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カーボ・ヴェルデ(1) たまには旅行ガイド風に書いてみました

年末年始はカーボ・ヴェルデ共和国のサル島のサンタ・マリアの海岸のアパートメントで1週間の冬休みを過ごしました。

カーボ・ヴェルデは西アフリカのセネガルのさらに西の海上に点在する18の大小の島からなる国で、(実際にはアフリカだが)自分にとっては、ヨーロッパの地の果てのイメージのある場所だ。ブリュッセルからは、Thomas Cookで6時間だった。リスボンからはTAPで4時間で行けると聞いた。

さて、本題に入る前に、「カーボ・ヴェルデ」で検索してせっかくこのサイトに来てくださった方のために、ここから少々旅行ガイド風に書いてみます。(写真と動画は自前のため、所々お見苦しい者が入っていますことをお許しください。)

サル島の南端、サンタ・マリアの街の海岸べりにあるOdjo d'Aguaというホテルに部屋を予約したつもりだったのだが、実際にあてがわれたのはそこから50メートルぐらいはなれたPorto Antiguoという別のホテルの敷地内にある、砂浜から少し引っ込んだテラスと庭付きのだだっ広いアパートメントだった。


ちなみに費用だが、サル島で知り合った欧州からの観光客は、多くがオール・インクルジブ(三食・飲物つき)のホテルに1週間の滞在で、フライトも含め1人2500〜3000Euro位のパッケージで来ているようだった。当方は、オール・インクルジブの滞在があまり好きではない。地元のスーパーマーケットで地元のビールやワインを買ってきて部屋で飲んだり、地元のレストランで慣れない食物を食べて下痢になったりするのが好きなのだ。だから、フライト+アパート+朝食だけ込みで上記の半分ぐらいの価格のThomas Cookのパッケージで来た。(クリスマスシーズンは当然割高だが、年末年始しか1週間以上の休みを取れないのでこの時期に来ることになりました。だから、年末年始を外せばもっと安いのではないかと思います。)

エジプトやチュニジアの海岸に行けば、カーボ・ヴェルデよりホテルの選択肢も多くはるかに安いし、海も同じくらい綺麗なのだが、今回は何か別の場所に来たかった。エジプトやチュニジアにまつわる、最近のイスラミスト・テロの記憶から逃れたかったという潜在意識が働いていたかもしれない。

さて、ホテルOdjo d'Aguaの本館は、荒波がぶつかっては砕ける岩の砦の上にあり、そのテラスで太陽と潮風を浴びながら食する朝食はなかなか良い。朝食にシャンパンがでるのは、これはラテンの風習なのだろうがこれもなかなか良い(笑)。


ホテルの右側に広がる白い砂のビーチには、エメラルド色にミルクを溶かし込んだような色の波が打ち寄せて、昼頃になると桟橋に次々と漁師さんたちが大きなマグロやドラードやワフー(バラクーダの一種)を引き上げるので、桟橋はいっときミニ魚市場のような活況を呈する。


新鮮なマグロはそのまま海岸べりのレストランに運ばれ、生のマグロのカルパッチョやヌタにされて、キンキンに冷えたCha(カーボ・ヴェルデ産白ワイン)やStrela(カーボ・ヴェルデ産ビール)と共に海水浴客の胃袋に消えていく。

(写真の手前は、海岸のレストラン「バラクーダ」のテラスで食するマグロのカルパッチョ。クレオル料理らしく、オリーブオイルに細かく切った赤ピーマン・黄ピーマンとパプリカで味付けしてある。ちなみにアパートの向かいの海岸に面したレストラン「ポルト・アンティゴ」で食したマグロのタルタール(ヌタ)はみじん切りの生のマグロにオリーブオイルにみじん切りのケッパーが混ぜ込んであった。非常に洗練された味。ブリュッセルの三ツ星レストラン「シーグリル」で27Euroで供されるようなマグロのタルタールが、いずれも10ユーロ以下で食せます。しかも海岸べりで潮風と太陽を浴びながら。)

サンタ・マリアの周辺には素敵なダイビング・サイトが点在しており、カーボ・ヴェルデ人のガイドに連れられてゴムボートで沖に出て、20世紀初頭に沈没した蒸気船の残骸を見に8〜18メートルほど潜ってみることもできる。蒸気船のボイラーだけがまだ海底に突っ立っており、その周りに何万と言う魚の群れが縦横に泳いでいる。夢のような光景である。


かなり沖まで出なくてはいけないが、トロール船を共同チャーターすれば釣にも行ける。波が荒く、船がほとんど180度に前後にかしぐ航海を4時間続けなければならないので、海釣りのベテランでも船酔いでぶっ倒れてしまう人も出た。

でも、下のビデオの同乗のノルウェー人のおじさんのように、巨大なワフーを見事釣りあげる人もいる。(このノルウェー人のおじさんとはこの航海でお友達になりメールの交換が続いている。)日によっては、巨大なドラード(体長60センチもある)の群れに遭遇して一気に5−6匹も連れることがあると言う。ワフーは単独で泳いでいるが、ドラードは必ず群れで泳ぐのだそう。


トロール船に乗って荒波にもまれているときに、周囲に、枯葉のように激しく波にもまれる小さなボートにすっくと立ったまま魚を釣っている漁師さんたちがいっぱいいた。どっしりしたトロール船でもまっすぐ立っているのさえ難しいほど揺れるのに、あんな井の頭公園に浮かんでいるのと同じようなボートでは海に落ちて潮流に流されて命を落とす人も多いだろう。無事生還した人たちは、上述の海岸の桟橋にマグロやワフーを引き上げて日々の糧を得ることができる。

サンタ・マリアはサル島の南端に位置する町だが、北の方の、荒々しい絶景の見られるムルデイラ海岸や、ブルーアイと呼ばれる洞穴、レモンシャークが泳ぐビーチ、塩田跡、蜃気楼の見える砂漠などを4x4に乗って1日で回ることもできる。


ブルーアイの近くのブラコーナの岩場や塩田では泳ぐこともできる。


こうして、8人のグループで、ガイド料と4x4代金をシェアして1日かけて島のあちこちを回るツアーは、1日1人25ユーロであった。

ガイドの女の子は、サル島の出身で、自分で4x4を運転してガイドもこなす、きびきびして素敵な女の子だった。サル島の経済や産業、教育の話をする時、何度も「カーボ・ヴェルデの人々はいつもお互いに助け合っているので」と繰り返すのが印象的だった。

サル島は、島全体がほとんど真ったいらな砂の荒れ地でおおわれている。木もなければ、畑もない。そんなだだっ広い平らな砂の島のへりに美しい海岸があって、そこにリゾート用の豪華なコロニーや、サンタマリアのような小さい町が存在するだけだ。

島にはほとんど植物がないので、野菜や果物は外から運んで来なければならず物価は決して安くない。この経済構造が変わらない限り観光に頼って行くしかない。

「来年、サル島に初めての大学ができるんです。そこの観光科でみんなが学べれば、私のようなガイド資格が得られて、昼間から酒を飲んでごろごろしている島民も減ります。」

以上、手放しでのカーボ・ヴェルデ礼賛になってしまいました。

サル島はリゾートとしては比較的新しく、ホテルやレストランの選択肢が少なく値段が高めで、地元系のホテルやレストランで働く島民の洗練度が低い(特にホテルで働くカフェオレ色の肌をした女の子たちが、気難しい観光客の対応に慣れないせいか、どこか疲れた不幸せそうな表情をしていることが多かった)。

サル島が健全な観光地として発展して、島民がみんな幸せになることを祈るのだ。セネガルに旅行されるついでにぜひ足を延ばしてみてください。

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年末年始は何していましたか?
 

ブラジルにて: リオデジャネイロのファヴェラ

亭主のグリと一緒に、ブラジルのリオデジャネイロにきてみた。リオに950もあると言われるファヴェラ(スラム街)のひとつホッシーニャを、そこの出身であるエドゥアルドくんに徒歩で案内してもらう。


日本やヨーロッパの都市では、金持ちは高台(つまり山の手)、貧乏人は低地(下町・ダウンタウン)に住むと言う構造が一般的だと思うが、子供のころどこかで「ブラジルでは、金持ちが海辺に近い低地に住み、貧乏人は高台に住む」と読んだことがあり、それがずっと心に引っかかっていた。
 
リオは、きれいなビーチを望む巨大な岩山がぼこぼこ突き出た、なんだか世界創造の神様の遊び場を思わせる不思議な形状の都市だ。その岩山の中腹に、自然発生的な(まるでミツバチとかシロアリのコロニーのような)ファヴェラの家々が貼り付くようにして広がっている。

ホッシーニャを一望する丘の上からの眺め。
遠くに見えるのが、たぶん、イパネマのビーチと高級ホテル群。

エドゥアルド君の説明では、ホッシーニャには水道がないので、皆が屋根の上に給水タンクをおき(写真に見える青色の丸いもの)、そこから水を補給している。
みなが勝手に電信柱から電気を引く。

オートバイの通行が多いのは、急斜面につくられたファヴェラの住民の足になっている個人タクシー Moto-Tax。
「でも絶対乗らない方がいいよ」とエドゥアルド君。「だれも保険に入っていないし、運転免許を持っている奴もほとんどいないから。」
 
 
エドゥアルド君にくっついて、狭くて急な石段伝いにファヴェラの迷路の中へと向かう。
 
「子供のころ、雨上がりに
ここで遊んでいて感電しかかったんだ。電線があちこち露出しているからね。」

ホッシーニャには住所も住民票もない。リオのファヴェラに住む人口は16万人で、リオの人口の20%と言われているがそれすらも定かではない。

「10平米の部屋に5〜6人が雑居しているなんてのがよくあるよ」

「日照や通気が悪いので、すぐに感染症が流行する。でも数年前に結核が流行しそうになったときは、本当に政府ががんばって根絶やしにしてくれたんだ」
 

「ここからは、下水が露出しているので強烈に臭いよ」

そう言いながら、「劣悪な住環境の写真をどんどん撮って 世界第5位のGDPを誇るブラジルの現実をみんなに見せつけてくれ」と言う。

写真には写らない強烈な臭いのする下水道の上で、元気に遊ぶ子供たち。

そういえば、自分の子供の頃、高度成長期に入りたて、東京オリンピック前後の自分の住む東京下町の住環境は、狭くて、臭くて、暗くてじめじめしていて、こんな感じだった。
それに、近所に半裸体で腹を空かせたガキどもも沢山いたよ。

(そういえば、自分はいつも暗くてじめじめした自分の家・街から出て、乾いて、明るくて、広々とした場所に行きたいと思っていたな。今でも暗くてじめじめした何かから、必死で逃げようとしていたりする。)

写真のこの子供たちも、そんな風に思う日が来るのであろうか。
(とは言え、あの頃の近所の子供は、栄養不良のお蔭でみんな青洟たらして、顔色も悪く汚かったけど、リオのスラムの子供はずっと健康そうである。海が近いせいか。)

「ここからは、麻薬売人の多い通りだから写真はひかえてね」

映画 City of God でもリアリティーを持って描かれている通り、ファヴェラは一般人は近づかない方が良い恐ろしい犯罪の温床とされる。2016年のリオ・オリンピックまでにそれを一掃するという目標で、警察と軍隊がパシフィケーション・プランを特に最も危険地域と指定されるファヴェラから順番に実行しつつあり、銃撃戦になったりしている。でも、そんなに簡単に一掃できるものだろうか。ファヴェラに配属された警察官が時間がたつうちに汚職に染まっていくのはしばしばのことらしい。また、一説にはファヴェラのドラッグディーラーがファヴェラ内部の治安の重要な担い手だと聞く。長い間かけて出来上がったそんな絶妙な生態系のバランスを、外圧で一気に崩そうとするのはいかがなものか。

後でベルギーの新聞で読んだ話だが、過去5年にリオのパラミリタリー・ポリスに殺された人数は1519人に及び、リオでの殺人の被害者の6人に1人はポリスの手によるものだそうだ。多くの場合、怪我をして動けなくなった、または、無抵抗の者も射殺されるケースがあったという。(The Week誌に掲載されたアムネスティ・インターナショナルによる調査報告。)

「ファヴェラに生まれ住んで70年、人生悔いはありません」と言いたげな、ファヴェラの主みたいな風格のおじさん。ファヴェラの住人の危険性について(自分も住人の一人のくせに)、そしてまた、正月やカーニヴァルの混沌について語ってくれる。「カーニヴァルの後に生まれた子供は、誰が父親なのかわからない。このおっさんだって実は僕の父親かもしれない」とエドゥアルド。

ファヴェラを上から下まで1時間半ぐらいかけて横切った後、子供がサッカーをして遊ぶ小さな広場まで来た。
「ここでサッカーをして遊んでいるとき、今の雇い主が僕を見つけてくれたんだ。彼は、僕に英語を習えと薦め、励ましてくれた。」

リオでは、ホテルやビーチ沿いのレストラン以外では、ほとんどポルトガル語しか通じない。そんななかで、エドゥアルド君は2年半で英語を猛特訓して、なまりのほとんどない、きれいな英語を流暢にしゃべれるようになった。

「じつは、ブラジルのサッカー選手の99%はファヴェラ出身なんだよ。」

連なる岩山の上に何か暗く過剰な混沌としたものがあり、ものすごく澄み切って明るい海と空がそれをやさしく平等に受け止めている。そんな特異な都市の形。
 
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「セルビアの皇太子」(2)  タインコット墓地の邂逅

先々週末は、亭主のグリの故郷、アイルランドのコーク・シティーから飲み友達のデクランとステファニーが、当地ベルギーにやってきて、第一次大戦で戦没したアイルランド人の一兵卒のお墓を探すと言うので、運転手として付き合うことになった。戦争映画を観るだけですぐ吐気や頭痛に悩まされるデリケートな自分は戦死者の墓場に行くのは本当に気が進まなかったのだが、「墓地や戦跡に行くときは、これをはきなさい」と言って母親が巣鴨のとげぬき地蔵の仲見世で買ってくれた赤いステテコのようなものをジーンズの下にはいて、しかたなく出かけた。

デクランとステファニーがさがしているのは、コーク・シティー出身のデニス・フィールドと言う名の兵卒の墓だった。デニス・フィールドは、第一次大戦末期の1917年、ベルギーのイープル郊外のパッシェンデールの戦いで27歳で戦死した。デニスの二人の兄弟もまた、同じ第一次大戦中にそれぞれフランスとドイツで戦死している。デクランとステファニーの友人が、この不幸な若者デニス・フィールドの曾孫にあたり、第一次大戦で戦没したコーク・シティー出身の兵士の墓所の膨大な記録の中から、自分の曾祖父の名前とベルギーのタイン・コットと言う墓地の名前を発見したのだった。そして、ベルギーで週末を過ごすというデクランとステファニーに「そのお墓を探して写真を撮ってきてくれ」と頼んだのだ。

タイン・コット墓地は、イープルの郊外にある。イープルは、今でこそ猫祭りとかで日本人にも人気のある可愛い町に再生されているが、イープル突出地(Ypre Salient)と呼ばれる西部戦線がぼこっと東側のドイツ側の陣地に突出したこの地域は、市街地も周辺の野畑も、第一次大戦の度重なる砲撃でぼこぼこにされ木々の焼け残る沼地での陰惨な戦いの舞台となった。ドイツ側の銃弾に倒れた者だけではなく、沼地やトレンチで溺死した兵士、味方に銃殺された兵士もいる。

これは、惑星ソラリスの写真ではなく、1917年のイープル郊外の風景である。


ブリュージュでランチを取り、車を走らせていると、なんとなく1917年をほうふつとさせる不穏な空模様となってきた。


そして、タイン・コット墓地。(Photo: Marc Dirickx)


ここには、英国、アイルランド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド等の出身の11,954人の兵士が眠る。その内の8,367は名前を同定することができない無名の兵士の墓だ。私たちが探しているデニス・フィールドの墓には、幸いなことに彼の名前が刻んであるはずだ。でも、墓石はアルファベット順に並んでいるのでもなく、出身隊別に並んでいるのでもない。この膨大な墓石の中からどうやって彼の墓を見つけ出したらよいのだろう。唯一の手がかりはデクランが友人から手渡された、
   L11 C13
と言う記号を記した手書きのメモだけ。

よく見ると、整然と並んだ墓石群には、列の一番右端の墓石の側面に、1A、1B、1C... 2A、2B... と言う番号が刻んであり、それが列を表す記号であることが分かった。デクランが、デニス・フィールドの曾孫から手渡された手書きのメモの記号が何を表すのは不明だが、L11と記された墓石の列、または、C13と記された列を見つけることができれば、そこに目指すデニス・フィールドの墓が見つかるに違いない。そう思い、私たちは11か13で始まる墓石群を探し、13で始まる墓石群を見つけた。でも、C13と言う列の墓石にフィールドの名前を見つけることはできず、11で始まる墓石群も見つけることができない。

墓地の表門の内側の壁に小さな扉があって、それを開くと20冊ぐらいの埋葬者名簿が出てきた。幸いアルファベット順になっていたので、デニス・フィールドの名前と、彼が所属していたという英国陸軍のInfantry Regiment(歩兵連隊)Royal Munster Fusillierと言う手がかりをさがしたが、影も形もない。ステファニーがため息をついて「彼が見たという記録が間違っていたのかも…」と言い出した。「それなら、タインコット墓地には記録がなかったという記録でもとろうか?」そう言って、デクランが、名簿のFで始まる兵士の名前のリストの、フィールドの名前のないページを写真に撮り始めた。

すると、デクランのカメラが突然故障してしまった。

墓地の入口近くにあったビジター・センターに、コンピューター・ベースの検索システムがあるのではないかと期待して行ってみたが、兵士の遺品が陳列されているだけで何のデータもない。

デクランとステファニーとグリは、墓地を囲む石の壁面に刻まれた、遺骸の見つからなかった兵士の名前の中にもしやデニス・フィールドと言う文字が見つからないかと、壁面をひとつひとつ丁寧にチェックして居る。私は、もういちど11で始まる墓石を探しに墓地の反対側の遠い門までゆっくりと歩いて行った。


(Photo: Marc Dirickx)

9と刻んだ墓石群を見つけた。そして10と刻んだ墓石群… それから少し離れて11と刻んだ墓石群が、裏門のすぐそばに見つかった。でも、L11と言う列を見つけることができない。がっかりして、3人のところに戻る。ステファニーが、
「ここにも、名前がなかったわ。あんたの方は、なにかみつかったの?」
「向こう側の門に11で始まるお墓があるんだけど、L11という列がどうしてもみつからないのよ」と私。
「カメラも壊れてしまったし、これ以上続ける元気はないよ」と、デクランが珍しく泣き声を出す。
「ちょっとまって、まりあが向こうの門の隣に11で始まるお墓を見つけたらしいから、行ってみましょうよ」と元気づけるようにステファニーが言うので、皆重い足取りで歩きだす。

門にたどり着いた時、白い墓石の列の間に真っ赤なジャケットが見えた。男の人が、白い墓石の前に大きなカメラを近づけて接写しているのだった。男の人のジャケットは、戦いの終わったフランダースの野に一斉に咲いたポピーと同じ血の色、そして、私がひそかにはいている憑依除けの赤いステテコと同じ色である。

何を思ったのかステファニーが、その男の人に声をかけた。
「L11という墓石の列を探しているんだけど」
すると男の人は、
「Lで始まる墓石は、いちども見たことはないよ」
即座にそう答えると、ステファニーを墓地の裏門に導いた。裏門の内壁には、先程表門の中にあったのとそっくりな小さな扉があった。男の人が扉を開くと、中に入っている沢山のブックレットを一つ一つ取り出した。そこには、なんと、表門にあったのとは全く別の埋葬者リストがあったのだ。
  

そこにはたしてあった。D. Fieldと言う文字が。そして、LII.C.13と言う番号が…


その赤いジャケットを着たおじさんは、
「LIIは、L11ではなくて、L2を意味するのかもしれない。2の墓石群も見てみよう」
と言ってはるか向こうを指さし、先に立って早足で歩いて行った。
デクランが追いついて、
「どうして、あなたはそんなにご親切にしてくれるのですか」と尋ねた。すると、おじさんは、
「私たちベルギー人が侵略され町を破壊されたとき、あなたたちイギリス人やアイルランド人が来て助けてくれたのではないですか。私があなたを助けるのは当然です」
そう答えたという。(それは、感動したデクランが後で私たちに語ったことだ。)

でも、2の墓石群にもLの文字はなかった。がっかりしかけた私たちにおじさんが言った。
「もういちど、裏門に戻ろう。ずっと以前に、門にある資料に墓地の見取り図があったことを思い出したんだ」
そして、私たちが見つけたのは次の見取り図だった。

そこにあったのだ。L IIと言う文字が。そこで初めて気づいたのだが、それはL2でもなければ、L11でもない、「52」を表すローマ数字だったのだ!

おじさんは、もういちど私たちを墓石の列に連れて行って、
「フィールドさんの御墓はこの区画のどこかにあるはずなんだ。手分けして順番にみていこう」
かなり絞れてきているとはいえ、おじさんの指差した方向には、やはり見渡す限りの墓石が並ぶ。その場にへたり込みそうになったデクランとグリを無視して、おじさんとステファニーと私は墓石の海を3列おきにジグザグにすすみながら、墓石に刻まれた名前を一つ一つ見ていった。

もしも自分の見ている列にデニス・フィールドの墓石があり、自分がそれを見落としたら、これからさきデニス・フィールドの墓を訪れる人はいなくなってしまうかもしれない。そうしたら、彼が本当に浮かばれない。なんとしても彼のお墓を見つけたかった。ひとつひとつ、ていねいに名前を見ていく。「無名戦士」と刻まれた墓も多い。

墓を一つ一つ見ながら進むうちに、風が嵐のように強くなってきて、墓地を守るようにそびえている二本の巨大な樹がまるで生き物のように大きく揺れている。自分には、なんだか異常な感じのする風の音が自分の周りで起こっていることなのか、それとも自分の心の中で起こっていることなのかの区別がつかなくなっている。自分が確かに何かに近づいているような気がする。その時、自分の目を疑った。自分の目の下にある墓石に、あれほど探した名前、D. Fieldという名が刻んであったのだ。
「キャー!!!」
私の叫び声に、ステファニーが、デクランが、グリが、おじさんが駆け寄ってきた。それは紛れもなくデニス・フィールドの墓石だった。

私たちは、多分それぞれが深い感動を感じていたのだと思う。そのおじさん、マルク・ディルクスさんに深くお礼を言って、お互いの写真を交換するためにメールアドレスも交換して、言葉少なにその場を離れた。でも、ブリュッセルに戻って、グランプラスでビールを飲んでいる内にじわじわ感激と興奮が戻ってきて、みんなでひとしきり、くりかえし今日の体験を語り合い、あのときマルクさんに会っていなかったら・・・と言う話をした。

「97年7か月も待って、初めて人が自分の墓を見つけてくれて、しかもそれがアイルランド人とベルギー人と日本人の混成チームでデニス・フィールドもうれしかったろうな」
そう、しみじみとグリが言った。

デニス・フィールドが英国軍の兵士としてベルギーにやってきたとき、アイルランドは英国からの独立をめぐってのイースター蜂起の真っ最中で、彼が戦死した2年後にアイルランドは独立戦争を開始し、数年後には独立を勝ち取る。1917年当時に英国軍に参加したアイルランド人は、多くは貧しい農民の若者でお金のために志願した者達であった。だから、戦死した後も、アイルランド共和国にとっては「裏切り者」であり、長い間顧みられることがなかった。

その後、Royal Munster Fusilierという彼の所属した連隊についてWikipediaで調べると、はたして、彼が戦死した1917年11月10日に何が起こったのかが明らかになった。Royal Munster Fusilierは、アイルランドの南部地方Munsterの出身者で形成される歩兵隊で、彼の所属するのは20人の武官と630名の兵隊からなる第二部隊だった。この部隊は、11月6日に前述のイープル突出地のアイリッシュ・ファームと呼ばれる場所に到着する。すでに4か月前から続いていた会戦で、地面は砲弾の穴だらけでそこに水が溜まり、沼地と化していた。英国軍は、最後の試みとして11月10日午前6時に攻撃を再開する。彼の所属する部隊は、重い装備を抱えたまま、腰まで泥と水につかりながら前進し45分の間にすべての目標地点を通過してしまった。背後から砲撃隊がドイツ軍に向かって砲撃を続けていたが、彼の部隊が予想外に早く進行してしまったために、部隊の多くが味方の砲撃の犠牲になった。この日の会戦で部隊は、武官・兵卒共に3分の1に減ってしまった。デニス・フィールドは、死傷した3分の2の一人だったのだろう。

マルク・ディルクスさんは、このページに一部が掲載されている美しい写真をたくさん送ってくださり、私たちも感激と感謝の言葉と共に、アイホンで撮った写真を送った。

これは、マルクさんからのお返事。
「写真を送ってくれてありがとう。先週の日曜日は、私にとっても一生忘れられない日となったよ。何年もの間、わたしはこの土地に永遠に眠る人々の墓石の写真を撮ってきた。でも、あのとき、一つの墓石の陰にある物語を聞き、それが3人兄弟の一人で、3人とも再び故郷に戻ることはなかったということを聞いたら、戦争の残酷さを理解するのに写真は必要なくなるな。この特別な経験をありがとう。あの日、あの場所に来てくれてありがとう。(thank you very much for sending me these pictures. Last sunday will be a day I'll never forget. During the years I created a "band" with the men who are eternally resting in our soil. When the story behind one of these men became visible and when I heard they were three and they never went home again, I didn't need any pictures to understand the cruelty of war. Thank you for sharing this special with me and thanks to all of you for being there. )」
 
写真は、マルクさんが送ってくれた、どこか清らかな、恥じらいを含んだような、デニス・フィールドの墓石。
(Photo: Marc Dirickx)


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「セルビアの皇太子」(1)  トレンチ

みなさんは、中学校の歴史の授業で、第一次大戦のきっかけとなったサラエボ事件を何と習いましたか? わたしは、「セルビアの皇太子」がオーストリア大公夫妻を射殺した事件、と習ったんです。

おかげで、自分は○十年の間、第一次大戦と聞くたびに、ひよわで青白い薄幸の王子(頭にはなぜか大きな羽飾りのついた王冠をかぶっていた)が、毛皮のむくむくしたコートを着込んだ太った大公の胸に、ピストルを突き付けてパンと撃った図を思い浮かべてきたのです。

それが最近、亭主のグリと第一次大戦の話をしているときに、わたしが「セルビアの皇太子」に言及すると、息も絶え絶えになるほど笑った挙句、オーストリア大公夫妻を狙撃したのは、頭に羽根飾りを付けた憂愁のプリンスならぬ、プリンセップという名のセルビア系ボスニア人の若い結核持ちのテロリストであることを教えてくれました。

たぶん多くのみなさんも「ぶっ。セルビアの皇太子?」と思われたことでしょう。でも、わたしの日本語の歴史の教科書には、ほんとうにそう書いてあったんですってば。まんがいち、わたしとおなじように、オーストラリア大公夫妻を狙撃したのが「セルビアの皇太子」であったと記憶されている方がいましたら、ぜひお便りください。

ともかく、それ以来、「セルビアの皇太子」は亭主のグリが、私の、ひいては日本人の戦後世代の歴史音痴を揶揄する時の決まり文句になりました。この私だけではなく、日本人の戦後世代もやり玉に挙がってしまったのは、私の元同僚のWちゃん(当時35歳ぐらい)がその昔、「えっ? 原爆って、日本に何発落ちたんですかっ?」と口走ったことを、さすがにショックを受けた自分がグリに話した時以来のことである。

****

いずれにしても、なぜ、青年の銃弾が欧州各国や日米を含む16か国に飛び火する大戦争へとつながったのかは、自分にとっては大きな謎だった。

かろうじて理解できたのは、当時、欧州の大国の帝国主義がほぼ飽和状態で、各帝国の勢力争いが一触即発の状態であったこと、そして、各帝国は複雑な同盟網にがんじがらめにされていたということだった。

まず、青年の銃弾にオーストリア大公が倒れたことをきっかけとして、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに攻め込むと、セルビアをバックアップしていたロシア帝国が牽制、これに対しオーストリアと同盟を結ぶドイツ帝国がロシアと、ロシアと同盟関係にあるフランス帝国に宣戦布告。ドイツは、フランスを攻撃するために中立国ベルギーを通過しようとし、1914年8月2日、ベルギー国王アルベール一世に対し軍の通行権を要求し、国王は中立権に基づきこれを拒否。これに対し、8月4日、ドイツ軍が東の国境からベルギーに侵攻すると、大英帝国が参戦。

これは、同年6月28日のサラエボ事件からわずか1か月強のことで、これにより、戦死者8,530,000人、民間戦没者7,750,000人を巻き込む5年間の大戦争が始まってしまった。

特に、西部戦線が通過するここベルギーからフランスにかけては、激戦場になり、町や村や野畑や森も砲撃やトレンチ(塹壕)堀りでぼこぼこにされた。ジョルジュ・ブラサンスの唄に、「Mais, mon colon, celle que je préfère, c'est la guerre de 14-18! (でも、大佐、あたしはやっぱり14-18年の戦争のほうが好きでさあ! 」というセリフがあったと思うが、この戦争の思い出はこの地に生きる少し年取った人々のDNAにも深く食い込んでいるのか、繰り返し語られ、想起され、再現される場面にしばしば遭遇する。

今でも、ベルギー・フランダース地方の工場用地の真ん中に、よく保管された英軍のトレンチ跡を見ることができるし、毎年11月11日のドイツと連合国の休戦協定記念日には、各地で記念行事が行われる。3回の激戦で完全に破壊されたベルギー・イープルのメニン門の英国軍戦没者の記念碑には、毎晩8時に欠かさず慰霊式典が行われ、イギリス人をはじめ多くの人々が集まり、真っ赤なポピーの花輪を供える。

第一次大戦の西部戦線でとりわけ悲惨なのは、2016年7-11月、開戦から数時間で2万人の戦死者を出したと言われるフランス北部のソンムの会戦かもしれない。英仏連合軍は、100年前とそれほど変わらない戦法で、間隔1ヤードの横隊で徒歩でドイツ軍に向かって前進する。100年の間に機関銃・速射砲が発明され、大変整備された強固なトレンチから攻撃してくるドイツ軍に向かって、イギリス軍は銃剣を携えたまま前進していく。まあ、この戦法がどれほどあほらしいか、このBBCドラマ「ザ・トレンチ」の映像の後半3分の1を見てください。



一方、こちらはドイツ軍側のトレンチ。レマルク原作「西部戦線異状なし」から。



ソンムの会戦は4か月後に、連合軍・ドイツ軍それぞれ60万人ずつの死傷者を出し終結したが、戦線自体はほとんど動かなかった。大いなる浪費。

この映画のドイツ兵士の一人が呟いたように、自分の命を犠牲にしてまで守るべき祖国などない。皇帝も将軍も政治家も同盟を結ぶのは勝手だが、その同盟に従って、「自分たちが、リングの中で棒を持って、服を脱いで戦えばいい」。

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光の帝国へようこそ

今年は夏が盛り上がりかけてしぼんでしまい、冬に向かうばかりの感じがする。去年のものすごく暑い夏が懐かしい。特に、ちょうどそんな去年の夏のピークにDragon Treeさんとお会いした日のことを懐かしく思い出してしまう。

Dragon Treeさんは、このサイトにも私が勝手にリンクを貼らせていただいたブログ「スピリチャルでアートな日々、時々読書 NY編」の著者だが、そんな彼から突然、「ニューヨークからブラッセルに来ます」と言うお便りをいただいた。

ブログの怜悧で鋭い文体からもっと怖い感じの方を想像していたのだが、初めてお会いするDragon Treeさんは、怜悧と鋭さを見せないようにじょうずに真綿でくるんでいらしたのだと思う(笑)。

猫のタオちゃんの飼い主、あけみさんを迎えに行って、3人で森のはずれのテラスで食事する。ものすごく蒸し暑い夜だが、森のはずれは少しすずしい。Dragon Treeさんの愛犬バロン君の話(バロン・ダンスのバロンだと言うのを、私が思い違いして、バルド・トドゥルのバルド君だとしばらく勘違いしていた。相当飲んでいたのだと思う。)、Dragon Treeさんは憑依体質で内臓捻転でなくなったおじ様のお葬式で七転八倒してしまった話、食事の終わったころあけみさんが「フィガロの結婚」のお小姓ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」を歌ってくれ、テラスにいた他の客たちの喝さいを浴びたなど、なんだか不思議な楽しい夜でした。

Dragon Treeさんがその晩一番感激したのは、レストランを出た後、夜の真っ黒な木立の上に広がるまだ真昼のような空。



ちょうど、このマグリットの光の帝国(L'empire des lumières)とそっくりな。(マグリットは、シュルレアリストではなく、レアリストなのであった。ベルギー自体がシュールなのだ。)

光の帝国とは不思議なタイトルだ。フランス語の原題では、光が複数形になっているので、空の光と家の灯りとが、帝国(勢力範囲)を競っていると言う意味かなあ、と勝手に考えている。(ロラン・バルトの「表象の帝国(Empire des Sens)」は「意味の勢力範囲」(つまり意味の勢力が及ばない果て)と言う意味だとどこかで聞いたことがあるので。)

Dragontreeさんのことは、その後すぐ後に「朋有遠方より来る」と言う題名でブログ原稿を書いたのが、色々書き加えている内についに1年も経ってしまいました。Dragon Treeさん、おげんきですか?ベルギー旅行が最後に、原稿が更新されていないのです。お忙しいのでしょうか・・・。

11月頃になって日照時間がぐんと短くなって、光の帝国が衰退の時代を迎えた頃、Dragontreeさんに教えていただいた光の瞑想について御紹介します。

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海と砂漠の間

冬になると太陽を浴びたい。海に潜りたい。砂漠にも行きたい。ということで、紅海とアラビア砂漠の接点、ダイバーの集まる村のテントの中で、年末と年始をすごすことにした。

テントを出るとすぐ波打ち際である。そのままウエットスーツを着て、アクアラングをしょってじゃぶじゃぶ水にはいっていくと、30メートルぐらい先からもうサンゴ礁が始まっている。

反対側はもう広大な砂漠である。テントと土壁のシャレの集落をぬけ、そのままてくてく歩いて毎晩砂漠に落ちる太陽を見に行った。

このダイバー村は、エジプトの元高官が作った村だそうだ。ダイビングと海を愛する彼は、海と砂漠が好きなオランダ人女性と知り合い、夢を語り合ううちに、自然に優しいダイビング村の構想を得た。

10年近く前に、木の枝で組み立てられたベッドのある白いカンバス地の最初のテントが海岸べりに建てられた。いまでは波打ち際にテントが30戸ぐらい建ち、その後ろに砂漠と同じ色をした土壁のシャレが建てられて行った。

そのオランダ人女性は、今でもテントの集落のはずれの波打ち際のベドウィン風のテントに住み、ケバブと飲み物を出す素敵なバーを経営している。

テントもシャレも全て自然の素材で作られているので、洪水で流されても、人類が死滅し訪れる者もなく朽ち果てたとしても、決して自然を損なうことはないのだ。

小さな村だが、おそらく100人に満たないダイバーたちが心地よく過ごせるよう、なんと250人のスタッフが働いている。コックさん、お掃除人、ダイビングの指導員、等々だ。従業員がアラーにお祈りをささげられるように村の中には小さな祈祷所がある。

ダイバーたちはとっても静かな人が多い。一人で来ている人もいる。ダイビングはどれほど熟練していても一歩間違うと死につながる。浮かれた気分でいると怖い目にあうのだ。亭主のグリと私も例のごとく大変怖い目にあった。その話はまた次回に(笑)。でも、一度でも小さなボートに相乗りし、まわりに何もない沖の波間に出て一緒に潜った後では、ぽつりぽつりと言葉を交わすようになる。

12月29日の午後から急に天気が悪くなり、夕暮れと同時にスコールが始まった。嵐の神セト神の怒りのような雷雨となり、真っ暗な天空のあちこちに光の亀裂が入り、シュルシュルシュル、バリバリバリドカンという大音響とともにそこら中に雷が落ちている様子。村中が停電となって、わたしたちは雨漏りのするテントの中で震えていた。洪水の恐れがあるので、テントからシャレに移った人もいたようだった。海岸の道具置き場のダイビング用具が洪水で砂漠から来る土砂に埋もれないよう、村のスタッフは100人分のダイビング用具を安全な場所に移動させた。

不安な一夜が明けたが、私たちのテントは無事だった。翌朝は、戻ってきたダイビング用具のトラックからの積み下ろしを手伝い、なくなっている部品がないかみんなで確認した。でも午前中は、まだ水が濁っているのでダイビングは中止だった。

幸い午後からは元の快晴に戻ったが、隣の村は、砂漠から流れてきた土砂に埋もれてしまったらしい。その村の船着場から、ウミガメとジュゴンが生息するサンゴ礁に行こうと思っていたのだが、6ヶ月間は船を出せないそうだ。

ダイビング指導員のアベルが、
「あの村は、土地の取り合いで争ってばかりいるから、神様のばちがあたったのさ」
と真面目な顔で言った。

旧約聖書の世界であった。



ビデオはテントから見る1月2日の日の出(6時20分頃)とグリ。




その後、Youtubeの当方のチャンネルに、オランダのRobさんと言う方が同じキャンプ場で取った見事なビデオをシェアしてくれました。(私の撮ったビデオは真っ暗で何も写っておりませんでしたのに。)



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アイルランドの救世主

歌声には何かパワーがあるらしい。忙しい1日の終わりに疲れ切った時、オペラのアリア、特にすんだソプラノのアリアを聴くと、自分の場合、夜遅くユーカリプタス・オイル入りの熱いお風呂に入ったのとほぼ同じ深いリラックス感が得られます。

亭主のグリは、クラッシック音楽の知識は皆無でバッハとショパンの区別もつかないが、高音のすんだ歌声が好きらしく、自分の好きな曲を集めた自作のカセットテープには、エンヤ、クリフ・リチャードの他に、ペルゴレージのスタバートマーテルやヘンデルのリナルドのアリアなんかがごちゃごちゃに入っている。ハードロックや、シェーンベルグなど不協和音系は受け入れられないようだ。

その中でヘンデルは、彼が唯一きちんと名前と生年月日を覚えている作曲家で、「おれが一番好きなクラウツ(*)」なのだそうだ。

(*) グリの発明したドイツ人を表す蔑称。ザウアー・クラウツを語源とするらしい。

*****

さて1742年4月13日は、ヘンデルのメサイヤの初演の日で、場所はなぜかアイルランドのダブリンであった。

初演の行われたコンサートホール(今ではファサードのみが残る)があったFishamble Streetでは、これを記念して毎年4月13日午後の一時からメサイヤの野外コンサートが行われる。

亭主のグリは毎年このコンサートをとても楽しみにしていて、毎年この日にほとんど日帰りで故郷のアイルランドに帰る。

2007年には、このコンサートに私も連れて行こうとして、ずいぶん前から飛行機やホテルを予約していたグリだったが、当日ブラッセルの空港の消防士のストでフライトがキャンセルになり、旅行もちょんであった。

2008年はグリの出張と重なりちょん。

2009年には、私の仕事が忙しかったためグリ一人でコンサートに出掛けた。午後1時過ぎにオフィスのデスクでサンドイッチをかじっている時、グリから電話がかかってきた。「ちょっときいて!」と言って自分の携帯電話をコーラスの方に向けたらしい。受話器からどっと聞こえる臨場感ある歌声に包まれ、一瞬オフィスにいることを忘れて陶然としてしまいました。脳ミソの温泉効果が得られました。

2010年は、やはりグリ一人で出かけることになったが、「今年は2時間の野外コンサートを全部ビデオに録画するんだ」と言ってしばらく前から大騒ぎだった。もちろん、貧乏人の私たちはビデオ録画機など持っていない。そこで、100EUROで買ったPENTAX社のカメラに、4GBのSanDiskのSDカードを装填し、ビデオモードでの撮影の仕方を教え、バッテリーも満タンにして持たせた。

朝、グリを車で空港まで送って行き自分は職場に向かう。仕事の合間に、「無事飛行機に乗れたかなあ」、「時間通りにコンサート会場に行けたかなあ」、「無事にカメラをビデオモードで回せたかなあ」なとど少々気になるが、便りのないのは元気な証拠と思いそのまま仕事を続けた。

午後5時、もうそろそろコンサートも終わったころかなと思う。いつもあんなに電話やメッセージや写真を送ってくるグリから何も便りがないのが少々気になる。そのまま仕事を続けて気がつくと午後8時。おかしい。何かあったのかなあと心配になる。

それから1時間ぐらい待つ。急に、雨が降ってコンサートが中止になったのかも、カメラの扱いを間違えて録画できずにがっかりしてるかも、録画した後でカメラを盗まれてがっかりしてるかも…!等と言う考えが次々とわいて心配になり、恐る恐る電話をかけてみる。

グリが電話に出る。何かすごく静かな所にいる。エキサイトもしていないし、がっかりもしていないニュートラルな声。でもまだ予断は許さない。こちらの心配を声に出さないように、さりげなく聞いてみる。
「どうだった?楽しかった?」
「うん、楽しかったよ〜」
「ビデオはちゃんと撮れた?」
「うん、ちゃんと撮れたよ。すごい映画になったよ」
ひとまずよかった〜。と心の中で思う。
「今どこにいるの? すごく静かだけど」
「ダブリンからコーク(グリの実家)に行く電車の中だよ。飛行機の中で、ベルギー人の女の人に声をかけられたんだよ。ジムで僕たちを見たことがあったんだって。航空関係の会議でダブリンに行くところだったんだ。」

そこで、グリはその女の人に自分がコンサートに行くところだという説明をしてFishamble Streetという住所を教え、携帯電話の番号も交換して、ダブリンの飛行場で別れた。女の人(ダニエルと言う名前だった)はそのまま自分の会議のあるホテルに行ったのだが、その日の会議がキャンセルになったため、グリに教えられたFishamble Streetに行くことを考えた。

ところがホテルがとてもその場所から離れていたこともあり、ホテルの人々はだれもFishamble Streetもヘンデルの野外コンサートのことも知らない。がっかりしている所に、ポーランド人のホテルのポーターが「私が知っているよ」と言って、丁寧に行き方を教えてくれた。そこでダニエルは苦労してコンサートの場所にたどり着いて、人混みの中でグリの携帯電話にテキストメッセージを送るのだが、コンサートに夢中になっているグリは気がつかない。

コンサートが終わり、ダニエルは、PENTAXのカメラで自分の顔を映してなにやらブツブツ言っているグリの姿を見つけた。2人はThe Lord Edwardという近くのパブに行き、ギネスを飲みながらコンサートの感動を分かち合った。(グリは調子に乗ってギネスを10パイント飲んだらしい。)その後、ダニエルは、「今日のお礼にお食事をご馳走するわ」と言って、同じパブの2階で、グリの大好きなシーフード・ディナーをおごってくれた。

これまでもグリは、ふとした偶然でとても素敵な出会いをし、文通やメールで深い長いお付き合いが続くことが多い。アメリカに行く飛行機の中で知り合ったペギーと言うおばあちゃんとは長い間手紙や写真の交換が続いているし、年末のフロリダ旅行の宿泊先で10分ぐらい話しただけのユダヤ系ニューヨーカーのビルや、向かいのパブで知り合った日本人駐在員の聡さんとも聡さんが帰任した後でも文通が続いている。こんな感じで世界中に何十人もの大親友がいるのだ。

「とても楽しかったよ〜。お天気もジンみたいにクリアーだったし。ヘンデルもすごかったよ。映画もすごいのが取れたし。ダニエルとたくさんお話をして、シーフードもおいしかったし…」
夜の電車のすこしゴトンゴトンという単調な音の混じる静寂の中に、ギネスを10パイント飲んですこしよれよれになってはいるが、幸せそうなグリの声が響く。

自分がこんなに心配するのは、何か自分の中に、グリが悲惨な死に方をしてしまうんじゃないかという恐れがあるからだった。理由は分からない。前世と言うものがあるとすれば、その時の記憶かもしれない。自分がグリを置いて旅行に行く時はそうでもないが、自分が家に残ってグリが旅行に出ると、旅先で変な目に会っていないかとても心配になる。だから、こんなふうに、無事で元気でいて楽しい1日を過ごせたと聞くだけで、ほんとうにしみじみ嬉しいのだった。

電話を切ってから、わたしも「よかった〜。よかったね〜。」と思いながら、安らかな気分で帰宅したのでした。

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下はグリがPENTAXのデジカメで撮影したコンサートのアンコールの部分。ハレルヤの部分で、指揮者やコーラス隊や観客が「ほっ!ほっ!」と両腕を上げる本当に可愛い野外コンサートです。最後に人びとが散って行った後に残ったグリの顔(お見苦しくて恐縮です)と、その姿を見つけてくすくす笑いながら後ろを通り過ぎるダニエルの顔が映ってます。


リエージュにて

来週いっぱいは、ブラッセルの東へ100Kmほど行ったリエージュのクライアント先に缶詰めになるらしきことが分かった。昼間はその客先での仕事、夜は時間が空けば、ホテルで他のクライアントの仕事に追われることになる。

一方、幻想文学の同人誌「逆光線」のための原稿を自分だけが提出しておらず、同人の皆さんに迷惑をかけていた。この同人誌に誘ってくださったのは欧州をまたにかける天才営業マンのタニさんだが、彼が超絶的な出張のスケジュールをこなしながら、さっさと原稿を提出してしまったのもショックだった。原稿を書くとしたら、今週末しかない。 そこで、金曜日の夜から一足先にリエージュに来て、ホテルに閉じこもり、来週の仕事の準備と同人誌の原稿書きに専念することにした。

木曜日の晩、亭主のグリに、
「かくかくしかじかで、あたしゃ、金曜日の夜からリエージュに行って一人でホテルで缶詰めになるから」
と言うと、グリは、
「そうか。がんばってな」
と言っただけだったが、表情は変えないが瞳孔が開いてしまった目を見ると、かなり動揺しているらしきことが分かる。1時間ぐらいたってから、
「でも、何で金曜日に行くんだよお。リエージュでの仕事は月曜日からだろ」
と、ぽつんと言う。
「集中してやりたいことがあるからさあ。ほら、家にいるとさ、色々気が散って集中できないからね」
「そうか」
「・・・あの、一緒に来たいなら来てもいいよ。でも私は付き合えないからね。自分で勝手にリエージュの観光でも何でもしてくるならいいけど」
「リエージュには、何かアトラクションがあるの? カヤックをこいだり、バンジージャンプとかはある?」
「んなもんあるわけないよ、リエージュには。町を散歩して、レストランに入るぐらいじゃない?」
「うーん、そうかあ・・・」
 
アトラクションがないリエージュ行きをグリが断念したものと了解し、金曜日は、会社から1人で直接リエージュに向かおうと思っていた所に、会社のメールボックスにグリからメールが入る。「リエージュのアトラクション・観光ガイド」と書いたサイトのリンクだ。
「一緒に来たいの? それだったら、会社が終わった後、家に迎えに行くけど」
と念のためにメールを打つと、
「ok」
と言う、YesともNoともつかぬメールの返事が来た。

夕方グリを迎えにわざわざ家に戻り、
「ほんとに一緒に行きたいの? リエージュにゃなんもないよ。前、クリス・カーヴァー(グリの友人)が来たとき一緒にリエージュに案内したけど、あんた、『なんでこんなシット・ホール(くそつぼ)みたいな場所に俺たちを連れてきた!』って激怒していたでしょう?」

そう私が念押しすると、グリは車の座席に座ってもまだ行くか行くべきか考え込んでいたが、最後にようやく決意して、2人してリエージュに向けて出発した。

***

リエージュは不思議な街だ。ブラッセルの他は、アントワープ、ハッセルト、ヘント、ヘンク、オステンド…どちらかと言えばフランダース地方の町を訪れる機会が多かった自分にとって、リエージュはまるで異国を思わせる。かつては貧しかったが今ではクリーンでリッチなフランダースの町に比べると、その昔は炭鉱で栄え今は没落してしまったリエージュの町並は、グリに「シット・ホール」と呼ばれたのにふさわしい、シャビイで悲しい雰囲気がある。でも、住民だけがなぜか、意味もなく生き生きとしているのだ。今回リエージュの町を歩いていて、1人で歌を歌いながら歩いて行く人に、4人も遭遇した。
 
当時は鉱山で働くイタリア系の移民が多く、今でもばりばりイタリア系の顔をした「ちょいわる親父」風なおっさんに町中で出会う。炭坑夫の二世か三世なのだろう。イタリア料理店も多い。運転もブラッセルよりさらに乱暴で、はっきり言ってイタリア風だ。イタリア料理店の他にも、ベルギー料理、タイ料理、レバノン料理、モロッコ料理、中華料理・・・とにかくレストランが多い。レストランで食事する人々も、ブラッセルの人々に比較するとかなり太っている。古びた町並を緑の山が取り囲んでいるのは、どこか京都を思わせる。山に囲まれてこもった空気の中に、なんだか料理の匂いがしているようなそんな街だ。

リエージュはその他にも不思議な慣習がある。毎年8月15日に「夏を埋葬する」のだ。埋葬なのだから、その日1日は人々が喪服を着る。15年以上も前のある日、以前ブログに書いたボブさんと一緒に、その友人(イタリア系リエージュ人)の案内でこの日にこの町を訪れた時、街角で、喪服を着た男女が酔っ払ってダンスを踊る不気味な光景に出くわした私は、以来すっかりこの町に参ってしまった。

***

そんなこんなで、久々のリエージュに少しわくわくしながら、グリを連れてリエージュ・ギユマン駅前のHotel Metropolに投宿する。

2009年9月18日(金)の晩は、ちょうど新駅舎の開幕式で、大変なにぎわいだった。このベルギー第五番目の町が、欧州の鉄道網のハブになったのだ。

翌土曜日は、Outre-Meuse地区(「ムーズ川の向こう側」と言う意味)まで川沿いに歩き、古い素敵な裏通りRue Roture(ロチュール小路)をチェックするが、レストランが開くのは夕方からと言うことで、「次回また来ようね」と言うことになる。 Outre-Meuseの広場のカフェに座って、私がアイスティーを1杯飲む間に、Leffe Blonde(ビールの名称)を4杯のんで日向ぼっこをしたグリはすっかり上機嫌で、リエージュとムーズ川と「ムーズ川の向こう側」が大好きになり、「くそつぼ」と言う前言を撤回した。

La Rauture通りムーズ川の向こう側のカフェ
  シャビイなロチュール小路とグリ           ムーズ川の向こう側のご機嫌なカフェテラス


その後、駅とホテルに近い中華料理屋で青島ビールを飲みながら焼きそばを食し、グリをブラッセル行4時6分の列車に乗せるべく、昨日イノギュレーションを祝ったばかりの新しいリエージュ・ギユマン駅に向かう。私たちが駅に到着した時、スペインの建築家のデザインになる巨大なクジラの骸骨を思わせる新駅舎にオーケストラが入り、壮大なクラッシック・コンサートが始まった。グリは大喜びでコンサートに聴き入り、予定していた4時6分発の電車を見送った。私は、グリを早くブラッセル行の列車に乗せて、ホテルに帰って仕事をしたいが、音楽を聴きながらグリは5時6分の電車も見送ってしまった。

しかたなく、
「私はホテルに帰って仕事するから、勝手に6時6分の電車で帰ってちょ」
と言ってホテルに戻ろうとすると、グリがとぼとぼ着いてくる。ホテルの前で、
「じゃあね、気をつけて帰ってね。来週金曜日にまたね」
と言ってすたすたホテルに入る。グリは泣きの涙だ。
「部屋のカギはちゃんと閉めるんだよ」
とかこまごまとした注意をして去って行った。 心が痛むが仕方がない。

***

さて、その夕方に仕上げた仕事をホテルから配信するため、PCをインターネットにつなげようとするがだめ。ホテル・フロントに尋ねると、
「あー、最近のコンピュータはデジタルになったんで、できなくなったんだよ」
と、フロントのおじちゃんが説明する。(ホテルの予約サイトで、インターネット・コネクションがあるホテルをわざわざ選んだのにい。)
「こまったなあ、どうしても今日中にメールを打たなければならないんだけど」
と言うと、おじちゃんは、
「向かいのビストロTaverne de l'Universで、ワイヤレスのネットワークにつなげるよ。コーヒーを注文してから、パスワードを訊いてみな。教えてくれっから」
と言う。さっそくパソコン片手に、向かいのビストロに行き、アイスティーを飲みながらようやくメールを配信する。

ホテルに戻ると、おじちゃんが、
「どうだった? つながったかね」
と聞く。
「うん、お陰さまで。ほんとに有難う」
と言うと、
「パスワードはなんだったかね?」
とそっと聞く。吹き出しそうになったが、教えてあげたら嬉しそうな顔をしていた。 

***

翌日曜日の朝は、早く起きて、緊急でしなければならない仕事を片付け、それをメールで送るべくまた向かいのビストロに行き、ついでに昼食にクロックムッシュを食べる。ブラッセルで食べるのと違いすごくおいしいのは、トーストにバターがたっぷりしみこんでいるからだ。でも、ものすごく健康に悪そうだ。リエージュの人々は、禁欲的な長生きよりも、快楽主義の短命を選ぶのかもしれない。

3時過ぎにホテルの部屋に帰って、ようやく「逆光線」の原稿に取り掛かる。A4で5ページの短編を、夜中までかかってようやく完了しました。 夜の9時ごろから、持ってきたポルトガルワインBons Ventos 2008の3リットル箱からグラスにワインを継ぎ足し飲みながら何も食べずに書いていたので、現在よれよれです。

***

今朝(月曜日の朝)目覚めると、Hotel Metropolの小さくシャビイな部屋は、昨日夜中までかかってこれまたシャビイな、白山の町を舞台にした物語を書いていたせいか、なかなか去りがたい余韻が漂っている。

このホテルの、いかにもリエージュ人と言う感じのおばちゃんとおじちゃんにもなんだかすごく愛着がわいている。とくに、おばちゃんはぶっちゃばけた顔が自分の母親にすごく似ていて、なつかしい。

以前ブログにも書いた、17世紀に魔女として処刑されてしまった少女アンヌ・ド・シャントレエヌが生まれたのも、この町のムーズ川のほとりの貧しい家だ。彼女が育ったのはこの町のどこかの孤児院だ。

もうすこし、この町の奥底に浸ってみたい。 この町を横切る運河を遡り、この町の心臓に達したい。血の匂いに引かれて町の体内に侵入し、血管を遡りながら心臓に達するツェツェ蠅みたいに(笑)。そんなことを夢想する。でも、今日からシビアな仕事なのだ。ツェツェ蠅のDNAなぞ邪魔になるだけである。早々に頭を切り替えるべく、(心の中では泣きながら)チェックアウトをし、おばちゃんに「また来るからね!」と言い残し、クライアントの取ってくれたムーズ川の中州にある高そうなホテルに移る。
 
物語の世界も、リエージュの町並みも、ツェツェ蠅の記憶も振り切って、その高そうなホテル(ほんとに高くて、昨日まで自分が停まっていた安ホテルの4倍もする。というか自分の泊っていたホテルが安すぎたのかも)に移ってからは、昼も夜もルームサービスのサンドイッチを食べながら、朝から晩までびっちり仕事をしたら、すこし退行的でセンチメンタルな気分が消えて、戦闘態勢が戻って来ました。

写真はシャビイな街並みと全然合ってないが、なかなか素晴らしい新駅舎。

新駅舎
 
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ナミュールで魔女の末裔に会う (4)

17世紀のベルギーで魔女として火刑に処せられたアンヌの物語を翻訳する過程で、前述のエージェントのボブさんが、様々な興味深い出会いをアレンジしてくれた。最終的にこの物語は日本では日の目を見なかったが、ボブさんには本当に感謝している。

このプロジェクトのために初めて日本に行ったボブさんは、すっかり日本びいきになってしまったのか、そのすぐ後に日本文部省の奨学金を得て日本に留学し、素敵な日本人女性シエコさんと知り合い、結婚し、しばらく2人でうちのおばあちゃんのぼろ家に下宿していた。その後ボブさんが会社も設立し、ウェブ・デザイナーになったので2人で滝野川の一軒家に引っ越していった。先日ベルギーに立ち寄ったボブさんとちょこっと会うことができたが、日本語がすごく上達していて、わたしのフランス語よりはるかに上手になっていたので、最初から最後まで日本語で話をしていたくらいだった。

さて、ボブさんのアレンジでとりわけ印象的だったのは、物語の舞台、つまりアンヌが過ごしたナミュール周辺の田園地帯を、ブラッセル大学の民俗学のゴッファン教授の案内で歩き回った時だった。作家自身もまたボブさんもこの地方の出身らしく、この地方の風土にはとりわけ思い入れが深いようだった。美しい田園風景だったが、外国人の私の眼には表層しか見えない風景の奥に、作家もボブさんも教授もそれぞれ美しいだけではない何かを感じ取っているようだった。

森を抜け、草地を横切り、ゴッファン教授は精力的に私たちを連れて歩きまわった。牧草地の中の十字路で立ち止まり、教授は言った。

「もう気がついたかと思うけど、こういう十字路には、必ず小さな祠があって中に聖母子像とか小さなキリスト教の偶像が祭られているね。
そして、その横に必ずって言っていいほど大きな木が一本生えている。
このキリスト教の祠は、実は比較的最近作られたものだ。でも、木の方はそれよりはるか昔からここに植えられていた。
村の外にあるこういう十字路は、村と村をつなぐ街道に通じている。だから旅に出る者はかならずここを通ったのさ。その時、旅の無事を祈るために、木の幹に触っていったんだ。
相手の無事を祈る時、フランス語では『木にさわりなさい』と言う表現をするね。これは、キリスト教がこの地を支配するはるか前には、ここに住む人々は木を信仰していたからだ。一種のアニミズムだね。
その後、キリスト教がこの地を支配するようになってからも、人々の心に根強く残っていた原始的な木に対する信仰を、キリスト教の体系の中に取り込むために、木の横にはキリスト教の祠が建てられたというわけさ。」

説明を受けながら草地を歩きまわっているうちに、風景が幾層にも見え始めてくる。

「キリスト教がこの地を支配するようになっても、それは表層的に受け入れられただけで、村人たちの心には昔ながらの原始的な信仰がそのまま生きていた。その抑圧されたエネルギーを解放するために、昔ながらの異教的な乱痴気騒ぎがますます頻繁に行われるようになった。それが、魔女集会と呼ばれるものだ。」

そう言って、教授は、村人たちが魔女集会に使ったと言われる「リュー・マジック(魔法を帯びた場所)」をいくつか案内してくれた。それは、野原の中に突然ぽこっと突き出た石舞台だったり、不思議な岩の間の裂け目(そこに身を横たえて顔を出すと、はるか遠くまで森が見渡せた)だったりした。当時の人々がなにか超自然の力に揺り動かされるのを感じることができた、一種のパワー・スポットということだろう。

ベルギーの人々と話している時、時々、彼らが自分の生まれ育った場所に対して抱いている非常に「濃い」思いを感ずることがある。自分も含めた日本の人々の比ではないようなのだ。これはどうしてなのだろう。紀元前からつい最近まで、絶え間なく異邦人の通り道であり、戦場であり、植民地であったこの国の歴史が、人々の心にこのような土地に対する熱い思いをしみこませたのだろうか。

********

さて、最後にひとつ。前回言い忘れましたが、ナミュールの魔女の末裔、ニックマンさんの予言は今のところは一つも成就していない。いつかは成就するのだと思うが、でもあそこでへらへら笑ったり、ぶりぶり怒ったりしないで、素直に信じていればもっと早く成就したのではないかと、心から思う。


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ナミュールで魔女の末裔に会う (3)

さて話が逸れてしまって戻すのが大変だが、そんな個人的な思い入れもあるナミュールに、気心の知れた女友達3人と今後の人生設計を相談に行くのをとても楽しみにしていた自分だった。

次にトランプ占いおばさんの前に座ったS嬢に対するお告げも、M嬢に負けず劣らず、ゴージャスなものだった。S嬢は日本に帰るとすぐたくさんの多国籍企業から引き合いがあり、そのうちの一つに就職。仕事を通じてすぐに西洋人の男性と知り合い、結婚。その男性はかなり重要な地位にあり、フリーランスで仕事をする人。子供もすぐできる。

隣で聞いていた私は、それがS嬢が以前から「わたし、こうなりたいんだよね」と言っていたことと全く同じなのでびっくりしていた。S嬢は「国際的な仕事に関わりたい」と言っていて、こんな「ビジネス三流国」にくすぶっている自分を嘆いていた。鼻息荒く「男は白人でね、せめて大学院は出てないとね」とか恐ろしいことも言っていた。

部屋を出ても「すごいねえ、よかったねえ」と感動している私に、S嬢はぶりぶり怒りはじめた。「連れてきてもらってこんなこと言うの申し訳ないですけどね、Mちゃんも私のも、カードを切った時に自分たちの願望がカードに乗り移って、それがカードに出てきただけなんだよ。」なにも怒るこたないのに、と相手をなだめて、今度は自分が1人でおばさんの部屋に入る。

自分の場合、とくに占ってもらいたいことはなかった。今思うと、仕事のことでノイローゼ気味だった時期だったのだが、自分が努力さえすれば解決できる問題ばかりで、占いを必要とするような類のものではなかった。それで、亭主のグリの仕事のことを訊こうと思って、写真を持って来ていた。

グリは、子供の頃から飛行機が大好きでいつも空港にもぐりこんで遊んでいた。パイロットになるのが夢だったがアイルランドの航空会社エア・リンガスには就職できなかったらしく、独学で何年もかけて航空関係の資格を取り、それを生かして欧州共通航空プランを策定する機関に就職した。数年後その機関を辞め、退職金をつぎこんでアメリカの航空学校でボーイング747‐400の操縦士の資格を取った。747−400はパイロットの需要がいちばんある機種だった。いよいよ夢に見たパイロットになれるのだ。グリが世界中の航空会社に履歴書とライセンスのコピーを送りはじめたころ、9月11日のテロ事件が起こった。世界中の旅行会社や、航空会社がこの事件の影響を受け倒産したり、リストラを実施した。ベルギーのナショナル・フラッグだったサベナ航空、スイス航空もこの時消えた。大量の失業パイロットが労働市場にあふれた。競争が激化した折に、ほとんど実地の経験のないグリには勝ち目がない。グリの求職レターに対しては、「残念ですが・・」という返事が毎日のように来た。これだけ、おことわりの返事をもらって、よくめげないなあ…とわたしは横で見ていて感嘆していた。でも、グリが徐々に落ち込んでしまうのではないかと心配だったし、早いとこ夢をかなえてほしかった。

さて、前口上が長くなりましたが、そんなことは占いおばさんには話さず、グリの写真を見せ、パイロットになれるでしょうか?とだけ尋ねた。おばさんは、グリの写真をじっと見つめてから、おもむろにカードを繰り出した。私にもシャッフルしろという。心を空っぽにして、シャッフルした。

おばさんがカードを並べ始める。ところが、M嬢とS嬢の時はあれだけすらすらとお告げの言葉を発していたおばさんが、今回はカードをにらんだままうっと黙ってしまったのだ。いらいらしたように、再びカードをシャッフルし並べなおす。それをまたじっと睨むが、どうも何も出てこないようなのだ。やがて、
「・・・難しいわね」
とだけぽつんと言った。
「難しいって、仕事を見つけるのが難しいってこと?」
「そうね。この人には、大胆さとか自己主張がたりないのよ。」
日頃グリを「危険なほど、根拠のない自信に満ちた奴だなあ」と思っていた自分は、いまいち納得できないという顔をしたのかもしれない。おばさんは再び黙りこくってしまった。

そんなわけで、M嬢とS嬢の時は、それぞれ30分ぐらいかけて滔々とお告げをしゃべってくれたのに、わたしのは言葉少なに10分ぐらいで終わってしまった。でも最後に、これまで歯切れが悪かったのに突然はっきりとした口調で、
「いつかは別れるわよ」
と言った。そして、まるで追い打ちをかけるように、
「・・・でも、この人はね、あなたの人生の様々な局面で忘れたころに戻ってくるのよ。何度も、何度もね。」
ひえ〜、最悪。この占い師、なんか私に恨みでもあるのかと思ったほどだったが、返す言葉もない。

別れるということはあるかも知れないと思い(人間いつかは死別するのだし)、あまり気にはならなかった。グリが、どこで誰と一緒にいても、健康で今みたいにひらひら好きな事をしまくってハッピーでいてくれればそれで私は嬉しい。でも、占いおばさんの前半の「パイロット」の話の歯切れの悪さにすっかり意気消沈してしまった。子供の頃から夢見たパイロットになれないとすれば、グリがあまりにもかわいそうではないか。

かくして、へらへら笑い続けるM嬢と、まだぶりぶり怒っているS嬢、めずらしく落ち込んでしまった自分と、冷静なカメラマンのY嬢はブラッセルへの帰途に就いたのだった。

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