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その後のブリュッセル

3月22日(火)のブリュッセル空港・地下鉄爆弾事件の後、実にたくさんの人々からお見舞いのお便りをいただいたのが本当に有難く感じられました。日本とアイルランドの家族やお友達だけでなく、ISISのテロ攻撃に甚大な被害を受け、今もそのリスクにさらされているパリ・ロンドン・マドリッド・イスタンブールの同僚たち、2001年9月11日の同時多発テロに遭遇したNYのお友達からもお便りをいただきました。

その中で、以前日系企業のベルギー子会社の社長さんとしてブリュッセルに駐在されていた方からのお便りの中にこんな言葉がありました。

「ISって何なんでしょうか?なんの思想も、発言の中の整合性も感じないです。その昔、社会からあふれた行き場のない若者達がその鬱憤の吐けばを暴走族になって晴らしている のと何ら変わらないです。ましてや、ISの超過激な行動は恐怖心を煽るばかりです。記憶の中に今も 美しく残っているブラッセルをそんな色に変えてほしくないです。」

この言葉に自分なりの回答を見つけようとして、地元紙を漁ったり、テレビのインタビューを見ているうちに、Irish Independent紙に少し単純化されているきらいはあるが、ある程度疑問に答えてくれる解説を見つけたので拙い訳をしてみました。

この記事を読むと、ISISが、なぜ美しい歴史的建造物を次々と破壊するのか、なぜ欧米諸国のみならず、同じ回教徒の国々トルコ・シリア・イラク・・・でさらに多くの虐殺を行うのかがわかるように思います。

 
ビデオは、本日、ブリュッセルと同様約30名の市民の命が奪われたイラクのサッカー競技場でのテロ事件。試合が終わり、表彰でトロフィーが渡される時に爆弾が爆発した。

亭主のグリに「なぜこちらのほうは、あまりニュースにならないのだろうね」と尋ねると「日常化してしまっているからかもな」と言われた。CNNやBBC Worldはかなり丁重にこれらの事件を追っているとは思うが、各国のメディアは、自国民が被害に巻き込まれているかどうかという点を重視する。(日本の報道もそうだが)自国民がいないことがわかると、途端にニュースの優先度は落ちる。ISの活動が現在のように日本に注目してもらえることになったのも、日本の方々がISISに殺害されたということがあってからではないかと思う。当然のことかもしれないが。

***
David McWilliams: West finally needs to admit all radical roads lead back to Saudi Arabia
2016年3月23日 Irish Independent


  青少年・少女が過激化するのは、誰かがそうするように教えたからで、自然に起こることじゃない。かつて、カフェで働くことに満足していた青年が、一夜にしてアラーの戦士になるわけではない。そこには一定のプロセスが必要なのだ。

回教徒の人々、特に年配の回教徒と話すと、皆一様に、このような青年の過激化のプロセスが始まったのは比較的最近のことだと言う。ここ30〜40年ぐらいのことだと。もしそれが本当なら、この30-40年の間に何が起こったのだろう。1979年イランの革命の後、西欧諸国は、イランは敵で、サウジアラビアが新しい友達になったと考えた。サウジアラビアのすることはすべて正しいと。中東において、イランの勢力を抑えられる強力な勢力はサウジで、だからサウジの行うことはすべて認められてきた。

私たちは、サウジアラビアが極端なイスラム主義を実施し、外国でも扇動しようとしていることを理解しようともしなかった。

その極端なイスラム主義は、ワッハーブ主義と呼ばれる。中東を理解したければ、サウジアラビアが最も好み、そして国外に輸出したこのイスラムの一派を理解することは不可欠だ。

ISILや、昨日の爆撃を行った青年たちを理解するためには、これらすべてにおけるサウジアラビアの果たした役割を理解する事が不可欠だ。ローマ、ペルシア、仏教の古代の文化建造物の破壊にISILを導く原動力の元はワッハーブ主義に他ならない。どのようなゆがんだ論理によって、彼らが無実の人々を殺戮するに至ったのかを理解するには、ワッハーブ主義について理解する必要がある。

すべては、はるか昔に始まった。

ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブは、1703年にリヤッド近郊で生まれた。彼は聖人としての教育を受け、多くの宗教家のように、絶えず、聖典への純粋な忠実と日常生活の現実によって変質したより寛容な聖典解釈との間で引き裂かれていた。このような体験は珍しいことではない。ピューリタニズムとプラグマティスムの間の戦いは、つまるところ、西欧のキリスト教会におけるように、宗教改革と呼ばれるものにつながる。

アル・ワッハーブは、イスラム教の純化と原初イスラム教への回帰を呼び掛けた。まだ若い導師であったアル・ワッハーブが、自らの住む地方の街で、姦淫の罪を犯した女の断首を主張した時、人々は彼が本気であることを知っていた。当時アラビア半島を席巻し、住民たちに無慈悲な重税をかけていた人気のないオスマン帝国に対する暴動がなければ、アル・ワッハーブの先鋭主義は、当時のどちらかと言えば宗教的に寛容な土地柄では人気を博すことはなかっただろう。

当時小さなオアシスのリーダーであったアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(サウジアラビアの初代国王)は、おそらく、オスマン帝国に対する戦いにおいて神の加護を得るために、1745年、異端の説教師アル・ワッハーブに命運を託した。サウード家とワッハーブ主義が結びついたのはその時で、以来この盟約は続いている。

当時、イスラム教もまた他の多くの宗教同様、イスラム教以外の複数の宗教・信仰・慣習の寄せ集めだった。伝播される途上で、借用されカスタマイズされたものだったのだ。ご存知の通り中東と言う地域は、文明のるつぼであり、世界の主要な通商路の交差点であり、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教徒いう三大一神教の発祥の地である。キリスト教徒とユダヤ教は、文字通り数ヤードしか離れておらず、イスラム教は数百マイル下ったところで起こった。

アル・ワッハーブは、このような変遷の末に着古された観を呈していた当時のイスラム教に異議をとなえた。純粋主義者である彼は、基本に戻り、イスラム教を原初に戻そうとした。ワッハーブ主義のもっとも重要な原則は「神の唯一性」だ。このため、マイナーな神々、その他の神々、神秘主義、神社、寺院、聖人などへの信仰は偶像崇拝であり、粛清されねばならなかった。

このような考え方に基づいて、ワッハーブ主義はその他のイスラムの宗派(シーア派やスーフィズム)と真っ向から対立することとなった。シーア派やスーフィズムは「家の中の敵」、ユダヤ教とキリスト教は「家の戸口まで来ている敵」だった。ワッハーブ主義は、これらの不信心者に対するジハード(聖戦)を主張した。

それから1世紀の間は、ワッハーブ主義の活動範囲はアラビア半島の中に限られていた。でもゲームの風向きがかわり、サウジアラビアが石油を掘り当てたことにより、この地域は地政学と西欧経済のご都合主義を惹きつける地域へと変貌した。

ここでイスラム教の過激派が、地球上で最も富める国と結びつき、サウジアラビアは石油だけではなく、ISILやその他のジハディストのグループを動かしているラジカルで不寛容なイスラム教の一派をも輸出するようになった。サウジアラビアは、その広範な石油資産を東はマレーシア、西はマンチェスターへと至るイスラム神学校への資金提供に宛てているが、これらのイスラム神学校のうちのいくつかは湾岸諸国からはるか離れた地域でワッハーブ主義の思想を伝えている。

無実の市民を殺戮し、古代の遺跡を破壊し、女性を虐待するISILは上述のワッハーブ主義の権化であり、中東における西欧の最大の友であるサウジアラビアはISILの最大の財政的保護者である。戦いには資金が必要で、ISILは石油、不正な金儲け、人質、外部の民間からの寄付等から資金を得ている。外部の民間からの寄付の多くはサウジから来ている。

ISILの財源の流れをたどって行くと、全てはサウジアラビアに根を持っている。西欧の敵とみなされるリビア、イラク、アサド政権下のシリアなどではない。

9月11日のハイジャック犯の大半や、ビン・ラディンとアルカイダの指導者たち、シリアとイラクにおける5人のISIL支部の指揮官はサウジアラビア人である。アルカイダやISILなどの急進グループは、1730年代の砂漠から来た聖職者ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブと彼が1745年に盟約を結んだサウード家の子供たちと言ってよい。

西欧は少しでも早くこの事実を受け入れるべきである。


***

前述の通り、上述の記事は少々極端でシンプリストかもしれないと思っています。

スンニ派の急進派であるワッハーブ主義は、サウード家による絶対的な支配を保証するものとして利用されてきました。ワッハーブ主義は依然としてサウジの国教ではあるけれど、現代のサウジアラビアはある意味二極化していて、ワッハーブ主義にネガティブなイメージを持つ人々も多くなってきているとも聞きます。

また、この記事のように、ISISによるブリュッセルでの蛮行の責をサウジアラビアだけに求めるのは酷というものかもしれません。

人類に共通の、超越的な価値への帰依による思考停止への誘惑(あさま山荘事件のような)。

(「雇用主」としてこの国にやってくるエクスパットには感じにくいと思いますが、「有色人種の移民」としてこの国にやってきた当時の自分もひしひしと感じてきた)ベルギーに根強い有色人種に対する蔑視。

1930年代に北アフリカからの移民を積極的に受け入れながら移民2世・3世のインテグレーションを後回しにしてきたベルギーの偏った政策。

それぞれお城のように立派な区役所のある19のコミューンと6つの警察部隊を持ち、統合されつつあるとはいえ互いに情報共有がなく非効率なブリュッセルの行政。ビューロクラシーにがんじがらめになり、ある意味やる気を失ってしまった警官たち。

さらには自国の利害のために中東の指導者を操ったり、シーア派とスンニ派の対立を仕掛けたりしながら、結果としてISISをはびこらせる原因となったイラクの政治的な空洞を生み出した別のもっと大きな国の偽善。

それらすべての霊妙な配合が、罪もない市民と自爆した青年たちの死骸の山を作り出し、今後もやむことなく死骸の山を作り続けるということになるのでしょうか。

 
 

苦しみの日にこそ喜びの歌を歌え

苦しみは歓びによって乗り越えるしかなく、暴力には愛によって対抗するしかないと言うことを、3月22日(火)のブリュッセル空港・地下鉄テロの後の3月25日(金)、ブリュッセル証券取引所の広場に集まった市民たちの歌声とグラフィティーが教えてくれる。



アダージオ。



JUGEMテーマ:幸福に生きる

ブリュッセルの1日(宿題の日記風に)

昨日、2016年3月22日火曜日は、こんな風な1日でした。

朝、6時過ぎに起きて、亭主のグリと一緒に7時前にEU機関の多い地域にあるジムに行った。いつものようにジムの自転車をこぎ、スクワットと腹筋、ストレッチをし整体をして、シャワーを浴び、8時頃に1人でジムを出た。ジムの地下のガレージから車を出し、まだ比較的すいているベリヤール通りを空港に向けて走らせた。(オフィスはブリュッセル・ザベンテン空港の手前にあるのだった。)

車が空港に近づいた時、2台のパトカーがサイレンをけたたましく鳴らしながら、どこか異常を感じさせる勢いで自分の車を追い越して行った。8時20分だ。その時、ラジオのMusique 3のバッハの音楽がやむと、プレゼンターが「ただいま、ザベンテン空港の出発階で爆弾が2発爆発した様子です。詳細はまだ不明です」と告げた。

会社に到着すると、遠くで、近くでパトカーや救急車のサイレンの音が響いている。同僚とこの話をしている時、9時ごろにEU本部のあるシューマンから一つ手前のマールベークの地下鉄の駅でも爆弾が爆発したことが判明した。ついさっきまで自分がいたジムは、マールベーク駅の入口が面したロワ通りの裏側にある。

そうする内、社内通知メールが一斉に送られて来て、
「皆今日はできるだけブリュッセル市街には行かないように、できれば早く帰宅して家で仕事をしなさい」
と告げる。職場の同僚のほとんどは、ブリュッセルから10キロ以上離れたルーバンやメヘレン、アントワープから通勤している。「ブリュッセル市街には行かないように」と言われても、ブリュッセルの町中に住んでいる自分はどうすればいいのか。ブリュッセルの外側の比較的平和な地方都市に住んでいる同僚たちが急にうらやましくなる。

夜が近づいて、皆が帰って行く様子なので、だんだんと心細く淋しい気持ちになってきた。亭主のグリのことも心配なので、早く帰りたい気もするが、市内の公共交通がストップしているので、渋滞が心配になる。渋滞の中で自爆テロにあったら身動きがとれないと思うと、少しでもリスクを減らしたい。夜が更けるにつれ、グーグルマップで渋滞を示す赤い部分が少なくなってきた。いつもの帰り道、EU本部前からマールベークの地下鉄駅前を通るロワ通りは封鎖されているはずで、迂回路のジェネラルジャック大通りはまだかなりな渋滞が続いているだろう。そこで、ブリュッセルの南に広がるソワーニュの森からカンブルの森伝いに気持ちの良い夜の並木道を車を走らせてゆっくりと帰った。家に帰ると、何故か夕食を取る元気もなく、そのままばったり寝てしまった。

最近、わけもなく「今日が自分にとっての最後の日か」という気分になることが多い。でも淡々と、丁寧に日々を過ごすしかない。カルペ・ディエム(日々の花を摘み取れ)である。

ブリュッセル・ザベンテン空港には、出張帰りでつい3日前に降り立ったばかりだ。いつものように、空港ビルの出発階の出口に車で迎えに来てくれる亭主のグリを待つ間、喉が渇いたので、出口付近のスタバのカウンターまでトランクを引きずって行き、アラブ系の2人の小太り兄さんに向かって、
「アイスコーヒーくれますか?」
と言う。兄さんが愛想よく、
「バニラ味かい?」
と聞く。
「ううん。ふつうのアイスコーヒー」
すると、横にいたもうひとりの兄さんが、
「クレーム・マキャートだろ」
と同僚にアドバイスする。
「だから、ふつうのアイスコーヒーだってば!・・・まあいいか、そのクレーム・ナントカちょうだい」
飛行機の中で良く眠れず疲れていたので、面倒くさくなってそう言う。
「スモール・サイズでいいかい」
「ええ」
「6.2ユーロ(約800円)」
(うへっ、高え〜、と心の中で毒づいた。)

つい数日前にそんなピント外れのやりとりをしたばかりのこのスタバの前で、昨日のテロ事件の3発の爆弾のうちの一つが爆発した。あのスタバのカウンターは跡形もなくなったが、もしかすると、話が通じなかったあの気のいいアラブ人の小太兄さんたち2人も吹っ飛んでしまったかもしれないと思うと、言葉もない。

ブリュッセルの歳の暮れ

今年はブリュッセルが残念な意味で脚光を浴びてしまった年だった。テロ予備軍の頭数が人口比では欧州一のベルギー。ブリュッセル北西部のモーレンベーク区は、日本のお茶の間の皆さんもご存知の場所となってしまった。

1月のパリのシャルリ・エブドのテロ襲撃事件から、ブリュッセルもEU本部の前など要所要所に迷彩服に銃を構えた兵士が立つようになったが、11月のパリの同時多発テロ事件以来テロ脅威度が最高の4になり、地下鉄や学校が閉鎖され、町中のいたるところに兵士の姿が見られるようになった。

当方が住むアヴェニュー・ルイーズにも、通勤途中に車で通るEU本部前にも兵士が立っているので、自分としてはテロの脅威よりも、兵士が銃の取り扱いを間違えて流れ弾がこちらにあたってしまう事の方が心配だ。

ベルギーの警察がいかにのんびりしているかは、この町で、何度もひったくりや暴漢の被害に遭っている自分はよく知っている。(警官ののんきさについては、2008年4月12日のブログの後半をご覧くださいませ。)この国で凶悪犯罪がほとんど起こらないと言う事もあると思う。小さな窃盗や強盗は市民にとっても「普通のこと」で、警察は犯人摘発よりも保険会社に提出する書類を作ってくれる人と言う位置づけである。これで何とか社会が回っていたのだが、この度、欧州近隣諸国の非難を浴びることになってしまった。中には極端なコメントも有り、私でも普通に歩けるモーレンベークが、あたかもブラジルのファヴェラやかつての香港の九龍城址のような「無法地帯」になっていたかのような言われようをされ、ベルギー警察もちょっとしゃきっとしている所ではないかと思う。

それにしても、今回のことで一番迷惑を被っているのは、ベルギーにいて、人種的や言語の面で不利な条件にもかかわらず一生懸命ベルギー社会に溶け込もうと努力しているイスラム教徒たちだろう。

下は、アヴェニュー・ルイーズに、毎週火曜日と金曜日の晩にトラックでごみ集めにきてくれるお兄さんたちが、クリスマス前にルイーズの住人たちに配ったビラだ。
「クリスマスおめでとう! ごみ集めに来るのは、僕たち4人です。僕たちのフリをして怪しいふるまいをする奴がいたら、ただちにこの携帯電話に通報してくださいね!」


私は、このビラを読んでなんだか泣けてしまった。

一番左のシャキール君はごみ収集車の運転主で、キルギスタン出身かなあ。右の3人は車の側面にしがみついており、道路沿いにおいてあるごみ袋の所で車から飛び降りて、後ろのミキサーに重たいゴミ袋を次々放り込んではまた元気よく車に飛び乗って・・・と言うハードで荒っぽい作業をこなしていく要員だ。バルーディ君は明らかに北アフリカ出身(おそらくモロッコ系)だろう。カンベル君はボスニアっぽい名前。ブリュイエール君はフランス名だが顔は北アフリカっぽい。恐らくみんなイスラム教徒なのだろう。その彼らが、一生懸命、
「クリスマスおめでとう!僕たちもキリスト教のお祭りを一緒に祝わせてください!仲間に入れてください!」
と言っているように読める。

ベルギーのイスラム系の若者の40%が失業状態で、社会からの疎外感を感じており、これがジハディストの巧みな勧誘に乗ってしまったと言われている。確かにそういう面もあるのだろう。また、北アフリカ出身者は、キツイ・キタナイ・キケンの3K仕事しか与えられないというフラストレーションを感じている若者も多いと聞いている。ただ、自分がベルギーにやってきた1980年代に比べるとイスラム教徒、特に北アフリカ出身のアラブ人のインテグレーションは大幅に進んでいると思う。今では、区役所の外国人課の窓口の外側だけでなく、内側にもアラブ人の職員の姿を見かけるようになった。自分の職場にも、アラブ系の会計士や税理士が増えてきている。20年前には考えられなかったことだ。

100年前、ベルギーのシャルルロワからリエージュにかけては炭鉱業が大変栄えた地域で、多くのイタリア人労働者が移住してきた。イタリア人炭鉱労働者の二世・三世は、ベルギー人と同じようなフランス語を話し、イタリア語を忘れ、今では完全にベルギー社会に溶け込んでいる。(リエージュのイタリア料理屋でスパゲッティーを注文すると、ベルギー風に分量が多く、かつ、茹ですぎで、閉口する。)イタリア系だと言う事で職業上差別をされることはほとんどない。ではアラブ人のベルギー社会への同化も、時間の問題なのか?

宗教の問題がある。とは言え、自分の周りには、アラブ人の二世・三世に敬虔なイスラム教徒はほとんどいない。酒を飲む者もいるし、自分では飲まないまでも、他人の飲酒には至って寛容だ。

***

イタリア系移民と違うのは、彼らの故郷であるイスラム社会が(一部の国を除いては、政権や治安の面などで)多かれ少なかれ不安定なことかもしれない。それは、スンニ派とシーア派の対立に還元できない、外部の者にはさっぱりわからない複雑な様相を呈している。

日本の新聞雑誌の情報源も最近ずいぶん充実してきたが、2013年のFinancial Timesの投稿欄に掲載されたこの投稿が可能な限り単純化した要約かもしれない。

「アサドはムスリム同胞団が嫌いで、ムスリム同胞団とオバマはシーシー大統領が嫌い。
でも湾岸諸国はシーシー大統領が好き、ということは、ムスリム同胞団が嫌い!
イランはハマスが好き、でも、ハマスはムスリム同胞団を支持。
オバマはムスリム同胞団を支持するが、ハマスは米国が嫌い!
湾岸諸国は米国が好き、でも、トルコは湾岸諸国と一緒になってアサドが嫌いで、シーシー大統領が嫌いなムスリム同胞団が好き。
そして、シーシー大統領は湾岸諸国に支持されている。
ようこそ中東へ!そして、ハヴ・ア・ナイス・デイ!
(K N アル・サバー、ロンドン在住)」

現在は、これにISISやロシアが加わって、さらに複雑なことになっているが。


共和党の米大統領候補者ドナルド・トランプが、
「いったい何がどうなってるのかわからんから、わかるまではすべてのイスラム教徒のアメリカ入国を禁止すべきだ」
と言ったが、それが多くのアメリカ国民の正直な気持ちなのかもしれない。共和党候補者の内では支持率が40%にもなったそうだ。

***

ブリュッセルでは、クリスマスが近づいても警戒が続いていたが、この兵士さんは、若者の集まるショッピング・ストリート、ヌーヴ通りを警戒中に、我慢しきれなくなってついクリスマス・ショッピングをしてしまいました。(彼女へのプレゼントなのでしょう。ショッピングバッグは、若い女性に流行のRITUELです。)ちなみにこの写真がTwitterに載ったおかげで、この兵士さんは職務停止処分を受けてしまいました。



なお、テロの警戒で大みそかのグランプラスの祭典は取りやめになりましたが、大みそかの夜8時ごろ、モーレンベーク区のとなりのアンデルレヒト区にあるクレマンソーの地下鉄の駅では、10人の悪ガキが、駅前に駐車していた車を階段からホームに転げ落としてしまいました。


この画像に「アラー・アクバール」と言う声を重ねた偽画像が出回りましたが、このオリジナルには餓鬼どもの「ウォー」と言う歓声と「ケケケ!」と言う笑い声だけが入っています。この餓鬼どもがテロリスト予備軍とは限りませんが、ベルギーの警官は、これまでのように自動車保険用の書類を作成するだけでなく、気を入れて捜査をしてほしいものです。

それでは、皆様、良いお年をお迎えください。
世界から、餓えと暴力が無くなりますように。

パリ追悼

出張先の日本でパリのテロ事件のことを聞いて、一足遅く日本に到着したパリ事務所のフランス人同僚に「大丈夫だった?」とそっと聞くと、彼はとても静かな口調でこんな風に言った。

「あの事件の翌朝、僕は妻と子供たちとパリの町中を散歩してみたんだ。そうしたら、パリは閑散として人っ子一人見えなかった。…でもそれこそ奴らの思う壺だよ。だから自分の恐怖心と戦いながら、そういうときほどいつもの朝と何も変わらない顔をして朝の散歩を楽しむべきなんだ」

彼は、シルベスター・スタローンでもなく、フロン・ナショナルのような最右翼でもなく、あまり風采の上がらない、平凡な三十代後半の税理士だ。でも私はその言葉を聞いた時、とてもびっくりして、「ああ、フランス人ってこういう人々なんだ」とかすかな感動を覚えた。

フランス人がイスラム教徒のテロに慣れていると言うのは言い過ぎかもしれないが、多くのイスラム教徒を自国内に受け入れながら、ISISに始まったことではなく1995年のGIAによる地下鉄テロ等に耐えながら、イスラム教徒との確執をくぐり抜けてきたフランスだ。自分だけは関わり合わないようにひたすらテロから逃げまとうのではなく、ヒステリックに移民を追い払うのでもなく、自分なりの方法でテロリストと戦う気概があるのではないか、そんな風に感じた。

本日イギリスのBBCのアンドリュー・ニールのテレビでのメッセージにもそんな気概を感じた。
 
(翻訳)
 今晩は、皆さん、「今週のハイライト」へようこそ。今週は、ジハディストの負け犬どもが、未来はフランスのような文明にではなく、自分たちのものであると言うことを証明しようとして、パリで132人の無実の人々を殺傷しました。まあ、私は、彼らの勝運を信じてはいませんけれどね。だってフランスの偉大さを考えてみてください。デカルト、ブレーズ、モネ、サルトル、ルソー、カミュ、ルノワール、ベルリオーズ、セザンヌ、ゴーギャン、ユーゴー、ヴォルテール、マティス、ドビュッシー、ラヴェル、サンサーンス、ビゼー、サティ、パスツール、モリエール、フランク、ゾラ、バルザック、シャンペン、画期的な科学技術、世界的な薬品、恐るべき軍隊、原子力、ココ・シャネル、シャトオ・ラフィット、コック・オ・ヴァン、ダフト・パンク、ジズー・ジダン、ジュリエット・ビノッシュ、自由・平等・博愛、そして、クレーム・ブリュレ。 一方、君たちの誇れるものは何ですか? 首切り、磔、手足の切断、奴隷、大量殺人、中世みたいな貧困、中世の名前も汚すような死のカルトの蛮行だけでしょう。IS 、ダイッシュ、ISIS、ISIL、色々な呼び方があるけれど、私はあえてISと言う呼び方にこだわるね。Islamist Scumbag(イスラム主義のカス野郎)と言う意味のね。今後どうなるかは皆にとっては一目瞭然だが、君たちにはまだわからないようですね。君たちが今行うことのできる残虐な行為がどのようなものであっても、君たちは負けるんです。素晴らしい光の都市であるパリは、他の同じ様な都市と同じように、千年後も明るく輝いているだろう。一方で、君たちは塵と化しているだろう。かつて民主主義を攻撃して、そして失敗した、みじめなファシスト、ナチス、スターリニスト達と一緒にね。

(原語もスクリプトしてみました)
Evening all welcome to This Week, a Week with the bunch of loser Jihadists slaughtered 132 innocents in Paris, to prove the future belongs to them, rather than the civilization like France. Well I can’t say I fancy their chances.  France, the country of Descartes, Boulez, Monnet, Sartre, Rousseau, Camu, Renoir, Berlioze, Cezanne, Gaugan, Hugo, Voltair, Matisse, Debussy, Ravel, Saint Sans, Bizet, Satie, Pasteur, Moliere, Frank, Zola, Balzac, plonk (=champagne), cutting-edge science, world-class medicine, fearsome security forces, nuclear power, Coco Chanel, Chateau Lafite, Coq au Vin, Daft Punk, Zizou Zidane, Juliette Binoche, Liberté, Egalité, Fraternité, and Crème Brulée.  Versus what!?  Beheadings, crucifixions, amputations, slavery, mass-murder, medieval squalor, a death-cult-barbarity that would shame the Middle Ages.  Well IS or Daish or ISIS or ISIL, or whatever name you are going by, I am sticking with 'IS', as in, Islamist Scumbags.  I think the outcome is pretty clear to everybody, but you.  Whatever atrocities you are currently capable of committing, YOU WILL LOSE! In a thousand years’ time, Paris, that glorious city of lights, will still be shining bright, as will every other city like it, while you will be as dust along with a rag-bag of Fascists, Nazis and Stalinists, that have previously dared to challenge democracy AND failed.

大国イギリスやBBCが後ろにひかえているとは言え、ロンドンにもイスラム過激派は多いだろう。BBCのスタジオを出た所で、背後からグサッと刺される覚悟がないと、ここまで言えないと思いました。

こんなふうに、自分の命を危険にさらしても言葉による抵抗を続けることが、シリアの空爆みたいな暴力の応酬よりも勇気があり正しいことではないだろうか。

 

風邪との戦いを楽しむ(2) 北の町、モロッコ式ハマムで緩む

1枚の招待状とは、ここブラッセルの中でモロッコ人が多く住むと言われるスカルベーク地区の共同浴場ハマムからのものでした。

ハマムは、風呂好きの自分と亭主のグリが、モロッコやトルコなどを旅する時には血眼で探しまわる場所です。日本の銭湯や温泉に匹敵する充実感のあるお風呂を日本の外で探すとなると、今の所ハマムかイタリアの山奥の温泉ぐらいしかないように思われるからです。(他にもすごいお風呂を御存じの方、ぜひ教えて下さい。)

さて、ここブラッセルは北アフリカ人や中近東の人々が多いので、彼らが集まるハマムをずっと探していたのだが、中々手頃な施設が見つからなかった。それがひょんなことから、スカルベーク地区のハマムから御招待状をもらったのです。

ハマムは、女性の入れる時間帯と男性の入れる時間帯がはっきり分かれている。日曜日は女性専用の日なのであった。それで、グリが旅行中の日曜日の朝、風邪気味で家で寝ていたい体に鞭打って、トラムでスカルベークまで行く。ハマムのあると言う通りを見つけるのに手間取り、エキゾチックな風貌の八百屋のおばちゃんに通りの名前を尋ねると、「ワタシ、フランス語、話さない」と言われる。こんなの昔のブラッセルではなかったような気がする。モロッコ系ではなく、東欧系の人かしらと思い悩みながら、極寒の中をしばらく歩きまわりようやくハマムのある建物を見つける。

中に入ると、モロッコ人風のおばちゃんが怖い顔で、
「何にすんの、ハマム? ヘヤカット? エステ?」
と聞いて来る。招待状にあった通り
「ハマムとアカスリおねがいします」
と言うと、番号の書いた札を渡される。どうやらアカスリの整理番号のようだ。

外から見ると普通の町屋なのだが、中は、トルコやモロッコのハマムそっくりの薄暗い雰囲気。地下に降りて行くと、結構広い本物のハマムと洗い場がある。おばあちゃんから、小さい女の子を連れた家族連れ、若い女の子のグループなど、回教徒風の女の一群が続々と入ってくる。

すっぽんぽんになってハマムの中に座ると、別のおばちゃんが血相変えた表情で来て、
「あんた、パンツをはいて!」
と言う。トルコのハマムではすっぽんぽんでよかったのだが、そう言えば、モロッコのハマムではパンツを履かなければならなかったなと思い出す。ヘンな東洋人の自分は、皆の冷たい視線の中、あわてて脱衣所に取って返してパンツをはいて戻る。

皆に倣って、蒸し風呂に座り、入口で渡されたSavon Noirという黒い石鹸を体中に塗りたくり、待つこと15分。しばらくすると暑さで我慢ならなくなるので、蒸し風呂の中の水槽から冷たい水を汲み、頭からかぶる。そして、また蒸し風呂に座る。そうして、体の表面を何度も冷やしながら蒸し風呂に座っていると、体の芯が深く深く温まってくる。

番号を呼ばれたので出て行くと、大理石のテーブルの脇で、顔はとびきりの美人だが、体は小錦風のお姉さんが待っている。鼻歌に合わせて私をテーブルの上に転がしながら、アカスリをしてくれる。

また、蒸し風呂に戻り、1時間。Savon Noirのお陰か、体に触ると体から垢が、顔に触るとまた顔からぽろぽろ垢が出ました。うへえ。洗い場に出て、自分でアカスリをする。先刻の、サンスケお姉さんが、乱暴に客のアカスリをしながらベルベル人風の歌を歌い、吠え声を響かせ、客がみんな歓声を上げる。

ゆであがって一皮むけて、上階に上がる。鏡で見ると顔がつるつるになって色が白くなっている(笑)。

上階はモロッコ風のソファーのある素敵なサロンになっていて、お茶を飲めるようになっている。ガウンを着たままソファに寝そべっているおばあちゃんや、若い女の子の一団もいる。先程のおばちゃんが怖い顔で来て、
「あんた、何飲むのよ」
と言うので、
「ミント・ティーおねがいします」
と言うと、おばちゃんの怖い顔がにかーっとする。おばちゃんは、たっぷりの生のミントの葉っぱの入った銀のティーポットとガラスのカップを運んで来てくれ、
「あんた、今回初めてだからこれはおごりよ」
と言って、またにかーっと笑った。笑うと凄味があるが、でも優しいおばちゃんなのだ。

それで、この町の雨や暗さや寒さがつらいなあと思う会社の帰りに、少し遠まわりをしてここに来ることにしました。

写真は、Savon Noirです。


2011年を振り返り、個人的な絶望・個人的な幸せを想う

そのむかし友人から借りた萩尾望都のSF叙事詩「銀の三角 」で印象に残っているのは、殺された一人の少年の叫びによって宇宙が歪んでしまったと言うくだりだった。

失業中だった若いチュニジアの野菜売が、商品と秤を警察官に没収され、さらには婦人警官の1人から暴行を受け、没収品の返還と引き換えに賄賂を要求され、抗議の焼身自殺を遂げたのは昨年の12月だ。青年の怒りと悲しみが、チュニジアからエジプト、リビアへと波及し、あっという間にアラビア半島にも飛び火した2011年だった。2011年の正月にエジプトから帰った直後に、エジプトが炎上したと聞いた時さいしょに思い浮かべたのはウン十年前に読んだ「銀の三角」のこのエピソードだった。

一人の名もない青年の絶望や死が、今回のように地域や国境を越えて人々に行動を促すと言うことは、FacebookやTwitterの存在なしには考えられなかったと言われている。

最近のモスクワでのウラディミール・プーティン反対デモも、規模はちっちゃいがわが町ブリュッセルののジョゼフ・カビラ反対デモもこの余波を受けてのものではないかと言う気がする。

ジョゼフ・カビラ再選反対デモは、12月17日の我家の御近所のポルト・ド・ナミュール(コンゴ出身者が多い)で和やかな感じで始まったが、最後にはなんだか暴力的な感じになり、結局144人が逮捕され、可哀そうなベルギーの警察官16人が負傷した。

一本隣のアベニュ・ルイーズに住み、アパートの前に路駐している自分は車のガラスを割られるのは慣れているが、イクセル通りに路駐してたらボコボコにされるところだった。イクセル通りに路駐してなくて、ほんと、ヨカッタ・・・。








ディクテーターのいない西欧諸国の人々は抗議するターゲットがないので(?)、しかたなくEU本部の前で「キャピタリズム」に対する抗議集会をしたり、最近では「バンクスター」と呼ばれている銀行の前に抗議のテントを張ったりしている。打倒すべき具体的な顔が存在しないせいか、何を要求しているのかがわかりにくいデモンストレーションで、いまひとつ迫力にとぼしい。

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個人の絶望や死が、言葉や映像としてリアルタイムで世界中に共有されてしまう。3月11日の東北地方太平洋沖地震のすさまじい映像もリアルタイムでヨーロッパまで入ってきて、(日本で放映されたかどうかはわからないが)被害者の骸などの映像も含めて繰り返しこちらのテレビで放送された。1995年1月の阪神・淡路大震災の時は、週刊誌のグラビア等を通してわずかに映像を見ることができるだけだったので、隔世の感がある。

世間はコロネル・ガダフィやオサマ・ビン・ラディンやキム・ジョン・イルなどの大人物がこの世からいなくなり、シルビオ・ベルルスコーニや、ブライアン・カウエンが退陣したにぎやかな一年であったが、自分はと言うと、昨年からチャレンジしていた試験にようやく受かったことを除けば、あとは粛々と自宅と職場を往復しながら、仕事では鼻先にぶら下げたニンジンをひたすら追っかけ、毎朝ジムに通い、瞑想をし、試験も終わり少し時間の余裕ができた週末には、買い集めた脳関係の本を読みふけり幸せ感に浸ると言う地味な一年だった。

その中で一番のイベントは、以前登場したジャンおじさんのお陰で、6月に、狭いアパートの古い木の床を張り替えられたことだったろうか。

あまり執着するものはないのだが、自分が一番大切に思っているのはやはり自分の住居だとおもう。小さいアパートであるし、家具や食器もぶっ壊れたようなものしかないのだが、火事で焼けてしまったり、津波で押し流されてしまったりすれば、たぶん、しばらくの間精神的に立ち直れないのではないかと思う。

だからアパートは大切に綺麗に住みたいのだが、平日はほとんど外にいるし、週末の限られた自由時間を何に使うかと言えば、インテリアの優先順位は低い。

友人が、
「なんか、いつ来ても引越しの途中みたいなアパートだね」
と言えば、亭主のグリもしみじみと、
「なんか、爆弾テロの後みたいだね」
と言う。

爆弾テロの後みたく見えるのは、片付けても片付けても、グリの脱ぎ捨てた洋服や読み捨てた新聞や雑誌がアパート中に散乱しているのが主な原因だが、数十年も経っていると思われる木の床が相当痛んでいることも大きいと思えた。

6月にグリが10日間位旅行に出かけることが分かったので、この隙にジャンおじさんに床を張り替えてもらうことにした。床の張り替えは結構大変な仕事だ。アパート中の家具を片方に寄せ、古い床をはがし、新しい床板を張り、つぎに家具を別の方に移しまた同じことを繰り返す。

ジャンおじさん一人では無理そうだったので、友人のギイおじさんを連れてきた。ジャンおじさんとギイおじさんは、毎日9時から夕方の5時まで、コカコーラを飲む他は昼飯も食べずにものすごい勢いで無言で働き、1週間ほどで仕事を終えてしまった。

見よ、2人のおっさんの丁寧な仕事ぶりと、うつくしい床。床がきれいだとIKEAの安い家具や、救世軍で買いたたいたり道端で拾ってきた家具も立派に見える。おじさんたちのお陰で、ささやかではあるが幸せな年越しができそうだ。今はこの時のささやかな幸せに感謝し、これを大切に味わうことが自分たちにできるすべてだ。ある日ほんとうにテロリストに爆破されても、津波で押し流されることになっても。



天の声、地の声

エジプトの騒乱が収まりそうにない。死者は100人を超えている。大統領ムバラックは、「私だって退きたい。でも私が退いたら、エジプトは本当の混乱の坩堝に陥ってしまうだろう」そう言って、9月の選挙までは退陣しない意思を表明している。

政敵をどんどん監獄入りさせてしまったムバラックは明らかに独裁者と呼んでよいのだろう。でも独裁政権自体が悪いのではないかもしれない。強力なリーダーの存在によって、国が安定する。そしてそのリーダーが、「賢く正しい」選択をすれば国は発展するということになる。

でもニュースが伝えるエジプトは食糧の大部分を輸入に頼っていて、食糧インフレで相対的に人口の40パーセントが貧困層に分類されるのだと言う。これはやっぱり、ムバラックが政策を誤ったのだから、責任を取ってやめるべきだと皆が騒ぐのは無理もない。

エジプト革命勃発前に何もしらずに、エジプトにのんびりバケーションに行き、のほほんと帰ってきた自分は、旅先でフランスの小説家クリスチャン・ジャックの小説「太陽の王ラムセス 」5巻本を読みふけっていた。

亭主のグリと旅行に行くとほとんど本を読む時間はないのだが、そのときばかりは、飛行機の中、ダイビングに行くボートの中、夜のテントの中で懐中電灯で本を照らしながら・・・と夢中になってそれを読み続けた。

クリスチャン・ジャックはソルボンヌ大学でエジプト学を学んだと言うことで、この学問の最新の成果を小説の中に反映させている。

そこで、古代エジプトには奴隷制がなかったらしいと言うことを教わった。モーゼの出エジプト記の話も、エジプトで奴隷の身分に甘んじていたヘブライ人たちをモーゼが導いて約束の地まで連れて行ったというのが私が子供の頃から信じていた物語だったが、この物語によると、ヘブライ人たちはエジプト市民として生活していたし、モーゼ自身もエジプトの高官であった。100人ぐらいいたと言われるラムセスの子供たちも、市民から選ばれた養子であったらしい。男女も平等に尊重されていて、皆が満足している。どうも、現在のエジプトよりかなり生活レベルの高い社会であるようなのだ。食糧自給率だって今より高そうだ。

小説の中のラムセス2世は、神とつながり、神から強大な力と知恵を授けられる。でも、その力を私利私欲のために使うとそれを失うことを知っている。その神の声に従って、自分の身を削り世間的な幸福を犠牲にして、エジプトを脅かそうとするヒッタイトや、エジプトの中の政敵を打ち倒していく。エジプトの人民を愛を持って導いていく。神様のサポートのお陰で「よい独裁者」になれたわけだ。

一方、ラムセス2世の学友のモーゼは、別の神の声を聞いている。その神の声がモーゼを突き動かし、エジプトの安寧の中で充足しているヘブライ人たちを叱咤激励し、砂漠で出会う様々な敵たちと戦いながら約束の地へと向かっていく。

ラムセスは自分の神は信じているが、モーゼが砂漠の中で逢ったという神については、モーゼが日射病に当たって幻覚を見たのではないかと疑っている(笑)。ラムセスの神とモーゼの神は相容れないのだ。

リーダーが天の声に従って国を導くことができた時代は簡単だったのだろう。現代のリーダーは、矛盾し錯綜する無数の地の声を拾い上げていかなければならない。それは厳かで澄み切った真実の声ではなく、ほとんどが私利私欲に満ちた阿鼻叫喚のようなものだ。大変なものだ。

***

ここベルギーでは無政府状態が(いつからだっけ?)ずっと続いている。関東地方ぐらいの大きさで、人口は東京の人口ぐらい。オランダ語とフランス語の政党間の折り合いがつかず、こじれにこじれているのだ。ああ、恥ずかしい。

下は、ベルギーの無政府状態を嘆く地の声(ほとんど底辺からのジャンおじさんの声)。おじさんは無政府状態に抗議するための、「ヒゲをそらない運動」に参加したが・・・






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革命の3週間前にカイロで会った人々

つい3週間前にはじめて旅行したエジプトが大変なことになってしまった。 前回の記事の続き(瞑想とダイビングの関係について)を週末に書くつもりだったが、そんな気分ではなくなってしまった。CNNはカイロの映像を流しっぱなしで、私は知っている顔がいないかとテレビに釘付けだ。今現在確認された死者は60人との事だ。

今ターゲットになっているムバラック大統領は、前任者のアヌアル・サダトが1981年にイスラエルとの和平条約締結直後に暗殺されて以来、30年の間それなりにエジプトの安定を保ってきた。滞在中も、アレクサンドリアでコプト教会がイスラム・テロリストに攻撃されるなどの事件があったが、旅の途中で会ったり話したりしたエジプトの人々は、元気でたくましくそれなりにハッピーな印象を受けた。

カイロの街中をタクシーで流していたとき、通りに山積みされたごみを見たグリは、
「こんな汚くて貧しい町みたことない。今に革命が起こるよ」
とぼやいていたが、私は10年前に旅行したカトマンズで街中に詰まれたごみを豚が食べていた風景の方がよほどすごいと思うし、香港返還前に訪れた深山で出会った人々のすさんだ顔の方が忘れられない。

ムバラック政権は政敵をどんどん監獄入りさせてきたと言うが、今回のデモに対する警察・軍隊の対応は、デモ隊を処刑してしまった天安門事件の冷血よりずっとまっとうな気がする。

私たち間抜けな旅行者二人組にどこまでも優しかったカイロのタクシー運転手さん、かわいいガイドの女の子、らくだに乗ってピラミッドを案内してくれたヒシャール君たちが無事で、この出来事をきっかけにもっと幸せになってくれるように祈っている。この出来事に乗じて、たとえば反動的なイスラム勢力が政権を握ってしまったりすると悲しいのだ。

ビデオは、革命3週間前に私たちが撮影したカイロののんびりした風景。でも、ぐりが「革命の前兆」と呼んだゴミの山もしっかり写っている。
 

 


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ボスフォラス海峡の夕日

12月23日(日)から27日(木)の4泊5日でイスタンブールに行くことにした。

トルコに行くのは三度目だ。1度は学生の頃の貧乏旅行で、前出のクチナくんとのでこぼこコンビで1ヶ月かけてイスタンブールから東方のロシア(当時はソ連)との国境に接する古のアルメニア王国の廃墟、アニまでバスを乗り継いで旅をした。2度目はそれから10年ぐらい後で、両親を連れて1週間ぐらいイスタンブールからパムッカレ、カッパドキアをバスや飛行機を乗り継いで旅した。父親と自分とが1度ずつお腹をこわした他は、何事もなく、トルコの人々に親切にされ楽しい旅だった。カッパドキアの親切なタクシーの運転手さんが、アンカラで甥の割礼式に出るからと言って、カッパドキアからアンカラまで230kmの砂漠の中をただで車に乗せて行ってくれた。砂漠の真ん中のキャラバンサライで停まったり、握りこぶし大の岩塩がごろごろしている塩の湖に車を停めてくれたりした。アンカラに着いたら、ついでに甥っこの割礼式の飲めや歌えやの大パーティーにそのまま連れて行ってくれてとても楽しいときをすごした。

久々に訪れるイスタンブールは、びっくりするほど小奇麗になっていた。まず、以前貧乏旅行で愛用していたドルムシュという乗り合いタクシーが消えて、ぴかぴかのトラムが町の目抜き通りを走っている。

それから町から子供の姿が消えている。以前訪れたときは町のいたる所に5歳から70歳ぐらいまでのあらゆる年齢の男がうろうろしていて、ちょっと立ち止まって地図を広げる度に、あっという間に大小取り混ぜた10人ぐらいが集まってきて皆で道を教えてくれようとする。ブルーモスクと呼ばれるスルタン・アフメット・ジャミーの中庭で、「ワン・ダラー」と呼びかける澄んだ小さい声に振り向くと、まだ3、4歳にしかならない小さな子供が絹糸を巻きつけた独楽をニコニコ笑いながら差し出している。シルケジ駅から出る電車の外側にわざと鈴なりにぶる下がっていく少年たち。歯切れのいい声でじゅうたん屋の客引きをする男の子たち。20年前のことだ。その元気がよくて、大人っぽい男の子たちの姿が今はどこにもない。

今のイスタンブールの町の小奇麗さは、アテネやリスボンや最近EUに加盟した中欧の国々の首都よりも豊かさと活力を感じさせるくらいだ。EU加盟国候補としてトルコの人たちが頑張っている様子が嬉しいのはもちろんだが、少しさびしいような気もするのは旅行者の勝手な感傷というものだろう。

年末のどたばたの中でイスタンブール旅行の荷物をまとめているとき、偶然、本棚にまだ読んだ事のない塩野七生著「コンスタンティノープルの陥落」を見つけて鞄に放り込んだ。飛行機の中で読み始め、3日目の晩にホテルの部屋で読み終わった。この本のおかげで5日間の短いイスタンブール滞在が随分と重層的で豊かなものになったような気がする。

「一都市の陥落が一国家の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与え続けてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史の上でも、幾例を数えることができるであろうか。そして、それがしかも、年がはっきりしているだけでなく、何月何日と、いや時刻さえもはっきり示すことができるとしたら・・・。」

素敵な書き出しだ。西暦330年にコンスタンティヌス帝により設立され、六世紀には「西はジブラルタル海峡から東はペルシアとの境まで、北はイタリアのアルプスから南はナイルの上流まで」広がる東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルは、1453年5月29日、弱冠21歳のスルタン・マホメッド2世の率いる大軍により陥落する。

陥落前のコンスタンティノープルは、ギリシア正教を信ずるビザンチン人だけではなく、この地に移民した第二世代・第三世代のジェノヴァやヴェネツィア出身の商人が、ボスフォラス海峡を伝って黒海貿易をする重要な拠点になっていた。ボスフォラス海峡を通過する商船に圧力をかけるためにスルタン・マホメッド2世が築いたという城塞ルメーリ・ヒサーリを見たくなって、ボスフォラス海峡の真ん中あたりまでボートで行ってみた。翌日は、マルマラ海に浮かぶブユカタ島にやはり船で行った。

同行した観光客は西洋人がぜんぜんいなくて、レバノン人の夫婦、ロンドン在住のパキスタン人の夫婦、サウジアラビアのビジネスマン・・・となぜか全員が回教徒だ。レバノンと言えば、去年の7月ヘズボラーに占拠されて、イスラエルの攻撃で町を破壊されたことが記憶に新しい。よくのんきに観光旅行なんかできるなあ、と言うのが日本人の自分の感想だ。

いっしょに食事をした後お祈りの時間になると、回教徒の人々は街角の簡易モスクにさーっと入ってしまう。私たち夫婦(仏教徒とカトリック教徒)とトルコ人のガイドのムラット君はその間チャイハネ(茶店)でお茶を飲んで待っている。ムラット君も回教徒のはずなので「あんたはお祈りしなくていいの?」と訊くと、照れ笑いをした。

ムラット君は大学生で、21歳だ。「スルタン・マホメッド2世がコンスタンティノープルを攻略したのと同じ年だよ。それなのに僕は、大学を休んで、1日50ユーロの給料で観光ガイドなんかしている」と言って嘆く。でも、パンクチュアルで、でしゃばらず、押し付けがましくなく、丁寧で誠実、優秀なガイドだと思う。出身はブルサだそうだ。ブルサはオスマン・トルコが始めに首都を築いた場所だと、塩野七生の本にはあった。スルタン・アフメット・ジャミーでしゅすの独楽をワン・ダラーで売っていた小さな子供も彼と同じくらいかそれ以上の年になっているのだろうなと思う。

レバノン人夫婦とサウジアラビアのビジネスマンの方は、食事中もアラビア語らしき言葉で夢中になって話している。(話がそれるが、以前、語学学校で、ヨルダン人の学生が、モロッコ人の学生に「君、モロッコ人かあ」と言って突然懐かしそうにアラビア語を話し始めたのにすごくびっくりしたことがある。当たり前の話なのだが、でも、自分にとってはアラブ言語コミュニティーの地理的な広さに生理的なショックを受けたわけだ。)話を戻すと、アラビア語を話す2人の間に挟まったムラット君は退屈そうだ。「トルコ人は、回教徒である前にトルコ人なんだよ」とうちの旦那が解説する。(もちろんアラブ人が全員回教徒であるわけではなく、キリスト教徒だって存在するのだというが。)

トルコ共和国の憲法は政教分離を標榜していると言う。(この辺は、もちろんウィキペディアの受け売り。)前掲書「コンスタンティノープルの陥落」にも、スルタン・マホメッド2世は、イスタンブールがビザンチンの首都コンスタンティノープルであったときに建設された、聖ソフィア寺院をはじめとするギリシャ正教会を次々とモスクに改装していく一方で、トルコ民族の支配を認めた旧ビザンチン人にはギリシア正教の信仰を認めたと言う。これは驚きだ。「回教徒ではあっても、宗教上のことでは、トルコ民族は寛容」(「コンスタンティノープルの陥落」p.227)ということなのだった。

ブユカタ島を一周してくれる4人乗り馬車に、パキスタン人の夫婦と一緒に乗る。馬車が瀟洒な木造の別荘の並ぶ小道を抜け、やがてさわやかな松林に入っていく間も、パキスタン人のご主人とアイルランド人のうちの旦那は、口角泡を飛ばして話に夢中になっている。2ヶ月前に暗殺されたかけたパキスタンの元首相ベナズィル・ブートーの話題も出る。奥さんの方はつまらなさそうにしている。「外国人と話すときは、政治の話と宗教の話は避けるように」とどこかで聞いたような気がするが、この二人には当てはまらないようだ。さっきから、政治の話と宗教の話しかしない。

帰りの船では、寒さを忘れて、夕焼けの中を追ってくるかもめの群れに向かってパンを投げた。
船の上から

かもめはどこまでも追ってくる。
海とかもめ

ブユカタ島からの船がイスタンブールの船着場に着き、大通りの向こう側にあるバス乗り場に行くために、地下鉄の駅を通る。まだ新しいぴかぴかの駅だ。前に来たときはこんなのなかった。
「ヘイ、これじゃまるでロンドンと同じじゃないか!」パキスタン人が感心する。
「ロンドンと違うのは、小便のにおいも落書きもないことだな」とうちの旦那。
ムラット君は控えめに笑っているが嬉しそうだ。私も何だか嬉しいようなさびしいような気持ちになる。

同行したみんな気持ちのよい、素敵な人々だった。ミニバスがひとりひとりをホテルの前に降ろすとき、手を握り合ってよいご旅行を!と言い合った。

帰りの飛行機は、どこかの国の回教徒の老人夫婦たちでごったがえしていた。トルコ人のスチュワーデスたちが目を吊り上げて英語で指示をしているので、トルコ人ではないらしい。奥さんの方が夫以外の男の隣に座ることができないため、席の割り当てでおおもめにもめているのだ。そんなわけで、カトリックと仏教徒の私たちは、別々に空いた席に座らせられることになった。後ろの方で、パキスタン人のおっさんを捕まえて、またイスラム・フォンダメンタリストの悪口を言っているうちの旦那の馬鹿でかい声が聞こえてきて、はらはらする。おっさんがきんきん声で何か言い返している。「そんなにむきにならなくてもいいでしょ。俺だって、アイルランドに生まれて狂信的なカトリックの被害者なんだから」(アイルランドは、1985年まで医師の処方箋なしにはコンドームを買えなかった国だ。1995年11月までは離婚も法律的に許されなかった。)

私の両側は両方ともベルギー人だった。でも、左側はダッチ・スピーキングのおばちゃん、右側はフレンチ・スピーキングのおじさんで、二人は私には話しかけるが、お互いはなぜか言葉を交わさない。反感を持っているというわけではなく、何語で話しかけてよいか戸惑っているのだろう。(ところで、ベルギー国はご存知の通り現在二つの言語圏に分裂しかかっている。嗚呼。)

ブラッセル空港から家に戻る車の中で、ラジオがベナズィル・ブートーがテロリストに暗殺されたことを告げていた。車上に立ち上がった彼女が狙撃されたのは、私たちが、イスタンブールのホテルの前から、空港へ向かうトラムにのんのんと乗り込んだちょうど同じ時刻だ。飛行機の中で、パキスタン人のおっさんに向かって主人が大声でムスリム・テロリスト批判をしていた時に、彼女は息を引き取ったのだ。これはかなりショックで、主人も自分も帰りの車の中でしーんとしてしまった。

短かったイスタンブール旅行は自分の心にえぐったような跡を残していった。それは、端的に言えば「自分の悩みなど、くそみたいなもの」という感じに近い。でも、この雑多で錯綜した印象が何なのかをはっきり言葉にするのには、まだ時間がかかりそうだ。

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