みじかい二月のうつくしさは
娼婦ツウインガレラの荒れた頬に
ほのぼの浮かぶ
化粧の色
二月は そんな かなしい月
(北川冬彦)
ヴィパッサナ瞑想のめざましい効用のひとつは、思春期のころ憶えたきり忘れてしまっていた詩を、次々と思い出すようになったということだ。
それは、2007年夏に参加した10日間の瞑想合宿の3日目に、宿舎から瞑想ホールの途中の林のベンチで休んでいた時に突然起こった。「国破れて山河あり・・・」中学2年生のときに初めてならって、その後忘れてしまった杜甫の漢詩をとつぜん最初から最後まで思い出したのだ。
だからどうだということはないのだが、瞑想によって確実に、脳みそのこれまで使わなかった部分が活性化されるらしきことだけは分った。
上述の北川冬彦の詩も中学から高校にかけて自分が夢中になって読んでいた詩集の一冊にあったのだと思う。残念ながらその詩集がここにはないので、上述の引用は正確ではないかもしれない。ブログ「どこかの細道」の著者であるお友達の老真さん(このページのリンクから入れます)が梶井基次郎なんかを引用しているので、真似をしました(笑)。
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さてその昔、「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの」の上田敏の訳で知られるフランスの詩人ポール・ヴェルレエヌにもあこがれてヨーロッパに来てしまったような自分ですが、実際にこちらに来てみてこちらの厳しい秋を体験すると、上田敏の訳は偉大なる誤訳ではないかと思うようになった。フランスの秋についてのテキストを素材にしながら、ここに歌われているのはまぎれもない日本の秋なのだ。
それと同じで、自分にとってのヨーロッパの2月は「そんな かなしい月」であったことは一度もなく、いつも自己憐憫や感傷を吹っ飛ばす「そんなにも シビアな月」だったような気がする。(そのせいか、すっかり性格が変わってしまった。)特にこの2月はすごかった。2月3日に気学で言うところの節入りによって年が入れ替わると同時に、良いニュースと悪いニュースがいちどにどっと押し寄せてきた。
良いニュースの一つは、昨年末に同僚たちと一緒に受けた税理士中間試験の結果の合格通知がようやく来たことだった。1月末から毎日郵便受けを覗くのが癖になっていたが、いつまでたっても来ないので生きた心地がしなかった。諦めかけていたある朝、亭主のグリが私のオフィスにメールを送ってきた。フランス語の4つの科目名の横に点数が書いてある。どうも今朝郵便受に通知状らしきものを見つけて、内容をそのままタイプしてくれたらしい。「フランス語のできないグリが、私に早く知らせようと意味もわからずに一生懸命タイプしてくれたんだな〜」と感激した。3人のベルギー人の同僚たちもみな合格していて、みんなで喜びあった。3人が冬の繁忙期に夜中まで仕事をしながら試験準備をしているのを見ていたので、ほんとに嬉しかった!(自分の方は仕事の内容も彼らほど責任が重くはなく、しかも試験準備は昨年の9月頃から計画的に始めていたので気分的にはずいぶん楽だったのだ。)
悪いニュースの方は、ついにわが社にも人員削減の波が訪れたことだった。今の会社に勤めて13年たつが、これほど大規模に組織的に解雇が行われたのは初めてのことだ。まず1月の終わりに、試用期間中のスタッフが大量に解雇されたといううわさが流れ、自分と同じ部署のジュニアスタッフ3人がなぜか突然自主退職していった。2月に入ると解雇の対象となる人員の選別のための役員会や、中間評価のための面接で重苦しい雰囲気が立ちこめていた。ある晩、自分の部の部長から全員にメールで本日付でうちの部で解雇になる7人の名前が発表された。本人たちもおそらくその数時間前に知らされただけだと思う。そしてその日のうちに人事部に呼ばれて、自分のPCや車を会社に返却させられて会社を去るのだ。管理職ではないジュニアスタッフばかりだったので、「うわー、この後はシニアスタッフが解雇されて、そのあとはマネージャーだ〜。勤労年数が少なくて、解雇手当が少ない順に解雇されていくんだ…」と思ってぞーっとした。
そんなときこの状況を見透かしたように、2−3のヘッドハンティング会社と思しき会社から電話がかかってくる。こんなご時世だが、人員削減による人材流出を見込んで人を雇おうという会社もあるんだろう。こんな自分にも声がかかることがあるのだとびっくりしたのであった。仕事の内容に対して少しだけ「これならできるかも」と思ったのは、税理士専門のヘッドハンティング会社(へー、こんなのあるのね、と初めて知った)からのオファーで、欧州間接税に関するニッチなサービスを提供する大手コンサルティング会社(というと分かる人もいますよね)の日本人マネージャーを探しているのだそう。ヘッドハンティング会社のやたらに陽気なイギリス人のおねえさんは「お勧めよー、この会社。決まれば、出張でしょっちゅう日本に帰れるわよ」と請け合ってくれた。でも自分にとってはそんなことはどうでもよい。仕事が欧州税務だというのに心を引かれた。もう若くない自分が、これまでとは全く別の分野で仕事を始めるのはものすごく不利だという気がしたので。勤務地はロンドンかダブリンということだった。もし運良く雇ってもらえたとしても住み慣れたブラッセルを離れて、物価も高く治安も悪そうなロンドンやダブリンに引っ越しをしなければならないかもしれないと思うと気が重い。
「グリ、ロンドンに住む気ある?」
「やだよ、俺。あんな所」
「じゃあ、ダブリンは?」
「もっとやだよ。ダブリンのやつらの運転がひどいのおぼえてるだろ?ブラッセルにいようよ。俺、ブラッセルが好きなんだよう」
自分だって同じだ。でも仕事が見つからねばどうしょうもない。
以前は色々と悩んで辞めようかと思ったこともある会社だが、最近は「うちの同僚たちは、本当にクォリティーが高いよね。クライアントに対しても私が誇りに思えるサービスを提供してるよね」と心底感じるようになっていた。自分の会社と同僚と仕事の内容がとっても好きになっていたのだ。こんな時に、この会社を去らねばならないとしたら本当につらいと思った。ここに勤める以前に働いていた翻訳会社が撤退して職を失ったときも、乳がんが発見された時も、「へえ」とちょっとは驚いたがほとんど悩まなかった自分だった。でも今度ばかりは違う。執着するものが自分にもあったのだ。眠れない日々が続いた。頼みの綱の上司は、なぜかこの非常時に2週間もインドに出張していて連絡さえ取れない。
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緊張がピークに達したある晩、夢を見た。考えても何も解決策が浮かばないとき、自分の頭は突然ぷちっと夢または白昼夢モードに切り替わってしまうのだった。
自分は丘の向こうのフェリー港まで歩いて行かねばならない。陽に照らされたまっすぐな広い坂道を登っていく。坂道は芝に覆われていて、人の歩いたと思われる部分は芝がはげてアスファルト(または土?)の地面が露出している。自分はその露出した部分をたどりながら坂道を登っていく。あるところで、まっすぐな道筋から分かれて左の方にそれるもう少し広く平らな道がある。そちらの方は車も通れそうなぐらい広く、草も生えておらず、平らできれいだ。夢の中で、以前もこちらの方に行きかけたことを思い出す。でも、「フェリー乗り場」と白字で書かれた青い看板は、草に覆われて消えかかって、でこぼこした細いまっすぐな道を指している。一瞬迷うが、細いまっすぐな道を歩き続けることにする。
坂が下り坂に変わると、その道がはるか向こうの輝く海へとまっすぐ下っていくのが見え、その手前に白い石造りのものすごく大きな大聖堂がある。(坂や海に比べると、アンバランスなほど異様に巨大な大聖堂。でもぞっとするほど美しい。)グリや、上司はもっとずっと先を歩いて行ってしまっている。
坂を降り切ったところで、夕闇の中にしっとりとした美しい林が広がっており、小さな光をそれぞれ捧げ持つ人々の群れが途切れることなく右から左へとそぞろ歩いているのに出くわす。この人の群れと一緒にグリ達も行ってしまったのではないかと思うが、大聖堂の方にいる可能性の方が高いと思い、人の流れとは反対に右に向かって歩く。
大聖堂の中は観光スポットのように整備されていて、人ごみの中に上司がいる。グリはいない。大聖堂を出ると、夕暮れの灰色の薄闇の中に、水をたっぷりとたたえたそれは美しい湖水が広がっている。白鳥たちの影が静かに水面を滑っていく。
こんな鮮やかな夢を見たのは、たぶん、抗がん剤治療の最中に高熱出して寝込んでいた時と、手術のあと麻酔が切れて、ハサミを持った男に追いかけられる夢(笑)を見たとき以来だ。それから、5年前に会社の業績が悪くて、もう少し小規模の人員削減があった時にも陽に照らされたまっすぐな坂道を上る夢を見た。その時は自分は何とか解雇を免れたんだった。自分はどうも強いストレスを感じている時に、それを補償するかのようなきれいな夢を見るらしい。
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なんだか良くわからないながらも、この夢が、自分はいま正しい道を歩いていて、これからもあれこれ悩まず、正しいと思う道を歩いていくしかないのだということを教えてくれたような気がする。そんなこんなで、うまくは言えないが、前述の会社に履歴書を送ることは止めることにした。
2008年12月のブログで、幼馴染のひろちゃんが教えてくれた野口晴哉の言葉を紹介したが、この2月の最後の1週間ほどその言葉が身にしみたことはない。
「闇の中で光を求めているのは、知り得ないことを頭で判った人だ。
知り得ないことを本当に納得した人は光を求めない、また頼らない。
その脚のおもむくままに、大股で闊歩している。彼はその裡なる心で歩いているのだ。
後ろを振り返るのは弱いからだ。手探りをするのは信なき者だ。
足元を見ているのは、先の見えぬことを腹で判らぬ人だ。」