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旧題「読書 この秘密の愉しみ」を改めました。
最近本当に読書をしていないので・・・
| 病と死 | 02:12 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
| 病と死 | 21:17 | comments(9) | trackbacks(0) | ▲
以前、「鼓笛隊が攻めてくる」
戦わなければ敗北もない。自分の場合、何かと戦うと言うこと自体があまりない。競争と言う意味では、自分の知らない内に勝ったり負けたりしているのかもしれないが、競争はすきではない。人口の多い狭い国で他人と競争するのが嫌さに、こんなだれも見向きもしない穴場に逃げてきたのかもしれないとも言える。
唯一、「あ、いま自分、戦っているのかな」と思えたのは、抗がん剤治療の末期に「運動した方がいい」という主治医の言葉を真に受けた亭主のグリに、むりやりジムに連れていかれ筋トレをさせられた時ぐらいだろう。「痛くてもう動けない」とグリに泣き言を言うと「痛みを無視しろ!」と言われた。「我慢しろ」ではなく「無視しろ」である。赤血球も白血球も減っていて歩くのもやっとの頃で、あの時はもう死ぬかと思いました(笑)。
唯一の戦いが自分との戦いで、他の人間との戦いを経験しなくても済む自分は本当に幸運だと思う。でも、まんがいち他人と戦わなければならない日が来たら、戦わなければ自分と自分の愛する者を守れないと知ったら、やむを得ず戦うだろうと思う。武器はないので、その辺の棒を必死で振り回すのだろう。多分あっけなく負けてしまうのだろう。
勝つにしても負けるにしても、そんな日が来ないことを祈るばかりだ。勝ち負けの世界では、自分が何かを得たら、相手は何かを失っている。だから全体的に見たらプラスマイナス・ゼロだ。そして双方のエネルギーは確実に失われている。こんなつまらないゲームからは早く卒業した方がよい。
***
そんな自分の子供の頃の脳みそにインプットされた最初の画像は、母の顔でもなく、父の顔でもなく、会ったことのない「敗者の肖像」だった。それは、父の実家の伯父の書斎に飾られている大きな祖父の肖像画だった。
海軍の将官服を着て制帽の陰で優しく包容力のある笑みを浮かべているその目を、当時から「敗者」のそれと思っていたわけではない。大きくなってから、特に最近になってから、彼についての資料などを読み、その厳しい克己とストイシズムと部下や家族に対する優しさに感銘を受けるとともに、次第に「敗者」としての側面にひきつけられるようになったためだ。
「敗者」と呼ぶのは失礼なのかもしれない。ただ、この呼び名は、彼の最期に対する安易なセンチメンタリズムとか敗者の美学といった形容を拒む、なんとも苦いものだ。謎は人間の数だけあるのだと思うのだが、彼は自分にとって今でも一番大きな謎であり、ときどき立ち戻ってはあの不思議な笑顔を思い浮かべることになる。
彼がフィリピン東方沖で敵艦につっこんで戦死したのは、昭和十九年十月十五日のことだ。米軍二十万がフィリピンのレイテ島に上陸し、大西瀧治郎が神風特別攻撃を考案する5日前のことだ。
それまでも被弾した戦闘機が敵艦に体当たりした例はしばしばあったが、操縦士自身の決意によるものであり、艦隊司令官がみずから指揮官機に搭乗して攻撃に参加するのは「異常」かつ「非合法な」事態であった。
戦記文学から風俗作家に転じたKさんという作家がこのマイナーな海軍軍人に興味を持って、生前の彼を知る人々に克明なインタビューをし、ちょっと推理小説仕立のドキュメンタリーを本にしている。
「どうすれば戦争に勝てるか、あるいは戦争に勝つにはどうしたらいいか、というのは彼の口癖のようなもので、彼はだれかれの区別なく、人と顔をあわせれば決まってこの問いかけを発した。自宅に出入りする御用聞きに対しても、こう問いかけた。」
「勇気というのは、指揮官が自分の欲するところをそのまま正確にはっきりと部下に命令し得るということだ、と思うんだ。(・・・)どんなことをしてでも、自分がしようと欲するところを部下に命じて実行させること、これが指揮官の勇気というものだ。俺にはそれができなかったんだ(・・・)蘭州の攻撃の時も、俺は部下の犠牲を恐れて出撃命令を下すことができず、無為に終わってしまった。俺は自分の生死を忘れることはできたが、部下の生死を忘れることはできなかった。これでは指揮官は落第だ。自分の生死も他人の生死も、つまり一切の生死を超越して任務を遂行するのでなければだめだ、と痛感した。鉄腸の人になりきらなければいかんと思うね」
Kさんの本の中の証言を読むと、彼は自らのストイシズムと使命感から日本を勝たせるという強迫観念にとりつかれながらも、実は戦い自体はあまり好きではなかった人であったように思える。そこが大西瀧治郎とは大分違うタイプのリーダーだったようなのだ。
Kさんの克明な取材が、敵の爆撃を艦が受け火災を受けた時の応急防御措置の整備などの地道な試みや、彼の軍人と言うよりも実務家としての功績を明らかにしていく。
敵機の急降下爆撃を受け、完璧な消火設備のため火災は免れたにもかかわらず、通信装置を不能にされ、飛行甲板も破壊された艦を修理するため戦列から早く外した方が良いという上層部の意見により、艦隊の旗艦と言う機能を失うことになる。艦に乗り込んでいた長官と参謀が司令部と共に別の艦に移ろうとする時に、彼は「傷ついた艦で敵に追い打ちをかけ、おとりになって敵機をひきつけ、その際に他の残存勢力で敵艦を壊滅させる」という案を目に涙を浮かべて必死に具申する。ただこの案は受け入れられず、彼は失意の中で、修理のためにトラック島に引き上げる艦と共に陸に上がる。
ちなみにこの時の戦闘での艦上戦死者は144名、飛行機隊の戦死者は54名だった。艦の乗員数は士官・兵員合わせて1660名だったというから、今の自分の勤め先の人数とちょうど同じくらいだ。
トラック島に上陸してから、連合艦隊司令長官山本五十六に戦況を報告しに行った時、
「艦長、あのとき、もう少し追撃することはできなかったのか」
と言われ、上司をかばうために、
「あの時はあれが精いっぱいでした」
と答える。心の中では本当に無念だったのではないだろうか。
彼の艦で主計長を務めていたNによる証言。(艦は一個の会社のようなもので、主計長は経理・人事部長みたいな立場の人。)
「『あなたは自由主義についてどう思いますか』
『・・・・・・』
『私は軍人としての教育しか受けていません。一般的な常識においてはいろいろ欠けているところがあります。あなたは一般大学を出ておられるし、社会的な常識や教養もお持ちです。それでおたずねするのです』
彼は謙虚なまなざしをNに注いだ。
『私は自分にとって自由とは何か、ということをずっと考えつづけました』と彼は言葉をついだ。『そうして私は一つの結論に達しました。海軍の軍人である私にゆるされた自由とは、自分自身の判断で自分の死を選べるということ、これ以外にないのではないか、そう考えたのです。死ぬべき時期を自分で選ぶということ、これが私の自由だと思う。主計長、どう思いますか』
彼にそう言われた時、Nは答えられなかった。しばらく間をおいてから、
『自由についての解釈はいろいろあります。艦長がそう解釈していらっしゃるのでしたら、私はそれについて別に申し上げることもございません』
とNは言い、それでこの奇妙な対話は打ち切られた。」
彼の戦死と戦果は6日後の朝日新聞一面に四段抜の見出で華々しく書きたてられた。敵の航空母艦に突入して飛行甲板に命中したと表向きは公表されたが、後に確認された所によると相手の母艦は全く損傷を受けておらず、彼の機はそのまま海中に没したと判断される。49歳。
その時の彼の気持ちを想像するのは難しい。彼は書類カバンを持って攻撃機に乗り込んだということなのだが、そのカバンの中身も今となっては謎である。本を読みながら目に涙を浮かべていると、亭主のグリがやってきて慰めてくれる。
「泣くなよ。次はきっと日本が勝つよ・・・」
***
彼を「敗者」と呼んでしまうのは、Kさんの本につづられる彼の後半生が、多くの部下を無為に失うという失意の体験に彩られているからだ。同じ海軍司令官の大西瀧治郎が割腹自殺を遂げたのも、第五航空艦隊の司令長官の宇垣纏が沖縄の敵艦に突っ込んで爆死を遂げたのも終戦の日またはその翌日のことだ。ところが、彼が死んだのは、大本営発表では大勝利を収めたことになっている台湾沖航空戦(その戦果のほとんどが誤認だった)の最終日だ。彼だけは、すでにその時日本の敗北を無意識に予見していたのだろうか? 今となっては切れ切れの証言から、様々に想像するしかないのだが。
アーネスト・ヘミングウェイの「人間の価値は、絶望的な敗北に直面していかにふるまうかにかかっている」という言葉にも心を惹かれる。
***
ブログの後日談だが、これをかいた1週間後に、茂木先生の「クオリア日記」に、先生が2003年に「文学界」に掲載した小津安二郎の記事を再掲載されていた。その中で語られている小津の映画のあるシーンが、自分が20年ぐらい前に当地のMusée de Cinémaで見た小津の映画の一シーンであることに気付いた。(当時見た時は、「Goût du Sake(酒の味)」というフランス語のタイトルがついていて、自分はあのシーンをもう一度見たさに「酒の味」という映画を必死で探したのだが勿論見つけることは出来なかった。でもこの記事のお陰で、自分が見たのは小津の遺作「秋刀魚の味」であることが分かり、Youtubeで簡単に見れることに気付いた。)
自分がもう一度見たいと思っていたそのシーンとは、笠智衆扮する元「海軍の艦長」が酒場で飲むシーンだ。
(日本が戦争で)「負けてよかったじゃないか」と言う、笠智衆扮する元海軍の艦長の笑顔。
上述「敗者の肖像」の艦長も、あそこで死なずに生き残っていれば、酒をほとんど飲まないながらも、町でかつての水兵にばったり再会して一緒にバーに入るというようなことがあったかも知れない。そして、あるいはこういうシーンが現実のものとなったかもしれない。生き残ることが果たして彼にとってよかったのか悪かったのかは、誰にもわからないが。そう思うと、複雑なものを秘めた笠智衆の笑顔に、あの肖像の複雑な笑顔を重ねて、自分も複雑ななんだか泣きたいような気持になる。
| 病と死 | 04:09 | comments(8) | trackbacks(0) | ▲
| 病と死 | 04:07 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
船で沖に出て、見渡す限りの海の真ん中で夫のグリとふたりで泳いでいると、海が荒れている時などすごく怖くなることがある。グリの方も同じことを感じているのか、ペンチのような馬鹿力で私の腕をがっちりはさんで泳ぎ続けている。
それは、なにか過去に同じような状況があって、海の上で生き別れになってしまったような(ありえない)記憶がよみがえるような感じだ。グリとは知り合ってから20年ぐらいたつが、いつもお互いに顔を見合わせて、
「ああ、今日もぶじ生きてたね、よかった〜」
と言い合う事が多い。それは、まぬけな2人が何度か一緒に、または、どちらかが、死ぬような危ない目に何度もあっているという言う事もある。
だけどそれだけではない。
私は、多分グリが先に死んでしまったら、何もできなくなって今の仕事も辞めて、お寺か何かに入ってしまうような気がする。無気力体質の自分がせっせと仕事や勉強に励めるのも、こんなブログを書く元気があるのも、いつもグリがそばにいて過剰な元気をわけてくれているからだ。
私が死んだらグリは「ハートがぶっつぶれてしまう」と言っている。彼のハートがぶっつぶれることを考えると、それだけでこっちのハートがぶっつぶれそうだ。そうならないために「死んだら、グリの守護霊になってあげるよ」と約束している。
ただ、その日はいつか来るのだろう。私たちのどちらかが、見わたすかぎりの大海原に一人取り残される日が。だから時々は心の中で予行演習をしたりしている。
****
1995年の阪神大震災の後に書かれた村上春樹の素敵な短編集「神の子どもたちはみな踊る 」にこんなくだりがある。
ニミットはコーヒーカップを手にとってひとくち飲み、それから音をたてないように注意深くソーサーの上に戻した。
「彼は私に一度、北極熊の話をしてくれました。北極熊がどれくらい孤独な生き物であるかという話しです。彼らは年に一度だけ交尾をします。年に一度だけです。夫婦というような関係は、彼らの世界には存在しません。凍てついた大地の上で一匹の牡の北極熊と一匹の牝の北極熊とが偶発的に出会い、そこで交尾がおこなわれます。それほど長い交尾ではありません。行為が終了すると、牡は何かを恐れるみたいにさっと牝の体から飛び退き、交尾の現場から走って逃げます。文字通り一目散に、後ろも振り返らずに逃げ去ります。そしてあとの一年間を深い孤独のうちに生きるのです。相互コミュニケーションというようなものはいっさい存在しません。心のふれあいもありません。それが北極熊の話です。いずれにせよ、少なくともそれが、私の主人が私に語ってくれたことです」
「なんだか不思議な話ね」とさつきは言った。
「たしかに。不思議な話です」とニミットは生まじめな顔で言った。「そのとき私は主人に尋ねました。じゃあ北極熊はいったい何のために生きているのですか、と。すると主人はわが意を得たような微笑を顔に浮かべ、私に尋ねかえしました。『なあニミット、それでは私たちはいったい何のために生きているんだい?』と」
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BBCプラネット・アース。陸地をさがして大海原を泳ぎ続ける牡の北極熊の姿。このBBCの映像は圧巻です。
「陸地が見つからなければ、泳ぎつかれてこどくにおぼれ死ぬしかない」と、デイヴィッド・アッテンボローのナレーションが言う。とても悲しくて美しい。
| 病と死 | 05:12 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
Hail Mary, full of grace, the Lord is with thee;
blessed art thou amongst women, and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
Holy Mary, Mother of God, pray for us sinners, now and at the hour of our death. Amen.
神父の早口の祈りの後に、親族全員が祈りを復唱し、これを何度も何度も繰り返すのだ。(後でインターネットで調べたら、これはロザリオの祈りと言って150回繰り返すものなのだそうだ。)この神父は、祈りの途中に携帯電話が鳴り、片手でテキストメッセージを送りながら祈っていたとかで、親族たちの大顰蹙を買っていたが、私はそんなことには気づかず、皆の早口の祈りの声に圧倒されていた。
たぶん、これまでどうして良いか分からず、そのあたりをさまよっていただろうジェリーも、お棺に納められている自分の姿を見、人々の祈りの声を聞くうちに、いよいよ本当に自分が死んでしまったことに気づいて、悲嘆にくれているのではないかと思うと、ジェリーがかわいそうだった。
スニーカー神父の早口の祈りの声は、まるで、さっさと仕事を終えたがっているようにも聞こえ、「ジェリー・コノリー、あんたはもう死んでるんだよ。だから、あきらめて早く天国にいくんだよ」と、ジェリーの戸惑いと皆と別れる寂しさを、まるで封じこめようとするかのように容赦なく続く。
私はキリスト教の祈りの言葉だけではなく、何教の祈りの言葉も知らないので、バルド・トドゥル(チベットの死者の書)や初期仏教のとぼしい知識を総動員して必死で自分の言葉でジェリーに語りかけるしかない。そうするうちに、体が皆の祈りのリズムに合わせるように前後に大きく揺れてきて、涙がどっと出てきてとまらなくなった。自分ひとりの涙にしては、多すぎるようだった。そこで、こんなに涙が出るのは、ジェリーの分も一緒に泣いているからだと思った。
これが、ジェリーの死についての私のストーリーだ。
このストーリーは今も続いており、このなかで、ジェリーの悲しみが徐々に薄れて、バルド・トドゥルが言うように、光に導かれてより高い生へ向かっての階梯を上り始めていてくれますように、と私は絶えず祈っている。でもその祈りはジェリーのためであると言うより、私のためにあるのだ。死後の世界などと言うものは本当はどこにもなく、ジェリーももうどこにもいないのかもしれないのだから。
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今年の春に、デニスとヒラリーに生まれた双子チャーリーとダニエルにミルクを上げている、グリとジェリーの幸せな姿。
JUGEMテーマ:スピリチュアル
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| 病と死 | 23:37 | comments(6) | trackbacks(0) | ▲
これまで拙ブログの中で、自分が癌になったことのポジティブな面ばかりを(笑)書いてきたように思いますが、ネガティブなことが全くなかったわけではない。(当たり前ではありますが。)
自分は癌になったことでたくさんの貴重なものを得たと思うけれど、もちろん失ったものもある。つまり、まあ、とんとんと言うところだろう。
***
失ったもののひとつは、眉毛だ。
癌になる前の私は、自慢ではないが、鹿児島出身の海軍軍人だった父方の祖父から受け継いだ、実に立派な眉毛をもっていた。ある日、この祖父の写真を亭主のグリに見せたら、
「きゃー、眉毛そっくり」
と大喜びして、それからというもの機会あるごとに、私の眉毛をシャリシャリとなでて、
「大丈夫。きっと、この眉毛が導いてくれるよ」
とわけのわからないことを言って元気づけてくれるようになった。
それが、抗がん剤治療を開始して2週間位たった時、毛が抜け始めた。お風呂に入ると、バスタブは、抜けてしまった私の毛で真黒になってしまう。私は映画「黒い雨」で田中好子粉する原爆被災者の娘が風呂場で髪がごそっと抜ける恐ろしいシーンを思い出したが、グリは、
「うはあ。ゴリラがうちの風呂に入りにきた後みたいだなあ!」
と面白がっている。
「このまま少しずつ毛が抜けていくのを待つよりは、いさぎよく剃っちゃおうぜ」
とすぐに私の頭をつるつるに剃ってくれ、「ソリダリティ(団結)のため」と言って自分の頭も剃ってしまった。
治療が進むにつれて、髪だけでなく全身の毛が抜けていく。鼻毛が抜けたのは嬉しかったが、眉毛とまつ毛が抜けてしまうと、顔がはっきり変わってしまうのですこしさびしい。
「でも、今の自分は昔の自分ではないんだ、今は戦いのときなんだ!」
と自らを鼓舞する役には立った(笑)。
抗がん剤治療3回目が終わったころの11月1日、ロシアの反体制活動家アレクサンドル・リトビニェンコが、ロンドンの寿司屋で倒れ、病院に収容された。何者かにより彼の体に放射線物質ポロニウムが注入されたのだ。髪も眉毛も抜けて病院のベッドに座ってカメラを見つめる彼の最後の姿が何度もニュースに流れるのを、自分も同じような姿恰好でベッドにへたばったまま眺めることになった。リトビニェンコはその3週間後に死亡した。
「ありがたいと思わないとな。君は個人的な病気を治すためにハゲになってるけど、彼はロシアと言う国の大きな病を治すためにこうなったんだから」とグリが言う。本当におっしゃる通りだ。
抗がん剤治療が終わってしばらくすると、頭には、再びおそるおそる髪の毛が生えてきた。春の芽生え。私の髪は、抜ける前はパーマもかけたことのない真っ黒でしっかりした直毛だったのが、再び生えてきたものは、茶色がかったふわふわのカーリーヘアだった。なかなかキュート。
が、眉毛は一向に戻ってくる気配はない。かつて自分を導いてくれていたものがなくなってしまったと思うと、自分が自分でなくなるようでもあり、いちまつの寂しさを感じるが嘆いても仕方がない。全身の細胞は3か月で全部入れ替わると言う。(だったっけ?) いつもおなじ「自分」があると言うこと自体が幻想なのだ。
***
もうひとつ、大幅に失われたと思うのは免疫力だ。
抗がん剤治療を経験された方はご存じと思うが、治療中は、白血球をぎりぎりまで減少させるので、細菌やウィルスの感染に極端に弱くなる。逆にいえば、抗がん剤治療以前は自分の健康な体の中でいかに精緻な防衛機構が働いていたのかということを、治療進行するにつれつくづく体感することになる。これも忘れられない貴重な体験だった。
これまで自分は、自分の強靭な免疫機構に胡坐をかいて、ずいぶん無茶をして来ていた。体の警報装置が鈍感にできているのかもしれないが、免疫力も強かったのではないかと思う。風邪もめったにひくことはなかったし、虫歯にもならない、けがややけどをしてもほっておけばすぐ直る、徹夜で友人たちと飲んでコンタクトレンズを目につけっぱなしにしたまま眠ってしまっても問題なし、毎朝朝シャンして乾いていない頭を真冬の零下の風にさらし30分以上も来ないバスを待っていてもへいちゃら、同じものを食べて仲間が全員食中毒を起こしたのに自分だけ平気だったと言うようなこともあった。
タイ→インド→バングラデシュ→ブラッセルと旅をして来たクチナ君は旅先でおなかを壊さないのが自慢だったが、ブラッセルの私のアパートに着いたとたん食中毒でたおれてしまった。私とジャンおじさんでいやがるクチナ君を無理やり病院に担ぎ込んだくらいだったので、かなり深刻な事態だったのだと思う。たしかあの時は「赤痢に違いない!」と思ったんだった。
それからしばらくして、ロンドン留学中の、クチナ君の友人の小川君も私のアパートに寝泊まりするうちにこれまたおなかを壊して寝込んでしまった。(やさしい小川君は、「きっと、前夜のレストランで食べたムール貝に中ったんだよ」と言ってくれたが、だれもが暗黙の内に、私のアパートにネズミが出るせいかもしれないと思っていた。)
でも、私自身はこのアパートでおなかを壊したことはなかった。じまんじゃないけど。
それが、治療の中半からちょっと油断すると、すぐにおなかを壊したり、目が炎症を起こしたり、口内炎にかかったり、熱を出したり、風邪をひいたりするようになった。はっきり言って、わたしたちはバイキンの海の中にいる。バイキンを吸い、バイキンを飲み、バイキンを食べている。それでも大丈夫なように、免疫機構ががちっと守ってくれていたのだ。それが、痛みと共にわかりました。
治療が終わってしばらくすると、白血球値も正常に戻ったが、一度落ちた免疫力は再び昔のレベルにはもどらなかった。
そのせいか、去年の冬は合計3回もインフルエンザにかかってしまった。昔の自分からは考えられないことだ。
そして今年も一昨日からインフルエンザにかかり、タミフルを飲みながら家で仕事をすることになってしまった。(ジムにもプールにも行けず、いつもより時間ができたので、楽しくブログ記事を書くことにしました。)
***
以上、失われたものは眉毛と免疫力だけではないのかもしれない。でも、何かを失うことによってしか、得られないものがある。自分が失ったものを嘆くよりも、それによって何が得られるのかなと思うと、なんだかすごくわくわくするのだ。
| 病と死 | 02:42 | comments(0) | trackbacks(0) | ▲
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