
という心配だった。

アールウッドに着いてベッドに横たわるジェリーの冷たい手を握り締めたとき、いちばんつらかったのは、ジェリーの死そのものよりも、取り乱して泣き崩れているグリの姿を見ることだった。私は立花隆の「証言・臨死体験 (文春文庫) 」を思い出して、ジェリーは、心臓が止まって徐々に死につつある体の中にいるのではなく、天井の方から私たちを見下ろしているに違いないと思った。そして、ジェリーは自分がいったいどうなったのか分からず、泣いているみんなを見下ろしながら途方にくれているに違いないと思った。そして、自分がここにいるのに誰も気がついてくれないのをさびしいと思っているかもしれなかった。

だから天井の方にジェリーの姿を目で探しながら、「ジェリー、そこにいるのはちゃんと分かっているから。心配しないでね」と心の中で言った。ジェリーにこの言葉が届いてくれるといいなと願った。

翌日のお通夜(Rosary)では、フュネラル・ディレクターが管理する霊安所に、例のスニーカー神父がやってきて、樫の棺に綺麗に納められたジェリーと親族の前で祈りを唱えた。

Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee;
blessed art thou amongst women, and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners, now and at the hour of our death. Amen.

神父の早口の祈りの後に、親族全員が祈りを復唱し、これを何度も何度も繰り返すのだ。(後でインターネットで調べたら、これはロザリオの祈りと言って150回繰り返すものなのだそうだ。)この神父は、祈りの途中に携帯電話が鳴り、片手でテキストメッセージを送りながら祈っていたとかで、親族たちの大顰蹙を買っていたが、私はそんなことには気づかず、皆の早口の祈りの声に圧倒されていた。

たぶん、これまでどうして良いか分からず、そのあたりをさまよっていただろうジェリーも、お棺に納められている自分の姿を見、人々の祈りの声を聞くうちに、いよいよ本当に自分が死んでしまったことに気づいて、悲嘆にくれているのではないかと思うと、ジェリーがかわいそうだった。

スニーカー神父の早口の祈りの声は、まるで、さっさと仕事を終えたがっているようにも聞こえ、「ジェリー・コノリー、あんたはもう死んでるんだよ。だから、あきらめて早く天国にいくんだよ」と、ジェリーの戸惑いと皆と別れる寂しさを、まるで封じこめようとするかのように容赦なく続く。

私はキリスト教の祈りの言葉だけではなく、何教の祈りの言葉も知らないので、バルド・トドゥル(チベットの死者の書)や初期仏教のとぼしい知識を総動員して必死で自分の言葉でジェリーに語りかけるしかない。そうするうちに、体が皆の祈りのリズムに合わせるように前後に大きく揺れてきて、涙がどっと出てきてとまらなくなった。自分ひとりの涙にしては、多すぎるようだった。そこで、こんなに涙が出るのは、ジェリーの分も一緒に泣いているからだと思った。

これが、ジェリーの死についての私のストーリーだ。

このストーリーは今も続いており、このなかで、ジェリーの悲しみが徐々に薄れて、バルド・トドゥルが言うように、光に導かれてより高い生へ向かっての階梯を上り始めていてくれますように、と私は絶えず祈っている。でもその祈りはジェリーのためであると言うより、私のためにあるのだ。死後の世界などと言うものは本当はどこにもなく、ジェリーももうどこにもいないのかもしれないのだから。

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今年の春に、デニスとヒラリーに生まれた双子チャーリーとダニエルにミルクを上げている、グリとジェリーの幸せな姿。



JUGEMテーマ:スピリチュアル

 

アイルランド風葬式

7月から、仕事と勉強のことばかりを考えながら、いつも全速力で走っているような感じだった。ところが、10月に入るとほぼ同時に、何か胸騒ぎがし、息切れがし、スピードがにぶってきた。

毎晩10時ごろに家に戻り、ベッドの中で30分だけ古代中国の戦記物を読んでは、自分の仕事に当てはめてあれこれ考えるのが楽しみだったのだが、10月に入ると、ベッドの横に積んであったアルボムッレ・スマナサーラ師によるアビダンマ講義録「ブッダの実践心理学」を読むようになった。

2巻を読み終え、3巻を読み終えようとしていた先週の10月24日(日)の朝、アイルランドはコーク・シティーにあるグリの実家を訪ねるべく、グリと2人飛行機に乗った。

グリの実家は、クリスマスシーズンに訪ねるのが常だったが、去年に続き、今年もクリスマスは暖かい場所に行きたいという私の願いを聞き容れてくれる代わりに、10月24日(日)の自分の誕生日は故郷のアイルランドで、友人や兄弟たち、大好きな父親のジェリーと過ごしたいというのがグリの望みだった。

7月には飛行機の切符も予約したが、旅行の日が近づくにつれ、10月の繁忙期に4日間も休みを取るのは自分にとって少々気が重かった。でも、グリはこのアイルランド旅行をとても楽しみにしていたので、仕事のスケジュールを何とか調整し、PCを持って行けば向こうでも仕事ができるだろうと自分に言い聞かせた。読みかけのアビダンマ講義録もかばんに入れた。私たちは親戚や友人に配るベルギーチョコレートやビスケットをトランクいっぱいに詰め込み、いざ!と出発した。

でもグリがこれほど楽しみにしていたアイルランド旅行は、初日から、グリにとっても私にとってもとんでもない展開になった。
                                                                                                                    
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当日、ダブリン空港でレンタカーを借り、南に向けて車を走らせていたとき、グリの携帯電話が鳴った。運転席でハンドルを握っているグリの代わりに私が携帯電話を取ると、しゃがれ声が何か叫んでいる。泣いているようにも聞こえる。私は、一瞬、義父のジェリーが心臓発作を起こして助けを呼んでいるのかと思ったが(ジェリーは心臓が弱く去年のクリスマスに2度目の発作を起こしていた)、相手は、グリの弟のデニスだった。

その声が、「ジェリーが死んじゃった」と泣き叫んでいる。でも私の聞き違いかもしれない。グリにそう言って「車を停めて」と何度も頼んだが、グリは停めようとしない。コークシティーまであと200キロ。グリの表現を借りると、ジンみたいに透明な快晴の日だ。ぞっとするほど綺麗な紅葉に縁取られた緑の丘の中の道を、グリは顔をこわばらせたまま無言で車を走らせ続ける。

果たして、コーク・シティーのアールウッドの実家に飛び込んだ私たちを迎えたのは、ベッドの上で冷たくなっているジェリーだった。ベッドの横に腰掛けて、手と額に触ると、まだやわらかくて、冬の日に外を歩きすぎて冷たくなった、生きている人の手みたいだった。

義母のジョーンの話によると、ジェリーは死の数分前に心臓が苦しくなり、自分で医者に電話をかけようとしていたそうだ。そうするうちに心臓が止まってしまったので、ジョーンはデニスに電話をかけた。数分後に駆けつけたデニスが救急車を呼び、自分も心臓マッサージを試みたが、止まってしまった心臓を救急隊の人も元に戻すことはできなかった。

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私とグリがジェリーの冷たい手を握ったまま呆然としている内に、黒いフロックコートを着て、青白い顔に目の下に隈のある、とても陰気くさく重々しい顔をした男が2人やってきた。2人は一家の男たち(グリ、デニス、末っ子のノール)と一緒に、狭い応接間に入ってなにやらごそごそ相談している。

2人が帰った後、「あの人たちだれ?」と聞くと「フュネラル・ディレクター」と言うことだった。日本で言う葬儀屋に相当するのだと思うが、「ディレクター(導く人)」と言う響きは、途方にくれている遺族たちを導いて全てを滞りなく執り行い、無事に故人を天国に送り届けてくれるような安心感を与えてくれる。

この時初めて知ったのが、アイルランドの葬式は、死の翌日から3日間続くということだった。
・翌日:お通夜
・翌々日:告別式の後、お棺を閉じ、教会に運び、安置する
・翌々々日:教会でのミサ→埋葬→披露宴(?)    

アイルランドの山間部では、亡くなってから埋葬までは、家に遺体を安置し、親族が交代で寝ずの番(Wake)をすると言う風習が今でも残っているそうだが、ここ、コーク・シティーのような都市部ではその風習は廃れ、亡骸はお棺に入れられたままフュネラル・ディレクターの管理する霊安所に二晩、教会に一晩安置される。

お棺は、親族の男たちが8人で肩に担ぎ、霊安所から教会、教会から墓地へと運ぶ。グリと弟のデニス、ロジャー、ノール、従兄弟のジョン、友人も入れた8人の男が、重い樫の棺を肩に担いで歩く後ろを、女たち、義母のジョーン、デニスの奥さんのヒラリー、ジェリーの姉のパッツィ、ジョンの奥さんのロール、ジェリーの従妹のブリード、私が、4人ずつ互いにしっかりと腕を組み合ってその後に続くのだった。

びっくりしたのは、告別式とミサに来てくれた人の数の多さだった。かなり大きな教会がぎっしり埋まってしまった。200人はいたと思う。ジェリーは有名人でも金持ちでもない。家具を作ったり、家の内装を手がけたりする職人さんだ。参列者の中には、ジェリーの同僚や友人だけでなく、近所の人もいたし、グリの友人もたくさん来ていた。

お棺を乗せた霊柩車がゆっくりと町を横切っていくときは、すれ違う見知らぬ人々がさっと十字を切る。アイルランドの人々が暖かいなあと思うことはしばしばだが、このときほどそれを感じたことはなかった。

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ジェリーは本当に優しい人だった。私が抗がん剤治療中は、時々優しい声で電話をかけてくれた。グリが実家に帰ると、「まりあの好物だよ」と言って必ずチキンの丸焼きを作ってグリに持たせてくれたし、私の両親がヨーロッパに来ると知ると、アイリッシュ・ウィスキーをグリに持たせてくれた。ウィスキーには、私の父に宛てた「処方箋」が添付されていて、「1日三回服用すること」と書かれていてみんなで大笑いした。

クリスマスに実家に行くと、「ホーム・スウィート・ホーム!」といって迎えてくれた。私とグリが寝るベッドは必ず湯たんぽを入れて暖めていてくれた。

ジェリーが綺麗に手入れしていた庭には、鳥たちのために小さな水浴び所が作ってあった。クリスマスの翌朝、グリは「温泉だ」と言ってそこに熱湯を入れてしまった。もうもうと湯気を立てている水浴び所を見たジェリーが「オー・マイ・ゴッド!」と叫んであわてて水を取り替えていた。

グリも私もジェリーの優しさに守られて、甘えていたのだ。

初日からお通夜の晩までは、グリも私も捨て子の姉弟みたいに手を取り合っておいおい泣いてばかりいたが、告別式の後、お棺のふたを閉じるときにはだいぶ落ち着いていた。ミサでは、グリはほとんど涙を見せず、200人の聴衆を前に壇上で立派な告別のスピーチをした。原稿も読まず、簡潔で力づよいびっくりするほど立派なスピーチだった。埋葬の時には2人とも完全にジェリーとお別れをする覚悟ができていた。そして、最後のパーティーでは、誰もが、昼から晩までみんなで食べたり飲んだり騒いだりして楽しくすごすことができる心境になっているのだ。

4日間の間に、色々なことを思い出したり、考えたりする。4日間、故人の死と別れとを色々な角度から、さまざまに感じ、味わうのだ。でもこの4日間は、何を見ても、どんなに飲んで騒いでも、どこか非現実的だった。少し気を抜くと、ジェリーの死と言う現実に押しつぶされそうになる。私もグリも「リンボ」をさまよっているような気持ちだった。

ジェリーの死以前の世界と死以後の世界は一見同じように見えるけれど、何かがガラッと入れ替わってしまったようだった。

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でも、お通夜からパーティーまで、ジェリーとグリの親族と親密な時を過ごせたのは嬉しく楽しいことだった。特にめったに会えないアメリカに住むグリの弟のロジャー、ダブリンに住むジェリーの従兄弟のデビッド・ハリントン、イギリスのヨークシャーからはるばる駆けつけた、義母のジョーンの兄夫婦ジョンとフランシスとその娘のレイチェルにいっぺんに会えたのは本当にうれしかった。

義母のジョーンと久しぶりにゆっくり話せたのも嬉しかった。(ジョーンは心の防衛機構が働いているのか涙をほとんど見せず、「ジェリーはバチカンの陰謀によって殺された」と言い続けている。この数年間はジェリーと二人でアールウッドの家に住みながらもお互いにほとんど口をきかない冷たい関係になっていた。ジェリーがいなくなった後、がらんとしたアールウッドの家でひとりきりになり、孤独からますますおかしくなってしまうのではないかと心配だ。それについてはまた書きたい。)

特にうれしい驚きは、グリの末の弟のノールにパートナーができたことに気がついたときだった。初めて会った時(ノールが17歳の頃)から34歳になる今日まで、ノールにはパートナーらしき人がいず義姉の私も少々心配していた。やんちゃで喧嘩っ早く、子供っぽい長男のグリと違って、三人の弟たちは皆大人っぽく、とてもやさしく感じがよい。その中でも一番無口なノールは人一倍気を使い、どこか一人で何かを耐えているようなところがある。ところが、今回、ジェリーの死の日からお通夜、告別式、パーティーと、最後までノールに付き従い、親族と共に棺を担ぎ、私たちにもさまざまに気を配ってくれた見知らぬやさしい青年がいた。その青年ブレンデンがノールの新しい(初めての?)パートナーだった。

ウェスト・コークの美しい入江キンセイルにあるデニスの家でのパーティーの後、飲みすぎたグリは、真っ暗な山道を川に落ちずにコークシティーまで運転して帰ることができそうになく、私たち2人の酔っ払いは近隣のベルグリにあるノールとブレンデンの愛の巣にお世話になる事になった。

荒野の一軒家みたいなその家で、4人でまたワインを飲みなおした。ブレンデンは恥ずかしそうに、ドビュッシーのアラベスクや、ショパンのワルツをピアノで弾いてくれた。それから、酔っ払ったノールとブレンデン、グリと私はエリック・サティのJe Te Veuxワルツに合わせて抱き合って踊った。その後、私もウン十年触っていなかったピアノに恐る恐る触り、フォーレのドリー組曲(らしきもの)をブレンデンと連弾した。



せっかく持ってきた「ブッダの実践心理学 」は一度も読む暇がなく、弟のロジャーがくれたジェリーの写真を中にはさむのに役に立っただけだった。

さよなら、ジェリー。長い間ほんとうにありがとう。

ジェリー


JUGEMテーマ:スピリチュアル
 

海が少し見える小さい窓一つもつ (放哉)

週末、3時間ぐらい車を走らせて、フランス、ブーローニュ・シュル・メールの町に来てみた。ちょっと荒涼とした港を見て、通りがかりのビストロでホタテガイとエビを食べて、ちょっと甘すぎる白ワインを飲んで、日が沈む前にホテルに帰ってきた。外はすごい嵐だ。突風とかもめの鳴き声で小さなテレビの音はかき消されてしまう。(これは誰か知らない人が撮影したブーローニュ・シュル・メールの浜辺。)



明日は第一次大戦時に、ドイツ人たちと闘うために、イギリス人たちが掘った(そしてその中で死んでいった)トレンチを見に行くのだ。と、狭いホテルの部屋の机にパソコンを広げてこれを書いている。

さて青空文庫はすごい。尾崎放哉の句集を見つけた。(青空文庫はこのブログのリンクからも入れますのでぜひご覧ください。青空文庫は小栗虫太郎も久生十蘭も読み放題で、北海岸のへき地住まいにとっては誠に有り難いのでした。)

尾崎放哉は、一高・東京帝大法学科の後、保険会社に就職するが36歳で罷免、その後、寺男として色々なお寺を転々とし、最後は小豆島の西光寺の奥の院南郷庵の庵主として病没、享年四一。

そう言う死に方は良いかも。私の好きな作曲家ジョヴァンニ・バティスタ・ペルゴレージもナポリの近くの海辺の町プズオリの修道院で26歳で死んだのだった。

以下は、死の前の1年間の彼の句(と言えるのかどうか)。(同じ青空文庫で読めるエッセイ「海」と「石」もすごい。)

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眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る

いつしかついて来た犬と浜辺に居る

さはにある髪をすき居る月夜

漬物石になりすまし墓のかけである

すばらしい乳房だ蚊が居る

あらしの中のばんめしにする母と子

あらしのあとの馬鹿がさかなうりにくる

足のうら洗へば白くなる

海が少し見える小さい窓一つもつ

わが顔があつた小さい鏡買うてもどる

ここから浪音きこえぬほどの海の青さの

すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ

とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた

なん本もマッチの棒を消し海風に話す

山に登れば淋しい村がみんな見える

雨の椿に下駄辷らしてたづねて来た

叱ればすぐ泣く児だと云つて泣かせて居る

花がいろいろ咲いてみな売られる
(花がいろいろ咲いてみんな売られる)

秋風の石が子を産む話
(秋風の石が子を産む話し)

投げ出されたやうな西瓜が太つて行く

壁の新聞の女はいつも泣いて居る

鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た

盆燈籠の下ひと夜を過ごし故里立つ
(盆燈籠の下ひと夜を過ごし古郷立つ)

少し病む児に金魚買うてやる

風吹く家のまはり花無し

山は海の夕陽をうけてかくすところ無し

水を呑んでは小便しに出る雑草

花火があがる空の方が町だよ

一疋の蚤をさがして居る夜中

あけがたとろりとした時の夢であつたよ
(あけがたとろりした時の夢であつたよ)

おそい月が町からしめ出されてゐる
(をそい月が町からしめ出されてゐる)

わが肩につかまつて居る人に眼がない

蓮の葉押しわけて出て咲いた花の朝だ

切られる花を病人見てゐる

お祭り赤ン坊寝させてゐる
(お祭り赤ン坊寝てゐる)

陽が出る前の濡れた烏とんでる

蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽

お遍路木槿の花をほめる杖つく

病人花活けるほどになりし
(病人花活ける程になりし)

朝靄豚が出てくる人が出てくる
(朝靄豚が出て来る人が出て来る)

迷つて来たまんまの犬で居る

すでに秋の山山となり机に迫り来
(已に秋の山山となり机に迫り来)

久し振りの雨の雨だれの音

都のはやりうたうたつて島のあめ売り

障子あけて置く海も暮れきる
(障子あけて置く海も暮れ切る)

あらしがすつかり青空にしてしまつた

淋しきままに熱さめて居り

淋しい寝る本がない

月夜風ある一人咳して

お粥煮えてくる音の鍋ぶた
(お粥煮えてくる音の鍋ふた)

一つ二つ螢見てたづぬる家

爪切つたゆびが十本ある

鳳仙花の実をはねさせて見ても淋しい

障子の穴から覗いて見ても留守である

入れものが無い両手で受ける

朝月嵐となる

秋山広い道に出る

口あけぬ蜆死んでゐる

せきをしてもひとり
(咳をしても一人)

墓地からもどつて来ても一人

恋心四十にして穂芒

なんと丸い月が出たよ窓

ゆうべ底がぬけた柄杓で朝

麦まいてしまひ風吹く日ばかり

今朝の霜濃し先生として行く

となりにも雨の葱畑

くるりと剃つてしまつた寒ン空

夜なべが始まる河音

よい処へ乞食が来た

雨萩に降りて流れ

師走の木魚たたいて居る

松かさそつくり火になつた

風吹きくたびれて居る青草

嵐が落ちた夜の白湯を呑んでゐる

寒ン空シヤツポがほしいな

蜜柑たべてよい火にあたつて居る

とつぷり暮れて足を洗つて居る

昼の鶏なく漁師の家ばかり

海凪げる日の大河を入れる

山火事の北国の大空

墓のうらに廻る

あすは元日が来る仏とわたくし
(あすは元日が来る佛とわたくし)

夕空見てから夜食の箸とる

窓あけた笑ひ顔だ

おそくなつて月夜となつた庵
(をそくなつて月夜となつた庵)

小さい島に住み島の雪

名残の夕陽ある淋しさ山よ

故郷の冬空にもどつて来た

雨の中泥手を洗ふ

山畑麦が青くなる一本松

窓まで這つて来た顔出して青草

渚白い足出し

貧乏して植木鉢並べて居る

霜とけ鳥光る

あついめしがたけた野茶屋

森に近づき雪のある森

肉がやせて来る太い骨である
(肉がやせてくる太い骨である)

一つの湯呑を置いてむせてゐる

やせたからだを窓に置き船の汽笛

すつかり病人になつて柳の糸が吹かれる

春の山のうしろから烟が出だした(絶筆)


JUGEMテーマ:小説/詩


徳は孤ならず

2006年7月、乳癌にかかっていると言われた時は、一瞬冷水を浴びたような気もちがしたが、わりとすぐに、
「まー、20年以上も健康診断してなかったんだから自業自得かあ」
とか、
「人間生まれた時から、少しずつ癌にかかって死んでいくようなものだしね・・・」
と自分を納得させ、ちょちょっと切って仕事にはすぐ復帰できるものと安心していた。

でも、手術の前日にMRIでみたら腫瘍がかなり大きくなってまして(5cm)、しかも乳腺の中にとどまっていない浸潤性の癌だったために、すでに血液やリンパ液を通して体全体に癌細胞が広がっている可能性があった。手術はとりやめになり、翌日から「すぐに抗がん剤治療をします」と告げられ、有無を言わせずに6か月の抗がん剤治療が始まってしまった。

抗がん剤治療が終わった後は、腫瘍自体もかなり縮んでいるはずではあるが、やっぱり手術はしなくてはならないらしかった。そして私のようにこんなに腫瘍が大きくなっていた場合は、テュモレクトミー(腫瘍摘出)ではなく、マステクトミー(乳房全摘出)は必須だと言うことだった。

軽佻浮薄な私は、
「やったあ。切った後は、シリコン入れてFサイズの胸になるんだ」
と言って、友人の熟女たちを悔しがらせた。そして、冗談ではなく、本当にその日を楽しみにしていた(笑)。乳癌の手術で乳房を失った女性に対する乳房再建手術の費用は、当地ベルギーでは保険でカバーされるのだ。

手術の日が近づいてきた。手術前のMRIを撮影に行き、結果を待つ間、同じ病院の乳房再建手術の専門医を紹介され会いに行った。ゴールドシュタインという名の(笑)その整形外科医は、パワーポイントのプレゼンテーションで、自分が手がけた素晴らしい再建後の乳房の写真をたくさん見せてくれた。ゴールドシュタイン先生は、しわが全然なくて30代後半にしか見えない顔と、60歳ぐらいと思える老成した声やしゃべり方とがぜんぜんマッチしてなくて、整形手術を受けているに違いなかった。

私は素晴らしい未来の自分のヴィジョンにうっとりしてしまったが、同行した亭主のグリは、その写真を見る内に気分が悪くなってしまったらしかった。そして、
「再建手術なんてよそうよ。シリコンを入れると、癌が再発した時に発見しにくくなるって言うよ」
「でも、保険でただでできるよ。それに、大きなおっぱいの方があんたも嬉しいでしょ」
と私が言うと、
「僕はおっぱいはどうでもいい。僕はレッグ・マンなんだ」
と、グリはおごそかに言った。
「レッグ・マン?」
男には二通りあって、女の人の足に注目するレッグ・マンと、胸に注目するティッツ・マンに別れるのだそうだ。グリによると、前者は自立した女を求める自立した男であるのに対し、後者はマザコンだと言うのだった。前者が狩猟民族であるのに対し、後者が農耕民族であるとも言った。レッグ・マンの偏見というものだろう。

日本から時々激励のメールを送ってくれていた、ブログ「どこかの細道」の著者の老真さまにもその話をすると、
「やはり年末に手術をするのですか?腫瘍が消えても必要なのですか?でも、一つだけ僕の希望を言わせてもらうと、もしそのチャンスが有っても、Fカップの胸にはなってほしくないのです。僕には、胸の大きい女は痴女にしか見えないのです。」(無断転載)
と、真剣に止められた。これも偏見かも(笑)。おっぱいに関する議論は尽きない。

***

さて手術の日が近づき、手術前の最終MRIを撮影があった。しかし、MRIの結果が出てきて、さらにひと悶着があった。

MRIの映像を見て、それに対する評価を書く専門医が、私の最終MRIに腫瘍の影も形も写っていないため混乱してしまったのだ。つまり6か月前のMRIに写っていたばかでかい腫瘍がうそのように消えていたのだった。

抗がん剤治療をしてくれたオンコロジスト(腫瘍専門医)のボンデュー先生の検診でそう告げられた私は、
「ミラークル(奇跡だ)!」
と叫んだ。
「なによ、僕をいったい誰だと思ってるの、ボンデュー先生だよ」
と先生は嬉しそうだった。先生にとっても、自分の処方した抗がん剤治療で患者の腫瘍が完全に消えてしまったのは初めてのケースだったようなのだ。

その時、フランス語がしゃべれないためいつもボンデュー先生と私のやり取りを、ご主人様の会話に耳を傾ける犬のように辛抱強く聞いていたグリが、たどたどしいフランス語で話しだした。
「腫瘍、なくなった。テュモレクトミー(腫瘍摘出)、オーケー?」
「グリ、あんた何を言いたいの?英語で言ってごらん?」と私。
「腫瘍、なくなった。マステクトミー(乳房全摘出)、パ・ネセセール(必要ない)」
わたしより先にグリの言いたいことを理解したボンデュー先生が、優しく言った。
「腫瘍がなくなってもね、マステクトミーは必要だと執刀医のM先生は言っているよ。再発するリスクをなくすためにもね」

グリは納得できないようだった。
「もういいよ〜、先生の言う通りにしようよ。あっちは専門家なんだからさ」
という私に、グリは珍しくしんみりした口調で言った。
「まりあの癌は、僕は自分のせいだと思ってるんだよ。もしまりあが胸を切ることになったら、僕は傷口を見ていつも悲しくなるよ。そんな風になりたくないんだよ」

グリのフィットネスジムの友達やジャンおじさんが、別のがんの専門病院の乳癌専門の外科医として当地で大変名高いN先生のことを聞きつけて親切に教えてくれたので、その先生にセカンドオピニオンを仰ぐことにした。手術の予定日は1月12日、名高いN先生とのアポを取るのは不可能であるような気がしたが、なんと正月の1月2日の早朝に10分間だけのアポを取ることができた。

N先生は、枯れ木のように痩せて背が高く、修道士のように静かで飾り気のない、でもとても若い先生だった。これから手術なのだろうか、半袖の白衣を着ていた。グリは、ボンデュー先生からもらいうけてきた、私の古いMRIと最新のMRIを先生に見せ、
「これは、PCR(完全寛解:癌細胞が完全に消えること)ですよね」
と、習い覚えたばかりの専門用語を使って尋ねた。
「手術をしなければ、PCRと言うのはあり得ないんだよ…」
と言いながらMRIをライトに透かして見た先生は、こちらを振り向いて目を輝かせ、
「ははは・・・これは、本当にPCRだな!」
と言いながら初めて笑い顔を見せた。
「マステクトミーをしなくてはいけないのでしょうか?」
と尋ねるグリに、
「私だったら、二段階のアプローチをとると思う。まず最初の手術ではテュモレクトミーとリンパ節除切だけをして、その分析結果を見て必要であればマステクトミーをする」
そう言って、N先生はその場で私の執刀医へのレターを書いてくれた。

グリはそのレターを腫瘍医のボンデュー先生に見せ、
「これがN先生からのセカンドオピニオンです。執刀医のM先生に乳房全摘出ではなく、腫瘍摘出の手術に変えてもらうよう頼めないでしょうか?」
と聞いた。でも、手術は1月12日、M先生は年末年始の休暇でブラジルに行っており、帰ってくるのは前日1月11日の晩だと言うことだった。

ボンデュー先生は、私たちが他の病院の医師にセカンドオピニオンを求めたことに気を悪くする様子もなく、
「1月11日の晩にM先生が休暇から帰ってくるころを見計らって、自宅に電話をかけてあげるよ。まりあさんが、マステクトミーではなく、テュモレクトミーに変えたいと言っていると伝える。執刀医も本人の意思に反してマステクトミーをすることはできないからね」
そう言ってくれた。

***

手術の日が来た。M先生は病室に現れない。ボンデュー先生からM先生に話が通じているのか、果たして定かではない。話が通じてなくて、私が麻酔で眠っている間に、全部切り取られてしまうかもしれない・・・そう思うと、これまでとくに未練もなかった自分の胸であるが、強烈にさびしくなる。もうFカップなんかいらない、とも思う。

同時に、「全摘出されちゃったらそれでも仕方がない。それも運命であろう」とも思う。死ぬかもしれない、と思った時もそうだったが、私はけっこうあきらめが良いのだ。

車輪付きのベッドに寝かされて看護師さんに地下に運ばれ、手術前の患者たちのベッドがザーッと並べられている倉庫のような場所でベッドに寝たまま手術室に運ばれるのを待っている時に、いきなりM先生のでっかい顔がぬっーと私を見降ろして、
「きみ、マステクトミーではなくて、テュモレクトミーを希望するんだってね。全部切らないってことは、とても危険なんだよ。再発のリスクが残るんだよ。どうするかい?えっ?」
と最後の選択を迫るのだった。

M先生のちょっとガマカエルに似たやぶにらみの目で上から迫られて、(こんな恰好で尋ねられたって~)と思うが、グリの努力を無駄にしないためにも、
「はい。テュモレクトミーを希望します。すみません」
と蚊の鳴くような声で、でもはっきり答えた。

***

手術の抜糸のためにM先生のキャビネを訪れた。グリが何気ない顔をして尋ねる。
「1回のマステクトミーの手術はどのくらい時間のかかるものなんですか?」
「90分だね」
「では、テュモレクトミーは?」
「180分かな」
「先生は、1日に何人ぐらい手術をするんですか?」
「昨日は3人、明日は5人」
「全部マステクトミーですか?」
「そうだね」
M先生は私のスティッチを小さいハサミで切りながら、淡々と答えた。

キャビネを出ると、グリは、
「きいたかよ、あのブッチャーの言葉。つまり、テュモレクトミーは、マステクトミーの2倍の時間がかかるんだよ。再発のリスク云々だけじゃなくて、コストパフォーマンスも悪いのさ。あいつ、自分がマステクトミーした患者を、あの整形外科医のゴールドシュタインの所に送り込んで、いい商売をやっているんだ」
「そんなこというの、やめてよ。M先生は私を治してくれたんだから」
そう私は言った。

スティッチを取り終わった時、M先生はガマガエル風の顔を彼なりにほころばせて、
「さあ、悪いことは全部終わって、これからはいいことばかりが起こるんだよ」
と私に言った。ここでM先生は、悪い魔女の「呪い」の逆をやってくれたのだ。ガマカエルみたいな顔をしてるけど、「いいことばかりが起こるんだよ」と愛の妖精のおまじないのようなことをやってくれたのだ・・・。

***

それからしばらくの間グリは、「自分のワイフをマステクトミーのブッチャーからどのように救ったか」を、パブやフィットネスジムの友達や同僚をつかまえては、得意になってしゃべり続けた。パブの仲間の中には、「わたしも乳癌の手術をしたのよ」とか「お母さんを乳癌で失った」という人がかなりいて、皆がそれぞれ真摯にこの話を受け止めて、色々な意見を言ってくれた。

そんな時、父親と母親が来てくれた。抗がん剤治療が始まったころに仕事に無理やり穴をあけて3日間だけの強行軍で駆けつけてくれた両親だったが、今回は4日間ともう少し余裕があった。わたし自身も白血球値がほぼ元に戻り、食欲もあったので、近くの森にドライブに行ったり、おしゃれなイタ飯屋で一緒に冷たい白ワインといっしょに魚料理を楽しむ余裕があった。

そのイタ飯屋で食事が終わりデザートが来た頃、グリがまた「自分のワイフをマステクトミーのブッチャーからどのように救ったか」の話を始めた。静かに話を聞いていた父親が、その時、珍しく反論した。
「でも、マステクトミーをしなければ、それだけ再発のリスクは大きくなるよね」
グリはむっとして、
「でも、PCRだったんだよ。それだけはっきり出てるのにいきなりマステクトミーはひどいよ」

父親は父親で、私の検査の結果が出るたびにそれを日本に送ってくれと言い、それを同僚や知り合いの乳癌専門医に見せて彼なりにセカンドオピニオンをとって、「やはりこういう場合はマステクトミーでしょうね」というコメントを得ていたらしいのだ。遠くに離れていたから、グリみたいに直接私のそばで動いたり、アドバイスをすることもかなわず、ずいぶんもどかしい思いをしていたことだろう。

2人は、私と母親を無視して激論に突入してしまった。ふだん穏やかな父がこんなに熱くなったのをみたことがない。おろおろして割って入ろうとする私に、母親は、
「やらせておきなさい。パパは若い男の子の扱いには慣れてるんだから」
と言って、すました顔でコーヒーをすすっている。

最後に、グリが、
「でも、僕はまりあの胸を守りたいだけだったんだよう」
と言って涙をポロリとこぼしてしまったので、議論は終結した。

***

ボンデュー先生と抗がん剤治療のスタッフを始め、執刀医のM先生、麻酔医の先生、放射線治療科の人々の努力のおかげで、全摘出をしなかったにもかかわらず、今のところ再発もなく元気に生きながらえている。

でも抗がん剤治療の間に生理が完全に止まってしまい、化学治療とその後のホルモン治療のせいで、グリが決死の思いで守ってくれた胸は完全にぺったんこの切っても切らなくてもあまり変わらないような状態になってしまった。また全摘出は免れたにしても、腫瘍を切除した部分がぼこっと陥没していて、一目で「分けありの胸」とわかります。女ではなくなったような感じもするが、なんだかさっぱりしてこれもなかなかいいなと思うようになっていた。

昨夜、以前もブログに登場した欧州をまたにかける天才セールスマンのタニさんをはじめとするI社の人々と飲み明かした。タニさんは、硬質で時にペダンティックにして知的な作風の短編小説の書き手なのだが、なぜか、夜が更けるにつれ、おっぱいの話を皆で延々とすることになってしまった。その中で、どさくさにまぎれて私はNHK(日本貧乳協会)の所長に任命されてしまった(笑)。

やっぱりペタンコにになったことを皆に気付かれていたのか・・・とショックではあったが、自分の胸にまつわる大騒動の顛末を以前から整理して書きたいなと思っていたのを、これをきっかけに実行することにしました。乳癌の手術をされる方は参考にしていただければ幸いです。参考にならないか。

最初、このブログ記事には「おっぱい騒動」という標題をつけようと思ったのですが、それではあまりに品がないのでこのような表題になりました。「徳は孤ならず」は論語の言葉ですが、堀口大学はそれに「乳房は二つある」と続けました。 (堀口の詩の全文を引用した、のーらさんのブログに勝手にリンクさせていただきました。)

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失うことから得られるもの

これまで拙ブログの中で、自分が癌になったことのポジティブな面ばかりを(笑)書いてきたように思いますが、ネガティブなことが全くなかったわけではない。(当たり前ではありますが。)

自分は癌になったことでたくさんの貴重なものを得たと思うけれど、もちろん失ったものもある。つまり、まあ、とんとんと言うところだろう。

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失ったもののひとつは、眉毛だ。

癌になる前の私は、自慢ではないが、鹿児島出身の海軍軍人だった父方の祖父から受け継いだ、実に立派な眉毛をもっていた。ある日、この祖父の写真を亭主のグリに見せたら、
「きゃー、眉毛そっくり」
と大喜びして、それからというもの機会あるごとに、私の眉毛をシャリシャリとなでて、
「大丈夫。きっと、この眉毛が導いてくれるよ」
とわけのわからないことを言って元気づけてくれるようになった。

それが、抗がん剤治療を開始して2週間位たった時、毛が抜け始めた。お風呂に入ると、バスタブは、抜けてしまった私の毛で真黒になってしまう。私は映画「黒い雨」で田中好子粉する原爆被災者の娘が風呂場で髪がごそっと抜ける恐ろしいシーンを思い出したが、グリは、
「うはあ。ゴリラがうちの風呂に入りにきた後みたいだなあ!」
と面白がっている。
「このまま少しずつ毛が抜けていくのを待つよりは、いさぎよく剃っちゃおうぜ」
とすぐに私の頭をつるつるに剃ってくれ、「ソリダリティ(団結)のため」と言って自分の頭も剃ってしまった。

治療が進むにつれて、髪だけでなく全身の毛が抜けていく。鼻毛が抜けたのは嬉しかったが、眉毛とまつ毛が抜けてしまうと、顔がはっきり変わってしまうのですこしさびしい。
「でも、今の自分は昔の自分ではないんだ、今は戦いのときなんだ!」
と自らを鼓舞する役には立った(笑)。

抗がん剤治療3回目が終わったころの11月1日、ロシアの反体制活動家アレクサンドル・リトビニェンコが、ロンドンの寿司屋で倒れ、病院に収容された。何者かにより彼の体に放射線物質ポロニウムが注入されたのだ。髪も眉毛も抜けて病院のベッドに座ってカメラを見つめる彼の最後の姿が何度もニュースに流れるのを、自分も同じような姿恰好でベッドにへたばったまま眺めることになった。リトビニェンコはその3週間後に死亡した。



「ありがたいと思わないとな。君は個人的な病気を治すためにハゲになってるけど、彼はロシアと言う国の大きな病を治すためにこうなったんだから」とグリが言う。本当におっしゃる通りだ。


抗がん剤治療が終わってしばらくすると、頭には、再びおそるおそる髪の毛が生えてきた。春の芽生え。私の髪は、抜ける前はパーマもかけたことのない真っ黒でしっかりした直毛だったのが、再び生えてきたものは、茶色がかったふわふわのカーリーヘアだった。なかなかキュート。

が、眉毛は一向に戻ってくる気配はない。かつて自分を導いてくれていたものがなくなってしまったと思うと、自分が自分でなくなるようでもあり、いちまつの寂しさを感じるが嘆いても仕方がない。全身の細胞は3か月で全部入れ替わると言う。(だったっけ?) いつもおなじ「自分」があると言うこと自体が幻想なのだ。


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もうひとつ、大幅に失われたと思うのは免疫力だ。

抗がん剤治療を経験された方はご存じと思うが、治療中は、白血球をぎりぎりまで減少させるので、細菌やウィルスの感染に極端に弱くなる。逆にいえば、抗がん剤治療以前は自分の健康な体の中でいかに精緻な防衛機構が働いていたのかということを、治療進行するにつれつくづく体感することになる。これも忘れられない貴重な体験だった。

これまで自分は、自分の強靭な免疫機構に胡坐をかいて、ずいぶん無茶をして来ていた。体の警報装置が鈍感にできているのかもしれないが、免疫力も強かったのではないかと思う。風邪もめったにひくことはなかったし、虫歯にもならない、けがややけどをしてもほっておけばすぐ直る、徹夜で友人たちと飲んでコンタクトレンズを目につけっぱなしにしたまま眠ってしまっても問題なし、毎朝朝シャンして乾いていない頭を真冬の零下の風にさらし30分以上も来ないバスを待っていてもへいちゃら、同じものを食べて仲間が全員食中毒を起こしたのに自分だけ平気だったと言うようなこともあった。

タイ→インド→バングラデシュ→ブラッセルと旅をして来たクチナ君は旅先でおなかを壊さないのが自慢だったが、ブラッセルの私のアパートに着いたとたん食中毒でたおれてしまった。私とジャンおじさんでいやがるクチナ君を無理やり病院に担ぎ込んだくらいだったので、かなり深刻な事態だったのだと思う。たしかあの時は「赤痢に違いない!」と思ったんだった。

それからしばらくして、ロンドン留学中の、クチナ君の友人の小川君も私のアパートに寝泊まりするうちにこれまたおなかを壊して寝込んでしまった。(やさしい小川君は、「きっと、前夜のレストランで食べたムール貝に中ったんだよ」と言ってくれたが、だれもが暗黙の内に、私のアパートにネズミが出るせいかもしれないと思っていた。)

でも、私自身はこのアパートでおなかを壊したことはなかった。じまんじゃないけど。

それが、治療の中半からちょっと油断すると、すぐにおなかを壊したり、目が炎症を起こしたり、口内炎にかかったり、熱を出したり、風邪をひいたりするようになった。はっきり言って、わたしたちはバイキンの海の中にいる。バイキンを吸い、バイキンを飲み、バイキンを食べている。それでも大丈夫なように、免疫機構ががちっと守ってくれていたのだ。それが、痛みと共にわかりました。

治療が終わってしばらくすると、白血球値も正常に戻ったが、一度落ちた免疫力は再び昔のレベルにはもどらなかった。

そのせいか、去年の冬は合計3回もインフルエンザにかかってしまった。昔の自分からは考えられないことだ。

そして今年も一昨日からインフルエンザにかかり、タミフルを飲みながら家で仕事をすることになってしまった。(ジムにもプールにも行けず、いつもより時間ができたので、楽しくブログ記事を書くことにしました。)

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以上、失われたものは眉毛と免疫力だけではないのかもしれない。でも、何かを失うことによってしか、得られないものがある。自分が失ったものを嘆くよりも、それによって何が得られるのかなと思うと、なんだかすごくわくわくするのだ。

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