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旧題「読書 この秘密の愉しみ」を改めました。
最近本当に読書をしていないので・・・
自分が申すのもおこがましいのですが、最近、連日のように当地ヨーロッパや日本、世界各地で起こる殺傷事件の多くが、つまるところ、「幼稚なイデオロギー」に基づいていることが多いなあと思います。
言葉を変えると、マンガ的イデオロギー、短絡的イデオロギー。
つまり、その中身が、一言で表現できるほど単純で、子供でも理解できる。しかも、打倒すべきターゲットが、非イスラム教徒、障害者、ユダヤ人、○○人、・・・などはっきりしている。
個人の内側でくすぶっているごく私的な暴力性は、多かれ少なかれ誰にでもあるものだろう。でも、それがいったん幼稚ではあっても「大義」の器におさまると、突然活路を見出し、個人を超えた爆発的な力を発揮する。
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大変古い話で恐縮ですが、連合赤軍の「山岳ベース事件」が子供のころから心に引っかかっていて、どうしてあんなことが・・・と長い間考えていたことがあった。これは、事件の主犯たちの「異常人格」に帰せられる特殊な事件で、それ以外の何物でもないということだろうか?
その後、「人格」ということに色々思いを巡らせている内に、固定的な人格となどと言うものは(ある程度本人が社会的に意識して固定させるものを除いては)、存在しないのではないかと思うようになった。つまり、自分もまた、ある特殊な条件がそろえば森恒夫であり永田洋子でありえたのではないかと。
ちょうどあの事件の起こった頃、自分のいた中学の理科の授業ではガスバーナーを使った炎色反応の実験をやっていて、バーナーから吹き出す炎に色々な金属片を近づけ、炎が様々な色に変化する様子を観察していた。例えば、銅の金属片は青、ホウ素は緑、ストロンチウムは鮮紅色というように。
炎は「モノ」ではない。というと語弊があるかもしれないが、「鮮紅色の炎」という固定したモノがあるのではなく、それは、バーナーから噴出するガスに着火してそれにストロンチウムが当たることにより生ずる「コト」なのだ。空気の流れやガスの強度、金属片の性質・・・と言った様々な「縁」によりそこに一時的に現出し、絶えず変化する「コト」。
いわゆる「人格」も、この炎と同じように「モノ」ではなく「コト」なのではないかと考えるようになったのは、でもそれよりずっと後のこと(仏教の本を読みかじるようになってから)だ。
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それよりさらに後になってから、当時主犯が心や体の内に抱えていたもやもやどろどろとしていたものを、あのような形を取って爆発させたのは、やはり彼らにイデオロギーと言う名の器があったからだと思うようになった。
イスラム急進派のソロ・テロリズムの頻発で特にイデオロギーについて考えることが多くなったのですが、ちょうど夏休みを利用して読んでいた本に、イデオロギーに関するしっくりしたコメントを見つけたので引用してみます。
「(イデオロギーにおいて)『これが正しい』ということは、『これ以外は誤り』ということになりがちであり、そこにきわめて明白な主張が可能となり、多くの人を惹きつけることになる。イデオロギーは善悪、正邪を判断する明確な基準を与える。(…)しかし考えてみると、人間存在、あるいは世界という存在は、もともと矛盾に満ちたものではなかろうか。もっとも、矛盾などと言っているのは人間の浅はかな判断によるものであり、存在そのものは善悪とか正邪をこえているのではなかろうか。」(河合隼雄「明恵 夢を生きる」p. 101)
次に、著者は、「イデオロギー」に対比して「コスモロジー」ということを言う。
「コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り捨てることに力をもっている。イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界を作ろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまでも正しい存在となってくる。しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生に対する死、善に対する悪、のような受け入れがたい半面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れ込んで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾とともにどう位置付けるのか、これがコスモロジーの形成である。」(同上)
ひゃは、引用ばかりになってしまいました。河合隼雄先生、もっと長く生きていただいて、もっといろいろなことを教えていただきたかった。
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みなさんは、子供のころ自分の右手と左手の区別がはじめてついた瞬間を憶えていますか?
自分の場合、幼稚園の初日に先生がいきなり「右側を向いて」と何げなく言った時に、どちらが右側か分からなくて大変困ってしまった。右側・左側と言う言葉は知っている。家に帰って母親に、
「右側ってどっち?」
と聞いたら、あきれたように、
「お箸を持つ手の方よ!」
と言われて、またこまってしまった。実際にご飯がはいったお茶碗を持って、食べはじめてみないとどちらの手にお箸を持っているかなんて分かりはしない。先生に号令をかけられる度に、そんなことをしているわけにはいかない。
今思えば、「右」とか「左」とかは、「目」や「手」や「足」とかと比べるともう一段抽象度の高い概念で、右手と左手の形が違っていればまだしも、左右対称に思われる体に右とか左の概念を結び付けるのはもうひとつ高度の作業だったので難しかったのかもしれない。
また、「右」とか「左」は一定の物や場所に結びつくわけではない。こちらを向いて立っている先生がお箸を持つ手は、自分から見るとお箸を持たない方の手だ。多分そんなことで混乱してしまったのだと思う。
それから間もなく、お茶の間で庭を見るように立っているたとき、そこにいた誰かに、もう一度どちらが右手か聞いてみた。その時自分が立っている位置と向きからは、お台所があるのが右側、廊下に続く扉のあるのが左側であった。それからというもの、どこにいても、幼稚園にいても、どちらが右か左かわからなくなった時は、人気のない春の午後に茶の間にたたずむ自分から見た台所と廊下の位置を眼に浮かべて、右と左を区別することにしたのだ。
それは、自分にとって右と左の概念が理解できたというよりも、右と左と言う決めごとをとりあえずも便宜上身につけるためのショートカットを思いついた感動的な瞬間であった。
***
こんなことを思い出したのは、先週、亭主のグリと、彼の故郷のアイルランド共和国と英国の北アイルランドとの国境に近いドニゴールの近辺を車で走っていた時だった。その時、自分の体の位置や向きによって変わる相対的な左右ではなくて、絶対的な左右の感覚が自分の中にあることに気付いたのだった。
ドニゴールのロック・エスクという湖のほとりの1860年代のお城を改造したホテルに日暮れ時に投宿し、翌日、湖のほとりまで下りてみたが、午後1時過ぎというのに夕暮時のように薄暗い。
以前、「水と夢」でも書きましたが、自分の場合、坂道を下って行くとものすごく美しい水辺に着くと言う夢を良く見ていた時期がある。今目にしているロック・エスクの水辺は、まさにその夢の中で見た水辺のようなうつくしさなのだった。
また、高所から突然ものすごく美しい渓谷の裂け目に青い水が見えると言う夢も見たことがある。ロック・エスクに近い大西洋岸に面したキルカーの入江はその風景にそっくりな非現実的な美しさなのだった。
夢の中の水辺や入江は、なぜかかならず自分の左下にあるのだった。キルカーからキリベッグの港に車を走らせながら、過去に観た夢を色々思い出してみる。夢の中の自分は歩いているか眺めているかなのだが、歩みや視線と言うなにかしらの動きないしは方向性がある。一連の登る夢はどちらかと言えば右に向かっており、一連の下る夢は左に向かっているのだった。
夢の中で右側は秩序や理性や社会を表象し、左側は無意識や混沌を表彰すると言われている。自分の夢にはこのルールがぴったり当てはまるような気がする。他の人々はどうなんだろう。もし人々の夢がすべて同じような構造をしているとすれば、それはなぜだろうか?
そして、今思い出す現実のロック・エスクの水辺は、自分の意識の中では、何故か左に坂を下ったところにあるし、キルカーの入江も、記憶の中で自分のはるか左下に見えているのだった。
もっと不思議なのは、大西洋岸を海岸線に沿って現実に車を走らせながら、自分が今「左側」に向かっていると感じていたことだった。自分は正面に車を走らせていたので、右にも左にも行っていない。
自分の視線とは関係のない、なにか絶対的な左と右という場所ができてしまっているようなのだった。これはどういうことなのだろう。またも、答えのないまま記事が終わる。
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