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カーボ・ヴェルデ(2) 友をつくる歓びを30年ぶりに(笑)思い出しました

さて本題に入ります。

こんな風に荒っぽく遊びまわった後、きれいなビーチでもういちどひと泳ぎし、へとへとになってアパートに帰ってくると、ブーゲンビリアの花が咲くアパートのテラスに座って日没を眺めながら、きんきんに冷やしたStrelaビールかChaワインを飲みながら夕食までの時間を過ごすのがなかなか良い。


北緯15度と赤道に近いので、日没が早いこと…。
 
アパートのすぐ前にあるPorto d'Antiquaのプールにも夕暮れが訪れる。


2日目の午後、島をジープで一周した後、アパートまで戻ってきてテラスから中に入ろうとすると、いきなり隣のテラスから、
「ヤーマーン、初めて会ったねえ。ハロー」
と、何と言ったらいいか、ボブ・マーリーの色をもっと黒くしたような青年がのんびりと右手を差し出してきた。これが私たちのアパートのお隣さんで、ミュージシャンで画家で、ショップのオーナーでもあるイシュマエルくんであった。マリファナの匂いをぷんぷんさせてる(笑)。

亭主のグリは隣人ができた大喜びで、毎日のように飲みに誘う。イシュマエルくんがテラスにいないと、中に向かって、
「おーい、イシュマエル。ビールあるよ」
と呼ぶ。すると、扉が開いてイシュマエルくんが、
「ヤーマーン」
と言いながらのっそり出てくる。



グリは自分で誘っておきながら、イシュマエルくんが、コップについてもらったビールをおいしそうに飲み始めると、
「ハッラーム!!!」
と指を突き付けて、非難する(笑)。



イシュマエルくんも、さぞかし「ヘンな親父につかまってしまったなあ」と思っていたことだろう。

イシュマエルくんが演奏するというコンサートの行われる、町のはずれの多目的ホール(ポリヴァレント)まで出かけていく。入口にたむろしているのは現地人ばかり、というかカフェオレ色の肌のカーボ・ヴェルデ人ではなく、漆黒の肌の男の人たち(たぶんイシュマエルと同様、セネガルの人々)ばかりなので一瞬緊張するが、構わずずんずん中に入って行くと、中は体育館のようになっていてやはりセネガルの人々が固まって話している。そこに、すその長い真っ白なドレスをきて髪もきれいに結い、輝くばかりの笑みを浮かべて見違えるような(笑)イシュマエルくんが出て来て、
「諸般の事情で開始が30分ぐらい遅れます」
と言うので、近所のカフェで腹ごしらえをしながら開始を待つことにする。



1時間後に再び会場に戻ってみると、中はこのようなすごいことになっていた。


素晴らしい歌声とパーカッション。西欧のコンサートと違うのは、シンガーが真ん中にいて、観衆がその周りを輪のように囲んで踊り歌うのだ。日本の盆踊りと違うのは、テンポと迫力だろう。でも、薄暗い上に、皆さん顔がまっ黒なので(笑)イシュマエルがどこにいるのかが分からない。

その後で、ビデオ画像を本人に見せて、
「どこにいたの?」
と尋ねると、
「ここだよ、ここ。」
と教えてくれるのだが、やっぱりわからない(笑)。

大みそかの晩は、イシュマエルくんのお兄さんのアレンが料理をすると言うので、御馳走になってしまった。


チキンを丸ごと買って来たのをぶつ切りにし、パン粉で揚げた上に、ピリ辛ソースをかけ、その上にポテトフライを乗せた大皿を皆で囲み、右手でむしって食す。カリッと揚げた新鮮な鶏肉にピリ辛ソースがかかっているこの料理は、感激のうまさであった。

今回の旅は、何か風水の方角が影響していたのか、毎日のようにやたら新しいお友達ができて、しかも、そのことを楽しんだり、ワクワクして待ち受けるような旅だった。うらやましいことにグリは、ブリュッセルにいてもこんな子供のような感覚を毎日感じていて、お友達と一緒にいるのが楽しくて楽しくて仕方がない。でも、自分にとっては、友達といて無心に楽しいと言うような感覚を感じたのは、じつに30年ぶりぐらいであったことをしみじみ思い返した。

南の空と海が生み出した束の間の魔法かもしれないが。
 

メンタルタフネス(1) 小暴君

さて、前回ブログに書きました「愛の書」はハッピーエンドで終わった!とぬかよろこびをしていた自分でしたが、そうは問屋がおろしませんでした。前回御報告しましたグリの就職がおじゃんになったからです。

お祝いの言葉をかけて下さった皆さん、ごめんなさい。でも、こんなあきれた話からもいくばくの教訓が得られると祈りつつ、ここに顛末を記すことにする。

***

話は、前回の続き、ロンドンの郊外のトレーニングセンターで数週間の学科訓練を受けた空のトラック運転手候補生のおっさんたち8人が、フランクフルトのトレーニングセンターでシミュレーターを使っての1週間の訓練を開始した時に遡ります。

この時点で、グリはすでに1カ月後のフライトスケジュール表を渡されていた。サウジアラビアから、パキスタンなどをトランジットし、インドネシアまで飛んで、すぐにとんぼ返りで帰ってくると言う過酷なスケジュールだ。自分はグリがシュミレーター訓練で軽くウォーミングアップを終われば、ドライ・フライとと呼ばれる実地のフライト訓練を数回やり、早速仕事を始められるものと思っていた。

わたしは、そのスケジュール表を自分のオフィスの壁に張った。そして、グリがフライト先でもスケジュール表や業務連絡を見ることができるように、Samsung Galaxy IIを買ってプレゼントした。

シュミレーション訓練は毎日夜の7時頃から12時頃まで続く。最初の晩、フランクフルトのグリから明るい声で電話がかかって来た。
「いやー、まいった。この会社のエマージェンシー・マニュアルがいつも使ってるシート1枚のやつと全然違って、100ページぐらいあるんだよ。ページをさがすだけでも大変でさ。インストラクターから怒られっぱなし」

翌日からは、毎晩、やっぱり明るい声でぎゃははと笑いながら、電話がかかってくる。
「あのインストラクター、ナチスみたいなやつだよ」
「ジョイスティックを右手で持ったとか、左手で持ったとか、細かいことにいちいちでっかい声でケチをつけるんだ」
「あれやれ、これやれ、と指示をしてから、すぐにイライラして『アー、フォアゲット・イト!』って怒鳴るんだよ」
「同僚たちと、彼の、『アー、フォアゲット・イト!』が流行語になっちゃったよ。同僚が宿舎の僕の部屋に電話かけてきてからかうんだ『グリ、今なんで受話器を左手ではなく右手で取ったんだ!アー、フォアゲット・イト!』」

グリの明るい声に、私は、なんだかわくわくしてきた。グリの操縦する飛行機に乗って、サウジアラビアやインドネシアにも行けるかもしれない。カーゴなので乗り心地は悪そうだけど。サウジアラビアでは、ヴェイルをかぶらなければいけないだろうな、とか。

金曜日の晩にグリから電話がある。
「ごめん、週末帰れなくなっちゃった。日曜の晩遅くシミュレーターの追加訓練を受けることになったんだ」
「ふうん、よかったじゃん、訓練をたくさん受けられた方が安心だもんね」
「うん、そうだね・・・」
すっかり舞い上がっていた私はその意味を深く考えなかった。

日曜日の夕方、ポツンとグリの携帯から写真が送られてくる。「フランクフルトの日曜日」と言う題がついている。追加訓練の開始時間を待つグリが、Samsung Galaxy IIで宿舎の部屋の窓から写した雨のフランクフルト郊外の風景。



ふうん。日曜日だと言うのに、宿舎の部屋で一人でいるんだ。ふだん能天気なグリが、同僚たちと一緒に町に出かけて気分転換をしていないのが不思議だった。

***

訓練を終えて、ブラッセルの空港のゲートから出てきたグリを車に乗せると、グリがいつものようにぎゃははと笑って、話し出した。

「1998年4月29日、サンディエゴで初めてジェット機のライセンスのテストを受けた時のことを思い出すよ。試験官はパトリック・ヒルという年季の入ったアメリカ人だった。

テストが終わった後、パトリック・ヒルは言った。
『残念だが、君にライセンスをあげることはできない』
そう厳しい声で言って、彼はテスト中に発見したたくさんのミスを丁寧に説明してくれた。
せっかくカリフォルニアまで来て飛行学校まで通ったのに、このままヨーロッパにすごすご帰るのかと思うと自分は心底情けなかった。

打ちひしがれている自分に向って、パトリック・ヒルは言った。
『どうするかね。こう言う時は、何ヶ月か時間を置いて、気分を新たにしてからチャレンジする方がいいね。でも、もし君がそうしたかったら、今すぐ、もう一度テストをやり直してみることもできる。どうするかね』
『やってみます』
そう僕は言った。そして今度は、パトリック・ヒルが指摘した全てのミスをまったく繰り返さずに、飛行テストを終えた。

その時のパトリック・ヒルの言葉を忘れないよ。彼は、後ろの座席に座っていたんだけど、左手で僕の右肩を力一杯叩いて、しわがれ声でこう言ったんだ。
『Well done.  I know how hard that was. (よくやった。これがどんなに大変なことだったかよく知っているよ。)』」

それは、グリが何度も私に話してくれたことのあるエピソードだった。でも、今回は、話す内にグリは涙声になり、そして最後の方では泣いていた。自分は車を運転しながら、グリが新しい人生の局面を迎えてエモーショナルになっているだけだと思った。

***

家に戻るとグリは、フランクフルトでのトレーニングの様子を笑いながら話してくれた。シミュレーションで担当になったドイツ人のナチスみたいなインストラクターが、グリの一挙一動に対して大声で怒鳴りまくるので、グリがすっかり動転して、自信を失い、普段の実力以下のものしか出せなかったということが、自分にも分かり始めた。

フランクフルトからグリは毎晩笑いながら私に電話をかけてくれたが、それは、このインストラクターに5時間怒鳴りまくられた後のことだったのだ。雨のフランクフルトの街並みを写した写真を送ってくれたのは、グリが不安な重苦しい気持ちで、最後の追加のトレーニングを受ける前に宿舎の部屋で一人100ページもあるマニュアルを予習している時だったのだ。その時、私は能天気に、サウジアラビアやドバイのコンパウンドのホテルで砂漠を望むプールサイドにいる自分の姿を夢見ていたのではなかったか。

でもグリが、シミュレーションテストの失敗のために、他の2人の候補生と共に実質的に不採用になったことに自分が気がついたのは、家に戻って数時間後、
「グリと自分の話がなんだかかみ合わないな」
と思い始めた時だった。

「え〜、それはつまり不採用ってこと?」
「このままでは飛べないんだ。あと数週間、追加でトレーニングを受けないと」
グリは渋々認めた。
「追加トレーニング、受ければいいじゃん、お金ならあるよ」

昔、自動車運転免許の試験に何度も落ちる私を「あきらめるな!」と叱咤激励し、自動車学校の追加のレッスン費用を辛抱強く払い続けてたのはグリだったのだ。

「運転免許のトレーニングとケタがちがうんだよ。航空会社に掛け合ったけど今の所いつ追加トレーニングを受けさせてくれるかの目途が立たないってさ。無期延期と言うところだ」

グリはさらさらとした声で言う。私は、そのまま1日寝込んでしまった。グリには申し訳ないと思ったが、どうすることもできない。風邪をひいて熱があるとだけ言って、1日へたっていた。自分ががんの宣告を受けた時、自分が精神的に落ち込んだのは3秒ぐらいのことだった。やはり、人はみな自分のことより人のことの方にショックを受けるのだろう。

ショックの中には、「これで生活が楽になって、少しは貯金もできるし、もう少しましなアパートにも引っ越せるかもしれない。旅行も、格安のバックパッカー旅行よりももう少し素敵な旅ができるかもしれない・・・」という自分勝手な期待が裏切られたことも、ちょっとはあったかもしれない。

でも、何よりも自分を落ち込ませたのは、「グリに何か能力的に根本的な欠陥があるのではないか」「グリにはパイロットになる能力が根本的に欠如しているのではないか」という疑いに捕らえられてしまったためだった。もしそうだとしたら、グリが本当にかわいそうだ。

グリは、そんな私の心配もよそに、へたっている私にお茶やコーヒーを運んでくれながら、もう別のエージェントや航空会社に履歴書を送り始めている。

***

時が経つにつれて、すこしずつ、ポジティブな気分が自然に戻ってきた。まず、ナチスみたいなインストラクターのポジティブな意味付けだった。私はその考えを、口に出してグリに言ってみた。

「あのインストラクターは、あなたに怒鳴り散らして、軽蔑の言葉を浴びせて、自信を失わせ、普段の実力を発揮させず、結果として貴方は職にありつけなかった。でも、あのインストラクターは、絶対に正しいことをしたのよね。本物のフライトでは、怒鳴り散らされるよりももっとひどい状況に遭うかもしれない、両側のエンジンが止まってしまったり、第一操縦士が心臓発作を起こしたり。だから、あそこであそこで試験に落としてくれて、よかったのよね」

するとグリは、目をぱちくりさせて、

「あったりまえじゃん。正直言って、もういちど一緒にコックピットに座るのは気が進まないし、インストラクターとしては最悪と思うよ。でも、彼には本当に感謝してるんだよ。」

「つまり、また彼のようなインストラクターや、操縦士と一緒に飛ぶことになっても、前回みたいに動転したり自信を失ったりしないってこと?」

「そう!1週間の間まいにち5時間ずつ、耳の横で怒鳴り散らされている内に、そういう時、どうやって気分を研ぎ澄ませ、どうやって、今自分がすべきことだけに集中すればいいのかその方法がわかるようになったんだよ。」

「じゃあ、あの一週間は無駄ではなかったってこと?」

「無駄なわけないでしょ、素晴らしい学びの機会だよ。それに、あいつ最後には、しぶしぶだったけど『大分ましになったな』って言ってくれたんだ」

***

「ふつう、そういう状況では、自尊心からくるいらだちや涙ですっかりまいっちまうんだがな。少しでも自尊心をもっていると、自分にはなんの価値もないとかんじさせられたときに、ずたずたになっちまうものなんだ。
わしは、いわれたとおりのことを喜んでやったよ。楽しかったし、力強くもあった。自尊心や恐怖心など、まるで問題にならなかったね。わしは、完璧な戦士としてそこにいたんだ。自分を踏みつけにする者がいるときに、精神を調和させるのが管理なんだ」(カルロス・カスタネダ「意識への回帰―内からの炎 」p.38)

グリと話しながら、カルロス・カスタネダの「意識への回帰―内からの炎 」で、師のドン・ファンが、戦士の成長の重要な契機となる「小暴君」との出会いについて語った言葉を思い出したのだった。

人間にあって、いちばん無駄なエネルギーを消費させ、人間を弱くするのは自尊心なので、これをなくすために、戦士は「小暴君」との出会いを利用する。戦士の道にあって、小暴君とは、金のわらじをはいても探すべき貴重な存在なのだ。

JUGEMテーマ:スピリチュアル


正月ぐらい家でも旨いものを食べたい

「三度の飯より好き」なものが山ほどある自分にとって、食事の優先順位は本当に低い。

料理の上手な友人たちが見かねてご飯を作ってくれるとそのおいしさに感動するものの、ふだんの自分は、とりあえずおなかがいっぱいになりさえすれば味はどうでもいいようなものばかり食べている。食事を作る時間も、食べる時間ももったいないのだ。

自分の1回の平均食事時間は、5分ぐらいだろうと思う。

そんな自分がいつかは作ってみたいと夢見る料理があった。それは、以前「ナミュールで魔女の末裔に会う」に登場いただいたお友達のボブさんの作った自作自演のビデオでを見て、あまりにもおいしそうで、しかも簡単そうだったからだ。

プーレ・オー・シコン、鶏とシコンのクリーム煮。



ね。おいしそうでしょう。

ボブさんは、たぶん自分の友達の男性の中ではたぶんいちばん料理がうまい。一度ボブさんにハムエッグを作ってもらったことがあったが、何の変哲もないハムエッグが夢のように美味しかったことを思い出す。異常なほど食べ物に興味のない自分であるが、あのハムエッグを毎日食べられるボブさんの奥さんのシエコさんがうらやましい。

***

正月ぐらいは旨いものを作って食べよう、プーレ・オー・シコンを作ろうと思って、年末にスーパーで地鶏をさがすが手頃なものが見つからない。

そこで急きょ予定変更し、地鶏の代わりにキジを買う。少し前にFT日曜版に、イギリスの人気シェフRowley Leighのレシピが載っていたキジとシコンの煮物を思いだしたのだった。

<材料>
バター 75g
パンチェッタ  75g
キジ 1羽
白ワイン 200ml
シコン 3個
レモン 1個
シェリー酢 大匙1
砂糖 小匙1

言っておくが、パンチェッタもシェリー酢も、見たことも聞いたこともない。スーパーマーケットの中を必死で探す。あった〜、そう言う名前のものがふたつとも見つかった。信じられん。

<作り方>
鍋にバターを溶かし、パンチェッタの角切りをゆっくりと脂が溶け出しカリカリになるまで炒めます。パンチェッタを丁寧にフォークで取り除き、お皿に取り置きます。お鍋にキジを入れ、表面がきつね色になるまで炒めます。さらにバターを加え、キジの周りにさっき取り置いたパンチェッタを撒きます。白ワインを加えてふたをし、20分ぐらいことこと煮ます。
その間に、フライパンにバターを溶かし、縦に四つ切りにしたシコンを並べ、色づくまで炒めます。砂糖とレモン汁を加え、水分が完全に蒸発しかけたころ、シェリー酢を加え、シコンに絡めます。
キジを鍋から出し、脚を切り離し、胴体を半分に割り、シコンと一緒に鍋に戻し、数分煮て、最後にバターを加え、鍋を動かしながらキジに絡めます。

ふだんバターをほとんど使わない自分にとっては、驚異的なバターの使用量である。うはあ、健康に悪そう。でも1年に一度、正月ぐらいは許されるだろう。

お皿にキジとシコンをうつし、鍋に残ったソースをたっぷりかけて食べると、ちょっと荒削りだったけど、やっぱりふだんは自分の作るいい加減な料理とは違って、フクザツでなかなかウットリするような味でした。

食べている内に、がりっと音がして、キジの肉の中から散弾銃のかけらが2個出てきた。



自作の写真ではなく、FT日曜版に載っていた写真(笑)。

戦わない人

前回記事「敗者の肖像」を書いた後で、戦いということに思いを巡らせていた。そんな時、ウン十年前のある午後の、あまり懐かしいとも言えない、しかし決して忘れることのできない光景について書く気になった。

ブリュッセル大学の留学生だった当時、アレクシアン通りの月125Euroの私の貧乏アパートは、ゲント大学、リエージュ大学、ルーヴァン大学や、パリ大学の日本人留学生のカルフールのような状態になっていた。ちょうど中間地点にあって、集まるのに都合がよかったのかもしれない。

京大と九大から西洋中世史の研究に来ているオクニシさん、ヤマダさん、東大政治学のツダさん、この人たちは自分と同じ政府給付留学生組でみんな赤貧芋を洗うがごとしだったが、ロータリー財団の留学生も随分いてこちらはとてもリッチだった。

当時の自分は早くベルギー人社会に溶け込もうと必死になっていて、日本人とはあまりつきあいたくなかった。とくに日本人留学生たちが電話もかけずに突然うちにやってくるので、心ひそかに大変迷惑だと思っていた。(でも考えてみると、電話で連絡しようにも、私が電話をもっていなかったのだ。)いま思うと、何となくフラフラしていて危なげな私を心配して、皆が支えようとしてくれていたのかもしれないのだが。

アレクシアン通りのぼろアパートに、京大からリエージュ大学とパリ大学に留学しているミズタニさんとマエカワくん、そして、同じパリ大学に留学しているクチナくんが来ていた。(クチナくんは、「鼓笛隊が攻めてくる」に登場。)そこでなぜか4人でトランプの「大貧民」が始まった。

大貧民は純粋に確率の問題なので、最初は平等に損をしたり得をしたりするのだが、損をした時の4人の様子の違いが際立っていた。京大の二人は損をするとものすごく悔しがって、なんだか凶暴な感じになる。私もそれほどではなかったが、次第に熱くなってきた。クチナくんはと言うと、小さなテーブルの上に大きな体を縮めるようにして、トランプをチラノザウルスみたいな手つきで持って、小さなため息をついている。

7-8回目ぐらいからだろうか、不思議なことが起こり始めた。平等に勝って負けていたバランスが徐々に崩れて行き、次第に京大の2人が勝つ比率が大きくなり、クチナくんが負ける比率が大きくなっていったのだ。

私自身は相変わらず4分の1ずつ勝ったり負けたりしていたので、自分の勝負はそっちのけで、京大のふたりの血眼の顔と、クチナくんのどことなくさびしそうな顔を交互に見比べていた。見慣れたはずの友人たちの顔が、何故かあの時の自分にとっては前者がとても下品に、そして後者が上品に思えたのだった。とは言え、負け続けても「よーし!」と発奮する様子の少しもないクチナくんの横顔を、心配してそして少しイライラして見守っていた。

クチナくんに当時私がつけたあだ名は「恐竜くん」だった。体が大きいからだけではなくて、このままでは自然淘汰によって絶滅してしまうと思われたからだ。

しかし私の祈りもむなしく勝負の差はどんどん広がって行き、最後には、まるでクチナくんが自分の意志の力で負カードを出しているのではないかとも疑うような様相を呈してしまった。クチナくんの惨敗であった。それでも二人はゲームを止めない。

完全に抵抗を止めてうつろな目で空を見上げている瀕死のクチナくんの体の上に、二人は跳び乗り阿鼻叫喚を上げながら更にむさぼりつくそうとする。私はどうすることもできずにそれを眺めていた。

***

京大二人組の名誉のために言っておくと、普段はフレンドリーでいい人たちだ。ゲームの興奮と勝ち始めたことが、少し俯いたクチナくんの顔が、二人をあれほど凶暴にしたのだ。そして、あの日曜の午後の空気が、部屋から見える教会が、故郷を離れて遠い異国にいることが、そう言う一切合財の霊妙な化学合成が、それぞれがそれぞれのはまり役を演ずる残酷劇を生み出したのだった。私だって二人の立場だったら多かれ少なかれおなじ役割を演じたのではないか?

不思議な午後だった。何か普遍的なものを感じさせる光景のようでもあり、そうでもないような気もする。あの時あの場にいた誰も、私を除いてはあの光景を記憶している人はいないだろう。(自慢じゃないけど、自分にはこのように記憶しているヘンな光景やエピソードが山のようにある。)

ひとつ言えるのは、あの光景を思い出して、あの4人の内の誰にいちばん親和性を覚えるかがその日の自分の状態を測る指標になるということだ。躁うつ病予備軍の自分の場合、誰に共感するかがその日その日で大きく違う。

時によっては、あの日の京大二人組のように鼻息荒く、挑戦的で、強欲で、エグジュベラントな気分の時もある。そして、時によっては、あの日のクチナくんの姿に最も共感を覚える時もある。ちょうど今日のように。

でも、生きて行くこと自体が悲しいかな、いつかどこかで戦いを強いられる。それは避けて通れない。だから自分は、うん十年間と言うもの、あの日のクチナくんに共感を覚えそうになる自分と必死で戦ってきたのだ。それが自分の戦いなのだった。そして今日も戦おうとしているのだ。

***

アレクシアン通りのぼろアパートの窓から望むシャペル広場、左手にブリューゲルが洗礼をしたノートルダムドラシャペル教会、正面に小さなブリジッティヌ聖堂。若かった。でもあの頃に戻りたいなんてぜったい思わないよん。

アレクシアン通りのぼろアパートの窓から

グリ・スタイル (料理編)

 前回ブログ「夫の心の謎」で語った夫グリの撮影したへんな写真について、ブログ「ブリュッセル日記」の著者りつこさんが「コンセプチャル・アート」と慰めてくれました。

それに元気を得て、私の撮影したグリの「作品」をいくつか紹介します。



グリが食べ残したパンの耳。



調理の後に残された、さやいんげんのヘタ。



冷凍庫を開けたら、いきなりピーマンの冷凍があった。(はーびっくりした。)



グリの作ったおつまみ。カマンベールチーズをバジリコにつつんだものと、マスカット。Nils Udoという私の好きなアーチストの作品のような風情があったりして。



グリが弁当に持たせてくれた、石器時代風の巨大サンドイッチ。大きめの包みを開けたら、これが1個ごろりと出てきたのでいっしゅん途方に暮れたが、よく見ると中がくりぬいてありツナサラダが入っている。写真には写ってないが、ふたが開かないように太い輪ゴムで止めてあった。



グリの作った料理の中でいちばん食べられたもの。白身魚の下のパスタは、日本そばに、バリラのトマトソースとアスパラガスを合えたもの。珍味!

夫の心の謎

わたしの心の姉、りつこさんが最近ブログ「ブリュッセル日記」に「夫婦一心同体説?」と題して書いていらした文章を読んで、わたしもいまさらながら自分の夫グリのことについて深く考え込んでしまいました。私の場合、夫が自分と一心同体でないことは明らかだ。夫の言動にわからないことが多すぎるからだ。

例えば、前々回ブログ「元気な人」でお恥ずかしい夫の姿をビデオでお見せした。私が夜帰ってきてベルを押して、夫がビルの玄関のドアを開けに5階のアパートから駆け下りてくる映像だ。

ビデオにははっきりと映ってはいないのだが、そんなとき、夫の右手には必ず夫の社員証、左手にはフィットネスジムの会員証が握られている。ある時それに気付いたのだが、なぜ、ドアを開けに来る度に、社員証とフィットネスジムの会員証を両手に握っているのかは不明である。そして理由を尋ねる勇気もなかった。

でも、先週の土曜日の朝、いっしょに近所のスーパーマーケット・デレーズに週末の買い出しにてくてくと歩いていく時に、またしても、夫の右手に社員証が、そして左手にフィットネスジムの会員証が握られているのに気付いて、ついに我慢しきれなくなって、
「あのー、なんで、スーパー行くのに社員証とフィットネスジムの会員証を手に握っているの?」
と恐る恐る訊いてみた。

すると、あっと自分の両手を眺めてみて、
「わかんない。習慣だ」
と言って、
「ははははは・・・」
と笑った。わたしも、仕方なくははははは・・・と笑って、次なる小話をスーパーへの道すがら話した。

「いつも昼食を食べるレストランにね、いつも同じ紳士が一人で『今日の定食』を食べに来ているの。でも、その紳士はいつも最後にお皿に残ったパセリの茎を丁寧にちぎって両方の耳にさすの。
わたしはずっとそれを不思議だと思っていて、いつも観察していたの。
ある日、その紳士がやってきて隣のテーブルで食事をし、食べ終わった時、何故かその日は、パセリではなくて、クレソンを細くちぎったのを耳に入れたの。
そこでわたしはついに我慢しきれなくて、
『ムッシュー、今、クレソンを細くちぎって耳に入れましたね』
と思わず声をかけていたの。そしたら、紳士は、
『ウィ、マドモワゼル。ええ入れましたとも。それが何か?』
と澄ました顔で答えるの。
『でも、どうしてクレソンを耳に入れたのですか?』
と食い下がるわたし。すると紳士は、
『パセリが今日はなかったからですよ』」

「ははははは・・・」とグリが笑い、
「ははははは・・・」と私も笑ってその話はそこで終ってしまった。

****

あまり夫の持ち物を詮索したりする趣味はないのだが、ある日、夫の机の上に置いてあった写真の束を見てあぜんとした。まだ私たちがデジタルカメラを持っていなかった頃なので、かなり前のことだ。

36枚の写真には、どれも内の風呂場においてある洗濯機のふたと、洗濯機から出した洗濯物が映っていた。悩んだ私は、それを友人のひとみちゃんに見せた。
「なに、これ? 保険請求のために撮った写真かしら」
ひとみちゃんは眉をひそめたが、彼女にもわからない。

そこで恐る恐る、写真を取った本人と思しき夫に、
「これ、何のために撮ったの?」
と聞いてみる。
「あー、カメラのフラッシュを試そうと思ってさ」
「ふうん。カメラのフラッシュを試すために、36枚も撮ったの。」
「うん」
当地では、当時フィルムの値段も写真の現像の値段も日本の3倍ぐらい高い。

キツネにつままれたような気分でその当時は、そのままになったが、最近、夫から、
「携帯電話で撮った写真をダウンロードして」
と頼まれPCにダウンロードした写真の半分ぐらいが、やはり洗濯機のふたの写真だったのでなんだかぞーっとしてしまった。

以前赤ちゃんとか犬にカメラを持たせて写させた写真を展示するという試みを見たことがあるが、夫にカメラを持たせるとこうなるのかもしれない。

これは最近、夫が撮影した傑作のひとつ、流し台の中のパスポートのカバー。このシリーズで何枚もある。



****

夫と歩いていると、突然立ち止まってしまう事がある。
「・・・ザッツ・インテレスティング」と言って、スーパーマーケットの裏口のドアや、駐車場の入り口をじーっと見ている。ひどい時にはそれが数分も続く。知り合ってから20年が経過した今も、いったい何がインテレスティングなのか、全くの謎である。

私がその話をして、どう思う?と言うと、ジャンおじさんは、
「IRA(アイルランド共和軍と言う名のテロ集団)のメンバーじゃないか」
と本気で心配していた。

ふたりで町を歩いている時、時々、
「ちょっとチェックしてくる・・・」
と言って一人で道を引き返していく。1分ぐらいすると戻ってくるのだが、
「何チェックしてたの?」
と尋ねても、
「ううう・・・」
とあいまいな答えをするだけで満足に答えられない。

うちの母親とグリとで3人でフランスを旅行した時もそうだった。グリがまた「チェックしてくる」と言い残してどこかに行ってしまうことが何度も続いたので、母親にそっと、
「ねえ、あれなんだと思う・・・?」
と真剣に尋ねると、
「ふん。自分がマーキングしたおしっこの匂いでもかぎに行ってるんでしょ」
という明快な答えをもらった。
「なるほど〜!」
と思ったことだった。

でも、専門家の方から見たらナントカ・シンドロームの典型的なケースなのかもしれないと思っている。

ビデオもあった。回る洗濯機のふた。



元気な人

自分の子供のころからの目標は「もっと元気になること」、それだけだ。昔から元気な人々に対して深い劣等コンプレックスがあった。

私は自分も含めて、元気のない人は大嫌いなのだ。だから私の友人は、りつこさん、あけみさん、さとうさんなど、元気で泣き言を言わず一生懸命生きている人ばかりだ。

そういう友人から、
「グリちゃんは元気?」
と笑いながら尋ねられることがよくある。
「うん、元気よ〜。意味もなくね」
と私は答える。グリちゃんというのは、飼犬ではなく、私の夫のことである。

どうして「意味もなく」と思うのかというと、客観的にはどう考えてもアンハッピーな状況で、それこそ意味もなくハッピーだからだ。

客観的には、フテ寝していてもおかしくない行き詰った状況で、意味もなく元気だからだ。

さらに言えば、その元気が、こちらを笑わせてくれると言う以外の有用な目的を持たず、無意味に浪費されているように思われることだ。

例をあげればきりがないが、例えば、夜遅く私が仕事から返ってきて、ゼロ階のベルを押すと、アパートの中から自動ロックを外してくれる代わりに、4階(日本の5階)のアパートからだーっとかけ下りてきて、最後にばんとジャンプして、歌舞伎のような見えを切ってからドアを開けてくれるのだ。これを(彼が向かいのアイリッシュ・パブに行っている時以外は)毎晩くりかえす。

グリはもう45歳で、くりかえしになるが私の飼い犬ではなく、夫なので、なかなかこの話をしても信じてくれる人がいない。そこで、ある晩、ベルを押してからカメラを構えて待っていた。(この映像はやらせ映像ではありません。)



グリを知っている人が見れば、ああ、グリちゃんまたやってるなで済むかもしれないが、知らない人が見たら、かなり不気味というか、怖い映像であろう。

20年ぐらい前にグリと初めて会った時は、躁うつ病の患者さんではないかと思ったが、その考え方は今では改めている。うつ状態がないからである。ただ、専門のお医者さんにこのビデオを見てもらい、しかるべき分析をしてもらえば、やはり何かの病気であると診断されるのかもしれない(笑)。自分にとっては有難い病気ではあるが。

JUGEMテーマ:健康
 

今日一日の花を摘み取る

少し前に、「憑依について」 と言ううさんくさい表題のブログ記事に、失礼ながら登場させてしまったWちゃんは、その後実を言うと素晴らしいハッピーエンディングを迎えた。東京に戻って彼女にぴったりのすてきな職場を得たのだ。ベルギーからフランスへ嫁ごうとしていたのを、フェイント攻撃で、東京へトラバーユ(古い言葉)してしまったのだ。1カ月と言う短期間に逆境を逆転させウルトラCで着地できたのは、ひとえにWちゃんの誠意とポジティブな考え方と努力以外の何物でもない。それがどれほど大変なことだったのかはわしが良く知っておる。

あの日、
「自分でまいた種は自分で刈り取らねばならない」
と言う意味のことをWちゃんは言った。そして、自分の捨てた過去の感傷に浸る暇も、これからの進路もゆっくり考える暇をも惜しんで、1カ月の間、(とにかくオフィスの他の人にできるだけ迷惑がかからぬようにと考えてのことだろうか)ちょうど3月の繁忙期の仕事を見事にこなし、後任への引き継ぎもきっちりして、Wちゃんの出発を惜しむお客さんたちとの連日のお別れ会もすませて(Wちゃんは駐在員のおじさんたちの人気者だった)すっきりと去っていったのだった。本当に立派だった。

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こちらで出会った女の子たちはみんなけっこう波乱万丈系が多い。それはちょっと進路を変える場合でも、文京区から台東区に職場を変わるとかいうのではなく、国境や大陸を超えてしまい、距離的なぶれが大きいので、よけい波乱万丈に見えるのだ。

例えば、先日いっしょにブルーベルの森に行ったみっちゃんだって、7年間勤めたベルギーの会社を退職することになり、残された選択肢は、ロサンジェルスの子会社に行くか、日本の子会社に行くか、ベルギーで全く別の会社に行くか・・・のどれかなのだった。砂漠の真ん中に十字路があって、ロス、東京、ベルギーと立札が立ててあって、それ以外の情報は何もない。その中から選ばねばならないのだ。

みっちゃんは、最初ロスを選んだ。それから数カ月して東京に帰った。それから数カ月してまたベルギーに戻ってきた。

私がみっちゃんだったら360度地平線しか見えない十字路の真ん中で、へたりこんでしまうだろう。

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そしてそんな砂漠の真ん中ですれちがった女の子たち(なぜか男の子はほとんどいない)とは、めったに会ったり話したりすることはなくクールでさらさらな関係が続いていても、とても深い絆で結ばれているような気がする。

Wちゃんとは不思議な御縁を感じていた。Wちゃんがうちの職場に来てしばらくしてから、とてもクリアな夢を見た。
夢の中の道を歩きながら、Wちゃんが誰かとしゃべっている。
「わたし、ずっと海の近くに住むのが夢だったの・・・」
と言うWちゃんの寂しそうな声。
「へ〜、そうなの〜?」
と、どこかほんわかのんびりした男の人の声。(ヨーロッパをまたにかける天才営業マンのタニさんの声だ!)
「わたしが死んだらこれをまりあさんに…」
と言うWちゃんの手のクローズアップ。その手にはお位牌が握らていて、お位牌に書いてあるのは、何と私の名前。
「ぎゃっ!」と思って目が覚めた(笑)。

それ以来、なぜか自分か自分の先祖が前世のWちゃんをそれは酷い目に遭わせたのではないかと思いがいつもある。(こういう人は何人かいる。)

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うちの職場を去って行った日本人の同僚はWちゃんで7人目だ。
十数年前に私が入社した時、日本人はわたし一人だった。それからいろんな日本人が入れ替わり立ち替わり、入っては出て行った。みんな個性的で素敵な人々だった。

「みんな去っていくねえ」と感慨深そうに上司のロニーが言う。
「でもおまえはずっと残っているねえ」と続ける。
「もう、ほとんどフィクスド・アセット(固定資産)だねえ」とも言う。
「うん、まだ減価償却はおわってないけどね」と私は憮然として答える。

現在残っている女の子たち(Wちゃんの後任のOちゃんと、カリブ海の島国の専門調査員になったCちゃん(「イメージの力」に登場)の後任のYちゃん)が、Wちゃんのお別れ会を開いてくれた。Oちゃんが選んでくれた店は、ブラッセルのテルビューレン大通りに面したCarpe Diemという名の素敵なビストロだった。

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この店の名前が気になってネットで検索したところ、次なるホラティウスの詩「日々の花を摘め(Carpe Diem)」の題名であることが分かりました。(このサイトからの無断転載

神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、レウコノエ、そんなことを尋ねてはいけない。
それを知ることは、神の道に背くことだから。
君はまた、バビュロンの数占いにも手を出してはいけない。
死がどのようなものであれ、それを進んで受け入れる方がどんなにかいいだろう。
仮にユピテル様が、これから僕らに何度も冬を迎えさせてくれるにせよ、
或いは逆に、立ちはだかる岩によってテュッレニア海を疲弊させている今年の冬が最後の冬になるにせよ。
だから君には賢明であってほしい。酒を漉(こ)し、短い人生の中で遠大な希望を抱くことは慎もう。
なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、意地悪な「時」は足早に逃げていってしまうのだから。
今日一日の花を摘みとることだ。
明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。

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「Carpe Diemってどういう意味か知ってた?」
と亭主のグリに尋ねてみる。
「日々を刈り取れって意味だろ」

ふうん、「日々の花を摘み取れ」ではなくて「日々の(麦を)刈り取れ」とアイルランドの学校では教えられるのかもしれない。

でも、Wちゃんや、私の尊敬するあの勇敢な女の子たちには、1日の終わりには麦ではなくて、やっぱり両手いっぱいの花を摘み取ってほしい。


 

やっぱりインドはすごいと思ったこと

前回お話しした、インド人の元同僚を、毎朝自分の車に乗っけて通勤するうちに色々なことを教えられた。一言で言うと「やっぱりインドはすごい」と思わせるようなことがなんどかあった。

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まだ自分も運転免許を取りたての頃で、ハンドルにかじりついておっかなびっくりの運転だった私に、ある日彼が遠慮がちに、
「まりあ、僕は、インドから来たから別に気にならないんだけどさあ、もしヒーターが熱すぎたら、言っておくれよ。僕が調節するから・・・」
と言った。運転に集中しすぎていて、ヒーターを全開にしていたのに気付かずに20分以上走りつづけていたのだ。車内の温度はほぼ36度。「僕はインドから来たから」とわざわざつけ加えたところに彼の繊細な気遣いが感じられる。もう連絡が途切れてしまったが、本当にいい子だった。

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別の朝、彼が、
「まりあ、君はブレーキの効かない車に乗ったことある?」と、物思わしげな声できく。
一瞬言っている意味がよくわからなくて、
「比喩的な意味だったら、よくあるけど(笑)。あんたはあるの?」と儀礼的に訊くと、真面目な顔で、
「うんあるよ。僕が7歳のころだけどね。お母さんと一緒に、崖ぎわの道を走るバスに乗っていたら、そのバスのブレーキがきかなくなっちゃったんだ」
「え〜?なんかそう言う夢を見たと言うことじゃなくて?」
「うん。そう言う夢を見たと言うことじゃなくて。インドではよくあるんだよ。夢の中でじゃなくて、バスのブレーキが効かなくなることが。でも、僕たちの乗ってたバスはブレーキがきかないだけじゃなくて、がけっぷちの坂道を下っていた。だから、何とかしてバスを止めなけりゃいけない」

いつかクチナ君から、「インドをバスで旅行していた時、崖下に、落下したバスの残骸があるのを何回か見た」と訊いたのを思い出した。その時は、彼のほら話だと思っていた。

「それで、どうしたの?」
「バスの運転手はね、わざとバスの車体を崖肌に何度かぶつけて、それでやっと停めたんだ。それでね、僕は椅子から転げ落ちて、けがをしてしばらく気絶してた」

そんな修羅場を体験していたからこそ、泣く子も黙り、上司も悲鳴を上げる私の乱暴な運転にも顔色一つ変えないで毎日乗っていられたのかもしれない。

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日本で起こった実際の事件を元に、「誰も知らない」という映画が作られ、当地ベルギーの映画館にもかかった。普段あまり映画館に行かない亭主のグリと自分も、すぐに見に行った。

母親に置き去りにされた12歳を筆頭とする4人の子供たちが、学校にも行けずに、送金のお金もつきて徐々にすさんでいく様子を淡々と追った映画で、最後に末っ子が事故で死に、その死体をトランクに詰めて長男が埋めに行き、また町に戻って元の生活を続けると言うストーリーだ。



グリは「豊かな社会の見えない隙間の中の見えない悲劇」みたいな感想をもらし、私もほぼ同様の感想を抱いた。私は映画を見てから1週間ぐらい落ち込んでいた。一方、同じタイミングでその映画を見たインド人の彼は、「ほのぼのとした心温まる映画」だと思ったと言った。

そうかー。なるほどねえ、と思ったことであった。

JUGEMテーマ:スピリチュアル

 

夢三題

 昨日、「夢を生きる」と言う題の文章を拙ブログに投稿した直後に、日本の母親から電話があり、開口一番、
「パパがさ、まりあが出てくるヘンな夢を見たのよ」と言う。
「へえ、どんな?」
「きれいな透明な水をたたえた池の前に、まりあが立っているのね。そうすると、池の中から、こう、ぬーっと、巨大な恐竜が首を出して来たかと思うと、まりあの左肩の上に、ぽんって首をもたせかけたんだって。水は本当に透明で、恐竜の体が透けて見えるようなんだって。
それを見ていたパパはね、まりあが危害を加えられるんじゃないかって気が気ではないんだけれど、恐竜はそうやって首を持たせかけたまま大人しくしてるんだって・・・」
「へええ・・・」
と返事はしたものの、どうコメントしたらいいのかわからない。

数週間ぶりに電話をくれたと思ったら、開口いちばん夢の話なのも、考えてみるとヘンな家族(笑)。

電話を切った後、父親が見たという夢の話を亭主のグリにしてみる。
「その恐竜は、まりあの左肩に頭を持たせたと言うことは、癌を象徴しているな」と分かったようなことを言う。
「ほお、私の方は、その恐竜は、グリちゃん、あんたを象徴しているのかと思ったよ」と応酬すると、
「癌も俺も、同じようなものだあ。ぎゃはは」と言って笑った。

***

我ながらおめでたい性格なのか、悪夢と言うものをほとんど見ない自分が、めずらしく悪い夢を見て浮かない顔をしていると、グりが、
「どうしたの?どうしたの?ねえ、何で元気ないの?」としつこく聞いてくるので、仕方なく、
「ほっといてちょ。悪い夢を見たんだから」と言うと、
「悪い夢!ぎゃはは」と大笑いする。
「何よ、あんただって悪い夢ぐらいみるでしょ」と言ってから、よくよく問いただしてみると、グリは夢と言うものを見たことがないらしいことが分かった。(昔飼っていたネコですら、夢を見てたのにい。)

***

朝方眠りが浅くなる癖がついてしまったのか、今朝も鮮明な夢をみた。今はもう別の会社に行ってしまった同僚のインド人の男の子が、お父さん(彼の実際のお父さんではなく、スコットランド人と言う設定の中年紳士)の首っ玉にかじりつきながら、お父さんの大切にしている本にジャムをひっかけたり、色々子供じみた悪さをするというストーリーのあるかなり長い夢だった。

私はそれを傍観しているのだが、どうしてこんな夢を見たのかは見当もつかない。

思い出すのは、以前は、この男の子が我が家の近くに住んでいたので、毎朝プールの後、彼をピックアップして一緒に会社に通っていたことだ。車の中で、ある日彼がこう言った。
「僕はとても繊細で複雑な性格なんだよ。それが、手相にも表れてる。ほら、僕の手の平ってしわしわでしょう?」
「あ、私もそうだよ。私の手相も日本の見方で言うと、感情線ぐじゃぐじゃ」

その時、後部座席に座っていたグりが、おもむろに、
「へー、二人とも何でそんなに、手の平に線が多いのかな? 俺の手の平なんて、線が二本しかないよ」
「二本!?」
「うん、ほれ」
と言って差し出したグリの両手を見ると、まっすぐでくっきりした水平線が一本、それと交わるように、やはりまっすぐでくっきりした垂直線が一本、「丁」と言う字を描いている。他には線が一本もない。

感心した私が、翌日、それを人に(たしか自分の母親にだったと思う)話すと、「それはね、丁字紋と言うのよ・・・ よく知恵遅れの子供の中に、そう言う手相をしている子がいるらしいわ」と教えてくれた。

これもよくできた夢のような、内田百里両話のような、不気味で荒唐無稽な味わいのある話ですが、実話です。

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