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光の瞑想

光の帝国へようこそ」に登場いただいたDragon Treeさんから、うつ病対策にと教えていただいた光の瞑想をご紹介します。以下は、彼のメールでのご説明を(ずいぶん以前に御本人の承諾を得て)掲載するものです。

「もしも、活動が出来ないな。。。と言うときがあったら、いっそのこと、全く活動しなくてそのまま過ごされてはいかがでしょう。ヴィパサナ瞑想を終日やるというのも良いと思い ます。それも面倒なようだったら、先日お伝えした光の瞑想をやられることをお勧めします。

光に全身を包まれた状態でたゆたっても良いですし、そのエネルギーもないときは、種火のように小さな炎を胸に点して、リラックスした状態で、そこに意識を集中してみてください。

出来るだけ鮮明に、炎の揺らめきや色の変化を感じてみてください。

そして、その炎が照らし出す回りの暗闇の空間に目をこらしてみてください。

胸の中の小さな炎の回りに意外と大きな空間が広がっていることに気づくかもしれません。それは、まりあさんの心の世界です。

ダライラマ法王がいつも言っておられるように、人間の心は無限の可能性を持っています。

リラックスした姿勢で、その炎(別に炎でなくても構いません。僕は、チベット語のァ字やオーム字、フーム字を使っています。ヨガではたくさんの花弁がある蓮の花をイメージすることもあります。ポイントは、小さく、鮮明にイメージが出来て、光り輝いているものであればよいのです。)に意識を集中し、その光をどんどん小さなものにしていって見ましょう。

不思議なことに、そのイメージが小さくなればなるほど、逆に、その光が全身に行き渡るような感覚がないでしょうか。

チベット仏教で微細な身体と呼ばれるものはこのようなイメージを使うことで達成されます。

その時、身体の一部のしこりのようなものがその光を通じて溶けていくのを感じることが出来ます。ポイントは、そのような作業を通じて、同時に、心のわだかまりも溶けだしていくと言うことです。ヴィパサナも実は同じ原理だと思います。

何もしたくないときは、たぶん、心が休息を求めているのです。野口晴哉ではないですが、そんなときは、無理して何かしようと思っても何も出来ないし、いらいらして逆効果です。いっそ思い切って、一日を全く何もせずにスピリチャルなことだけに使ってみる。 そうしたら、きっと、鬱なんてあっさり吹き飛んでしまいます。」

Dragon Treeさん、有難うございました。



JUGEMテーマ:スピリチュアル

コンフォート・ゾーンを抜け出す(2)

もともとうつ病気味で、比較的元気のいい時でも家でごろごろしているのが大好き、体を動かすのは大嫌い、自然なんか大嫌いであった自分が、海で泳いだりスキューバ・ダイビングをしたりするようになったのは、亭主のぐりにひたすら強制されたからにすぎない。

ぐりには、自分が良いと思うものは、人にとってもぜったい良いという強烈な信念がある。自分が超健康なので、体の弱い人の気持ちがわからない。自分がいつもそう状態なので、うつ病のつらさが理解できない。

たとえば、低血圧のため毎朝ぎりぎりまで寝ていたい私の枕を蹴っ飛ばして、水泳やジムに連れ出したのもぐりだ。私の場合、逆らって怒鳴られるのがめんどくさいために、いやいやながらつき合っていた。

ぐりの両親と一緒にパリに観光に行った時も、高所恐怖症のお義母さんを無理やりエッフェル塔に上らせようとして、お母さんを号泣きさせてしまったことがあった。(その時は、大変な騒ぎだった。)

ぐりの両親がブラッセルに来た時、彼ら(2人とも70代)を、ぐりの大好きなプール付きの遊園地(「東京サマーランド」のような所)に連れて行った。
私は、
「そんな所に連れていくより、美術館とか市内観光の方がいいんじゃないの」
と言ったのだが、ぐりは、
「美術館?そんなのタイクツだよ」
と言ってきかなかった。サマーランドに着いたぐりは、お義父さんをだまして50メートルのスライダーに乗せてほとんど心臓麻痺を起こさせかかったり、嫌がるお義母さんを無理やりサウナに押し込んでまた号泣きさせてしまった。お義母さんはとてもショックだったのだろう、
「ぐりが、私をものすごく暑い部屋に閉じ込めようとしたのよ」
と言いながら、半日ぐらい泣いていた。ぐりは、
「ものすごく暑い部屋!? ぎゃはは!」
と言って大笑いし、同情のかけらもない。

私の場合、車の運転も、バンジージャンプも、カヤックこぎも、スキューバ・ダイビングもすべて、ぐりに押し切られて始めたにすぎない。バンジージャンプは絶対に嫌だったが、言い争いになるのが面倒くさいのでしぶしぶ従った。敵艦につっこんで戦死した海軍軍人の祖父に似たのか妙にあきらめの良いところがある自分は、クレーンの上から400メートル下の海面を見下ろしたときは、飛び降りる覚悟ができていて、とてもシンとした気分だった。

でも、やってみると、それ自体の楽しさよりも自分の「コンフォート・ゾーン」を超越したという満足感があり、なんとなく自分に自信がつき元気が出てくることがわかった。毎朝の水泳やジムも、初めは無理やりだったが、続けるうちにだんだん気持ちが良くなって、自分が変わっていくのがうれしかった。だから、今ではぐりに感謝している。

正直言って、バンジージャンプはもう二度とやりたくないし、スキューバ・ダイビングも毎回潜る直前まで恐怖と不安に震えている。でも、それを乗り越えた時が深い満足感がある。仕事で自信を失ったり、疲れたり、くじけそうになった時、自分が高いクレーンの上から海に向かってジャンプをした瞬間に見えたみるみる近づいていく水面や、ぐるっと体が反転し今度はすごい勢いで空の方に向かって行った時のことを思い出したり、その時のビデオを繰り返し見る内に、不思議と元気が出てくるのだった(笑)。

バンジージャンプと仕事とは何の関係もないはずなのだが、NLP(Neuro Linguistic Programming)では、心の体験を生理的な感覚にリンクさせたり(アンカリングと言ったと思う)、バンジージャンプのような強度な体験で感じたことを、日常の体験に置き換えて利用するテクニックを紹介している。自分がビデオを見て元気が出るのは、まさにこのためではないかと思った次第です。

ぐりみたいなスパルタ系の同居人がいれば都合がいいが、それがいない場合も、自分が全然好きではないこと、興味のなかったことをちょっとやってみるのは、自分の器を広げる役に立つのではないかと思う。

バンジージャンプまでする必要はないが、特にうつ状態の時は、1日に2つだけ、自分が「ちょっといやだな」と思っていることをすると元気が出るみたいだ。うんといやなことはする必要もないし、1日に3つ以上する必要はない。すると、「今日は、ちょっといやなことができた。2つも!」という自信が付いていくように思う。

ビデオは昨年夏の、オランダ・スキーヴニンゲンの北海岸でのバンジージャンプです。ぐりは、「今年も絶対行こうぜ〜!」とはりきっているが、その後、バンジージャンプは自分が加入している生命保険の対象外だということが分かった私は、あまり気乗りがしない。





JUGEMテーマ:夢・目標

うつ病でも寝たきり老人でもできるヨガ

5月の初めにコメントをくださったひろろさんの言葉で思い出したのだが、以前紹介した綿本彰のDVDで始めるパワーヨーガ―ヨーガ教室に通う感覚で学べる (双葉社スーパームック) は、初心者にはかなりハードなヨーガで、すでに元気のある人がもっと元気になるためのヨーガと言う気がする。

うつ病で、起き上がるのもトイレに行くのもしんどいような時に、英雄のポーズとか犬のポーズとかコブラのポーズとか(笑)、あんなアクロバットみたいなポーズをどうやってやれと言うのか。

一時は毎朝5セットずつ続けていたパワー・ヨーガの太陽礼拝を、仕事で少し忙しくなると同時になし崩しにさぼりだし、仕事がひと段落して気がいたら、どうしょうもなく気力・体調とも低下していて、.札奪箸垢蕕任る元気がない。

そんな時、「これぞうつ病でも寝たきり老人でもできそう!」というヨーガのポーズを豊富に集めた本を母親がプレゼントしてくれた。広池秋子の「完全図解 元気が出るらくらく生活ヨーガ」。運動らしい運動をしたことがない母親が「これいいよ!」とすすめるので、これならできそうと思った。

普通のヨーガの本ではあまりないような寝たままで出来るポーズ(ほとんど、ただ寝ているのと変わらないポーズもある)、座ったままで出来るポーズ、立って出来るポーズが70種類紹介されている。体の硬い自分にも無理せずできて、動きが少ないので体力も消耗せず、自力整体のようにやっていて気持ちがいいポーズが多い。

あと、後半に、子宮筋腫・卵巣のう腫・子宮内膜症・更年期障害など、女性に特有な59種の症状別にヨーガのポーズをリストアップしてくれているのも有難いと思った。

これを昨年の9月から半年ほど続けていて、パワー・ヨーガの太陽礼拝を2セット続けてできる元気が最近ようやく出てきました(笑)。

この本のことを早くブログに書かねばと思っていたのだが、その後、幼馴染のひろちゃんの推奨する野口式整体・活元運動のことや、今年の2月ぐらいに同僚が教えてくれた「女性のための自力整体―からだあったかおなかすっきり」のことも紹介しなくっちゃ… と気ばかり焦り今日になってしまいました。

ちなみに、表紙でヨガのポーズをしている広池秋子さんは、この時すでに80歳だそう。

不運な友へのメッセージ

自分の大好きな友人たちの多くが、なかなか筆舌につくしがたいつらい思いをしている。
なんで、こんなにひどい目ばかりにあうのだろう・・・と言いたい人が自分も含めて(笑)多いような気がする。

そういうときには、じたばたしない方がいい。じっとおとなしくして、冬が過ぎ去るのをまつのだ。冬の時代が3年で終わる人もいれば、30年続く人もいる。でもそれはいつかは終わるのだ。

でも私が彼ら(と自分自身)に言えるメッセージはそういうことではない。
そうではなくて、
「こんなにつらいことにばっかり遭うのは、あなたが特別の、選ばれた人だから」
と言うことだ。そう信じている。

*********

認知療法ではないが、自分に降りかかった出来事をどう受け取るかは自分で選択できる。つまり「気の持ちよう」により、「辛いこと」の多くは「辛くないこと」に変換することができる。

でも圧倒的な不運な出来事が、まるで「運命」と言う言葉そのままに自分の人生に降りかかってしまったとき、それをどう受け止めるのか。

こんなことを最近しばしば考える。幸い自分にも自分の周りの人にもそれほどの不運なことは起こったことはないが、例えば1人の精神病者の妄想によって何らかの不条理な理由(例えば、自分とその家族がユダヤ人であるとか)で、突然、人生の全てを剥奪され、足蹴され、卑しめられ、否定されてしまうようなことがあった場合、それをどう受け止め、自分の人生の意味の中に組み込んでいくべきなのか。

例えば、自分の父親の同僚の妹さん(つまり自分には見ず知らずの人)の話だが、その女性とご主人は、ある晩、東京の近郊をドライブしていた。1台の車が追い抜いていったので、勝気なご主人はその車を追い抜き返した。追い抜かれた車にはやくざの一団が乗っていた。その車は、その女性とご主人の車に後ろからわざと突っ込んだ。車が止まったところに、やくざたちが降りてきて、皆で2人の乗っている車を外側から押して崖の上から落としてしまった。2人は一命は取り留めたが、奥さんの方はそれ以来植物人間になってしまい、ご主人の方は鬱病で会社を休んでいる。

こんな圧倒的な不運を、どうやってポジティブに受け止めろと言うのか。

河合隼雄は、アメリカでは、そういう不運により深い心の傷を負った人でも、「ものすごい力」で自分で癒えていくと言っている。(日本人の場合は、たとえば神戸沖大地震のような不運も、個人としてではなく共同体全体で受け止める精神構造になっているので、それほど深刻にはならないそうなのだった。)

*********

不運な友人の一人が、私にフジコ・ヘミングさんの自伝「フジ子・ヘミング―魂のピアニスト 」をくれたことがある。私は、その伝記を読むにつれ、ヘミングさんのあまりの運の悪さに圧倒されてしまった。圧倒・・・とは、「神聖な何かに対する感動」に打たれたと言う意味だ。彼女の半生から、何か人智を超えたもの、イエス・キリストのほとんど不条理ともいえる受難を連想したからかもしれない。神様の意思としか言いようのない何かだ。

ちょっと古いが、かくれた名作映画「エクソシスト3」の中で、人々を助ける霊能力を持つ少女がその能力ゆえに悪魔に取り付かれてしまい、
「なぜ、わたしが!?」
と絶望の叫びを上げる場面がある。人々を助けるために生まれてきたからこそ、逆に悪魔に取り付かれてしまったのだ。その場面に感じたような、崇高な感動だ。

これに対し、山田宗樹の小説「嫌われ松子の一生」の松子は、その不運(これもかなりひどい!)が前世からの「業」のようでもあり、仏教的なものを感じさせる。これも、「すごいな!」と思った小説だ。

*****

一生懸命に、誠実に努力すれば、必ず幸福が約束されているというプロテスタント風な成功哲学主流の世の中では、不運な人は立つ瀬がない。「不運」なのはすべて自分の責任であり、「不運」はまるで精神の怠慢と同義語になってしまうからだ。

でも、「成功」にばかり焦点を当てるのではなく、「不運」の価値を見直すべきではないだろうか? デニス・ウェイトリー「成功の心理学―勝者となるための10の行動指針」は自分の大好きな本だが、不運についてはあまり書かれていない。不運は、成功にいたるために乗り越えられるべき階段であって、不運それ自体の価値については深く吟味されているとは言いがたい。

でも、成功よりは不運の方に、人生の栄養と味わいは沢山詰まっているのではないかしら。「成功の心理学」の相補版「不運の心理学」を書いてみようか。

JUGEMテーマ:スピリチュアル


私の抑鬱症対策 (2) 気づきとラベリングのテクニック

地橋秀雄著「ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践」に感動し、本格的に「サティの瞑想」と「慈悲の瞑想」を開始する前に、まだ本書を読みかじりの段階で半分しか理解していないサティのテクニックを試してみて、抑鬱症発作にびっくりするような効果があったと言う意味のことを以前書いた。(5月13日の記録

3月末に原久子の瞑想呼吸法を始めて以来、なぜか早朝定時に自然に眼が覚めるようになり、いそいそとヨーガとプールに行った後は、ほとんどスキップするように会社に向かうことができるようになった自分だった。ところが、ある朝目覚めてみると、あの長年馴染んだ鉛のような朝の憂鬱が胸の上に重くのしかかり、ベッドから身体も動かせないような状態になっていた。まるで、これまで早朝すっきり起きることができていたのが嘘のように、ずっと毎朝こうしていたかのように馴染み深い感覚だった。

3月末から呼吸法の「実験」を始めた目的は、1日100回もの呼吸法を本当に続けることができるのか、呼吸法によってどのように自分の心と身体が変化するのかを観察することだった。同時に、もし呼吸法を続けられなくなったり、調子の良い状態が崩れることがあれば、その瞬間を観察しその外的・内的なメカニズムをつきとめてやろうということもあった。

だから、朝の憂鬱が戻ってきていたことは大変なショックだったが、学びのチャンスでもあった。だからあまりがっかりせずに、冷静になることができた。この状態を観察し、記述し、後々に役立てようと思った。

まず、読みかじりの前掲書に従い、「身体の重さ」に気づき、そうラベリングする。「手を動かせないと思った」、「そのことにショックを感じている」、「眠りが心地よいと思う」・・・などと観察を続け言葉でラベリングする。一歩進んで観察を深め、「憂鬱を感じている」、「恐怖を感じている」とラベリングしてみる。最後に「昨日のクライアントKさんとのやりとりでプレッシャーを感じている」、そうラベリングしたときに突然予期していなかったことが起こった。身体がひとりでに動き、すっと立ち上がれ、すたすたと洗面所まで行き、まるで何事もなかったかのように朝の支度をすることができたのだ。

そんなことが2度あった。

前掲書は、ある心的反応に対する適切な観察とラベリングは、その心的反応自体を霧散させるという意味のことを言っている。でも、なぜ観察による気づき(サティ)とラベリングが、身体をベッドに釘付けにするほどの心の葛藤を一瞬の内に解消したのかが自分には分からない。「クライアントKさんとのやりとりによるプレッシャー」は、いったん意識に上りラベルを貼られればどうと言うこともない物であるのに、ラベリング以前は名前を与えられないというまさにそのために、過大に膨らんでいたということなのだろうか?「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」と言うことか?(無意識の自縄自縛の力は意識化・言語化されることにより解消されるという、この辺は心理学の領域なのかもしれないが不勉強の私には定かではない。)

さて、もしもサティのテクニックを知らなかったら、朝ベッドの上で起きられないことに気がついて発せられる言葉は「もっとがんばらなければ」という叱咤激励だったり、「自分はやっぱりだめなんだ、呼吸法の調子の良さは一時的なものだったんだ」という自分を責める言葉だったかもしれない。それは、別の心的反応を導き出し、結局どこにも導いてくれない。善悪の判断を加えず事実をありのままに観察することが大切なのだ。「認知するだけで、格闘しないことが最大のポイントです。」(前掲書p.261)

上述の自分の話は他愛もない例だったが、もっと深刻なうつ病に苦しむ人がサティとラベリングのテクニックを利用してパニック・アタックを消失させたというレポートがグリーンヒル瞑想研究所のサイトにある。これは、心によって認知された世界と現実を分離するサティのテクニックにより、深刻な抑鬱症がいかに劇的に解消するかを、逆に言えば人の精神作用がいかに恐ろしい働きをするものであるかを伝えている。

さて、本書を読んでいるとだんだん分かってくるのは、観察の客観性とラベリングの適切性に磨きをかけるために真に必要なのは分析力だということだ。
「分析力と言うものは、(・・・)仏教の智慧を形成する因子として最重要の能力の一つです。普段からものごとを要素に仕分け、構成因子に還元していく訓練をすると、物に対しても、人に対しても、心に対しても、洞察力が養われていくでしょう。(・・・)困った問題が発生した時に、その問題を構成しているあらゆる要素を徹底的に仕分けて紙やカードに書き出してみるのです。(・・・)同じことがだんだん頭の中だけで瞬時にできるようになっていきます。」(前掲書p.204)

何か心の問題が起こったとき、批判や嫌悪を微塵も混ぜることなく、パズルを解くのを楽しむように、純粋に現象として分析してみることが自分にもできるようになればいいと思う。しかし苦しんでいる心の自分から、それを面白いと思って観察する自分を分離するのは容易ではない。概念が生まれる以前の瞬間を、言語・概念によってラベリングするのが難しいように、心の現象を心で分析することの自縄自縛。

自分の心を見る瞑想(心髄観)に着手できるのは、サティの訓練によって「法(現実の事象)と概念の仕分けができるように」(前掲書p.180)なってからだと言う。このふたつが分離されていないと、心の現象とエゴとを自己同一視する錯覚が生ずる。「怒りを例に取ると、法(事象)として生起したのは、『怒りの心』と『怒りの心を私のものだと錯覚した心』のふたつです。しかるに、『私は怒りっぽい』『怒っているのは私だ』のように感じてしまうのが普通です。(・・・)法と概念が混同され、エゴ妄想が生まれる『無明』の瞬間です。このように、心の現象に対する自己同一化は一瞬にして起き、そのままのめりこんでしまいます。(・・・)『・・・している私』・・・といった心の状態を対象化するのは至難の業です。」(前掲書p.188)

今は、身体感覚のサティを地道に続け、観察と分析力を徐々に養うことが、自分が無明の状態から脱していく確かな道だと言う予感がしている。

私のやった抑鬱対策(1) まずはあるがままに認めるということ

抑鬱症のため1年前から休職している友人が連絡をくれた。
「『早起きすればうつ病が治る』と言った類の本は信用できません。前にかかっていた医者からも同じようなことを言われましたけれど。でも、朝起きれないからうつ病なのです。」
まったく同感だ。

今でこそ、抑鬱症予防のために呼吸法やら水泳やらヨガやらを続けることができるが、抑鬱症になっている時には、ご飯を食べるためやトイレに行くために起き上がるのすら大仕事だ。何日もご飯を食べないことなんてざらだし、抑鬱症も佳境にはいると(?)トイレすらベッドの中でしてしまうなんていう事態が生ずる。いくら水泳がセロトニンの分泌を促してうつ病に効くといっても、水泳をするためにプールまで出かけていく元気が出ないからうつ病なのだ。

抑鬱症になると、地球の引力がこれまでの10倍になったかのように体が重い。普通の状態で何気なくできていたこと、植木に水をやる、パソコンのスイッチを入れる、電話に出る・・・というような何でもないことが、まるで金縛りにあったようにできなくなる。

恐水病の犬の恐怖は犬にしかわからない、と萩原朔太郎は言った。抑鬱症患者は、抑鬱症を経験したことのない人に自分の状態を説明することができない。

軽度の抑鬱症は、仕事など外的な制約によって強制的に行動させられることによって、運がよければ治癒していく。戦時には抑鬱症がないというのはこのためだろう。しかし外的な制約が取り払われてしまったとき、自分の力だけで状況を改善するのはむずかしい。ひたすら時間が解決してくれるのを待つと言う手もある。でも時間は無限にあるわけではない。

最後に抑鬱症になりかけたのは、ちょうどこの制約が取り払われていたときだった。昨年病気療養のために半年間休職していて、会社に行かなくても良いときだったのだ。まだベッドの中でパソコンのスイッチを入れる元気は残っていたので、抑鬱症に関するサイトを探し認知療法に行き当たった。また認知療法の懇切丁寧な説明とツールを紹介したすごいサイト
を発見した。これらを参考にしながら次の方法を試してみた。

抑鬱症になるのは無意識の大きな力の渦に巻き込まれ、金縛り状態になっているためだということがうすうすわかってきた。エネルギーがないのではなくて、逆に負のエネルギーが強すぎるのだ。このような時、自分の心の状態を意識化し分析するのはほとんど不可能だ。そこでせめて自分にわかっていることだけを記述しようと思った。(それくらいの理性は残っていたのだ。)

前述のとおり、落ち込んでくると通常できていた何気ないことができなくなってくる。たとえばわたしの場合下記のことが、抑鬱のステージに応じできたり、できなくなったりする。(わたしの場合、Stage 1ができない場合が抑鬱が最も進行している状態で、友人に自分から電話をかけられるのはかなり抑鬱が軽いStage 6。逆に抑鬱状態が進行するほど友人に電話を掛けまくる人もいるので、このクライテリアは各人で異なるようだ。)

<Stage 1>
・トイレに行ける
・食べられる
<Stage 2>
・呼吸法・静気功などを寝たままできる
・エンターティメントの本を読める
<Stage 3>
・パソコンのスイッチを入れられる
・家族からの電話に答えられる
<Stage 4>
・自分から進んでアパートの掃除をできる
・自分から進んで友人にメールが書ける
<Stage 5>
・自分から進んで積極的な自己啓発・能力開発の本・サイトを読む
・自分から進んで家族に電話できる
・友人からの電話に答えられる
(友人や家族に対して、電話よりメールの方が楽だと言うことが今回わかった)
<Stage 6>
・顧客と接触しない仕事(翻訳など)ができる
・自分から進んで友人に電話できる
・自分から進んでジムや水泳に行ける
・・・ETC.

上記を指標にして、自分がそれをできる場合はマル、できない場合はバツのマークをつけ毎日記述することにより、いま自分が抑鬱のどの段階にいるのかを数量化できるのではないかと思った。もちろんこれらの指標は随時変更・追加可能だ。

そして、記述すると同時に、毎日ミクロ前進することを心がける。つまり、抑鬱状態になっているときに、「いきなり明日から毎日水泳に行こう!」とか、「明日から仕事に出よう!」などといくら決心しても無理な話だ。そんなことを自分に強いることでますます自己嫌悪に陥り、抑鬱状態に拍車をかけることになる。だから、とりあえず自分が今どのステージにいるのかを毎日記録していく。そしてひとつでもマルが増えたら自分をほめてあげる。でもバツが増えても決して自分を責めない。

そうやって毎日きのうよりひとつだけマルを増やすようにがんばってみる。例えばStage3の家族からの電話に答えることができた日の翌日は、Stage5の友人からの電話にちょっとだけ頑張って答えようと努力をしてみる。つまりミクロの努力だ。そうするとマルがひとつ増えてうれしくなる。それで毎日頑張ろうと思う。(幼稚園の出欠表みたいだけど・・・!)

わたしの場合、これでかなり元気になったので軽度の抑鬱症と思っている皆さんにこの方法を試してみることを勧めます。でもこれはわたしの場合なので他の人の体験を教えていただければうれしいです。


ヒプノセラピー

自分が望んで選んだ仕事だったが、八方塞がりを経験することもある。今からちょうど1年前のことだ。しかも、のんきな私は自分が八方塞がりの状況にいるとは思いもしなかった。色々つらいことはあれども、仕事がつらいのは当たり前、自分は絶好調だと思っていた。

そういうことに気づくのはまず他人のようだ。

最初にそれを言ったのは、マリオン・セイセン(Marion Ceysen)というフォト・リーディングの先生だった。フォト・リーディングは、リラックスした状態で本のページを高速で繰りながら、写真を焼き付けるようにイメージを網膜に焼き付け、本の内容を脳に大量にインプットしていくテクニックだ。これを知ったのは、ポール・シーリィの「あなたもいままでの10倍速く本が読める」という本によってだった。私は元々本を読むのが比較的速いと思っているのだが、仕事上退屈な文書を膨大に読まなければならず、このテクニックが身につけられればどんなによいかと思ったのだ。(この本と、私が受けたフォト・リーディングの講習については別の機会に書いてみたいと思います。)

4日間の講習の間、フォト・リーディングの実習の他に、なぜ自分がこのテクニックを欲しているのか、これによって何をしたいのかについて、徹底的に考え、皆の前で口に出して言わされた。つまり、目に見える目的の背後にはより大きな目的が控えているはずで、マリオンはそれについて自問自答させることによって、自分が究極にはどうしてそれを欲しているかを各自に気づかせたいと思っていたようだ。

さて、私がフォト・リーディングを学びたいと思ったのは、徹頭徹尾仕事に役立てたいと思ったからで、私の発言もそれに終始した。
マリオン「でもどうして、仕事に役立てたいのかしら」
私「仕事をもっと効率的にやりたいからです」
マリオン「仕事をもっと効率的にできるようになると、どうなるのかしら」
私「色々いいことがあるけれど、自分に自信がつくし、もっと満足感や充実感を得られます」
マリオン「では訊くけど、あなたは仕事をしながら幸せなのかしら」
私「もちろん。マリオン、わたしは人に『あなた、自分の仕事が好き?』と訊かれるといつも『ええ、大好きです!』って答えるんですよ」
マリオンは、美しく魅力的な顔をちょっと曇らせて私をじっと見て「私には、あなたが自分の仕事を好きだとは思えないわね・・・」とだけ言った。

マリオンの講習会と前後して、年末から続いていた四十肩を放置していたために、左肩が腫れ上がって夜も眠れないようになってしまった。20年近く行ったこともなかった病院には行く気がせずに、当地で有名な指圧のカワダ先生のもとに駆け込んだ。(カワダ先生は、後で知ったのだがすばらしい彫刻家でもあった。奥様はユング派の研究者でもあるらしい。)会社に行く前に早起きをして水泳をし、そのままカワダ先生の治療院に行く。「こりゃ、ひどいね」それが私の肩に触ってカワダ先生が最初に言った言葉だった。「あー、こってますか?」「こってるなんてもんじゃないね。何でこんなになるまで放っておいたの?」

カワダ先生の元にはそれから10回ぐらい通っただろうか。まず先生に言われるままに飲酒を完全にストップした。そうすると、確かに疲れやすいのが直ったような気がした。仕事は平日は毎日夜中まで、週末も少しオフィスに行かなければ追いつかない感じだった。それで月に1度か二度は疲れて朝起き上がれないことがある。日本であればこのくらいの仕事ペースはあたりまえのはずなので、疲れて起き上がれないことに非常に罪悪感があった。自分は日本人として出来損ないなのではないかと。やがて、先生に指圧を受けている間、家族にも、友人にも、同僚にも話さなかったことが自然に口をついて出てきた。

私の仕事は一種のコンサルタントだが、営業やカスタマー・サービスのような役割も兼ねている。この会社に勤めて15年ほどたつが、数年前に会社が合併してから会社の経営方針が急激に変わり、端的に言うとお客様に請求する料金がはねあがった。そこで、カスタマー・サービスの私の元に、お客様が怒鳴り込んでくるということが起こる。これまで喜んでくれていたお客様から、文字通り電話口で怒鳴られるのだ。「お前の所との契約は切るぞ」と言われる。私はというと請求額の内訳などを調査し、説明をし、現地人の上司と話し合い値引きの余地がないかを交渉する。すべて苦労して契約を結んだお客様をつなぎとめるための努力なのだか、会社側はまったく喜んでくれない。そんな面倒な客を何でつなぎとめたと言わんばかりだ。怒鳴られるのは平気だが、自分の苦労がお客様にも、会社にも、誰にも喜んでもらえないと言うのはつらい。四面楚歌みたいな気持ちだ。

いまだから整理してこう書くことができるが、当時はそういう状態が数年続き混乱していたのか誰にもそれを話すことができなかった。それが、カワダ先生に指圧をされながらぽつりぽつりと話し始めていた。初めて指圧に通ったのも、こんな話をしたのもよほど切羽詰っていたのかもしれない。前述のフォト・リーディングの教室でも、グループに分かれてのディスカッションの時間にはじめて「オフィスで自分の電話が鳴ると、ぞっとして、体が強張ったようになって受話器を取れないんです」と口に出していた。グループのみんなは、皆それぞれ自分の問題を抱えていたのだと思うのだが、「電話の音を変えてみたら?」とか「受話器を取るたびに自分にご褒美を与えたら取れるようになるかも?」とか、親身になって色々実用的なアドバイスをしてくれたのがすごくうれしかった。

さて、水泳や指圧によって何とか自分をなだめて仕事を続けるのが難しくなったとき、特効薬になったのが自己催眠だった。

とりあえず、電話が鳴ると受話器を取れないと言う状況を何とかすることが必要だった。電話が鳴ると、パブロフの犬のようにお客様から怒鳴られると思い込んでしまうのがその原因なのだろうが、電話が鳴るという現象と、お客様に怒鳴られると言う現象の間には、さしあたって何の関係もないことは頭ではよくわかっている。また、お客様が怒鳴っている相手は私自身ではなく、私のいる会社なのだと言うことも良くわかっていることだった。この頭ではわかっていることを、心にわからせなければならないと思った。

そこで、そのとき読んでいた「クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー」にある懇切丁寧な自己催眠の方法を自分に試してみることにした。

この本には、自己催眠のための暗示の豊富な具体例が挙げられている。これを参考にして、リラックスするための暗示、上述の悪循環を生む誤った関係づけ(電話の音→顧客の怒鳴り声など)を解消し現象をありのままに見るための暗示などを入れたシナリオを書き、夜おそく同僚が皆帰ったオフィスに一人残ってそれを読み上げ、自分用のヒプノセラピーのCDをいくつか作った。それを実際に就寝前にディスクマンで聴き、何回かシナリオに手直しして、録音しなおし完成品を作った。

自作のヒプノセラピーCDの効果はなかなか劇的だった。まず、ベッドに横たわり、この本からそのまま取った催眠導入時の暗示を聴くのがすごく気持ちがいい。焼けた砂に水がしみこむように(不肖私の)沈うつな声が心に染み込んでいく。その後に目的の暗示が続くのだが、毎晩聴いている内に導入時の暗示だけですっと眠りに入るようになってしまった。数日後には何とか電話を怖がることもなくなり、元気が出て一時的に持ち直した。(でもそのすぐ後に、自分が癌である事がわかって長期治療のために会社を休むことになったのだが。)

自分の抱えている問題が何であるのかを良く考えて、効果的な暗示を入れた自己催眠のテープは、絶体絶命のときの応急処置としてとても有効だ。自分の問題を発見すること、効果的な暗示を考えることに難しさがあるのかもしれないが。なぜなら自分の中にリソースとしてないものは、いくら強力な暗示を与えても実現できないからだ。

A.M.クラズナー
クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー−催眠療法
株式会社ヴォイス 1893円+税






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