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太陽礼拝ふたたび

亭主のグリがアイルランドに帰っているので、木曜日からの4連休は家に一人。外出もせずにひたすら読書と瞑想と断食とブログ書き。至福の4日間だ。

日曜日の晩にグリが帰ってきたらまた毎朝のジム通いになるので、この4日間はジムもお休みにしよう。少々体調が悪くなったり、太ったりするかもしれないが良しとしよう。

ただ、家の中でヨガの太陽礼拝だけは続けようと思った。

太陽礼拝(Sorya Namaskar)。私がやるとこんなにカッコよくはできないが。



実を言うと、1年ほど前から、毎朝ジムのトレーニングの絞めとして、この太陽礼拝を、グリと二人で1回ずつやるようになった。

グリは子供のころから落ち着きがなくて、つまらないことで腹を立てたり、イライラする性格だったのだが、これをやり始めたせいか、最近少しだけ穏やかになった気がする。

あと、以前はグリの体全体から火みたいな荒っぽい気が立ち上っている感じだったのが、このごろは時々はとても波長が繊細な、きれいな気が出ている時がある。そばにいると、気持ちのいい細かい春雨を浴びているような感じがする時もあった。

ちゃんとした修行者は毎日12回繰り返すのだそうだが、私なんぞが丁寧にやろうと思うと本当に5回が精いっぱい。飽きっぽいグリは1回が精いっぱいだ。

今の所、私が使った一番わかりやすい太陽礼拝の解説書・DVDは、「綿本彰のDVDで始めるパワーヨーガ―ヨーガ教室に通う感覚で学べる (双葉社スーパームック) 」でした。これだけを毎日1度ずつ5分間だけやるだけで、かなり違うと思います。普段体を使っていない人は最初かなり息切れがしますが、少しずつ全身の筋肉が締まって伸びて、気と血液とリンパ液が全身を駆け巡る感じだ。

自宅でも出張中のホテルの部屋でもどこでもできて、何度も繰り返せばジムと同じようなハードな筋トレ+有酸素運動になる。成田パリ便の飛行機の通路でこれをやっていたおっさんがいたと言う事も聞いた。やろうと思えば、刑務所の独房でもできるだろう。前後に細長い動きなので、場所を取らないのだ。



JUGEMテーマ:スピリチュアル
 

「気」の方向性 − 「GOGOモンスター」「聖なる予言」「オーラの泉」・・・

数年前にクライアントのTさんが、「主人公がまりあさんに似てるから・・・」と言って、松本大洋の「GOGOモンスター」と言う劇画を貸してくださった。Tさんは新聞社の人だが、ちょっと変わった日本の劇画を貸してくれる。同じ松本大洋の「」や、しりあがり寿の「真夜中の弥次さん喜多さん」を貸してくれたのもTさんだ。

私に似ていると言う主人公は、立花雪という名の小学生の男の子で、大人の言葉を借りれば自分を閉ざして「空想の世界」に生きている、髪の毛がぼさぼさの暗い子供だ。彼が「暗い」とか「不気味」とかの印象を他の子供たちに与えるのは、彼が周囲の現実にはほとんど関心を示さず、人の目には見えない世界にひたすら注力しているためだ。

たしかに自分も、髪の毛がぼさぼさで周囲の現実にほとんど関心を示さなかった時期もある。でも、今では髪の毛もまともだし、かつてのそんな姿の片鱗も、(特に仕事の相手には)見せたことはないと思っていたので結構ショックだった。

さて、完全な精神的ひきこもりを体験した高校時代から、対人恐怖症を徐々に克服して行った大学時代、渡欧、就職などを経て人との距離のとり方や接し方を試行錯誤していく中で、自分が特に人との関係について経験的に発見した単純な原則がある。それは、人は自分の方に「ポジティブな気」を向けてくれている相手に自然と心を開くと言うことだ。

「ポジティブな気」の向け方にはいろいろある。相手のことを気遣う、相手に気づく、相手が気になる、相手に気をもつ、相手に気を許すなど。どうしてこんな当たり前のことを今更言うのかと言うと、先程「経験的に」と言ったように、かつてのひきこもり高校生の自分には、上記のいずれもがまったくできなかったからだ。ただし、表面上は人との摩擦なく進んでいく。人に対して攻撃的になるのでも、エゴを振りかざすわけでもない。ただ「気」、つまり注意力や興味や情愛などがほとんど外部の対象に向かって行かないだけだ。

そういう自分の姿を反省したり、周囲を観察することにより、愛情や興味が一種のエネルギーの流れで、それが向けられた対象にエネルギーが流れ込み、対象の方は元気付けられ相手に好意を持つらしいということを経験的に学んだ。逆に、主人公の立花雪のように、エネルギーがすべて自分の内側に収束しているような相手に対して、人は心を開かないだけではない。しばしば、苛立ちや嫌悪感さえも感じるということに気づいた。

また人には、自然にそういうエネルギーを惜しげもなく外側に発散している人と、自分のように外に発するエネルギーが乏しい人とがいるらしいことがわかった。たとえば、「気」を見ることができるジャーナリストの山口玲子さんが、こんなことを言っている。

「教室で二人一組で気をめぐらす練習をしているでしょ。そうするとなかにはやたらと自分の気を相手にあげる人がいるんですね。逆にやたらと人の気を取る人間がいる。(・・・)発散タイプはエネルギッシュだけど消耗しやすいしどちらかというと自己中心的、溜め込むタイプは逆にけっこうけちで保身を考える体がいつもだるいタイプです。」(別冊宝島「気は挑戦する―二十一世紀は「気の時代」だ!」p.34)

さらに、このエネルギーの乏しさを補足するために、あるいはエネルギーをセーブするために、外に対してはお金や物を使うと言う場合があるのにも気がついた。すぐにいい例が思い浮かばないが、自分の子供に対し、自分の時間と心的エネルギーを消費する代わりに、お金や物を与えると言うような場合だ。また、自分のエネルギーが欠乏しているときに、人のエネルギーを「買う」ためにお金を使う場合もある。これも良い例が思い浮かばないが、お金と交換に人から愛情や友情などのエネルギーを得ようとする場合・・・。それから、遠くの人を気遣うときに、メールや花束や電話に自分の気遣いと言うエネルギーを乗せて届けると言う場合もある。

こんな風に、あるときから、お金や物の流れ、政治力や軍事力と言うものも、熱力学の第一法則みたいに、同じエネルギーがさまざまに形を変えて流れているように見えるようになった。

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こういう見方は、10年ほど前に読んだジェームズ・レッドフィールド著の「聖なる予言」というとても面白い小説の影響かもしれない。感情障害を持つ青少年のためのセラピストでもあった著者は、宇宙のすべてをエネルギーの流れとして捉える最新の物理学の考え方から、人間関係もまたエネルギーの与え合いと奪い合いのドラマとして説明していく。たとえば、恋愛についてのくだり。

「恋愛関係にいる二人の間に、なぜ権力闘争が起こるのか、(・・・)なぜ、愛の喜びや陶酔感が終わり、急に争いになるのか、ずっと不思議でしたが、今、その謎がとけたのです。それは二人の間のエネルギーの流れの結果です。
 まず恋が芽生えると、二人は無意識のうちに愛を与え合います。二人の気持ちは高まり、気持ち良くなります。『恋に落ちた』状態というのは、信じられないほど、気持ちが高ぶるものです。ところが残念なことに、こうした気持ちが恋の相手から得られるものだと期待すると、宇宙のエネルギーから切り離されてしまいます。そしてますます、エネルギーを相手から得ようとします。ただそうなると、エネルギーが十分にないように感じて、お互いにエネルギーを与え合うのを止めてしまい、自分のコントロールドラマに逆戻りしてしまいます。そして、相手をコントロールして自分流のやり方でエネルギーを奪い始めるのです。ここに至ると、二人の関係は普通の権力闘争のレベルに落ちてしまうのです」(上述書p.306)

人は、生まれてからというもの家族の中でこのエネルギーの奪い合いをしており、その中でエネルギーを得るために最も効果があったドラマの役割を、大人になって家族以外の人々と接するときにも繰り返して演じている、という説明もとても納得できるものだった。(本書については、また書きたいです。)

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そんな中で、何の因果か、電話を取ったりかけたり人を訪問したりされたりなど、自分が人一倍苦手とする、人々との直接的コミュニケーションが中心となるクライアント商売をすることになった。自然にコミュニケーションの才能のない自分のような内向的な人間は、クライアントに会うとき、電話を取るとき、「えいっ!」と気合を入れる必要がある。人は敏感なもので、表面だけ取り繕ってもすぐ見抜かれてしまう。だから良い関係を作るには、会話の一つ一つに、誠心誠意、ポジティブな気を入れることが必要なのだ。

だんだんそれが無理なくできるようになってくると(もちろん、自分の体調などによって波があるのだが)、ビジネスの世界で出会う人々の多くが、意識的か無意識的か、自分の「気」をつねにポジティブなものに更新していくことを、とても大切にしていることが分かる。

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さて、「気」の方向性について書く気になったのは、前回ちょっと触れたTV番組「オーラの泉」の中で、須藤元気という拳闘家の回を観た時だった。1980年代に日本を離れてからほとんど帰っておらず浦島太郎状態の自分は、ゲストとして出演する俳優さんやスポーツ選手をぜんぜん知らない。(20人程のゲストのうち、顔と名前を知っているのは研ナオコさんだけでした。)彼らのオーラがどんな色をしているかとか、前世が何だったのかとかにはぜんぜん興味はないが、熾烈な日本のマーケットで名を成した人々だけあって、それぞれ個性的で彼らの話す人生のドラマがものすごく面白い。

須藤元気だが、あまりうれしくない意味で「自分とすごく似ているな」と思った。それは一言で言うと「気」の方向性ということだ。須藤元気は、若いころから肉体的・精神的修行に興味があって自分を駆り立てるところがあった。フランス外人部隊に志願するつもりで資料などを集めたが、やがて拳闘家になった。退行催眠で見た前世の自分の姿は、殉教者セバスティアヌスであったと言う。瞑想は毎日、朝晩2回。四国のお遍路をしながら空海の「求聞持法(ぐもんじほう)」と言う百万回呪文を唱えるという修行の経験もある。ただ、彼の修行への情熱の中に、強烈な「力」への渇望があるのがわかる。「力」というのは、たんにエネルギーを指すのではなく、他人を圧倒し支配するような力と言う意味だ。それが彼を修行に駆り立てている。そして、そう感じるのはこの自分にもその片鱗があるからかもしれないな、そんなことを考えながらDVDを見ていた。

「力」への渇望はさておいて、自分と共通点があるなと思ったのは、彼が「自分は携帯電話も切ってしまうし、メールも書かない」と言った時だった。私自身は、基本的には独りでいるのが好きだし電話恐怖症のようなところもまだ少しはあるが、携帯電話を切ることはないし、メールをもらえばできるだけ早く返事を書くように努力する。でも、須藤がそう言う気持ちが良く分かる気がするのだった。そして、この人も自分にしか興味のない人なのだなと思った。つまり、「気」が人々に向かわず、強烈に自分の内側に向かって収束していると言うことだ。

そんな中で、江原啓之が、「須藤には慈悲を表す紫色のオーラが欠けている」という意味のことを言った。そして番組の最後の方で、それは人への恐怖心と傷つきやすさからきているのだとも。そして、「余計なお世話かもしれないけれど・・・」と遠慮しながら須藤の手を取り、「自分の魂の経験から来るエネルギー」を注入した。その後で、須藤の表情にはっきりとした変化が出て、緊張の取れた子供っぽい表情が現れたのが、面白かった。(この回のやりとりは、ブログ「星が生まれて消えるまで」に採録されている。)

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前述の「GOGOモンスター」の中で、いちばんすきなのは、自分と似ている主人公の立花雪ではなくて、そのクラスメートの鈴木誠だ。鈴木誠は、もちろん立花雪が「見ている」ものを見ることはできない。でも、立花雪が見ていると言っている世界が実在することを信じてくれる。(自分には見えもしないし理解もできないものを、相手のために信じれるってすごい愛じゃない?)そして、消えてしまった立花雪を助けるために、魔物がすむと言う人気のない校舎を、恐怖をこらえて探索するのだ。鈴木誠は無力で、立花雪の世界に入り込むことはついにできない。でも、彼が最後に屋上で吹くハーモニカの音色が闇の世界に浸透していき、闇の力に飲み込まれようとしている立花雪を救ってくれるのだ。

自分もこの鈴木誠くんのようになれればいいな、と思う。

JUGEMテーマ:スピリチュアル


見えないものを観る (3)

日本語で「情熱」と言うと、自分の中から沸き上がってくるものという感じが強いが、ヨーロッパ語で「情熱」を表す言葉「PASSION」は、「PASSIVE(受動的な)」という言葉と同じく、ラテン語の「耐える(PATI)」という言葉から来ており、何か自分の理性の外側からいきなりやってきて、自分に憑依し、自分を圧倒し、飲み込んでしまう不可解なものというニュアンスがある。だから「キリストのパッション」と言うとき、それは「キリストの情熱」ではなく、「キリストの受難」と訳すのが正しい。イエス・キリストは、自分の意志でではなく、「神」に一方的に選ばれてしまったのだ。そして、「神よ、できればこの杯をわたしから退けて下さい」と祈ったが、その願いは聞き入れられなかった。

イエスにとりついて十字架まで導いていった「神」は、ジクムント・フロイトが「エス(それ)」と呼ぶものを連想させる。それはまた、カール・グスタフ・ユングが無意識を、自我意識とは独立した他者のように働く、自立的な存在であるという意味のことを言っていたことを思い出させる。「無意識は、(意識の)単なる反応や反映ではなく、自立的で生産的な活動であるからだ。したがってその経験領域は、一つの独自な世界であり、一個の実在であって、その実在は、われわれがそれに働きかけるのと同じように、われわれにも働きかけると言ってよい。」(C.G.ユング「自我と無意識」p.112) だから、しばしば無意識は、自我意識にとっては全く害にしかならないことをしでかすこともあり、自我意識が守ろうとする「わたし」の存在を死に導いてしまうことすらある。まるで、外的な悪霊のように働くのだ。

話が逸れるが、個人の無意識はいくつもあってマンダラに表象されるたくさんの神様の集合のようになっていると言うユングが多神教的なものを感じさせるのは勿論だが、フロイトが「エス」と言うときは一神教的なものを感じさせるなと今ふと思った。(たぶん、どうせ、もうどこかで誰かが言っていることなんだろうな。)

悪霊と言えば、今年の初め両親が病気見舞いにはるばるやって来てくれたとき、江原啓之と三輪明宏が毎回いろんなゲストを迎えて一種の「霊視」を行う、「オーラの泉」と言う番組を20回分ぐらい(!)録画したDVDを持ってきてくれて、母親がしきりに「見なさい」と勧める。(母親は、私や父親のように「憑依現象」にはほとんど遭わないが、一種のサイコキネシスのような霊能力の持ち主らしい。たしかに、母親には何でも見抜かれてしまう。ぜったいに嘘はつけない。) さて、自分のオーラが何色をしてるか別に興味もない自分は、あまり気は進まないながら言われるままに何度かそのDVDを観ようとしたのだが、どうしても画面に何も映らない。それが、最近上記のようなことを考えている時に、ほとんどあきらめていたのにふともう一度トライする気になり、パソコンに入れてみたところ突然映りだした。

この番組は、色々な意味ですごく面白くてすっかりはまってしまい、先週末は20回分全部見てしまった。別の機会に章を改めて感想を書きたいが、ひとつ思ったのは、わけの分からない微妙な世界を、登場人物や道具立てが決まった非常に単純でわかりやすい物語の中に収めて、すべて説明してしまうのはどうかなあと言う事だった。たしかに、日常的なものを超越したスピリチュアルな観点から、現世的な視点を離れた死者の目から全てを見直すことは大切と思う。その視点を受け入れてもらうために必要な体系であり、道具立てだということも分かる。三輪明宏も江原啓之もすごく頭の切れる人々で、ふつうの人には見えないものを感じることができ、言っていることもかなり正しいのだろうが、同時にそういうストーリーに収まりきれないものをもっと感じているのではないかと思えるのに、それがすこし残念なのだ。

自分としては、晴れた日曜日の午後、ひと気のないオフィスで自分を襲撃した「あの感覚」を、背後霊や前世の魂や不浄霊が跋扈する世界の物語の中に収めるのでもなく、かといって全てを脳内の化学現象で説明しようとする別の物語(これは、前者の物語を脱しようとする努力から生まれてきたのだと思うが)の中に収めるのでもなく、言葉にならない自分の感覚だけを観察しながら、色々な物語の狭間をさまよっていたいと思う。ユングが目指していたのもそう言う事で、彼の言葉が分かりにくく、矛盾があり、流動的なのはそのためかもしれないと、最近思うようになった。

見えないものを観る (2)

全般的に人々より鈍感であるらしい自分にも、他の人に感じられないものを感じていると確信できたことが、数回だけある。

以前、電車通勤をしていた頃、トラムに座っていると、隣の空席に誰かが腰掛けると同時にそこから強烈な「気」のようなものを感じた。熱くて乾いた生き生きした感じ。そんな感じは初めてだったので、びっくりして、そっと首をまわして相手を見るとそれは黒人の若い女性だった。

その後、友人の家で留守番をしている時に、チェコ人の掃除婦さんが連れてきた12歳ぐらいの娘から、噴出するような「気」のエネルギーとしか呼べないものを感じたように思った。自分はとくに子供が好きというわけではないのだが、そのときばかりは、子供の相手をしてやりながら、「子供と言うのはすごく心が洗われるものだな」と感動した。

反面、ネガティブな「気」にやられてしまったと感じたことも多い。

戦跡とか墓地とかで突然気分が悪くなることがある。映画「タイタニック」で人々が何時間も凍った海でもがきながら、徐々に死んで行く場面で、急に強烈な吐気と頭痛に襲われて映画館の外に出てしまったことがある。

パリのペール・ラ・シェーズ墓地をオスカー・ワイルドやショパンの墓の前で記念写真を撮りながら「観光」して回っていたとき、好奇心から、埋葬が終わったばかりの墓石に刻まれた名前を見ようとして回り込んだ途端に、突然嘔吐してしまったり。(この時は、耳の中で、誰かの意地の悪い笑い哄笑まで聞こえた。そうして、気分が悪くなる間もおかずに、いきなり胃の中のものが出てきてしまったのだ。)

家族の中で唯一「味盲」の劣性遺伝子が発現している自分と父親の二人だけに、このようなことが起こる。もうひとつ、二人に共通するのは、オカルトっぽいことは大嫌いで、できれば関わりを持ちたくないと心底思っていると言うことだ。

日本に住んでいたときは、睡眠中に実にしばしば「金縛り」という状態に悩まされていた。

それが、この国に移り住むようになってから何故かほとんどなくなった。そのかわり、夜ではなく昼間に、それも自分の寝室ではなくオフィスで、「金縛り」の時に感じたのと同じような、それとも(周囲が明るいオフィスであるせいか)余計に濃厚に感じられる、ある強烈な圧迫感に2度ほど襲われたということがある。それが、自分の中から来るものではなくどこか外側から来るように感じられたのは、それがこれまで自分が感じたことがあるのとはまったく異質な感じの「悲しみ」の感情をともなっていたからだった。

こんな暗い、悲しい感じを自分はかつて味わったことはない、とその時思った。その感じは、何かのきっかけによってではなく、突然やってきた。2度とも日曜日の午後で、ジムとプールで軽い運動をした後ひと気のないオフィスにやってきてのんびり仕事をしているときだったので、どちらかと言えば気分の良いときだったのだ。1度目は不思議に思い、気味悪く感じたが、2度目はこんな悲しみを感じている「誰か」に文字通り同情・・・と言うか、気の毒に思う気持ちがあった。

その「悲しみ」は、しばらく続き、やがて跡形もなく消えて行った。こんなことがしばしば続けば分裂病とかの疑いが出てくるのかもしれないが、自分の場合さいわいそれは2度だけだった。

でも、ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想合宿中とその後に家で行った瞑想中に、時々、体のどこか深い所から、自分になじみのない、ある「悲しみの感じ」がこみ上げてくることが何度かあった。それは、日曜日の午後のオフィスで感じたものより軽いものだが、すこし似ているかもしれない。いずれもそれは、隠されていた本当の自分が浮き上がってきたと言うよりも、映画「マニトゥ」とか「エイリアン」みたいに、体の中にいつの間にか住み着いていた「自分以外の何か」が、とつぜん自分の体を食い破って外に出てきたと言う感じに近い。

(つづく)

見えないものを観る (1)

5-6年前の事になるが、敏感体質の日本人の上司のKさんと同じ部屋で仕事をしていた時期がある。彼は、寒さにも暑さにもすごく弱くて、冬はガンガンに暖房をたくが、すこし陽気がよくなってくると(当時、事務所にクーラーが設置されていなかったので)、「うわー、暑い」と言って窓を開け、そのとたん窓から入ってくる肥やしの匂い(会社は郊外の工業団地にあるので畑が近い)に、「うわあっ、臭い!」と叫びながら窓を閉める。そんなことの繰り返しだった。夕方になり西日が背中に当たると、「うわあ、地獄だなあ」と叫んで、カーテンをオーダーするよう私に言った。私は、日常自分の体験している何かが「地獄みたい」と感じたことは一度もなかったので、大げさだなあと内心思いながらファシリティーの担当者にオーダーを伝えた。Kさんは、この国の常識でカーテンが設置されるのに最低2週間はかかると知ると、腹いせに、日本通運のマークのある段ボール箱をつぶして自分の背後の窓を全部覆ってしまった。

そのKさんが日本に帰任した今となってはそれも懐かしい思い出(?)だが、現地人の同僚達は、「彼は何で、窓に段ボールを張っているんだ? あの段ボールには何と書いてあるんだ?」と本気になって心配していた。Kさんは、ぷりぷり怒りながら、「まりあさんは我慢強すぎる!」としばしば私に言った。そんなものかな、と自分は思っていたが、やがてそうではないらしいという事に気づいた。部屋が変わり、同室となった年若い同僚2人はやはり、「すこし寒くないですか?」とか、「すこし暑くありません?」とか言いながらこまめに温度調節をする。こう訊かれるたびに、自分は「あー、わたしは別に・・・でも、どうぞ、どうぞ・・・」とか曖昧な返事をするが、暑いとか寒いとか感じたことが一度もないのだ。つまり、自分は我慢強いのではないらしい。我慢していないのだから。

そうではなくて、暑さや寒さを感じないのは自分の仕事に対する集中力が人一倍強いせいだと、随分長い間、思い込んでいた。同僚達は他人の話し声に集中力を妨げられると言うが、自分の場合ほとんどそういうことがない。これも集中力が強いせいだと。集中力が強すぎて、以前自分とすぐ背中合わせに座っていた男の同僚の顔も名前も、(他の同僚達が「ハンサムだ!」と騒いでいるのを聞くまで)1ヶ月ぐらい憶えられなかったくらいだ。

ところが、その自信は、ついさいきん同室のW嬢とI嬢が「まりあさん、その時計の音気になりません?」と言った時に打ち砕かれた。社内のキャンペーン用に、部の全員が安物のプラスチックの置時計を会社からもらったが、同室の2人はカチコチいう音がうるさいと言って、どこかにしまいこんでしまった。わたしは特に気にもせず、それを自分の机の上に置きっ放しにしていた。2人がそうわたしに訊いたのは、彼女たちからは2メートルは離れているわたしの机の上の時計の音が2人には聞こえ、それが気になるからだと言う。そう言われて、あらためて時計の音に集中してみると、はじめて自分にもその音が鮮明に聞こえ始める・・・のではないかと思っていた。ところが、いくら耳を澄ませても何も聴こえない。

高校の生物の授業でメンデルの遺伝の法則を説明した後で、常染色体劣性遺伝の例として、先生が「味盲」の実験をやった。フェニルチオ尿素(PTC)という物質を染みこませた、リトマス試験紙のような紙片をクラスの全員に配り舐めさせてみて、「何も味を感じない人」と言う先生の言葉にわたし1人が手を挙げ、「苦味を感ずる人」と言う言葉に私以外の全員が手を挙げた。(その晩、試験紙を家に持ち帰り、母親と妹は苦みを感じた。犯人は父親だと思い父親の帰りを待って試験紙をなめさせたら、父親も苦みを感じないことが判明した。)そのときのような気持ちだ。

「味盲」の劣性形質が発現するのは、PTCの苦味を感じさせる優性遺伝子を1個も持たない遺伝子型の場合であり、後で知った話では日本人の5%、ドイツ人の40%がこれに該当するらしい。特にみじめな気持ちでも、得意な(?)気持ちでもないが、他人には見えたり、聴こえたり、感じられたりするものが、自分には全く感じられないと言うことの不思議さだけがある。ともあれ、自分は我慢強いのでも集中力が強いのでもない。たんに、色々な意味で鈍感らしいのだ。

ヴィパッサナー瞑想、特に、ゴエンカ式の瞑想法では、心的現象はかならず体の感覚と結びついていて、その感覚に気づくことにより自分の心の奥底に入り込んで行くことができると教える。自分は、この方面でもとんでもなくハンディキャップを負っているらしい。(この瞑想法については、ウィリアム・ハート著「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」参照)(つづく)

呼吸を変えれば人生に奇跡が起こる(8) つらい3週間

6月4日(月)から今日6月24日(日)の期間は、相変わらず1日100回の原久子さんの呼吸法を続けながら、毎朝30分の水泳の間にサティの瞑想を、また通勤途中だけでなく夜寝る前や朝目覚めてからのひと時など暇さえあれば慈悲の瞑想を続けた。

泳ぎながら右掌の感覚に意識を集中し、水を掻く時の掌の感覚にしたがって「抵抗感」、「圧力」、「振動」などとラベリングする。水を掻く手がうっかりプールの壁面に触れたとき「軽い衝撃」を感じると同時に、怪我をしないかと言うかなり強い本能的な「恐れ」が自分の中に生まれたことに気づき、驚きながらそうラベリングする。人気のないプールに人影がさし誰かが水に入ってくる。「見た」とまずラベリングし、続いて自分の中にものすごい速さで生起する感情を観察する。たいていはサティの集中を破られる恐れからの、かすかにネガティブな気持ちだ。でもそうラベリングすると、たいていの場合その気持ちが持続することはない。でも人が多すぎてどうしても集中できずいらいらして、慈悲の瞑想に切り替えたときもあった。たまに調子のいい時は、プールで子供連れの家族がボール遊びなどをする間を縫って泳いでいても、サティを入れ続けることができて楽しいこともあった。逆に一人きりで泳いでいても、いつの間にか思考の渦に巻き込まれてサティを入れることを忘れていることもある。

この期間一進一退ではあるが毎日サティの瞑想を続けるうちに、全体としては少しずつ集中が持続するようになってきたように思う。それは嬉しいが、細かく見ると、この3週間は自分にとっては中々つらい3週間だった。

特に初めの1週間は、感覚が鋭くなったものか(それともたんに気のせいだろうか)、周囲の人の言動やその人が撒き散らす気(のようなもの?)に巻き込まれ、影響されてしまうような感じがすることが何度かあり、落ち込み混乱していた。勿論ここで言う「気」は、怨念とかフラストレーションと言った類のどちらかと言えばネガティブな気だ。プールの喩えで言うと、ものすごい勢いで泳いで行く人の横で横波を浴びてこちらの身体が揺れてしまうようなそんな影響のされ方だ。思春期に一種の対人恐怖に陥ったこと、今でも人と会うことが楽しいと言うよりつらいのは、自分のこういう感じやすさや弱さ(影響の受けやすさ)が原因ではないかと気づいた。

2週間目には原因不明の高い熱が出てそれが2-3日続き、会社を1日休むはめになった。それが終わると、小学生のとき以来全くなかった虫歯が突然痛み出し、夜も眠れないほどになった。痛みに意識を集中しサティを入れ続け、痛みを自分から分離しようとした。こんな風に熱が出たり虫歯が痛むことにはなにか心理的な意味があるのではないかと思ったが、考えても答えは出なかった。

慈悲の瞑想も大変なことのひとつだった。とくに、ある特定の人に慈悲の瞑想をするのがはじめは恐ろしく困難で、それが上述の発熱や歯の痛みの時期と重なって、絶望的な気持ちになった。でも劇的な転換の瞬間があった。これについては、改めて慈悲の瞑想について書く時に詳述したい。

それと、サティの瞑想・慈悲の瞑想と共にヴィパッサナー瞑想の3つの柱の一つであると思われる「五戒」を守ることをはじめた。

実を言うと、地橋秀雄著「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」を読んで、サティの瞑想という方法にはすぐに深く共感できたが、慈悲の瞑想と五戒についてはその意味が良くわからなかった。反応系の心を変えなければならないということは分るような気がしたが、この方法で果たしてそれが可能なのかが半信半疑だった。良くわからないながらもとにかく始めてみればいつか分るのかもしれない、やりながら意味を考えよう。そう思って始めてみた。同時に地橋先生の著書以外にも慈悲の瞑想と五戒についての資料、とくにこれまで仏教に関してまるで無知であった自分には地橋先生の言うカルマや自我の概念が難しくその資料を探した。(これについてはまだ良くわかっておらず、勉強を続けなければならないと思う。)

さて私の場合飲酒と言う悪癖があるため、五戒を守ることを始めるにあったっては、たぶん普通の人の10倍ぐらいの筆舌につくしがたい決心が要った。ところがある日不思議なタイミングであまり愉快とは言えない出来事があり、それがきっかけで深い自己嫌悪に陥ると言うことがあった。(これまでも無意識レベルではあったのかもしれないが)自分が意識の上でこれほど深い自己嫌悪を感じたのは初めてのことだった。おそらく心随観(サティの瞑想により心を観察する法)をすこしだけかじったお陰かもしれない。その時、自己嫌悪をやわらげるために、すがりつくように五戒を始める決心がついた。これは正しい動機とはいえないのかもしれない。でも、五戒は自分を縛るためではなく、自分を支え、力を与えてくれるためにあるような気がしたのだった。

2週間目が明けた月曜日の朝、歯の痛みに耐えかねて歯医者さんに駆け込み、あっという間に歯を引っこ抜いてもらった。痛みは消失した。それと前後して、慈悲の瞑想のお陰か、すこしずつ嵐が静まり空が見えてくるように心が静まってきた。その後も会社では心がかき乱されたり、不快になる出来事が多々あったが、慈悲の瞑想と少し前に母親が送ってくれたスリランカ初期仏教長老アルボムッレ・スマナサーラ「怒らないこと」が助けてくれた。そのお陰で、3週間目の週末の2日は実に静かな気持ちで過ごすことができた。そんな週末に、友人のアケミさんが、ラリー・ローゼンバーグ「呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想」をわざわざ家まで届けてくれた。この本は、石井登さんのサイトでも抜粋が紹介されていて、自分が以前から読みたいと思っていた本だった。

6月25日(月)から7月15日(日)は、前述の「呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想」も参照しながら、さらに呼吸法とヴィパッサナー瞑想を続けてみる。7月4日(木)から14日(土)にかけて当地のヴィパッサナー瞑想センターの合宿に参加できることになった。本を参考にしながら自己流の瞑想法を続けることが少し心配になっていたところだったので、合宿で実地の指導を受けられることが楽しみだ。(続く

原久子 著
呼吸を変えれば人生に奇跡が起こる
1,575円(税込)

地橋秀雄 著
ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践
春秋社 2100円+税



呼吸を変えれば人生に奇跡が起こる(7) 呼吸法から瞑想へ

意志薄弱な自分が、3月27日のブログで「原久子さんの呼吸法を毎日100回ずつします」と宣言して以来、今日までそれを断行できてしまった。恥ずかしい話だが、ブログという公の場でそう宣言してしまったことがいささかの原動力になっていたのではないかと思う。

さて、呼吸法を始めてからの2ヶ月間のもっとも驚くべき変化は、低血圧・貧血・夜型人間の自分が、早朝目覚まし時計なしでかなりしゃっきり眼が覚めるようになってしまったことだ。(因果関係は定かではないのですが、朝起きれなくて困っている方はいちど呼吸法を試してみて下さい。)

さて、原久子さんの提唱する瞑想呼吸法だが、本書「呼吸を変えれば人生に奇跡が起こる」には、呼吸法の詳細な解説はあるが、瞑想についてあまり書かれていない。呼吸しながら「自分の理想のイメージを思い浮かべなさい」と言うだけで、具体的な方法がいまひとつ良く分からない。だから、これまでの期間は呼吸法をしながら「瞑想」をしたことはなかった。

原久子さんの「心の曇りが晴れる本―心の浄化から真我実現へ」には、止観瞑想などの方法の解説に力点が置かれているということだが、自分はまだその本を読んでいない。そこで、少し前からゆっくりと読んでいた「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」に解説されている瞑想法をそのままやってみることにした。(この本は、スティーヴン・コヴィーの「7つの習慣―成功には原則があった! 」と同じくらい自分が感激した本で、わたしにとっては10年に一度の収穫でした。改めて詳述します。)

さて、本書では、うんと大きく分けて「サティの瞑想」と「慈悲の瞑想」のふたつの瞑想を紹介している。このふたつは補完し合ってヴィパッサナー瞑想の両輪を成している。

「サティの瞑想」は、立位、座位、歩きながら・・・などの姿勢で行うことができる。身体のできるだけ狭い範囲のセンセーションに意識を集中し、その感覚に気づき(=サティを入れ)、言葉でラベリングをする(身随感)から始まり、訓練を積むに従い徐々に心の随感へと深めていく。「歩きながら」の瞑想があるなら、毎朝の30分の水泳をやりながら「サティの瞑想」をしようと思い立った。始めはプールを1往復する間も、取り留めのない考えに心を奪われてしまい、サティとラベリングを続けるのが難しい。でも毎日続けている内に、徐々にできるようになってきて、それにつれて取りとめもない30分が以前よりずっと短く感じられるようになって来た。

「サティの瞑想」の精緻なメカニズムに感動してしまった自分は、「慈悲の瞑想」についてはいまひとつ確信が持てなかったのだが、とにかくこれも合わせてやってみる事にした。「慈悲の瞑想」は、「サティの瞑想」より単純で、慈悲の言葉を唱えるだけで瞑想が始まっている。「移動中や短時間の待ち時間など、まとまったことが何もできない中途半端な時間帯を慈悲の瞑想で埋めていく」ことも可能です、と著者は言う。いつやるか。通勤・帰宅の車の中で呼吸法をやるのでそのときにやってみよう、と思った。

6月4日(月)から24日(日)の3週間は、とりあえずこれを続けてみて結果をご報告しようと思います。(続く

原久子 著
呼吸を変えれば人生に奇跡が起こる
1,575円(税込)

地橋秀雄 著
ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践
春秋社 2100円+税

パワーヨーガ

Amazonの検索で「ヨガ」と片仮名でインプットすると1,356件、Googleの検索では7,160,000 件が表示される。1970年代から日本でも小規模なヨガ教室があったが、1990年代以降ハリウッドのセレブ経由でパワーヨーガと言うものが日本に入ってきて、どこのフィットネスクラブでもヨーガのクラスを設けるようになった。一時はオウム真理教のとばっちりで下火になったと聞くが、今ではそんなの物ともせぬ勢いである。

パワーヨーガの元は、南インドで発祥したアシュタンガ・ヨーガと、中部インドで確立されたアイアンガー・ヨーガだと言う。アシュタンガ・ヨーガは、呼吸と動作をシンクロさせて流れるようにポーズを展開させていくヨーガ。アイアンガー・ヨーガはポーズを決めたとき、静止して瞑想するヨーガ。アメリカでこれらを組み合わせていいとこ取りしたのがパワーヨーガであるらしい。(綿本彰「DVDで始めるパワーヨーガ」の説明。)

上掲書によると、パワーヨーガにはボディメイク効果とメンタル調整効果の二大効果があると言う。
ボディメイク効果としては、
1)姿勢安定筋と体幹を鍛える。(最近ピラーティスとかでも盛んに言われている、体のコアの筋肉を鍛え、体のゆがみを直し、美しくリラックスした姿勢を作るという効果があるらしい。)
2)普段使っていない筋肉を動かすことにより、基礎代謝をアップし、血液の循環が良くなる。
3)有酸素運動による脂肪燃焼効果。
4)内臓がマッサージされリフレッシュされる。
メンタル調整効果としては、
5)体内エネルギーを効果的に発散させることによる、ストレス解消。
6)肉体的につらいポーズを取ることにより、心の中の苦痛やわだかまりが体の苦痛の中に流れて行くことにより解消し、結果として集中力が高まる。
7)筋肉を緊張させてから緩めることで、リラックス効果がある。
8)バランス、呼吸、ひとつひとつの動きに心を配る必要があるため、心の柔軟性が養われる。

いいことずくめのパワーヨーガだが、教室に通う暇がなかったため、上掲書「DVDで始めるパワーヨーガ」を購入し自宅でやってみることにした。本もDVDもわかりやすく懇切丁寧に作られていて、ヘタな教室に通い、大勢と一緒におざなりなポーズを繰り返すよりも効果があるように思えた。

DVDと一緒に、アシュタンガ・ヨーガの原則に従って、呼吸とシンクロナイズさせながら太陽礼拝の一連のポーズを展開していく。その合間に、アイアンガー・ヨーガのメソッドに従った静止ポーズをはさみ、その間微動だにせずに瞑想する。静止ポーズでは、体を折り曲げたり、反らせたり、かなり無理な姿勢で30秒近く静止するのだが、最初は息をするのも大変だ。瞑想どころではない。

日常的にハードな運動をしたことがなく、体も柔軟でない自分のような人間には、太陽礼拝を毎日3回ずつ続けるのはかなりな意志の力を必要とする。意志薄弱な私は、1日、2日とさぼるうちにますます億劫になりやがて止めてしまった。それが去年のことである。ところが今年の4月に原久子の呼吸法を1日100回ずつ続けるようになってから、毎朝早起きしてジムに通えるようになり、ジムのマットの上で太陽礼拝を毎日3−5回ずつする元気も出てきた。

毎日やっていると、最初はウルトラCのように思えたポーズもだんだん楽にできるようになってくる。そこで「DVDで始めるパワーヨーガ」の中の「太陽礼拝A」と書かれたコースでは物足りなくなってしまい、以前は不可能に思われた「英雄のポーズ」を挟み込んだ「太陽礼拝B」コースに切り替えた。英雄のポーズを1回挟むだけで、普段ほとんど汗をかかない自分でもどっと汗が噴出す。不安定な姿勢で30秒保つために極度な筋肉と精神の緊張が必要だ。でも毎日続けている内に、ふっと骨盤以外の全ての力が抜けて、すっと手が上に伸び、完全なバランスの中で静かに呼吸ができる状態がやってくる。その瞬間には、周りの音が全て消えたような不思議な集中力があり、あと何時間でも同じ姿勢のままで居れる気がしてくる。

さて、上述の「ボディメイク効果」と「メンタル調整効果」が現れるためには、もっと長い間続ける必要があると思うが、すでに2つの効果らしきものがあった。

ひとつは、呼吸法だけをしていた時は、気分は安定していたが、リラックスしすぎたのか今ひとつ活力に欠ける感じだったのが、太陽礼拝を始めてから精神が適度にビビッドになって積極性が出てきたような感じがすることだ。前掲書も「活力と落ち着きと言う対極の心の状態を、ちょうど中間にチューニングすることで、精神のバランスを、絶妙な状態に調整するのがヨーガの本髄、エッセンスなのです」と言っている。

もうひとつは、太陽礼拝の中の「下を向いた犬のポーズ」を毎日30秒×5回も繰り返していたおかげだろうか、6ヶ月の療養期間中運動をしなかったために緩んだパンツのゴム状態になっていた脇の下から二の腕にかけての筋肉が、ある日新品のゴムに復活していることに気がついた。ああびっくりした。

綿本彰 著
DVDで始めるパワーヨーガ
双葉社 1300円

日本ヨーガ瞑想協会公式ホームページ http://www.yoga.ne.jp



呼吸を変えれば奇跡が起こる(6) 慢性疲労・不定愁訴・無気力体質・低血圧・抑鬱症の私にも奇跡が?

前回の3週間の呼吸法実験を終えた時、さらに4月16日(月)から5月6日(日)にかけての3週間、呼吸法を続けながら、「1度も疲れを感じずに、毎日楽しく会社に通うことができる。週末も元気で楽しく活動できる」と言う目標を設定し、呼吸で気持ちよくなった時にイメージングすると言った。もしこれが実現すれば、私にとってはすごいことだ。慢性疲労・不定愁訴・無気力体質・低血圧・貧血・四十肩・抑鬱症をかかえ、ここ数年会社に「楽しく」通ったことはない。

実を言うと、この期間呼吸法は1日も欠かさず続けることができたが、イメージングの方は初日しかしなかった。呼吸法は通勤途中に車を運転しながらやっているので、イメージングをしようとするとやはりちょっと危険なのだ。

でも、この期間、「1度も疲れを感じずに」とは言えないまでも(週末や祝祭日は早起きしたが、やはり昼寝などが必要だった)、平日は会社に遅刻せずに毎日元気よく通うことができた。(仕事の上で心理的にきつい日が2日ほどあり、朝起きる時抑鬱状態に落ち込みかけたことが2回あったが、まだ読みかじりの「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」の応用ですっと乗り越えられた。それについては別の機会に書きます。)

もちろんこれは、この期間少しでも疲れたと感じる日は就寝時間を早くしたり、どこかが痛かったり抑鬱状態になりかけたときはすぐに何らかの処置をしたことが大きい。でもこれ自体が私にとっては大きな進歩だ。以前は、判断力がにぶっているのか、疲れたと感じても飲酒で紛らそうとしたり、どこか不調がある場合も全く自覚がないか、痛くてもどのような処置をしたらいいのかわからず放っておくことが多かったからだ。忙しいのと疲れが溜まっていることもあったが、自分の心や身体が発するサインにひどく鈍感だったのだ。ひどいものだ。

さらにびっくりするのは、4月16日から今日5月13日に至るまでの28日間の内23日間は、まったく無理をせずに出社前の早朝水泳に行けたということだ。特にこの期間の後半は、毎朝定時に自然に眼が醒め、ストレッチとアシュタンガ・ヨガをした後、水泳を20-30分するというパターンが定着してきた。それに最近は、なんだか早起きして、運動をし、会社に早く着いて仕事をするのが楽しみにさえなってきたのだ。これは、これまで朝が弱くぎりぎりまで寝ていたかった私にとっては、画期的なことだ。慢性疲労の看板はとりあえず下ろさなければならない。

もうひとつ気がついたのは、この期間、自分が随分と外向的になったことだ。これまでは、大勢の人々の間に出ると黙っていることが多かったのだが、最近図々しくなったと言うか、初対面の人の前でも遠慮しないでものを言うようになったような気がする。自分が人にどう思われるかと言うことが、若干気にならなくなってきたのだ。(でもこれは、治療のホルモン剤のせいでおばさん性格になったのかも?)

これらと呼吸法を続けていることとを直接的に関係付けることは出来ないとは思う。と言うのは、元気が出てきたのは、呼吸法と同時にやっている水泳やアシュタンガ・ヨガのお陰かもしれないからだ。それから、日頃から夜更かしをしないように気をつけるようになったことも大きいのではないかと思う。ただ、ひとつ言えそうなことは、水泳やアシュタンガ・ヨガなど心身にいいことにすっと入っていけるようになったことと自分の体調に敏感になったことは、呼吸法をするようになったことのお陰なようなのだ。それらの相乗効果で朝が強くなったり、元気が出てきたはずなので、呼吸法を始めたことが間接的に寄与したとも言えると思う。

一番大切なのは、簡単なことを規則的に長い間続けることなのだろう。高橋巌が、「神秘学講義」の中で古来の神秘学の秘儀を継承したルドルフ・シュタイナーの「六つの行」の紹介の中で、こう言っているのを思い出した。

「(・・・)霊的内容の濃い書物を集中的に読んだり、メディテーションに没頭したりしますと、心身の疲労回復のために使われていたエネルギーが、別の方向へ、つまりヨガで言うチャクラを形成する方向へ流れていってしまいます。そのために生命力が弱まり、今まで以上に疲れやすくなるとか、肩がこるとか、何か無気力になるとか、そういう状態が出てくるわけです。そういうときに、生命力を何によって支えるかといえば、魂にリズムを与えることによって支える以外に手立てはない(・・・)オカルティズムでよく言われているのがリズムは力であると言うことです。」(p.138) 
「あらゆる場合に、リズムがエネルギーの代償をするということがあるわけで、生活がリズミカルに営まれることの意味はそういうところにある、ということを、シュタイナーは非常に強調していました。」(p.139) 

(高橋巌「神秘学講義」は、ルドルフ・シュタイナーの具体的な魂のトレーニング法やブラヴァツキー夫人の思想の紹介をしたり、神秘学の大きな流れの中にユングを位置づけ解説したり、日本の偉大な神秘家である出口王仁三郎にも触れたりという、とても分かりやすく面白い本なので、いずれ内容について詳しく触れたい。)

日本の小学校の朝礼やラジオ体操も、何かそういった規則的な儀式を生命の活性化に利用する古来の知恵を継承していたのかもしれない。さて、特に私のような意志薄弱な人間にとってひとつのことを規則的に長く続けるコツは、義務感や強固な意志ではなくて快楽原則を利用することだろう。呼吸法やヨガや水泳をしたときの気持ちよさの感覚を心と身体にしみこませ、それをエサに毎日続けさせるのだ。

もうひとつは、何らかの理由でこれらを続けられなくなった場合でも、罪悪感を抱いてはいけないということだ。自分を責めたり自信を失う代わりに、何故できなかったのかを考えれば、それは挫折とか失敗ではなく単なる学習の過程になる。(これは実は、ポール・シーリィの受け売りだ。)

この期間は、呼吸法の他には、とにかく定時より少し早めに出社して仕事を人並みにこなすことに注力した。静かなシーズンと言うこともあって、あまり残業せずとも「緊急で重要な仕事」と「緊急だけど重要でない仕事」は無難にこなすことが出来た。でも、次の3週間― 5月14日(月)から6月3日(日)までの期間は、呼吸法を続けながら、「緊急ではないが重要な仕事」にとりかかる、という目標を設定してみる。(続く

(仕事の「緊急性」と「重要性」のマトリクスは、スティーヴン・コヴィーのベストセラー「7つの習慣―成功には原則があった! 」から。この本は紹介されつくした感もあるが、その昔深い影響を与えられ、以後自分の仕事や物事に対する基本的な態度を決定してくれた本なので、いずれこれについても感想を書いて見たい。)

原久子 著
呼吸を変えれば人生に奇跡が起こる
1,575円(税込)

気と呼吸法さまざま

うつ病・対人恐怖症・不定愁訴・慢性疲労を抱え、お医者さんに相談しても、あまり効き目のない栄養剤を処方される位が関の山であった私は、人並みに社会生活を送るために、しかたなく代替医療の様々なテクニックを試してみることになった。最も直接的な効果があるように思えたのは、ヨガ、野口式整体、気功だったが、それら全ての基礎に呼吸法があることが分かってきた。

たとえば、気功には静気孔と動気功があるが、前者は単なる呼吸法、後者は呼吸法に動きを載せたものである。動きが先にあるのではなく、始めに呼吸ありきなのだ。動きは呼吸による気の出入を助け、入った気を体内に循環させるための補助の働きをするのではないだろうか。太極拳も、合気道も、新体道も、気流法も、空手もアウトカムが違うだけで根本は同じなのだろう。

在日中国人の赤松子著「入門気功術」は、さまざまな気功の基本的なテクニックを、目的別に解説している。特に、時間のない人にとっては、どこでもできる静気孔のさまざまなバリエーションが記されているのがありがたい。前述の原久子著「呼吸を変えれば人生に奇跡が起こる」では、座っても寝てもできる呼吸法の姿勢のバリエーションを紹介しているが、赤松子著「入門気功術」ではさらに、立ってかかとを上げ下げする簡単呼吸法(これだけで、気功の効果があるらしい)や、寝たままでできる「太湖椿気功」、「吐納功」、「内養功」等を紹介している。これらはそれぞれ姿勢は少しずつ異なるが、意守丹田し腹式呼吸を行うと言う基本は全く変わらず、それぞれ、癌の治療・予防や消化器を強くするなどの効果があるらしい。そこで、時によって(肩こりや食べすぎで)あるひとつの姿勢が難しいときは、このうちの別の姿勢に切り替えながら、とにかく呼吸法を続けると言うことができた。

ヨガは、代替治療の中で私が最も早く試したもので、またその効き目が最も劇的なものだった。特に、アシュタンガ・ヨガの太陽礼拝を5セッションほどやった後は、ほんとうにしゃきっとして、意識を覆っていた雲が急に晴れて、周囲を見渡せるような気がすることもある。(まあ、ふだんの私の意識が、いつも五里霧中にあると言うことの証明かもしれないが・・・。) これほど効果があっても、20分ほどのかなりハードな運動をやるにはまず別のヨガをやって元気を出すことが必要なほどで(笑) 、しかも、狭い我が家で毎日続けるのは結構大変だ。ということで、太陽礼拝は、出勤前の早朝や週末にジムに行ったときに、元気があればやることにした。アシュタンガ・ヨガの解説書を色々読んだ中では、綿本彰著「DVDで始めるパワーヨーガ」の中の太陽礼拝の解説がとても分かりやすかった。綿本彰が同著の中で言っているように、アシュタンガ・ヨガの第一の目的もまた、呼吸を深めることのようだ。

「体を動かさず、呼吸のみを行おうとすると大変難しいものですが、逆に体を動かしながら呼吸していくと、簡単に深めることができます。
ヨーガの根本にあるのは呼吸であり、呼吸を深めるための補助動作としてさまざまなポーズがある―そう考えて動いていくと、呼吸は自然に深まり、ひとつひとつの動作も呼吸に合わせて丁寧になっていくことでしょう。動きを主体としてヨーガを行うよりも、呼吸を主体としてそれに合わせて動いていくという認識で行うと、同じポーズでも得られる効果は段違いに大きくなります。」(p.12)

ただアシュタンガ・ヨガの場合は、腹式呼吸と胸式呼吸を組み合わせて行う。出典は忘れてしまったが、肺は自分では伸び縮みできないため、呼吸をするためには、肺を囲む胸骨や横隔膜を広げたり縮めたりする必要がある。たしかに、横隔膜を動かす腹式呼吸だけではなく、胸骨を動かす胸式呼吸をも組み合わせると、それだけ呼吸が深くなりそうではある。

ところで、呼吸法の威力を身をもって実証しているのは、「自在力―呼吸とイメージの力で人生が思いのままになる」の著者、塩谷信男だろう。塩谷信男の提唱する正心調息法は、丹田に呼吸を集めるという点では原久子の瞑想呼吸法と似ているが、丹田呼吸の間に、ふつうの深呼吸を挟むという方法を取っているのがユニークだと思う。間にふつうの深呼吸を挟む理由は書いてはいないが、丹田呼吸に慣れない人でも続けやすいように、著者が試行錯誤の結果に生み出した方法はないかと想像した。そして、この著作当時、著者はすでに九十を越えているが、文章はクリアで分かりやすい。また、1905年生まれなので、今102歳と言うことだがご健在だそうだ。

この本には呼吸法のさまざまな効用が実例を挙げて示されているが、呼吸法を続けながら痛みのある患部に気を循環させると効くと言うので、ちょうど痛んでいた四十肩の部分に気を集めて循環させようとしたら、翌日肩が腫れ上がって眠れないほどになってしまった。未熟者が見よう見真似でやるとこのような結果になったわけだが、ともかく何らかの効果があることが良く分かった。

さて、ヨガ、気功、呼吸法のどの本にも共通して書かれていることは、とにかく毎日少しずつで良いから、長く続けるということである。このような意味で、最も簡単に出来る呼吸法だけは毎日必ず続け、基盤を作り、時に応じてヨガや気功で変化を楽しむというのが私には合っているようだ。呼吸法を続けていると、敷居が高くなかなかやる元気がなかったヨガの太陽礼拝が、比較的気軽に出来るようになったというメリットがある。

なお、これを書いた後、最近ヴィッパサナ瞑想法の情報を探しているときに出会った素晴らしいブログ「瞑想と精神世界」にも、呼吸法のことが紹介されているのを見つけた。ブログの著者の読書量はものすごく、呼吸法に対する狭い私の認識が一気に広がってしまった。現在の呼吸法実験期間中ここから勉強できる情報も入れて、さらに最適な呼吸法を考えよう。

赤松子 著
入門気功術
ベースボールマガジン社 816円 (税込)

綿本彰 著
DVDで始めるパワーヨーガ
双葉社 1297円(税込)

塩谷信男 著
自在力―呼吸とイメージの力で人生が思いのままになる
サンマーク出版 600円 (税込)

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