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幼稚なイデオロギー

自分が申すのもおこがましいのですが、最近、連日のように当地ヨーロッパや日本、世界各地で起こる殺傷事件の多くが、つまるところ、「幼稚なイデオロギー」に基づいていることが多いなあと思います。

 

言葉を変えると、マンガ的イデオロギー、短絡的イデオロギー。

 

つまり、その中身が、一言で表現できるほど単純で、子供でも理解できる。しかも、打倒すべきターゲットが、非イスラム教徒、障害者、ユダヤ人、○○人、・・・などはっきりしている。

 

個人の内側でくすぶっているごく私的な暴力性は、多かれ少なかれ誰にでもあるものだろう。でも、それがいったん幼稚ではあっても「大義」の器におさまると、突然活路を見出し、個人を超えた爆発的な力を発揮する。

 

***

 

大変古い話で恐縮ですが、連合赤軍の「山岳ベース事件」が子供のころから心に引っかかっていて、どうしてあんなことが・・・と長い間考えていたことがあった。これは、事件の主犯たちの「異常人格」に帰せられる特殊な事件で、それ以外の何物でもないということだろうか?

 

その後、「人格」ということに色々思いを巡らせている内に、固定的な人格となどと言うものは(ある程度本人が社会的に意識して固定させるものを除いては)、存在しないのではないかと思うようになった。つまり、自分もまた、ある特殊な条件がそろえば森恒夫であり永田洋子でありえたのではないかと。

 

ちょうどあの事件の起こった頃、自分のいた中学の理科の授業ではガスバーナーを使った炎色反応の実験をやっていて、バーナーから吹き出す炎に色々な金属片を近づけ、炎が様々な色に変化する様子を観察していた。例えば、銅の金属片は青、ホウ素は緑、ストロンチウムは鮮紅色というように。

 

炎は「モノ」ではない。というと語弊があるかもしれないが、「鮮紅色の炎」という固定したモノがあるのではなく、それは、バーナーから噴出するガスに着火してそれにストロンチウムが当たることにより生ずる「コト」なのだ。空気の流れやガスの強度、金属片の性質・・・と言った様々な「縁」によりそこに一時的に現出し、絶えず変化する「コト」。

 

いわゆる「人格」も、この炎と同じように「モノ」ではなく「コト」なのではないかと考えるようになったのは、でもそれよりずっと後のこと(仏教の本を読みかじるようになってから)だ。

 

**

 

それよりさらに後になってから、当時主犯が心や体の内に抱えていたもやもやどろどろとしていたものを、あのような形を取って爆発させたのは、やはり彼らにイデオロギーと言う名の器があったからだと思うようになった。

 

イスラム急進派のソロ・テロリズムの頻発で特にイデオロギーについて考えることが多くなったのですが、ちょうど夏休みを利用して読んでいた本に、イデオロギーに関するしっくりしたコメントを見つけたので引用してみます。

 

「(イデオロギーにおいて)『これが正しい』ということは、『これ以外は誤り』ということになりがちであり、そこにきわめて明白な主張が可能となり、多くの人を惹きつけることになる。イデオロギーは善悪、正邪を判断する明確な基準を与える。(…)しかし考えてみると、人間存在、あるいは世界という存在は、もともと矛盾に満ちたものではなかろうか。もっとも、矛盾などと言っているのは人間の浅はかな判断によるものであり、存在そのものは善悪とか正邪をこえているのではなかろうか。」(河合隼雄「明恵 夢を生きる」p. 101)

 

次に、著者は、「イデオロギー」に対比して「コスモロジー」ということを言う。

 

「コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り捨てることに力をもっている。イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界を作ろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまでも正しい存在となってくる。しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生に対する死、善に対する悪、のような受け入れがたい半面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れ込んで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾とともにどう位置付けるのか、これがコスモロジーの形成である。」(同上)

 

ひゃは、引用ばかりになってしまいました。河合隼雄先生、もっと長く生きていただいて、もっといろいろなことを教えていただきたかった。

誰かが代わりに泣いてくれた

先週末、瞑想を終日続けたお蔭で「うぁーん」という自分の心の泣き声を聞くことができた顛末を書きました(「誰かが泣いている」)。

好きなだけ泣かせてあげたせいか、今週はひさびさに毎日しゃっきり5時半に起きて、バリバリ仕事をできるようになりました。泣くことは人間にとって必要なカタルシスのプロセスなのだろう。それができない自分は、汗をかけない人が体に毒ををためていくように、心に毒をためていくことになるのかもしれない。

癌になった時も、やはり一回も泣かなかった。(日本人って、けっこう私みたいな人が多いんじゃないでしょうか。)検査の結果を先生に聞いて、「えーっ?そーですか…」と言って、そのまま会社に行って上司たちに報告して、いつものように夜の11時ごろまで仕事をして、夜中頃に家の前の駐車場に車を停めた時、車の中でちょうど亭主のグリのCDが「First the thunder... then the storm...」と歌っていた。5階のアパートの窓には暖かな灯りがともり、グリが私の帰りを待っていることがわかる。でもすぐに車を出てアパートに帰る気になれずに、しばし呆然としてその歌声を聴いていた。(これまで注意して聞いたこともないその歌は、後で調べたらアイルランドのグループClannadとU2のBonoが歌う「In a life time」という歌でした。)

***

それからドタバタ手術をすることになり、手術の前日に撮影したMRIで癌が予想以上に大きく広がっていることがわかり、「これでは、切っても無駄である。取り急ぎ、体中に散らばっているに違いない癌細胞をやっつけよう」ということで、ドタバタ手術が中止になり、いきなり6か月の抗がん剤治療に入ることになった時も、一番くやしいと思ったのは死ぬかもしれないということより、仕事を休んで同僚たちに後れを取ることだった。仕事上の懸念を除けば、癌の治療期間はむしろ自分にとっては楽しみと発見と感謝の体験ばかりだった。

今思うと、自分の心を死への恐れや不安に対して鈍感にすることによって、自分を守っていたのかもしれない。そういうことに気付くようになったのは、瞑想のおかげで自分の心の観察力が増してきたためかもしれない。たとえば、洋服ダンスを整理しているときに5年前に抗がん剤治療中にかぶっていたカツラが出てきたときの、ほんの0.0001秒ぐらいのかすかな心のちくっとした痛みを、見逃さずに気づくことができるようになってくる。

それでも、癌の治療期間が自分にとって楽しく幸福な6か月間だと思えたのは、泣けない自分の代わりに、誰かが泣いてくれていたおかげではないかなあ…と、最近になって思う。

検査の結果を当時の日本人の上司のTさんにまずは報告しなくてはと思い、オフィスに行き「すみません〜。癌になってしまいまして…」と切り出すと、Tさんは「えーっ!? えーっ!? えーっ!?」と叫んで椅子から転げ落ちそうになった。(Tさんの写真をここに掲載できないのが残念だが、しいて言えば55歳ぐらいのコアラが流暢に大阪弁を話している姿を思い浮かべてほしい。だから、椅子から転げ落ちそうになる姿は本当に可愛かった。)私自身が癌の宣告をされたときの3倍ぐらいのびっくりの仕方をTさんがしてくれたので、非常に癒される感じがしました。

2回目の抗がん剤治療が終わって頭の毛がすっかりはげてしまった後、はげあたまにスカーフをかぶって会社に仕事の道具を取りに行った。私は同情を引くのが嫌だったのでカツラをかぶって行こうとしたのだが、グリにはその気持ちが理解できない。「はげあたまを恥と思うな」とかとんちんかんなことを言って強硬にカツラをかぶらせないので、しかたなくはげあためにスカーフだけかぶって行くことになった。オフィスの駐車場の前で私を見つけた秘書のロランスが、いきなり私に抱きついて「うぁぁぁぁ」と泣きだした。(だからカツラをかぶって来たかったのにい… 人に泣かれるのが嫌なのにい…)と思いながらも、彼女が泣いてくれたことで、泣けない自分が癒されていたのではないかと、今では思うのです。

その他にも、随分いろいろな人が、泣けない私の代わりに泣いてくれました。同僚のWちゃんが電話をくれて、「まりあさんの病気の発表があった後、あのプライドの高いジェシカがオフィスで一人で泣いていましたよ」と教えてくれた。「え〜、困るなあ」とか言いながらも、私はそれによって深く癒されていたのではなかったでしょうか。

***

さて、話は最初の場面にもどりますが、ようやく気を取り直して車のエンジンを切り、アパートに戻ると、やはり亭主のグリが「おれ、ちょっとこの状況、耐えられないよ」と言って、子供のようにぽろぽろ涙を流し、しくしく泣き始めた。グリを泣かせてしまったことの方が本当に心が痛んで、「大丈夫。ぜったいに死なないからねっ。心配するな」と力強く言いました。

でもそんな風に言えたのは、グリが、家族が、友達や同僚が私の代わりに泣いてくれたからではなかったからでしょうか。

誰かが泣いている

前回、早起きについての記事を偉そうに書いた直後、朝起きるのが大変しんどくなってしまいました(笑)。会社の自分の所属するチームに1人が長期病欠、もう一人が海外出向で、いきなり2人も欠員が出たせいか、体力の消耗とストレスが激しいせいかもしれない。

何とかこの体勢を立て直さねばなあと思い、今週末は、亭主のグリが旅行に出かけているのを幸いに、瞑想ウィークエンドにすることにしました。「呼吸による気づき」で書いたように、昨年夏、森のコッテージに週末こもってやったのと同じ瞑想三昧のプログラムを、今度は自分のアパートにこもって行うことにしてみる。金曜日はいつになく早めに退社して、スーパーで野菜のスープや大量の果物を買い込んで帰った。

1日目の土曜日は、早起きして1時間おきに瞑想と作務(と称する部屋の掃除や洗濯)を繰り返し、なかなか快調な出だしであった。ところが、午後になると、瞑想で体の緊張が緩んでくるにつれ、強烈な眠気が襲ってきて、1度などは瞑想の格好をしたまま眠ってしまった。瞑想中に眠くなったのは生まれて初めてなので非常にショックであった。愛読している「一目でわかる! 必ず見つかる! ホントのツボがちゃんと押せる本 」で、眠気を抑えるツボを押すとなんとか生き返り、瞑想を続ける。予定通り、夜の9時に消灯する。体が緩んでいるせいか爆睡。

2日目の日曜日。二日酔いのように、頭が痛く、胃がむかむかする。もちろん、先週末にグリとワインを飲んで以来、アルコールは一切飲んでいない。体が緩みすぎたのか。心を静めて座り、頭の痛みと胃のむかむかに意識を集中する。すると、例によって、痛みと思っていたものも、むかむかと思っていたものも、明滅する断続的な感覚の集合にすぎないことが感じられるようになる。

そのうち、喉のところに小さな、嗚咽のような、悲しみの感覚が感じられた。さらにそこに意識を集中すると、誰かが、
「うぁーん」
と泣き叫んでいるかすかな声が聞こえる。なんだ、これ?と思ってさらに意識を集中すると、その声が、だんだんおおきくなり、
「うぁーん」
というはっきりとした泣き声になった。そして、その泣き声が、自分のいくつかの記憶の束と連動しているらしきことに気付いた。幼児期の記憶とか、前世の記憶とか、そんなたいそうなものではない。わりと最近の日常の記憶。自分の意識では、悲しいとも感じられなかったいくつかの出来事の記憶。でもそれに対して、
「うぁーん」
と泣き叫んでいるのは、確かに自分自身の声なのだった。

そうか〜。子供の時、母親から、
「あなたが怒ったり泣いたりしたのを見たことがないわね」
とよく言われた。怒ったり泣いたりする顔を見られるのは、プライドが許さなかったのだ。
大人になってからも「自己憐憫」とか言われるのが何よりも嫌いで、自分のためには、泣けない性格になってしまったのだ。

「そうか。かわいそうに。もっと泣いていいんだよ」
泣いている声に向かって、半信半疑のままそう呼びかけてしばらく泣かしてやったら、本当にすっきりして色々なことがクリアになった気がしたのであった。ほんとの話だよ。



JUGEMテーマ:スピリチュアル

自分を外から見ると言う呪い

 いつの頃からか、自分を外側から自己査定して、
「去年の今頃はできなかったクロールができるようになったね」
とか、
「去年の今頃はできなかった瞑想ができるようになったね」
とか、
「あの時、来年の今頃、これからは毎晩10時には寝るという決心をしたのに、お前はまだそれができるようになっていないね」
とか、思うようになってしまった。

一年前の自分に比べて、今の自分が変化または進歩していないとがっかりするようになってしまった。一年前の自分に比べて今の自分の有形無形の資産内容になにも変化がないと、怒りを感じるのだ。

以前の自分のように、今も一年前と同じで幸せ、十年前と同じで幸せ、これからもずっと幸せ・・・と言う風には思えなくなってしまった。自分が存在しているだけで幸せという時代は(つまり「幸せ」という言葉も自分にとっては存在しない幸福な時代は)、たぶん7年前に癌で死にそこなってこの世に復帰した時に終わったのだ。

動物には幸せも不幸せもないように、幸せは、自分の外側に出るという人間の宿命を受け入れることによって初めて得られるものなのかもしれない。

自分が死ぬ前にこの目標に到達していたいという、絶対的な地点があると言うわけではない。ただ、死ぬまでにすこしでも前に進んでいること、昨日より進んでいることを毎日確認することだけが私の幸せ、それだけ。

http://youtu.be/sLErPqqCC54


鹿を見てから考えました。

前回の「鹿を見ました。」というエントリーに対するMichikoさんの「動物は神様のお使い」というコメントを読んで考えました。

オフィスの裏の林で自分が見た鹿が、そく神様のお使いであるとは考えませんでしたが、変な場所で出遭う動物は、確かに一種のエネルギーが凝って出現したものではないかと思ったことは度々あります。

自分は動物の夢を見ることが多いのだが、夢の中で見る動物は、夢の中で見る人間よりももっと存在感があって、現実味がある。人間が白黒なのに、動物はテクニカラーで現れることが多い。そして夢の中の動物は何かの象徴と言うよりも、自分の心的エネルギーが凝って動物の形になって動いていると言う感じがする。だから、現実に見る動物も、その類推でそんな風に思えるのかもしれない。

***

カール・グスタフ・ユングの「自伝」に書いてあったエピソードだったと思うが、ある日女性患者がユングに、自分の見たスカラベ(黄金虫)の夢について語っている時、後ろの窓にかすかな音がするので、振り返って見るとまさに黄金虫が中に入ろうとして、しきりに窓にぶつかっているのだった。

自分も、癌の自宅療養中に、夜一人で、これまで見た夢の記録を整理していてちょうど鳥の夢について書いている時、開いた窓からいきなりかなり大きな鳥が飛び込んできたということがあった。大きな鳥の黒い影が、外に出られずにリビングの天井あたりをぐるぐるすごいスピードで飛び回るので、怖くなった自分は、廊下に出てリビングの扉をしっかり締めた。しばらくして帰って来た亭主のグリが狭い廊下に座り込んで震えている私を見つけ、「なにやってるの〜」とあきれ、リビングの扉を開けるともう鳥はいなくなっていた。

また別の時、うつ病になってしまった女友達が毎晩おそく電話をかけてくると言うことがあった。うつ病予備軍を自称する自分は、うつ病の人と話していると自分も病気になってしまいそうだ。彼女は暗い声で、延々と自分がいかに不幸であるかを語る。何とか彼女の助けになるようにと思い、話を聞こうとするのだが、電話がかかってくるたびに恐怖心をいただくようになってしまった。ある晩、とても夜遅く、携帯電話が鳴ったのでとるとやはり彼女だった。「ああ、怖いなあ」と思っていると、自分が座っているベッドの下から、見たこともないような大きい真っ黒な毛虫が這い出てきた。「うへえ」と鳥肌が立ちながらも、あわててそばにあった空の陶器のマグカップを逆さにして、虫にかぶせた。しばらくしてグリが帰って来たので、「コーヒーカップの中の毛虫を外に逃がしてやって」と言うと、カップを持ちあげたグリが「ねえ、何もいないよ。何言ってるの?」と言う。虫が忽然と消えているのであった。

また試験を受けに行く朝、バス停でバスを降りた途端、ばさっ!とでかい音がして、目の前の街灯のてっぺんにフクロウが降り立った。鹿と同じで、動物園の外でフクロウを見たのは初めてであった。「フクロウと言えば知恵の女神ミネルヴァが連れていた鳥じゃん。縁起いい!」と思ったことを憶えている。それで、見事その日の試験に受かったら、フクロウは本当に知恵の女神のお使いだったのかもしれないのだが、試験には落ちた(笑)。

自分の心的エネルギーが凝って動物の形を取ったのか、それとも、心的エネルギーに感応した動物が引き寄せられてきたのかはわからない。または、カスタネダの本の中のように、ちまたでは神様とか霊とか呼ばれる何か外的なエネルギー体が、自分の目には動物の姿として映った言うことかもしれない。または、そう言う動物は、いつも自分がひとりきりでいる時に現れるので、単にぜんぶ自分の白昼夢であったという可能性も排除することはできないのだった。

こんな風に、なんだか良く分からなくて、半信半疑というのが好きですね、わたしは。科学の言葉や、スピリチャリストの言葉、精神科医の言葉で整然と体系的に説明されてしまうと、その言葉の外側にある何かがこぼれおちてしまいように思え、つまらなくなる。

鹿は今日もいない

鹿は今日もいない。


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鹿を見ました。

夜9時半頃仕事を終えてオフィスを出た。6月ともなると、この国は、夜10時半頃まではまだ夕方である。オフィスの裏の森の中に、鹿が立っていた。小さな角の生えた若い牡鹿であった。オフィスは田舎にあるので、周りでウサギやリスは時々見かけるが、鹿は初めてである。

私もびっくりしたが、鹿もびっくりしたのであろう。お互いに固まったまま見つめあった。3秒後に気を取り直した自分が、
「うはあ。カメラ、カメラ…」
とポケットを探る内に、鹿は、
「キョン」
と言う声を出しながら大きくジャンプして、林の草むらに消えた。ようやくカメラに収められたのは、鹿の消えた後の森。

この話を翌朝同僚たちにしたが、誰も信じてくれない。

そこで、週末に、オフィスの周りに広がる森を探検して鹿の姿をカメラに収めようと考えた。下準備のためにGoogleマップでオフィスの周辺を俯瞰した所、ぶったまげた。



写真のAという地点が、鹿を見た時自分が立ってた場所である。オフィスの周りにはいかに広大な森が広がっているのかと思っていたが、Googleマップで見ると、高速道路に分断されて、一番広い部分でもせいぜい100メートル位の長さしかない小さな林しかないことが分かった。

どう見ても、あんなにでかい鹿が住めそうな場所ではない。

ということで、それ以来、鹿を見たという話は同僚にはしないことにしました。

鹿が去った後の森

写真は、鹿が去った後の森。


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BOOK OF LOVE (3)

BOOK OF LOVEは、英国のミュージシャン、ピーター・ゲイブリエルの唄の題名だ。とても短い歌で、最近、亭主のグリが繰り返し聴いているので、メロディーも歌詞も憶えてしまいました。

Book of Loveという言葉は、Book of Kells(ケルスの書)やBook of Mormon(モルモン書)のように、古い秘儀や秘跡を明かした古文書を想像させる。だから、「愛の本」ではなくて、「愛の書」と訳すべきかもしれない。

    「愛の書」は長くてタイクツだ
    誰にも持ちあげられないような代物だ
    図式と事実と数字で一杯で、ダンスの踊り方が書いてある
    でも君がそれを読んでくれるのが好きだ
  そして君が読んでくれるのは何でもいいんだ

グリは一つの音楽を気にいると、誇張ではなく100回ぐらいぶっ続けで聴く癖がある。

食べ物やビールや、好きなジョークのマイブームは、1年から10年ともっとスパンが長い。現在のグリの食べ物のマイブームは、スモークサーモンとスペイン産の生ハムだ。それを、少なくとも5−6年前からほとんど毎晩食べているのだ。(お金がかかって仕方がないのだ。)

グリと初めて会ったのはもう20年近く前のことで、それから私たちの周りや、私自身にもめまぐるしく様々な変化があったが、グリの生活パターンは20年前に出遭った頃とほとんど変わっていない。朝の大量のフルーツサラダ、ジムでの筋トレ、毎日の日記、夕方バーで新聞を読みながら飲む1杯のビール、それが基本で、その間に仕事が変わったり、飛行機のライセンスをとったり、日記が手帳からワードファイルに変わったりしたが、それらは瑣末事でしかないらしい。

***

グリに初めて会ったのは、6月のある朝、当時勤めていた翻訳会社に通うために毎朝郊外バスを待つボタニック(植物園)前のバス停だった。当時の自分は不眠症に悩まされていて、朝がつらかった。どんよりとした気分でバスを待っていた時、いきなり、異様にハイな声で話しかけられた。
「ハア〜、ニホンジンデスカ!?」
そう変な日本語で言うなり、その20代後半と思しき男は、後は早口の英語で自分の勤め先でエレベーターの事故があったことを身振り手振りを交えて話し、一人で受けてぎゃははと笑った。

私は適当に相槌を打っていたが、バスが来たのでほっとしてそのうるさい男から解放された。ところが、翌朝もその翌朝も彼が嬉しそうに話しかけてくる。男は、バス停のある通りからほど近いアパルトマンに住んでいて、徒歩で通勤する途中で、このバス停を通りかかるらしかった。

当時の私は、人間関係も経済的にもどん底で、大変すさんだ生活を送っていた。今から振り返ってみると、人間不信で、被害者意識が強く、すぐ人の言葉に傷つき、仕返しに相手を傷つけると言うことを繰り返していた。できることなら、誰にも話しかけられたくなかったし、誰にも話しかけたくなかった。その男の明るさが、自分には馴染みのないもので、作りものとしか思えず、ただうっとおしいだけだった。

男は、話の合間に、バス停のはす向かいにあるゴージャスなアールヌーヴォーの建物を改造した「Ultieme Hallucinatie (終末幻覚)」と言う名のバーをを指差して、
「俺、毎晩あそこで友達と飲んでいるんだ。会社が終わって時間があればおいでよ」
と言った。もちろん行く気はない。

男は話しかけて来る度に、最後に、またそのバーの話をして、
「ねえ、会社が終わって時間があればおいでよ」
と繰り返すのだったが、そのうちあきらめたのか、バーのことは何も言わなくなった。

そうやって、数カ月が過ぎた。毎朝バス停で短い話をするルーティーンは変わりなかったが、その内、広いブラッセルの街のあちらこちらで偶然その男にばったり遭遇すると言うことが起こった。

週末スーパーに食料を買いだしに行こうとして歩いていると、長い長い並木道の向こうの方から、見たことのあるような姿がこちらに向かって歩いて来る。こちらが感心するほど間の抜けた顔をして、ぼんやり考え事をしながら歩いて来る。声をかけると、急に目を覚ました時のように目をぱちぱちっとさせてから、とつぜん満面の笑顔を浮かべて、
「やあ!」
と言う。

そんなことが何度か続くと彼の姿を見かけるたびに、
「ぷっ、またあの人・・・」
と思って、荒んだ気分の自分もつい笑い出してしまうのだった。

自分にとっては大変つらい夏が来て、そして過ぎ去ろうとしていた。ある天気の良い土曜の朝のことだった。今思い出しても大変不思議なのだが、何故かこれまでの悶々とした気分が全て吹っ切れた気がして、久々にモーツアルトのクラリネット協奏曲が聴きたいなあ、ロジェ広場の近くのメディアテークへ行ってCDを借りよう・・・と思って、普段は出不精で仕事以外はほとんど外出しない自分が突然外出する気になった。

ロジェ広場の地下鉄の駅に降り立った時、何とまたあの見知った顔にばったり出遭った。グリだった。少し立ち話をしたところで、
「あ、立ち話も何だからお茶でもするか」
と彼が言った時、自然な感じで「オーケー」と言っていた。

それからというものグリは、週末ごとに友人のホームパーティーや、職場のパーティー、それから、深緑色のルノー・クリオに乗せてあちこちドライブに連れ出してくれた。私は、なんだか深く深く心が和むなあと思った。長い間冷蔵庫の中に入っていた後で、急に春の縁側に出たような気持ちだった。グリがいつも自然に上機嫌でハイだからだ。いつ本性を現すかと身構えていた自分だったが、あの日本のテレビの軽薄外人そのものの明るさは、女の子をナンパするための作り物の明るさではないらしい。

その明るさは、うまく説明できないが、彼の意識が自分自身に向かう代わりに、すべて外界に、観光地の綺麗な風景や、ビールや、友達に向かっているからだった。隣にいる私が、彼に無関心だったり多少落ち込んでいても、彼は必要以上に自分のせいではないかと気に病むこともないし、プライドを傷つけられて気を悪くすることもない。つまり私とは正反対なのだった。グリはある日こう言った。
「世の中の多くの苦しみは、自分に重要性を置き過ぎることから発するんだよ」

でも、自分がグリに完全に心を開くまでにはさらに10年ぐらいかかったかもしれない。グリはそんなこちらの気分をやわらげようと思ったのか、知り合ってすぐにアイルランドの両親ジェリーとジョーンのもとに連れて行って「ガールフレンドだ」と紹介した。

グリは母親のジョーンとの間に確執があるようだった。私の方は、すっかり打ち解けてジョーンと占星術の話で盛り上がった。ジェリーもジョーンも女の子供を持ったことがなかったのでとても楽しそうにしてくれた。

それを見ていたグリは、廊下に出て二人になると、
「俺、ジョーンとは喧嘩ばかりしてるけど、母親だからやっぱり愛してるんだよ。今日はありがとう。君と一生一緒にいたいよ」と優しい声で言った。
すると私は、思わず、
「一生のことなんて、誰に分かるのよ」
と毒のある声で言って、カラカラ笑ってしまった。

意地悪なことを言うと、相手が仕返しに更に意地悪なことを言う。そしたら、こちらはそれよりもっと意地悪なことを言って一撃でたたきのめすと言うようなコミュニケーションのパターンが自分にはいつの間にか沁みついていたのだった。そして、まだ知り合ったばかりのグリにも、思わずその癖を出してしまったというわけだった。

すると、グリは、こちらが思いもかけない反応をした。しゅんと下を向いて黙ってしまったのだ。仕返しの気配はまったくない。その時自分は、
「この人は、人に対する悪意と言うものを知らないし、人の悪意に対しても全く無防備なんだ〜」
と思って、深く後悔した。

時は流れ、グリはアメリカと中国とアイルランドとベルギーを行ったり来たりするようになり、その間、グリも私もかわるがわるにそれぞれの恋人が出来た時期もあった。でもそのことで互いに不愉快を感じたり、相手に嫌みを言ったりすることはなかった。そもそも、グリと私はほとんど喧嘩をするということがなかったのだ。グリも私も、他の人とは始終喧嘩をしていたのだが。

恋愛については、自分にはどうも、自分の心の傷を完全に解決していない相手とお互いに深く惹かれあうと言うパターンがあるようだった。同病相哀れむと言うことかもしれない。そんな理由で、暖かい両親のもとで育ち、母親との葛藤も相対化できる心の強さを持ったグリに対しては、恋愛感情を持てなかったのかもしれない。心の傷を持つ相手とは、始めはワンダフルな数カ月が続くが、そのうちお互いに相手の些細な言動に深く傷き、次第に泥沼にはまってしまう。そう言う関係がうまく行くわけはないことが、当時の自分には分からなかった。

ある日、矢羽打ち枯れてもう死んでしまいたいと思っている自分をグリが見つけ出し、救い出してくれた。
「俺たちは、もう一緒にはなれないのかもしれないけど、まりあに何かあったら世界のどこで何をしてても、ニシ・ヒガシ・キタ・ミナミ、どこでも飛んで行くからな」
とグリは言った。(東西南北を、グリは日本語で覚えているのだ。)
つづいて、あのジョーンまでが電話をくれた。
「あなたがグリと会わなくなっても、あなたはいつまでも私の家族よ」

グリはいい加減で、極端で、アテにならないところもある人間だが、生死の問題、とくに食べることや体調管理、衛生面など基本的な必要最低限のことに対しては、とてもまっとうな感覚を持っていてベルギーにいる間は私のスポーツトレーナー兼料理人になってくれた。不規則で時には数日間何も食べないで過ごしてしまうような私の生活をまっとうに戻してくれ、今の職場で人並に働けるようにしてくれた。

グリに対して自分が抱く気持ちは、恋愛感情であったことはなく、愛といった大層な抽象概念でもなく、20年間の間に彼がしてくれた一つ一つの行為に対する、その時々の感謝の念の膨大な堆積にすぎない。

一生変わらないものなんてありはしない、ということも分かっている。だから今の一瞬を大事にして、もしこれからグリに何かがあった時、グリがどこで誰と何をしていても、ニシ・ヒガシ・キタ・ミナミ、私は助けに行こうと思っている。

***

グリの言動には、自分にはよく分からないことが多い。まず、いくらマイブームだからと言って、動物ではあるまいし、何日も続けてまったく同じものを食べ続けると言う神経が理解できない。いくらいい歌でも、100回も続けて、Book of Loveを聴き続ける神経が理解できない。

100回目ぐらいで、グリが、
「ああ、この歌は本当に僕の心を歌っていてくれるよ」
と言う。そして、静かに泣きはじめる。

昔は、人前ではめったに泣かない向こう気の強いグリだったが、私が癌になってから私の前では泣くのが平気になってしまったみたいだ。でも、私にはグリがなんで泣いているのかがまだ理解できないでいる。

BOOK OF LOVE  (2)

この20年来で一番うれしかったことのもう一つは、10人の同僚といっしょに1年以上も追いかけまわしていたマンモスを一頭しとめられたことです。

マンモス狩りはサッカーと似ていて、チームワークだ。仲間の数人がジャングルに火を放ちマンモスをいぶし出すと、こちらで弓矢を構えた別の仲間が退路をふさぎ弱らせる。そこに別の一隊が来てとどめをさす。

とどめを刺したのは、ちょっと若い頃のシガニー・ウィーバー(写真)に似たマネージャーのアンヌレーンだった。私のお役目は、アンヌレーンが雄々しく大太刀を振り回す間、後ろの方に控えてタムタムを打ち鳴らし続けることでした(笑)。

疲れてきたり、あきらめかけたり、別のライオンやシマウマに注意を奪われたり、「家畜の世話が忙しいので村に戻る」とか言いだす同僚たちを激励し、戦いの踊りで興奮させ、マンモス狩の熱狂を忘れさせないようにするためのタムタム打ちは、長期に渡る狩にはとても重要で本質的な役割なんだよ。ねっ。


さて、アンヌレーンのことを、私たちは「兄貴」と呼んでいた。大柄で、男っぽくてさばさばしていて、暖かくて頼りになるからだ。

アンヌレーンは、若い頃にお母さんを亡くし、幼い弟や妹のお母さん代わりを務めて来た。そのせいか、まだ三十そこそこと言うのに、とても落ち着いている。頭は良いがディマンディングで子供っぽい若いディレクターのグンターの下で、年間150万ユーロのクライアントへの業務を仕切っている。時々、声が出なくなってしまうのは多分ストレスのせいだろう。でも、彼女はストレスを外にぶつけない。口数が少ないのに、どんな時でもこちらを温かく包み込むような、素敵な笑みを見せてくれる。

男っぽくて色気のないアンヌレーンが、ある日恋人のフランシスを紹介してくれた。シガニー・ウィーバー風のアンヌレーンと、トム・クルーズの背を20センチぐらい高くしたようなフランシス。ハリウッド風の、しかも若くして職場では出世頭のスーパーカップルだ。

アンヌレーンがフランシスのことを語る一途な様子に、男っぽい彼女にこんな少女らしい一面があるのかと思ってほほえましかった。

ある晩、会社から自宅へ車を走らせていてルイーズ・トンネルのカーブに差し掛かった時、とつぜん、
「うん、アンヌレーンはフランシスと結婚するべきだよね。やっぱり!」
と思った。そのとたん、何故か自分のハートが暖かい、幸せいっぱいな気で満たされたような気持ちになった。

翌日、アンヌレーンが、
「昨夜、フランシスにプロポーズされたの」
と恥ずかしそうに打ち明けてくれた。それがなんと、自分がルイーズ・トンネルのカーブに差し掛かったのとちょうど同じ時刻だった。

アンヌレーンの結婚式がバタバタと決まり、私はアントワープ郊外の結婚式場に車を走らせていた。実は前日に、自分の車のガラスが割られトランクに置いてあったナビが盗まれていた。方向音痴の自分は、アントワープトンネルのあたりで何度も道に迷って、とうとう彼女の結婚式に行くことができなかった・・・。

昨年末頃から、夜遅くオフィスを離れる時、隣の部屋にいる彼女が一人でコンピューターを眺めている姿を目にすることが多くなった。オフィスを出るのはほとんどいつも自分が最後だったのに、最近はだんだんと、仕事を続けている彼女に挨拶をして先に出ることが多くなった。よっぽど忙しいのだなあと思っていた。

そんなある日、彼女の上司のグンターと例のマンモス狩りの相談をしていた時だった。たしか、タムタムの楽譜や森やサバンナの地図を自分なりに試作して、彼の意見を聞きに行った時だったと思う。

よく思い出せないのだが何かのはずみで、グンターが、
「あ、アンヌレーンにその言葉を言っちゃ駄目だぜ。いま、微妙な時期だからな」
と言いだした。
「別れたんだよ。フランシスと。クリスマス頃が決定的だったらしいな」
私は、血圧がさーっと下がるような気がして黙っていた。
「まあ、俺みたいな、素晴らしい男を上司に持つと、みんな自分の亭主がつまらなく思えるんだよな〜。けけけ・・・」

グンターは頭が抜群に良く、胆力もあり、30代半ばでいきなり年間150万ユーロ級のビットをいくつも勝ち取ったが、心の成熟度に欠けるところがある。いつか自分が人生の辛酸をなめる時がくれば、もっと優しくなれるのかもしれないが。

それからというもの、ますます注意して、帰り際に彼女の部屋をのぞくようになった。大柄で普段は姿勢のいい彼女が、背中を丸めるようにしてコンピューターの画面に目をくっつけるようにして仕事をしている。そうしている彼女が、何故かとても小さく見える。彼女の丸まった背中に定規でも差し込んで、ぴっと伸ばしてあげたい。PCの画面を高くするか、椅子をもっと低くするかしてあげたい。そんなおせっかいなことを考えながら、
「早く帰りなよ…」
と彼女に声をかける。何かもっと元気づけることを言ってあげたいと思いながら、それ以上のことは言えないでいる。
アンヌレーンは、こちらを安心させようとするかのような笑みを見せて、
「大丈夫、帰るわよ!」
と言い返す。そんな日が数カ月続いた。

フランシスは、アンヌレーンと二人で買った家を出て行ってしまったらしい。アンヌレーンは、フランシスのいなくなった家に一人でいるのが嫌で、オフィスに残っているのかもしれない。でもそれだけではない。丸まった背中みたいに、折れそうになった彼女の心をかろうじて支えてくれているのが、たぶん仕事なのだ。

***

重要なのは、マンモスではないし、ましてやマンモスがしょってくる札束でもない。マンモス狩りはマンモス狩りでしかない。

でも、まだ血の付いた太刀をぶら下げて帰って来た彼女が一言、
「上首尾だったわよ」
というメールを送ってくれた時、私は自分の部屋を飛び出て、隣の部屋の彼女に向かってガラス越しにVサインを送ってしまった。アンヌレーンも、大きな目の下の大きな口から綺麗な真っ白な歯を覗かせて、右の頬に深いえくぼが刻まれる極上のスマイルを見せ、Vサインを返してくれた。

(つづく)

BOOK OF LOVE (1)

5月に入って、嬉しいことがふたつもあった。私にとってはこの20年間で一番嬉しいと言ってもいいことだ。自分に関することではないが。

ひとつは亭主のグリがずうっと夢見ていた仕事に就けることが突然、どたばたと決まったことだ。グリは飛行機操縦士のライセンスをとってから、ずっと航空会社に履歴書を送っては面接や実技試験を受けていたが、契約までこぎつけた航空会社が突然潰れたりして、いつもどたんばで採用されなかった。それでとあるアジアの航空会社の欠員補充のような仕事ばかりをしていた。航空会社不況で、巷には経験豊かなパイロットがあふれている。「残念ですが・・・」というお断りの手紙のコレクションが電話帳ぐらいの厚さのファイルになってもグリは全然あきらめず、ひたすら飛行関係の勉強を続け、ますます飛行機への愛と、飛行機の知識と、自信を強めていくようだった。

でもグリはもう45歳だ。こんなに年を取って経験の少ないパイロットは、もうどの航空会社でもフルタイムでは雇ってもらえないのではないかと、私はほとんどあきらめていた。

グリは大きな庭付き一戸建に住んで子供もたくさんいる弟のデニスとロジャーにわが身を引き比べて、
「俺は金持ちになる。そうして、まりあにも楽させてやるからな」
と言うのであった。
「まずは、田舎にセカンド・ハウスを買おう」
私は、
「ヘイヘイ、サンキュー」
と言いながら、私は(セカンド・ハウスどころか、ファースト・ハウスもないじゃん)と心の中でつぶやくのであった。

お金のことを気にして危ない橋を渡ってほしくはないが、こんなに飛行機が好きなのだから、給料は少なくてもいいので、さっさとフルタイムのパイロットになって思いっきり飛んでほしいなあとも思う。グリが哀れであった。

ところが、5月の始めにエージェントからの突然の電話で、
「明日の早朝に面接があるから、ロンドンに行って」
と言われそのまま大急ぎで出かけたら、採用が即決してしまった。

半信半疑の私は、
「グリを雇うなんて、ヘンな航空会社だなあ・・・」
と思ったが、案の定、契約相手はパイロット専門の人材派遣会社で、その派遣で、アイスランドの航空会社の一員として、その航空会社が契約するサウジアラビアの航空会社へのチャーター便の貨物機を操縦すると言うのがグリの仕事であった。正社員ではないが、ほとんどフルタイムだ。

サウジアラビアの航空会社なので、ハッジ(メッカへの巡礼)の季節には貨物だけではなく巡礼専門のフライトに早変わりする。巡礼に出かけるのは死期が近づいた老人が多いので、1回のフライトに1人ぐらいずつ病人や死者が出ると言う。なんだか荒っぽい仕事のようである。

グリは面接に出かけたっきり帰ってこず、そのまま他の7人の新規採用者と共に、2週間の研修に入ってしまった。

まだ半信半疑の私は、
「もしここで、何かの理由で採用がダメになっても、無料で研修を受けられるんだからいいよね・・・」
と自分に言い聞かせている。

グリは楽しくて、嬉しくて仕方がない様子で、毎晩電話をかけてくる。8人の中では、何と一番若くて「ヤング・マン」と呼ばれて可愛がられているのだと。この研修が終われば、数日間のシミュレーターでの訓練がフランクフルトで始まる。

そんなとき、グリの書類に不備があるらしきことが分かった。ロンドンのグリとエージェントからかわるがわるに電話があり、グリの書類を整えるために自分も奔走した。この時ばかりは、
「神様、いまさら採用がダメになったら、あんまりです。もう私の昇給も昇進もいりませんから、セカンド・ハウスもいりませんから、グリをここで働かせてくださ〜い。グリの給料もいりません。逆に私がお金をはらいますから。。。」
とずっと祈っていた。その間は生きた心地がしなかった。

私の祈りが通じたのか、グリは無事採用となり、同僚と8人で写った写真を送ってきてくれた。



空のトラック運転手たち。想像はしていたけど、はやりちょっと、うへぇ・・・と言う感じの写真である。さすがのグリ(後列中央)が幼く見える。

詳細はここには書かないが、グリが楽しそうに話すのを聞いたところによると、グリと同じく空のエリートコースからかなり外れた人たちのようです。特に前列中央に座るノルウェー人のロアは、かなり切れやすい人で、日本の航空貨物会社とケンカして辞めてきたというつわものです。日本の実家の近所で見かけた傷だらけのデブの野良猫のような風格がある。他のみんなも紆余曲折のある経歴の持ち主。前列右のイギリス人のキャンブルだけは経歴が不明であるが、クラスでも群を抜いたプロフェッショナリズムと、どことなくノーブルな面持ちから、有名航空会社のキャプテンであったことを想像させる。

グリにとっては家族のように大事な同僚たちである。

一番左のフレミッシュ・ベルギー人のカール(かれは倒産した某ベルギー航空会社の機長だった)が、グリが副操縦士を務める貨物機の機長になる。ブラッセルからサウジのリアッドまでの6時間のフライトの間、せまいコックピットでグリの止まらないおしゃべりに付き合わされるカールが気の毒である。

これまでピーターパンみたいに好き勝手に生きてきたグリが急に厳しいスケジュールや規律の中で生きなければならないと思うと、自分までが新しい世界に踏み出すみたいでとても怖い。でも、グリがこの仕事を最後のチャンスとして大切に思って、おしゃべりと喧嘩早さをおさえ、つらいことがあっても全て人生の学びとして一つ一つ丁寧に取り組んでくれることを、ひたすら祈るばかりである。

(つづく)

夢の中で左に下る

みなさんは、子供のころ自分の右手と左手の区別がはじめてついた瞬間を憶えていますか?

自分の場合、幼稚園の初日に先生がいきなり「右側を向いて」と何げなく言った時に、どちらが右側か分からなくて大変困ってしまった。右側・左側と言う言葉は知っている。家に帰って母親に、
「右側ってどっち?」
と聞いたら、あきれたように、
「お箸を持つ手の方よ!」
と言われて、またこまってしまった。実際にご飯がはいったお茶碗を持って、食べはじめてみないとどちらの手にお箸を持っているかなんて分かりはしない。先生に号令をかけられる度に、そんなことをしているわけにはいかない。

今思えば、「右」とか「左」とかは、「目」や「手」や「足」とかと比べるともう一段抽象度の高い概念で、右手と左手の形が違っていればまだしも、左右対称に思われる体に右とか左の概念を結び付けるのはもうひとつ高度の作業だったので難しかったのかもしれない。

また、「右」とか「左」は一定の物や場所に結びつくわけではない。こちらを向いて立っている先生がお箸を持つ手は、自分から見るとお箸を持たない方の手だ。多分そんなことで混乱してしまったのだと思う。

それから間もなく、お茶の間で庭を見るように立っているたとき、そこにいた誰かに、もう一度どちらが右手か聞いてみた。その時自分が立っている位置と向きからは、お台所があるのが右側、廊下に続く扉のあるのが左側であった。それからというもの、どこにいても、幼稚園にいても、どちらが右か左かわからなくなった時は、人気のない春の午後に茶の間にたたずむ自分から見た台所と廊下の位置を眼に浮かべて、右と左を区別することにしたのだ。

それは、自分にとって右と左の概念が理解できたというよりも、右と左と言う決めごとをとりあえずも便宜上身につけるためのショートカットを思いついた感動的な瞬間であった。

***

こんなことを思い出したのは、先週、亭主のグリと、彼の故郷のアイルランド共和国と英国の北アイルランドとの国境に近いドニゴールの近辺を車で走っていた時だった。その時、自分の体の位置や向きによって変わる相対的な左右ではなくて、絶対的な左右の感覚が自分の中にあることに気付いたのだった。

ドニゴールのロック・エスクという湖のほとりの1860年代のお城を改造したホテルに日暮れ時に投宿し、翌日、湖のほとりまで下りてみたが、午後1時過ぎというのに夕暮時のように薄暗い。

以前、「水と夢」でも書きましたが、自分の場合、坂道を下って行くとものすごく美しい水辺に着くと言う夢を良く見ていた時期がある。今目にしているロック・エスクの水辺は、まさにその夢の中で見た水辺のようなうつくしさなのだった。



また、高所から突然ものすごく美しい渓谷の裂け目に青い水が見えると言う夢も見たことがある。ロック・エスクに近い大西洋岸に面したキルカーの入江はその風景にそっくりな非現実的な美しさなのだった。



夢の中の水辺や入江は、なぜかかならず自分の左下にあるのだった。キルカーからキリベッグの港に車を走らせながら、過去に観た夢を色々思い出してみる。夢の中の自分は歩いているか眺めているかなのだが、歩みや視線と言うなにかしらの動きないしは方向性がある。一連の登る夢はどちらかと言えば右に向かっており、一連の下る夢は左に向かっているのだった。

夢の中で右側は秩序や理性や社会を表象し、左側は無意識や混沌を表彰すると言われている。自分の夢にはこのルールがぴったり当てはまるような気がする。他の人々はどうなんだろう。もし人々の夢がすべて同じような構造をしているとすれば、それはなぜだろうか?

そして、今思い出す現実のロック・エスクの水辺は、自分の意識の中では、何故か左に坂を下ったところにあるし、キルカーの入江も、記憶の中で自分のはるか左下に見えているのだった。

もっと不思議なのは、大西洋岸を海岸線に沿って現実に車を走らせながら、自分が今「左側」に向かっていると感じていたことだった。自分は正面に車を走らせていたので、右にも左にも行っていない。

自分の視線とは関係のない、なにか絶対的な左と右という場所ができてしまっているようなのだった。これはどういうことなのだろう。またも、答えのないまま記事が終わる。

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