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幼稚なイデオロギー

自分が申すのもおこがましいのですが、最近、連日のように当地ヨーロッパや日本、世界各地で起こる殺傷事件の多くが、つまるところ、「幼稚なイデオロギー」に基づいていることが多いなあと思います。

 

言葉を変えると、マンガ的イデオロギー、短絡的イデオロギー。

 

つまり、その中身が、一言で表現できるほど単純で、子供でも理解できる。しかも、打倒すべきターゲットが、非イスラム教徒、障害者、ユダヤ人、○○人、・・・などはっきりしている。

 

個人の内側でくすぶっているごく私的な暴力性は、多かれ少なかれ誰にでもあるものだろう。でも、それがいったん幼稚ではあっても「大義」の器におさまると、突然活路を見出し、個人を超えた爆発的な力を発揮する。

 

***

 

大変古い話で恐縮ですが、連合赤軍の「山岳ベース事件」が子供のころから心に引っかかっていて、どうしてあんなことが・・・と長い間考えていたことがあった。これは、事件の主犯たちの「異常人格」に帰せられる特殊な事件で、それ以外の何物でもないということだろうか?

 

その後、「人格」ということに色々思いを巡らせている内に、固定的な人格となどと言うものは(ある程度本人が社会的に意識して固定させるものを除いては)、存在しないのではないかと思うようになった。つまり、自分もまた、ある特殊な条件がそろえば森恒夫であり永田洋子でありえたのではないかと。

 

ちょうどあの事件の起こった頃、自分のいた中学の理科の授業ではガスバーナーを使った炎色反応の実験をやっていて、バーナーから吹き出す炎に色々な金属片を近づけ、炎が様々な色に変化する様子を観察していた。例えば、銅の金属片は青、ホウ素は緑、ストロンチウムは鮮紅色というように。

 

炎は「モノ」ではない。というと語弊があるかもしれないが、「鮮紅色の炎」という固定したモノがあるのではなく、それは、バーナーから噴出するガスに着火してそれにストロンチウムが当たることにより生ずる「コト」なのだ。空気の流れやガスの強度、金属片の性質・・・と言った様々な「縁」によりそこに一時的に現出し、絶えず変化する「コト」。

 

いわゆる「人格」も、この炎と同じように「モノ」ではなく「コト」なのではないかと考えるようになったのは、でもそれよりずっと後のこと(仏教の本を読みかじるようになってから)だ。

 

**

 

それよりさらに後になってから、当時主犯が心や体の内に抱えていたもやもやどろどろとしていたものを、あのような形を取って爆発させたのは、やはり彼らにイデオロギーと言う名の器があったからだと思うようになった。

 

イスラム急進派のソロ・テロリズムの頻発で特にイデオロギーについて考えることが多くなったのですが、ちょうど夏休みを利用して読んでいた本に、イデオロギーに関するしっくりしたコメントを見つけたので引用してみます。

 

「(イデオロギーにおいて)『これが正しい』ということは、『これ以外は誤り』ということになりがちであり、そこにきわめて明白な主張が可能となり、多くの人を惹きつけることになる。イデオロギーは善悪、正邪を判断する明確な基準を与える。(…)しかし考えてみると、人間存在、あるいは世界という存在は、もともと矛盾に満ちたものではなかろうか。もっとも、矛盾などと言っているのは人間の浅はかな判断によるものであり、存在そのものは善悪とか正邪をこえているのではなかろうか。」(河合隼雄「明恵 夢を生きる」p. 101)

 

次に、著者は、「イデオロギー」に対比して「コスモロジー」ということを言う。

 

「コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り捨てることに力をもっている。イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界を作ろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまでも正しい存在となってくる。しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生に対する死、善に対する悪、のような受け入れがたい半面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れ込んで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾とともにどう位置付けるのか、これがコスモロジーの形成である。」(同上)

 

ひゃは、引用ばかりになってしまいました。河合隼雄先生、もっと長く生きていただいて、もっといろいろなことを教えていただきたかった。

その後のブリュッセル

3月22日(火)のブリュッセル空港・地下鉄爆弾事件の後、実にたくさんの人々からお見舞いのお便りをいただいたのが本当に有難く感じられました。日本とアイルランドの家族やお友達だけでなく、ISISのテロ攻撃に甚大な被害を受け、今もそのリスクにさらされているパリ・ロンドン・マドリッド・イスタンブールの同僚たち、2001年9月11日の同時多発テロに遭遇したNYのお友達からもお便りをいただきました。

その中で、以前日系企業のベルギー子会社の社長さんとしてブリュッセルに駐在されていた方からのお便りの中にこんな言葉がありました。

「ISって何なんでしょうか?なんの思想も、発言の中の整合性も感じないです。その昔、社会からあふれた行き場のない若者達がその鬱憤の吐けばを暴走族になって晴らしている のと何ら変わらないです。ましてや、ISの超過激な行動は恐怖心を煽るばかりです。記憶の中に今も 美しく残っているブラッセルをそんな色に変えてほしくないです。」

この言葉に自分なりの回答を見つけようとして、地元紙を漁ったり、テレビのインタビューを見ているうちに、Irish Independent紙に少し単純化されているきらいはあるが、ある程度疑問に答えてくれる解説を見つけたので拙い訳をしてみました。

この記事を読むと、ISISが、なぜ美しい歴史的建造物を次々と破壊するのか、なぜ欧米諸国のみならず、同じ回教徒の国々トルコ・シリア・イラク・・・でさらに多くの虐殺を行うのかがわかるように思います。

 
ビデオは、本日、ブリュッセルと同様約30名の市民の命が奪われたイラクのサッカー競技場でのテロ事件。試合が終わり、表彰でトロフィーが渡される時に爆弾が爆発した。

亭主のグリに「なぜこちらのほうは、あまりニュースにならないのだろうね」と尋ねると「日常化してしまっているからかもな」と言われた。CNNやBBC Worldはかなり丁重にこれらの事件を追っているとは思うが、各国のメディアは、自国民が被害に巻き込まれているかどうかという点を重視する。(日本の報道もそうだが)自国民がいないことがわかると、途端にニュースの優先度は落ちる。ISの活動が現在のように日本に注目してもらえることになったのも、日本の方々がISISに殺害されたということがあってからではないかと思う。当然のことかもしれないが。

***
David McWilliams: West finally needs to admit all radical roads lead back to Saudi Arabia
2016年3月23日 Irish Independent


  青少年・少女が過激化するのは、誰かがそうするように教えたからで、自然に起こることじゃない。かつて、カフェで働くことに満足していた青年が、一夜にしてアラーの戦士になるわけではない。そこには一定のプロセスが必要なのだ。

回教徒の人々、特に年配の回教徒と話すと、皆一様に、このような青年の過激化のプロセスが始まったのは比較的最近のことだと言う。ここ30〜40年ぐらいのことだと。もしそれが本当なら、この30-40年の間に何が起こったのだろう。1979年イランの革命の後、西欧諸国は、イランは敵で、サウジアラビアが新しい友達になったと考えた。サウジアラビアのすることはすべて正しいと。中東において、イランの勢力を抑えられる強力な勢力はサウジで、だからサウジの行うことはすべて認められてきた。

私たちは、サウジアラビアが極端なイスラム主義を実施し、外国でも扇動しようとしていることを理解しようともしなかった。

その極端なイスラム主義は、ワッハーブ主義と呼ばれる。中東を理解したければ、サウジアラビアが最も好み、そして国外に輸出したこのイスラムの一派を理解することは不可欠だ。

ISILや、昨日の爆撃を行った青年たちを理解するためには、これらすべてにおけるサウジアラビアの果たした役割を理解する事が不可欠だ。ローマ、ペルシア、仏教の古代の文化建造物の破壊にISILを導く原動力の元はワッハーブ主義に他ならない。どのようなゆがんだ論理によって、彼らが無実の人々を殺戮するに至ったのかを理解するには、ワッハーブ主義について理解する必要がある。

すべては、はるか昔に始まった。

ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブは、1703年にリヤッド近郊で生まれた。彼は聖人としての教育を受け、多くの宗教家のように、絶えず、聖典への純粋な忠実と日常生活の現実によって変質したより寛容な聖典解釈との間で引き裂かれていた。このような体験は珍しいことではない。ピューリタニズムとプラグマティスムの間の戦いは、つまるところ、西欧のキリスト教会におけるように、宗教改革と呼ばれるものにつながる。

アル・ワッハーブは、イスラム教の純化と原初イスラム教への回帰を呼び掛けた。まだ若い導師であったアル・ワッハーブが、自らの住む地方の街で、姦淫の罪を犯した女の断首を主張した時、人々は彼が本気であることを知っていた。当時アラビア半島を席巻し、住民たちに無慈悲な重税をかけていた人気のないオスマン帝国に対する暴動がなければ、アル・ワッハーブの先鋭主義は、当時のどちらかと言えば宗教的に寛容な土地柄では人気を博すことはなかっただろう。

当時小さなオアシスのリーダーであったアブドゥル・アジズ・イブン・サウード(サウジアラビアの初代国王)は、おそらく、オスマン帝国に対する戦いにおいて神の加護を得るために、1745年、異端の説教師アル・ワッハーブに命運を託した。サウード家とワッハーブ主義が結びついたのはその時で、以来この盟約は続いている。

当時、イスラム教もまた他の多くの宗教同様、イスラム教以外の複数の宗教・信仰・慣習の寄せ集めだった。伝播される途上で、借用されカスタマイズされたものだったのだ。ご存知の通り中東と言う地域は、文明のるつぼであり、世界の主要な通商路の交差点であり、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教徒いう三大一神教の発祥の地である。キリスト教徒とユダヤ教は、文字通り数ヤードしか離れておらず、イスラム教は数百マイル下ったところで起こった。

アル・ワッハーブは、このような変遷の末に着古された観を呈していた当時のイスラム教に異議をとなえた。純粋主義者である彼は、基本に戻り、イスラム教を原初に戻そうとした。ワッハーブ主義のもっとも重要な原則は「神の唯一性」だ。このため、マイナーな神々、その他の神々、神秘主義、神社、寺院、聖人などへの信仰は偶像崇拝であり、粛清されねばならなかった。

このような考え方に基づいて、ワッハーブ主義はその他のイスラムの宗派(シーア派やスーフィズム)と真っ向から対立することとなった。シーア派やスーフィズムは「家の中の敵」、ユダヤ教とキリスト教は「家の戸口まで来ている敵」だった。ワッハーブ主義は、これらの不信心者に対するジハード(聖戦)を主張した。

それから1世紀の間は、ワッハーブ主義の活動範囲はアラビア半島の中に限られていた。でもゲームの風向きがかわり、サウジアラビアが石油を掘り当てたことにより、この地域は地政学と西欧経済のご都合主義を惹きつける地域へと変貌した。

ここでイスラム教の過激派が、地球上で最も富める国と結びつき、サウジアラビアは石油だけではなく、ISILやその他のジハディストのグループを動かしているラジカルで不寛容なイスラム教の一派をも輸出するようになった。サウジアラビアは、その広範な石油資産を東はマレーシア、西はマンチェスターへと至るイスラム神学校への資金提供に宛てているが、これらのイスラム神学校のうちのいくつかは湾岸諸国からはるか離れた地域でワッハーブ主義の思想を伝えている。

無実の市民を殺戮し、古代の遺跡を破壊し、女性を虐待するISILは上述のワッハーブ主義の権化であり、中東における西欧の最大の友であるサウジアラビアはISILの最大の財政的保護者である。戦いには資金が必要で、ISILは石油、不正な金儲け、人質、外部の民間からの寄付等から資金を得ている。外部の民間からの寄付の多くはサウジから来ている。

ISILの財源の流れをたどって行くと、全てはサウジアラビアに根を持っている。西欧の敵とみなされるリビア、イラク、アサド政権下のシリアなどではない。

9月11日のハイジャック犯の大半や、ビン・ラディンとアルカイダの指導者たち、シリアとイラクにおける5人のISIL支部の指揮官はサウジアラビア人である。アルカイダやISILなどの急進グループは、1730年代の砂漠から来た聖職者ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブと彼が1745年に盟約を結んだサウード家の子供たちと言ってよい。

西欧は少しでも早くこの事実を受け入れるべきである。


***

前述の通り、上述の記事は少々極端でシンプリストかもしれないと思っています。

スンニ派の急進派であるワッハーブ主義は、サウード家による絶対的な支配を保証するものとして利用されてきました。ワッハーブ主義は依然としてサウジの国教ではあるけれど、現代のサウジアラビアはある意味二極化していて、ワッハーブ主義にネガティブなイメージを持つ人々も多くなってきているとも聞きます。

また、この記事のように、ISISによるブリュッセルでの蛮行の責をサウジアラビアだけに求めるのは酷というものかもしれません。

人類に共通の、超越的な価値への帰依による思考停止への誘惑(あさま山荘事件のような)。

(「雇用主」としてこの国にやってくるエクスパットには感じにくいと思いますが、「有色人種の移民」としてこの国にやってきた当時の自分もひしひしと感じてきた)ベルギーに根強い有色人種に対する蔑視。

1930年代に北アフリカからの移民を積極的に受け入れながら移民2世・3世のインテグレーションを後回しにしてきたベルギーの偏った政策。

それぞれお城のように立派な区役所のある19のコミューンと6つの警察部隊を持ち、統合されつつあるとはいえ互いに情報共有がなく非効率なブリュッセルの行政。ビューロクラシーにがんじがらめになり、ある意味やる気を失ってしまった警官たち。

さらには自国の利害のために中東の指導者を操ったり、シーア派とスンニ派の対立を仕掛けたりしながら、結果としてISISをはびこらせる原因となったイラクの政治的な空洞を生み出した別のもっと大きな国の偽善。

それらすべての霊妙な配合が、罪もない市民と自爆した青年たちの死骸の山を作り出し、今後もやむことなく死骸の山を作り続けるということになるのでしょうか。

 
 

苦しみの日にこそ喜びの歌を歌え

苦しみは歓びによって乗り越えるしかなく、暴力には愛によって対抗するしかないと言うことを、3月22日(火)のブリュッセル空港・地下鉄テロの後の3月25日(金)、ブリュッセル証券取引所の広場に集まった市民たちの歌声とグラフィティーが教えてくれる。



アダージオ。



JUGEMテーマ:幸福に生きる

ブリュッセルの1日(宿題の日記風に)

昨日、2016年3月22日火曜日は、こんな風な1日でした。

朝、6時過ぎに起きて、亭主のグリと一緒に7時前にEU機関の多い地域にあるジムに行った。いつものようにジムの自転車をこぎ、スクワットと腹筋、ストレッチをし整体をして、シャワーを浴び、8時頃に1人でジムを出た。ジムの地下のガレージから車を出し、まだ比較的すいているベリヤール通りを空港に向けて走らせた。(オフィスはブリュッセル・ザベンテン空港の手前にあるのだった。)

車が空港に近づいた時、2台のパトカーがサイレンをけたたましく鳴らしながら、どこか異常を感じさせる勢いで自分の車を追い越して行った。8時20分だ。その時、ラジオのMusique 3のバッハの音楽がやむと、プレゼンターが「ただいま、ザベンテン空港の出発階で爆弾が2発爆発した様子です。詳細はまだ不明です」と告げた。

会社に到着すると、遠くで、近くでパトカーや救急車のサイレンの音が響いている。同僚とこの話をしている時、9時ごろにEU本部のあるシューマンから一つ手前のマールベークの地下鉄の駅でも爆弾が爆発したことが判明した。ついさっきまで自分がいたジムは、マールベーク駅の入口が面したロワ通りの裏側にある。

そうする内、社内通知メールが一斉に送られて来て、
「皆今日はできるだけブリュッセル市街には行かないように、できれば早く帰宅して家で仕事をしなさい」
と告げる。職場の同僚のほとんどは、ブリュッセルから10キロ以上離れたルーバンやメヘレン、アントワープから通勤している。「ブリュッセル市街には行かないように」と言われても、ブリュッセルの町中に住んでいる自分はどうすればいいのか。ブリュッセルの外側の比較的平和な地方都市に住んでいる同僚たちが急にうらやましくなる。

夜が近づいて、皆が帰って行く様子なので、だんだんと心細く淋しい気持ちになってきた。亭主のグリのことも心配なので、早く帰りたい気もするが、市内の公共交通がストップしているので、渋滞が心配になる。渋滞の中で自爆テロにあったら身動きがとれないと思うと、少しでもリスクを減らしたい。夜が更けるにつれ、グーグルマップで渋滞を示す赤い部分が少なくなってきた。いつもの帰り道、EU本部前からマールベークの地下鉄駅前を通るロワ通りは封鎖されているはずで、迂回路のジェネラルジャック大通りはまだかなりな渋滞が続いているだろう。そこで、ブリュッセルの南に広がるソワーニュの森からカンブルの森伝いに気持ちの良い夜の並木道を車を走らせてゆっくりと帰った。家に帰ると、何故か夕食を取る元気もなく、そのままばったり寝てしまった。

最近、わけもなく「今日が自分にとっての最後の日か」という気分になることが多い。でも淡々と、丁寧に日々を過ごすしかない。カルペ・ディエム(日々の花を摘み取れ)である。

ブリュッセル・ザベンテン空港には、出張帰りでつい3日前に降り立ったばかりだ。いつものように、空港ビルの出発階の出口に車で迎えに来てくれる亭主のグリを待つ間、喉が渇いたので、出口付近のスタバのカウンターまでトランクを引きずって行き、アラブ系の2人の小太り兄さんに向かって、
「アイスコーヒーくれますか?」
と言う。兄さんが愛想よく、
「バニラ味かい?」
と聞く。
「ううん。ふつうのアイスコーヒー」
すると、横にいたもうひとりの兄さんが、
「クレーム・マキャートだろ」
と同僚にアドバイスする。
「だから、ふつうのアイスコーヒーだってば!・・・まあいいか、そのクレーム・ナントカちょうだい」
飛行機の中で良く眠れず疲れていたので、面倒くさくなってそう言う。
「スモール・サイズでいいかい」
「ええ」
「6.2ユーロ(約800円)」
(うへっ、高え〜、と心の中で毒づいた。)

つい数日前にそんなピント外れのやりとりをしたばかりのこのスタバの前で、昨日のテロ事件の3発の爆弾のうちの一つが爆発した。あのスタバのカウンターは跡形もなくなったが、もしかすると、話が通じなかったあの気のいいアラブ人の小太兄さんたち2人も吹っ飛んでしまったかもしれないと思うと、言葉もない。

カーボ・ヴェルデ(2) 友をつくる歓びを30年ぶりに(笑)思い出しました

さて本題に入ります。

こんな風に荒っぽく遊びまわった後、きれいなビーチでもういちどひと泳ぎし、へとへとになってアパートに帰ってくると、ブーゲンビリアの花が咲くアパートのテラスに座って日没を眺めながら、きんきんに冷やしたStrelaビールかChaワインを飲みながら夕食までの時間を過ごすのがなかなか良い。


北緯15度と赤道に近いので、日没が早いこと…。
 
アパートのすぐ前にあるPorto d'Antiquaのプールにも夕暮れが訪れる。


2日目の午後、島をジープで一周した後、アパートまで戻ってきてテラスから中に入ろうとすると、いきなり隣のテラスから、
「ヤーマーン、初めて会ったねえ。ハロー」
と、何と言ったらいいか、ボブ・マーリーの色をもっと黒くしたような青年がのんびりと右手を差し出してきた。これが私たちのアパートのお隣さんで、ミュージシャンで画家で、ショップのオーナーでもあるイシュマエルくんであった。マリファナの匂いをぷんぷんさせてる(笑)。

亭主のグリは隣人ができた大喜びで、毎日のように飲みに誘う。イシュマエルくんがテラスにいないと、中に向かって、
「おーい、イシュマエル。ビールあるよ」
と呼ぶ。すると、扉が開いてイシュマエルくんが、
「ヤーマーン」
と言いながらのっそり出てくる。



グリは自分で誘っておきながら、イシュマエルくんが、コップについてもらったビールをおいしそうに飲み始めると、
「ハッラーム!!!」
と指を突き付けて、非難する(笑)。



イシュマエルくんも、さぞかし「ヘンな親父につかまってしまったなあ」と思っていたことだろう。

イシュマエルくんが演奏するというコンサートの行われる、町のはずれの多目的ホール(ポリヴァレント)まで出かけていく。入口にたむろしているのは現地人ばかり、というかカフェオレ色の肌のカーボ・ヴェルデ人ではなく、漆黒の肌の男の人たち(たぶんイシュマエルと同様、セネガルの人々)ばかりなので一瞬緊張するが、構わずずんずん中に入って行くと、中は体育館のようになっていてやはりセネガルの人々が固まって話している。そこに、すその長い真っ白なドレスをきて髪もきれいに結い、輝くばかりの笑みを浮かべて見違えるような(笑)イシュマエルくんが出て来て、
「諸般の事情で開始が30分ぐらい遅れます」
と言うので、近所のカフェで腹ごしらえをしながら開始を待つことにする。



1時間後に再び会場に戻ってみると、中はこのようなすごいことになっていた。


素晴らしい歌声とパーカッション。西欧のコンサートと違うのは、シンガーが真ん中にいて、観衆がその周りを輪のように囲んで踊り歌うのだ。日本の盆踊りと違うのは、テンポと迫力だろう。でも、薄暗い上に、皆さん顔がまっ黒なので(笑)イシュマエルがどこにいるのかが分からない。

その後で、ビデオ画像を本人に見せて、
「どこにいたの?」
と尋ねると、
「ここだよ、ここ。」
と教えてくれるのだが、やっぱりわからない(笑)。

大みそかの晩は、イシュマエルくんのお兄さんのアレンが料理をすると言うので、御馳走になってしまった。


チキンを丸ごと買って来たのをぶつ切りにし、パン粉で揚げた上に、ピリ辛ソースをかけ、その上にポテトフライを乗せた大皿を皆で囲み、右手でむしって食す。カリッと揚げた新鮮な鶏肉にピリ辛ソースがかかっているこの料理は、感激のうまさであった。

今回の旅は、何か風水の方角が影響していたのか、毎日のようにやたら新しいお友達ができて、しかも、そのことを楽しんだり、ワクワクして待ち受けるような旅だった。うらやましいことにグリは、ブリュッセルにいてもこんな子供のような感覚を毎日感じていて、お友達と一緒にいるのが楽しくて楽しくて仕方がない。でも、自分にとっては、友達といて無心に楽しいと言うような感覚を感じたのは、じつに30年ぶりぐらいであったことをしみじみ思い返した。

南の空と海が生み出した束の間の魔法かもしれないが。
 

カーボ・ヴェルデ(1) たまには旅行ガイド風に書いてみました

年末年始はカーボ・ヴェルデ共和国のサル島のサンタ・マリアの海岸のアパートメントで1週間の冬休みを過ごしました。

カーボ・ヴェルデは西アフリカのセネガルのさらに西の海上に点在する18の大小の島からなる国で、(実際にはアフリカだが)自分にとっては、ヨーロッパの地の果てのイメージのある場所だ。ブリュッセルからは、Thomas Cookで6時間だった。リスボンからはTAPで4時間で行けると聞いた。

さて、本題に入る前に、「カーボ・ヴェルデ」で検索してせっかくこのサイトに来てくださった方のために、ここから少々旅行ガイド風に書いてみます。(写真と動画は自前のため、所々お見苦しい者が入っていますことをお許しください。)

サル島の南端、サンタ・マリアの街の海岸べりにあるOdjo d'Aguaというホテルに部屋を予約したつもりだったのだが、実際にあてがわれたのはそこから50メートルぐらいはなれたPorto Antiguoという別のホテルの敷地内にある、砂浜から少し引っ込んだテラスと庭付きのだだっ広いアパートメントだった。


ちなみに費用だが、サル島で知り合った欧州からの観光客は、多くがオール・インクルジブ(三食・飲物つき)のホテルに1週間の滞在で、フライトも含め1人2500〜3000Euro位のパッケージで来ているようだった。当方は、オール・インクルジブの滞在があまり好きではない。地元のスーパーマーケットで地元のビールやワインを買ってきて部屋で飲んだり、地元のレストランで慣れない食物を食べて下痢になったりするのが好きなのだ。だから、フライト+アパート+朝食だけ込みで上記の半分ぐらいの価格のThomas Cookのパッケージで来た。(クリスマスシーズンは当然割高だが、年末年始しか1週間以上の休みを取れないのでこの時期に来ることになりました。だから、年末年始を外せばもっと安いのではないかと思います。)

エジプトやチュニジアの海岸に行けば、カーボ・ヴェルデよりホテルの選択肢も多くはるかに安いし、海も同じくらい綺麗なのだが、今回は何か別の場所に来たかった。エジプトやチュニジアにまつわる、最近のイスラミスト・テロの記憶から逃れたかったという潜在意識が働いていたかもしれない。

さて、ホテルOdjo d'Aguaの本館は、荒波がぶつかっては砕ける岩の砦の上にあり、そのテラスで太陽と潮風を浴びながら食する朝食はなかなか良い。朝食にシャンパンがでるのは、これはラテンの風習なのだろうがこれもなかなか良い(笑)。


ホテルの右側に広がる白い砂のビーチには、エメラルド色にミルクを溶かし込んだような色の波が打ち寄せて、昼頃になると桟橋に次々と漁師さんたちが大きなマグロやドラードやワフー(バラクーダの一種)を引き上げるので、桟橋はいっときミニ魚市場のような活況を呈する。


新鮮なマグロはそのまま海岸べりのレストランに運ばれ、生のマグロのカルパッチョやヌタにされて、キンキンに冷えたCha(カーボ・ヴェルデ産白ワイン)やStrela(カーボ・ヴェルデ産ビール)と共に海水浴客の胃袋に消えていく。

(写真の手前は、海岸のレストラン「バラクーダ」のテラスで食するマグロのカルパッチョ。クレオル料理らしく、オリーブオイルに細かく切った赤ピーマン・黄ピーマンとパプリカで味付けしてある。ちなみにアパートの向かいの海岸に面したレストラン「ポルト・アンティゴ」で食したマグロのタルタール(ヌタ)はみじん切りの生のマグロにオリーブオイルにみじん切りのケッパーが混ぜ込んであった。非常に洗練された味。ブリュッセルの三ツ星レストラン「シーグリル」で27Euroで供されるようなマグロのタルタールが、いずれも10ユーロ以下で食せます。しかも海岸べりで潮風と太陽を浴びながら。)

サンタ・マリアの周辺には素敵なダイビング・サイトが点在しており、カーボ・ヴェルデ人のガイドに連れられてゴムボートで沖に出て、20世紀初頭に沈没した蒸気船の残骸を見に8〜18メートルほど潜ってみることもできる。蒸気船のボイラーだけがまだ海底に突っ立っており、その周りに何万と言う魚の群れが縦横に泳いでいる。夢のような光景である。


かなり沖まで出なくてはいけないが、トロール船を共同チャーターすれば釣にも行ける。波が荒く、船がほとんど180度に前後にかしぐ航海を4時間続けなければならないので、海釣りのベテランでも船酔いでぶっ倒れてしまう人も出た。

でも、下のビデオの同乗のノルウェー人のおじさんのように、巨大なワフーを見事釣りあげる人もいる。(このノルウェー人のおじさんとはこの航海でお友達になりメールの交換が続いている。)日によっては、巨大なドラード(体長60センチもある)の群れに遭遇して一気に5−6匹も連れることがあると言う。ワフーは単独で泳いでいるが、ドラードは必ず群れで泳ぐのだそう。


トロール船に乗って荒波にもまれているときに、周囲に、枯葉のように激しく波にもまれる小さなボートにすっくと立ったまま魚を釣っている漁師さんたちがいっぱいいた。どっしりしたトロール船でもまっすぐ立っているのさえ難しいほど揺れるのに、あんな井の頭公園に浮かんでいるのと同じようなボートでは海に落ちて潮流に流されて命を落とす人も多いだろう。無事生還した人たちは、上述の海岸の桟橋にマグロやワフーを引き上げて日々の糧を得ることができる。

サンタ・マリアはサル島の南端に位置する町だが、北の方の、荒々しい絶景の見られるムルデイラ海岸や、ブルーアイと呼ばれる洞穴、レモンシャークが泳ぐビーチ、塩田跡、蜃気楼の見える砂漠などを4x4に乗って1日で回ることもできる。


ブルーアイの近くのブラコーナの岩場や塩田では泳ぐこともできる。


こうして、8人のグループで、ガイド料と4x4代金をシェアして1日かけて島のあちこちを回るツアーは、1日1人25ユーロであった。

ガイドの女の子は、サル島の出身で、自分で4x4を運転してガイドもこなす、きびきびして素敵な女の子だった。サル島の経済や産業、教育の話をする時、何度も「カーボ・ヴェルデの人々はいつもお互いに助け合っているので」と繰り返すのが印象的だった。

サル島は、島全体がほとんど真ったいらな砂の荒れ地でおおわれている。木もなければ、畑もない。そんなだだっ広い平らな砂の島のへりに美しい海岸があって、そこにリゾート用の豪華なコロニーや、サンタマリアのような小さい町が存在するだけだ。

島にはほとんど植物がないので、野菜や果物は外から運んで来なければならず物価は決して安くない。この経済構造が変わらない限り観光に頼って行くしかない。

「来年、サル島に初めての大学ができるんです。そこの観光科でみんなが学べれば、私のようなガイド資格が得られて、昼間から酒を飲んでごろごろしている島民も減ります。」

以上、手放しでのカーボ・ヴェルデ礼賛になってしまいました。

サル島はリゾートとしては比較的新しく、ホテルやレストランの選択肢が少なく値段が高めで、地元系のホテルやレストランで働く島民の洗練度が低い(特にホテルで働くカフェオレ色の肌をした女の子たちが、気難しい観光客の対応に慣れないせいか、どこか疲れた不幸せそうな表情をしていることが多かった)。

サル島が健全な観光地として発展して、島民がみんな幸せになることを祈るのだ。セネガルに旅行されるついでにぜひ足を延ばしてみてください。

JUGEMテーマ:旅行
年末年始は何していましたか?
 

植物とのひみつの対話

植物と対話をしたと言う体験をお持ちの方はいるでしょうか?

私は、1度だけ、比喩ではなく、植物の声を聴いたように感じたことがあります。

私の住むブリュッセルの小さなアパートには、20年近く前からでっかい植物がいる。ブリュッセルで知り合った日本人の女の子がアメリカに移住する時に、彼女が育てていた植物を養子としてもらい受けたものだ。

名も知れぬこの植物くんは、2011年12月29日の拙ブログの一番下のビデオ画面にも写ってますが、今ではもっと大きくなって天井にくっつきそうになっている。アパートの窓辺には、ゴムの木、オリーブの木、イチジクの木、レモンの木、夾竹桃、蘭の鉢植えが並んでいるが、特にこの大きい、優美に枝と葉っぱを左右に広げた植物くんのお陰で、シャビイな我がアパートがぐっと居心地のよいものになっている。自分はアパートにぼんやりすわって、この植物を眺めているのが本当に好きなのだ。

さて、ある日、いつものようにソファーに座って植物くんの方に眼を向けながら、その日は何故か、
「あれからもう20年近くたったのかあ。この植物も大きくなったなあ。もし、彼女がもう一度ブリュッセルに戻ってきたら、私はこの植物を彼女に返すのかなあ?」
と、ぼんやり考えていた。

すると、その途端、植物が、その拡げていた葉っぱと枝ををきゅっと収縮したように見え、
「そんなの、いや!悲しい・・・」
というような想念とも気ともつかないものをばあっと放ったのだ。もちろん、そのような言葉を聞いたのではない。その時発された波のようなものを人間語に翻訳すると、上述のような言葉になったということだ。でもそれは、何か若い女の子の「胸キュン」に近いような感覚で、それで女の子言葉に翻訳された。

こちらは全く心の準備がなかったので、びっくりしてしまった。ただし、冷静に思いかえしてみて、これはもしかすると植物が「悲しい!」と思ったのは自分の気のせいで、じつは、自分が「この植物と別れるのは悲しい!」と思ったのを植物くんに投影したのではないか、と心に問うてみる。

でも、自分としては、アメリカに渡った友人が万が一帰ってきても「あの植物を返してくれ」等とは言わないと言う事はよくわかっているので、これほど差し迫った悲しさを感じる理由はない。どう考えても、植物くんがそう思ったような気がするのだ。あるいは、この感情は自分と植物くんの「あいだ」に生まれたものかもしれない。

ほんとの話だよ。

でもこの植物くんがこんな風に強烈に自己表現したように感じたのは、後にも先にも一度きりのことである。普段はお水をやり忘れても、しょぼっとしながらじっと我慢してくれている、善意と愛しかない優しい植物くんである。

こんな場所でも、こんな同居人でも、気に入ってくれて本当にありがとう。

***

もうひとつ、ほとんど誰にも話さなかった(話せなかった)ことだが、優しい植物くんではなく、意地悪で悪戯好きな植物くんにであったことがある。話せなかったと言うのは、その出来事があってすぐにブログに書こうとしたのだが、書こうとするたびにブログの記事が固まってしまったり、消えてしまったりしたからだ。おまけに、その日その場所で撮影したビデオも跡形もなく消えてしまった。

自分は、
「これは明らかに奴の妨害だ」
と結論して、以来、今日まで、本件は自分にとってのタブーになった。

「奴」というのは、2009年の年末にフロリダ・キイズのイスラモラーダの広大なマングローブの林の中を、野生のマナティーを探して(笑)亭主のグリとふたり、カヤックを漕いでいた時に遭遇した何者かである。(2010年1月10日のブログにあるビデオ映像は、マングローブ林の様子をどうしてもビデオに撮影したかった私たちが翌日再度カヤックに乗って撮影したもの。)

マングローブの林は迷路のようになっていて、おもしろがった私は、迷路がどんどん狭まって左右からトンネルのように頭の上まで枝葉が生い茂った方へ舵を向けていった。すると、亭主のグリが、
「こっちの方へ行くのよそうよ・・・」
と言い出した。
「なんでよ。こういう静かな方に、マナティーは棲んでるんでしょうが」
と私が抵抗すると、とつぜん、
「こんな暗い所に、マナティーがいるのかよ! いるわけないじゃん!」
と気が違ったように喚きだした。

グリがこんな風になるのは、以前、ブリュッセル郊外のハルの森(2010年5月3日のブログにも映像があります)に出かけたとき以来のことだ。(グリと行った時には、ブルーベルの花も散って、気持ちの良い緑の森の中を自分はゆっくり散歩したかったのだが、普段は機嫌のよいグリが急にイライラして、早く森を出たがったことがあったのだった。)人間には感じられない気配を感じて狂ったように吠える犬みたいに、感性が限りなく犬に近いグリも(笑)、あのハルの森で何かを感じたように、マングローブの茂る沼でも何か異様な気配を感じていたのかもしれない。

その時、左右から生い茂るマングローブの枝に絡まってボートが動かなくなってしまった。櫂でボートを枝葉から引きはがそうと躍起になっていると、右上から伸びていた蔓が鍵ホックのように私のサングラスを吊り上げて、私の顔から外してしまった。そのまま蔓はからかうように、サングラスを引っかけたまま私の頭の上でぶらぶらさせている。サングラスをつかもうと手を伸ばしたとたん蔓はバネのように上にひゅっと縮んだ。そして、一瞬もったいつけるような間をおいてから、ぽとんとサングラスを沼の中に落とした。沼はかなり深いらしく、サングラスがどこに落ちたのか見当もつかない。

もう5年以上も前のことなので、時効ということで、この記事を無事発表させてくれることをフロリダ・キイズのイスラモラーダのマングローブさんにお願いする。プレゼントのサングラス(香港製のフェイク・レイバン)と我が家の優しい植物くんに免じて。

なお、前述の通り、その日撮影したビデオも何故かきれいに消えてしまったので、翌日気を取り直してもう一度同じマングローブ林に行った。2回目ともなると、カヤックのこぎ方も少し上手になって、両脇から生い茂る枝葉に絡まることもなくなった。そのビデオを、Youtubeに掲載した時、見知らぬ人がコメントをくれた。
 
「やつらは、本当に悪者じゃないんだ。蜂と同じで、こちらが邪魔をすればやつらも邪魔を仕掛けてくる。(you know they really are not a bother. They are like bees, you bother it it will bother you.)」

当方は、前日サングラスをマングローブに取られたことなど、どこにも、一言も書いていない。この人は、どうしてマングローブの意地悪さを知っているかのような、こんなコメントをくれたのだろうか。

その人のコメントは続く。

「でも本当に恐れるべきなのは、海水ワニだよ。こちらの方が、奴らより少しだけ攻撃的だ…(The ones you should be afraid of is the Salt Water Crocodiles. Those are a little more aggressive)」

そう言えば、いつワニが出てきても不思議ではない沼だった(笑)

***

さて、長い間タブーになっていたマングローブさんとの出来事についてどうしても書いてみたくなったのは、この冬、カーボ・ヴェルデのサル島のサンタ・マリア海岸に1週間滞在した時、道端に生えていた灌木(豆の木)の下に落ちていた、長大なさやえんどうを拾った時だった。

その豆のさやを拾った時、指に、びびび・・・と強烈な何かエネルギーのようなものを感じたのだった。さすが、アフリカの豆!と思いました。

ほんとの話だよ。

さすがアフリカ!と感じたことは今回の旅では枚挙にいとまがないですので、次回書きます。

***

ビデオは、有名なヘンデルのアリア、オペラ「セルセ」の中でペルシア王クセルクスI世が愛するプラタナスの樹に向けて歌う「樹木の陰で(Ombra mai fu)」です。


Ombra mai fu di vegetabile, 樹木の陰で
cara ed amabile, soave più. これほどいとしく、愛らしく、優しいものはなかった

JUGEMテーマ:スピリチュアル

 

ブリュッセルの歳の暮れ

今年はブリュッセルが残念な意味で脚光を浴びてしまった年だった。テロ予備軍の頭数が人口比では欧州一のベルギー。ブリュッセル北西部のモーレンベーク区は、日本のお茶の間の皆さんもご存知の場所となってしまった。

1月のパリのシャルリ・エブドのテロ襲撃事件から、ブリュッセルもEU本部の前など要所要所に迷彩服に銃を構えた兵士が立つようになったが、11月のパリの同時多発テロ事件以来テロ脅威度が最高の4になり、地下鉄や学校が閉鎖され、町中のいたるところに兵士の姿が見られるようになった。

当方が住むアヴェニュー・ルイーズにも、通勤途中に車で通るEU本部前にも兵士が立っているので、自分としてはテロの脅威よりも、兵士が銃の取り扱いを間違えて流れ弾がこちらにあたってしまう事の方が心配だ。

ベルギーの警察がいかにのんびりしているかは、この町で、何度もひったくりや暴漢の被害に遭っている自分はよく知っている。(警官ののんきさについては、2008年4月12日のブログの後半をご覧くださいませ。)この国で凶悪犯罪がほとんど起こらないと言う事もあると思う。小さな窃盗や強盗は市民にとっても「普通のこと」で、警察は犯人摘発よりも保険会社に提出する書類を作ってくれる人と言う位置づけである。これで何とか社会が回っていたのだが、この度、欧州近隣諸国の非難を浴びることになってしまった。中には極端なコメントも有り、私でも普通に歩けるモーレンベークが、あたかもブラジルのファヴェラやかつての香港の九龍城址のような「無法地帯」になっていたかのような言われようをされ、ベルギー警察もちょっとしゃきっとしている所ではないかと思う。

それにしても、今回のことで一番迷惑を被っているのは、ベルギーにいて、人種的や言語の面で不利な条件にもかかわらず一生懸命ベルギー社会に溶け込もうと努力しているイスラム教徒たちだろう。

下は、アヴェニュー・ルイーズに、毎週火曜日と金曜日の晩にトラックでごみ集めにきてくれるお兄さんたちが、クリスマス前にルイーズの住人たちに配ったビラだ。
「クリスマスおめでとう! ごみ集めに来るのは、僕たち4人です。僕たちのフリをして怪しいふるまいをする奴がいたら、ただちにこの携帯電話に通報してくださいね!」


私は、このビラを読んでなんだか泣けてしまった。

一番左のシャキール君はごみ収集車の運転主で、キルギスタン出身かなあ。右の3人は車の側面にしがみついており、道路沿いにおいてあるごみ袋の所で車から飛び降りて、後ろのミキサーに重たいゴミ袋を次々放り込んではまた元気よく車に飛び乗って・・・と言うハードで荒っぽい作業をこなしていく要員だ。バルーディ君は明らかに北アフリカ出身(おそらくモロッコ系)だろう。カンベル君はボスニアっぽい名前。ブリュイエール君はフランス名だが顔は北アフリカっぽい。恐らくみんなイスラム教徒なのだろう。その彼らが、一生懸命、
「クリスマスおめでとう!僕たちもキリスト教のお祭りを一緒に祝わせてください!仲間に入れてください!」
と言っているように読める。

ベルギーのイスラム系の若者の40%が失業状態で、社会からの疎外感を感じており、これがジハディストの巧みな勧誘に乗ってしまったと言われている。確かにそういう面もあるのだろう。また、北アフリカ出身者は、キツイ・キタナイ・キケンの3K仕事しか与えられないというフラストレーションを感じている若者も多いと聞いている。ただ、自分がベルギーにやってきた1980年代に比べるとイスラム教徒、特に北アフリカ出身のアラブ人のインテグレーションは大幅に進んでいると思う。今では、区役所の外国人課の窓口の外側だけでなく、内側にもアラブ人の職員の姿を見かけるようになった。自分の職場にも、アラブ系の会計士や税理士が増えてきている。20年前には考えられなかったことだ。

100年前、ベルギーのシャルルロワからリエージュにかけては炭鉱業が大変栄えた地域で、多くのイタリア人労働者が移住してきた。イタリア人炭鉱労働者の二世・三世は、ベルギー人と同じようなフランス語を話し、イタリア語を忘れ、今では完全にベルギー社会に溶け込んでいる。(リエージュのイタリア料理屋でスパゲッティーを注文すると、ベルギー風に分量が多く、かつ、茹ですぎで、閉口する。)イタリア系だと言う事で職業上差別をされることはほとんどない。ではアラブ人のベルギー社会への同化も、時間の問題なのか?

宗教の問題がある。とは言え、自分の周りには、アラブ人の二世・三世に敬虔なイスラム教徒はほとんどいない。酒を飲む者もいるし、自分では飲まないまでも、他人の飲酒には至って寛容だ。

***

イタリア系移民と違うのは、彼らの故郷であるイスラム社会が(一部の国を除いては、政権や治安の面などで)多かれ少なかれ不安定なことかもしれない。それは、スンニ派とシーア派の対立に還元できない、外部の者にはさっぱりわからない複雑な様相を呈している。

日本の新聞雑誌の情報源も最近ずいぶん充実してきたが、2013年のFinancial Timesの投稿欄に掲載されたこの投稿が可能な限り単純化した要約かもしれない。

「アサドはムスリム同胞団が嫌いで、ムスリム同胞団とオバマはシーシー大統領が嫌い。
でも湾岸諸国はシーシー大統領が好き、ということは、ムスリム同胞団が嫌い!
イランはハマスが好き、でも、ハマスはムスリム同胞団を支持。
オバマはムスリム同胞団を支持するが、ハマスは米国が嫌い!
湾岸諸国は米国が好き、でも、トルコは湾岸諸国と一緒になってアサドが嫌いで、シーシー大統領が嫌いなムスリム同胞団が好き。
そして、シーシー大統領は湾岸諸国に支持されている。
ようこそ中東へ!そして、ハヴ・ア・ナイス・デイ!
(K N アル・サバー、ロンドン在住)」

現在は、これにISISやロシアが加わって、さらに複雑なことになっているが。


共和党の米大統領候補者ドナルド・トランプが、
「いったい何がどうなってるのかわからんから、わかるまではすべてのイスラム教徒のアメリカ入国を禁止すべきだ」
と言ったが、それが多くのアメリカ国民の正直な気持ちなのかもしれない。共和党候補者の内では支持率が40%にもなったそうだ。

***

ブリュッセルでは、クリスマスが近づいても警戒が続いていたが、この兵士さんは、若者の集まるショッピング・ストリート、ヌーヴ通りを警戒中に、我慢しきれなくなってついクリスマス・ショッピングをしてしまいました。(彼女へのプレゼントなのでしょう。ショッピングバッグは、若い女性に流行のRITUELです。)ちなみにこの写真がTwitterに載ったおかげで、この兵士さんは職務停止処分を受けてしまいました。



なお、テロの警戒で大みそかのグランプラスの祭典は取りやめになりましたが、大みそかの夜8時ごろ、モーレンベーク区のとなりのアンデルレヒト区にあるクレマンソーの地下鉄の駅では、10人の悪ガキが、駅前に駐車していた車を階段からホームに転げ落としてしまいました。


この画像に「アラー・アクバール」と言う声を重ねた偽画像が出回りましたが、このオリジナルには餓鬼どもの「ウォー」と言う歓声と「ケケケ!」と言う笑い声だけが入っています。この餓鬼どもがテロリスト予備軍とは限りませんが、ベルギーの警官は、これまでのように自動車保険用の書類を作成するだけでなく、気を入れて捜査をしてほしいものです。

それでは、皆様、良いお年をお迎えください。
世界から、餓えと暴力が無くなりますように。

パリ追悼

出張先の日本でパリのテロ事件のことを聞いて、一足遅く日本に到着したパリ事務所のフランス人同僚に「大丈夫だった?」とそっと聞くと、彼はとても静かな口調でこんな風に言った。

「あの事件の翌朝、僕は妻と子供たちとパリの町中を散歩してみたんだ。そうしたら、パリは閑散として人っ子一人見えなかった。…でもそれこそ奴らの思う壺だよ。だから自分の恐怖心と戦いながら、そういうときほどいつもの朝と何も変わらない顔をして朝の散歩を楽しむべきなんだ」

彼は、シルベスター・スタローンでもなく、フロン・ナショナルのような最右翼でもなく、あまり風采の上がらない、平凡な三十代後半の税理士だ。でも私はその言葉を聞いた時、とてもびっくりして、「ああ、フランス人ってこういう人々なんだ」とかすかな感動を覚えた。

フランス人がイスラム教徒のテロに慣れていると言うのは言い過ぎかもしれないが、多くのイスラム教徒を自国内に受け入れながら、ISISに始まったことではなく1995年のGIAによる地下鉄テロ等に耐えながら、イスラム教徒との確執をくぐり抜けてきたフランスだ。自分だけは関わり合わないようにひたすらテロから逃げまとうのではなく、ヒステリックに移民を追い払うのでもなく、自分なりの方法でテロリストと戦う気概があるのではないか、そんな風に感じた。

本日イギリスのBBCのアンドリュー・ニールのテレビでのメッセージにもそんな気概を感じた。
 
(翻訳)
 今晩は、皆さん、「今週のハイライト」へようこそ。今週は、ジハディストの負け犬どもが、未来はフランスのような文明にではなく、自分たちのものであると言うことを証明しようとして、パリで132人の無実の人々を殺傷しました。まあ、私は、彼らの勝運を信じてはいませんけれどね。だってフランスの偉大さを考えてみてください。デカルト、ブレーズ、モネ、サルトル、ルソー、カミュ、ルノワール、ベルリオーズ、セザンヌ、ゴーギャン、ユーゴー、ヴォルテール、マティス、ドビュッシー、ラヴェル、サンサーンス、ビゼー、サティ、パスツール、モリエール、フランク、ゾラ、バルザック、シャンペン、画期的な科学技術、世界的な薬品、恐るべき軍隊、原子力、ココ・シャネル、シャトオ・ラフィット、コック・オ・ヴァン、ダフト・パンク、ジズー・ジダン、ジュリエット・ビノッシュ、自由・平等・博愛、そして、クレーム・ブリュレ。 一方、君たちの誇れるものは何ですか? 首切り、磔、手足の切断、奴隷、大量殺人、中世みたいな貧困、中世の名前も汚すような死のカルトの蛮行だけでしょう。IS 、ダイッシュ、ISIS、ISIL、色々な呼び方があるけれど、私はあえてISと言う呼び方にこだわるね。Islamist Scumbag(イスラム主義のカス野郎)と言う意味のね。今後どうなるかは皆にとっては一目瞭然だが、君たちにはまだわからないようですね。君たちが今行うことのできる残虐な行為がどのようなものであっても、君たちは負けるんです。素晴らしい光の都市であるパリは、他の同じ様な都市と同じように、千年後も明るく輝いているだろう。一方で、君たちは塵と化しているだろう。かつて民主主義を攻撃して、そして失敗した、みじめなファシスト、ナチス、スターリニスト達と一緒にね。

(原語もスクリプトしてみました)
Evening all welcome to This Week, a Week with the bunch of loser Jihadists slaughtered 132 innocents in Paris, to prove the future belongs to them, rather than the civilization like France. Well I can’t say I fancy their chances.  France, the country of Descartes, Boulez, Monnet, Sartre, Rousseau, Camu, Renoir, Berlioze, Cezanne, Gaugan, Hugo, Voltair, Matisse, Debussy, Ravel, Saint Sans, Bizet, Satie, Pasteur, Moliere, Frank, Zola, Balzac, plonk (=champagne), cutting-edge science, world-class medicine, fearsome security forces, nuclear power, Coco Chanel, Chateau Lafite, Coq au Vin, Daft Punk, Zizou Zidane, Juliette Binoche, Liberté, Egalité, Fraternité, and Crème Brulée.  Versus what!?  Beheadings, crucifixions, amputations, slavery, mass-murder, medieval squalor, a death-cult-barbarity that would shame the Middle Ages.  Well IS or Daish or ISIS or ISIL, or whatever name you are going by, I am sticking with 'IS', as in, Islamist Scumbags.  I think the outcome is pretty clear to everybody, but you.  Whatever atrocities you are currently capable of committing, YOU WILL LOSE! In a thousand years’ time, Paris, that glorious city of lights, will still be shining bright, as will every other city like it, while you will be as dust along with a rag-bag of Fascists, Nazis and Stalinists, that have previously dared to challenge democracy AND failed.

大国イギリスやBBCが後ろにひかえているとは言え、ロンドンにもイスラム過激派は多いだろう。BBCのスタジオを出た所で、背後からグサッと刺される覚悟がないと、ここまで言えないと思いました。

こんなふうに、自分の命を危険にさらしても言葉による抵抗を続けることが、シリアの空爆みたいな暴力の応酬よりも勇気があり正しいことではないだろうか。

 

見慣れた風景から見知らぬ風景が立ち上がるとき・聞きなれた音楽が聞き知れぬ言葉を話し始めるとき

・・・と言う体験をした方はいませんか?

多くのフォロアーを持つ人気ブログ「どこかの細道」の著者として名高い老真様に、辻邦夫の「夏の砦」 と言う長編小説をお借りしたことがあった。もう○十年ぐらいも昔のことだが、その小説には、記憶力の悪い私が以来一度も忘れることができない、そして折に触れては思い出す印象的な場面がある。

それは、主人公の孤独な若い女、冬子が北欧のある都市の美術館で中世のタピスリの前に立った時の情景だ。

「(・・・)私がそのタピスリの前に立った瞬間、一切は消えて、ただ葡萄葉文様がからみ合ってつくる不思議にしんと澄んだ世界がそこに現れていたのでした。それは一年前に見た色褪せたタピスリでもなければ、美術学校の図書館でみた色刷りのタピスリでもありません。
そこにはこの布地やガラス・ケースや陳列室をこえた別の世界ー異様に澄んだ甘美な別世界が、ちょうど水の底にゆらめき現れるように、現出していたのでした。私は自分が今どこにいるかということを忘れました。自分の見ているのが糸を織ってつくった布地にすぎぬことも忘れていました。私は、そうしたものの中を通って、不意に、その向こう側へ出てしまったのでした。ですから、私の見ているのは、タピスリをこえて、そのタピスリのなかに湛えられた水底の世界のような、澄んだ別世界だということができるのでした。」

何故この情景がこれほど自分にとって忘れられないのか。何故この情景を反芻し、一体これはどんな体験なのだろうと、何度も思いをめぐらしてしまうのか。それは、恐らく、美術作品を前にしてこれほど強烈な体験をしたことが自分には一度もないからだろう。

また、大学の時、1年先輩のKさんと言う人が、
「先日、美術展に行って始めて見たミロの抽象画の前で震撼した!」
と言うのを聞き、
「ふうん、そんなことってあるんだ!」
と感嘆した時のことを思い出す。その感覚が自分にはどうしても想像できないので、その時のKさんとのやりとりも後で繰り返し思い出すことになった。

上述のタピスリを見て別の世界が現れてしまう体験や、ミロの作品を見て震撼してしまう体験は、文学的な比喩では決してなく、本当に実在する体験なのだろうと言う確信はある。ただ、自分が、ボナールやドガやマックスフィールド・パリッシュやボッティチェリやフェルメール、フリードリッヒの絵を繰り返し眺めては、うっとりしてしまうという絵画の体験(*)とは、全く別の種類の体験のようなのだ。これはどういうことなのだろう、という思いがいつもあった。

(*)何となくお分かりですよね、これ。要は自分がうっとりしていたのは、たんに、具象的にそこに描かれた美しい世界に自分も入り込んでそこの住人になりたいと言うようなノスタルジーにすぎないんですね。(下はパリッシュの絵。)

 


***

謎の解決の糸口になったのは、お昼寝であった。そして、その時偶然かかっていた、シューベルトのアンプロンプチュOp 142の第2番であった。

ある日曜の午後、自分はアパートのCDの山の中から適当に選んだシューベルトのピアノ曲集のCDをかけっぱなしにして眠ってしまったのだった。特別シューベルトのピアノ曲が好きと言うわけではない。でも、眠りの中で聴くその曲が、不意に言葉らしきものを語り出したため、私は半分目が覚めてしまい、その言葉(のようなもの)を一心に聞き、意味を理解しようとしていた。

言葉とは言っても、それはドイツ語でも日本語でもなく「音楽」としか呼べない言葉なのだけれど、その音楽が、感覚や印象のほとばしりではなく、確かにある思惟の流れのような、意味を紡ぐようなシンタックスを持っているように思われたのは、今思うと、その楽曲の構造にあったのかもしれない。主題Aがひとつのメロディーをかなでると、それによく似た主題A'が、まるでAに呼応するように歌うのだ。それは、テーゼAがアンチテーゼA'に反駁され、アウフヘーベンしてBへ、BからB'へとらせん階段を上って行くようなのだった。(そういう意味では、その音楽の言葉は、ドイツ語に近い言葉であったかもしれない 笑)

その時分かったことは、平常の意識では気が付かない音楽の言葉を不意に聞けたのは、半睡によって脳の状態がいつもと違っていたからであろうと言う事であった。脳生理学に還元したくなければ、カルロス・カスタネダの言う「左側の意識」でもいい。アーノルド・ミンデルの「ドリーム・ボディー」でもよい。「脳って本当に、何でもありなんですよ!」(と、茂木健一郎先生も言っていた。)

それ以来、半睡状態のときほど鮮烈にではないが、平常の意識であっても、シューベルトのアンプロンプチュ2番を聞くたびに確かにそこで何者かが謎の対話をしている言葉を聞くことができるようになった。(でも、アルフレッド・ブレンデルが演奏するアンプロンプチュ2番ではよく聞き取れない。何故かはわからないが。)

ちなみに、こちらは、ブレンデル演奏のアンプロンプチュOp 142の2番。



***

ここ数年、遠いお客様の会社などへ行くため一人で車を走らせることが多くなり、フランダース地方の平坦な田園地帯や森の中を1時間近く車を走らせている間、電話をしている時以外はベルギーの二つのFMラジオ局の「Klara」か「Musique 3」を聴いている。車の中で聴く音楽は、自分が自宅に持っているどの音響機器で聴くよりも、はるかに鮮明できれいな音を出す。夕方は、少し疲れて気持ちもゆったりしているせいか、午後4時〜5時頃は何故か音楽が一層美しく聞こえることが多い。

昨日は夕方5時ごろオフィスに戻ってきて、パーキング・ロットに車を駐車している時、流れてきたバッハのピアノ・パルティータ2番の音色を聴くなり、自分はそのまま固まってしまった。パルティータはバッハの中ではめちゃくちゃ好きな曲ではない。でも、固まってしまったのは、ラジオから聞こえてきた演奏がこちらに極度の集中力を強いるような、1つ1つの音を分子の振動に分解できるような極度の集中力をその名も知れぬ演奏家が発揮しているように感じられたからだ。その時、
「ああ、すぐれた音楽家は、こんな風に、ヴィッパサナ瞑想の時の極度の集中状態みたいな、こんな異常な脳の使い方をしているのか〜。」
と目からうろこが落ちた様な気がしたことであった。

それは、これまでフォーレやペルゴレージやモンテベルディ―やコダーイやブリテンの綺麗な音楽を繰り返し聴いてはうっとりするというような、子供のころからの自分の音楽体験を覆すような体験でした。

このピアニストの名前は、Zhu Xiao-Mei。問題のパルティータ2番はYoutubeでは残念ながら見つからないのですが、彼女の弾くバッハは全部いい。好きです。ただ、当方のラップトップでの再生の音が悪いのか、あの時の、こちらの意識までナノ秒単位に分解するような異常な集中力へと引きずられていくという体験を再現するには至らず。

 

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