黄昏時にびしょびしょの泥道を歩くと言う夢

黄昏時にびしょびしょの泥道を歩くと言う夢を繰り返し見る方がいましたら、ご連絡ください。

でこぼこの土の道のあちらこちらに、水たまりがあり、黄昏時の薄赤と薄青の空を反映している。そんな道がどこまでも続いている。そんな悲しい夢です。

以前はまったく見なかったそう言う夢を、最近見ることが増えてきました。そんな泥道を、自分は苦労しながら歩いたり、ポンコツ車に乗ったり、ポンコツトラックを運転しながら進んでいたりします。

そう言う夢にときどきは、向かいの席に座るモーレツ同僚のサイトーさんが出てきて、
「あ、車庫入れだったら僕がやりましょうか」
とか、
「運転代わりましょうか」
とかこちらのプライドを傷つけないように聞いてくる。

自分の夢の中に出てくる泥道や、坂道(下り坂ではなく上り坂)は、仕事に関係しているようだ。

癌になってぶっ倒れた時、最初の抗がん剤治療に続く高熱の中で、日頃ケンカばかりしていた上司のグンターが夢に出てきて、私が苦労しながら運転していた巨大なバスを、私の代りに運転してくれたのだった。

その前に、乾いた坂道を必死で徒歩で登っている時、年下の同僚のハルコちゃんが、自分の自転車を貸してくれた(涙)。

夢の中でまで助けてくれて、みんな本当に有難う。

別の時は、やはり炎天下の上り坂を、同僚のステファンくんと自分は、必死で自転車を漕いでいたのだった。当時、ステファンくんと自分とは、おちこぼれでプロモーションが遅れていたのだった。ステファンくんは、とうとう会社を辞めてしまったが、自分はまだぼこぼこの道を進み続けている。

当時から少し変化したのは、自転車がボロ車になったこと、乾いていた道が泥道になったこと、炎天下が黄昏時になったこと(笑)。

正月ぐらい家でも旨いものを食べたい

「三度の飯より好き」なものが山ほどある自分にとって、食事の優先順位は本当に低い。

料理の上手な友人たちが見かねてご飯を作ってくれるとそのおいしさに感動するものの、ふだんの自分は、とりあえずおなかがいっぱいになりさえすれば味はどうでもいいようなものばかり食べている。食事を作る時間も、食べる時間ももったいないのだ。

自分の1回の平均食事時間は、5分ぐらいだろうと思う。

そんな自分がいつかは作ってみたいと夢見る料理があった。それは、以前「ナミュールで魔女の末裔に会う」に登場いただいたお友達のボブさんの作った自作自演のビデオでを見て、あまりにもおいしそうで、しかも簡単そうだったからだ。

プーレ・オー・シコン、鶏とシコンのクリーム煮。



ね。おいしそうでしょう。

ボブさんは、たぶん自分の友達の男性の中ではたぶんいちばん料理がうまい。一度ボブさんにハムエッグを作ってもらったことがあったが、何の変哲もないハムエッグが夢のように美味しかったことを思い出す。異常なほど食べ物に興味のない自分であるが、あのハムエッグを毎日食べられるボブさんの奥さんのシエコさんがうらやましい。

***

正月ぐらいは旨いものを作って食べよう、プーレ・オー・シコンを作ろうと思って、年末にスーパーで地鶏をさがすが手頃なものが見つからない。

そこで急きょ予定変更し、地鶏の代わりにキジを買う。少し前にFT日曜版に、イギリスの人気シェフRowley Leighのレシピが載っていたキジとシコンの煮物を思いだしたのだった。

<材料>
バター 75g
パンチェッタ  75g
キジ 1羽
白ワイン 200ml
シコン 3個
レモン 1個
シェリー酢 大匙1
砂糖 小匙1

言っておくが、パンチェッタもシェリー酢も、見たことも聞いたこともない。スーパーマーケットの中を必死で探す。あった〜、そう言う名前のものがふたつとも見つかった。信じられん。

<作り方>
鍋にバターを溶かし、パンチェッタの角切りをゆっくりと脂が溶け出しカリカリになるまで炒めます。パンチェッタを丁寧にフォークで取り除き、お皿に取り置きます。お鍋にキジを入れ、表面がきつね色になるまで炒めます。さらにバターを加え、キジの周りにさっき取り置いたパンチェッタを撒きます。白ワインを加えてふたをし、20分ぐらいことこと煮ます。
その間に、フライパンにバターを溶かし、縦に四つ切りにしたシコンを並べ、色づくまで炒めます。砂糖とレモン汁を加え、水分が完全に蒸発しかけたころ、シェリー酢を加え、シコンに絡めます。
キジを鍋から出し、脚を切り離し、胴体を半分に割り、シコンと一緒に鍋に戻し、数分煮て、最後にバターを加え、鍋を動かしながらキジに絡めます。

ふだんバターをほとんど使わない自分にとっては、驚異的なバターの使用量である。うはあ、健康に悪そう。でも1年に一度、正月ぐらいは許されるだろう。

お皿にキジとシコンをうつし、鍋に残ったソースをたっぷりかけて食べると、ちょっと荒削りだったけど、やっぱりふだんは自分の作るいい加減な料理とは違って、フクザツでなかなかウットリするような味でした。

食べている内に、がりっと音がして、キジの肉の中から散弾銃のかけらが2個出てきた。



自作の写真ではなく、FT日曜版に載っていた写真(笑)。

2011年を振り返り、個人的な絶望・個人的な幸せを想う

そのむかし友人から借りた萩尾望都のSF叙事詩「銀の三角 」で印象に残っているのは、殺された一人の少年の叫びによって宇宙が歪んでしまったと言うくだりだった。

失業中だった若いチュニジアの野菜売が、商品と秤を警察官に没収され、さらには婦人警官の1人から暴行を受け、没収品の返還と引き換えに賄賂を要求され、抗議の焼身自殺を遂げたのは昨年の12月だ。青年の怒りと悲しみが、チュニジアからエジプト、リビアへと波及し、あっという間にアラビア半島にも飛び火した2011年だった。2011年の正月にエジプトから帰った直後に、エジプトが炎上したと聞いた時さいしょに思い浮かべたのはウン十年前に読んだ「銀の三角」のこのエピソードだった。

一人の名もない青年の絶望や死が、今回のように地域や国境を越えて人々に行動を促すと言うことは、FacebookやTwitterの存在なしには考えられなかったと言われている。

最近のモスクワでのウラディミール・プーティン反対デモも、規模はちっちゃいがわが町ブリュッセルののジョゼフ・カビラ反対デモもこの余波を受けてのものではないかと言う気がする。

ジョゼフ・カビラ再選反対デモは、12月17日の我家の御近所のポルト・ド・ナミュール(コンゴ出身者が多い)で和やかな感じで始まったが、最後にはなんだか暴力的な感じになり、結局144人が逮捕され、可哀そうなベルギーの警察官16人が負傷した。

一本隣のアベニュ・ルイーズに住み、アパートの前に路駐している自分は車のガラスを割られるのは慣れているが、イクセル通りに路駐してたらボコボコにされるところだった。イクセル通りに路駐してなくて、ほんと、ヨカッタ・・・。








ディクテーターのいない西欧諸国の人々は抗議するターゲットがないので(?)、しかたなくEU本部の前で「キャピタリズム」に対する抗議集会をしたり、最近では「バンクスター」と呼ばれている銀行の前に抗議のテントを張ったりしている。打倒すべき具体的な顔が存在しないせいか、何を要求しているのかがわかりにくいデモンストレーションで、いまひとつ迫力にとぼしい。

****

個人の絶望や死が、言葉や映像としてリアルタイムで世界中に共有されてしまう。3月11日の東北地方太平洋沖地震のすさまじい映像もリアルタイムでヨーロッパまで入ってきて、(日本で放映されたかどうかはわからないが)被害者の骸などの映像も含めて繰り返しこちらのテレビで放送された。1995年1月の阪神・淡路大震災の時は、週刊誌のグラビア等を通してわずかに映像を見ることができるだけだったので、隔世の感がある。

世間はコロネル・ガダフィやオサマ・ビン・ラディンやキム・ジョン・イルなどの大人物がこの世からいなくなり、シルビオ・ベルルスコーニや、ブライアン・カウエンが退陣したにぎやかな一年であったが、自分はと言うと、昨年からチャレンジしていた試験にようやく受かったことを除けば、あとは粛々と自宅と職場を往復しながら、仕事では鼻先にぶら下げたニンジンをひたすら追っかけ、毎朝ジムに通い、瞑想をし、試験も終わり少し時間の余裕ができた週末には、買い集めた脳関係の本を読みふけり幸せ感に浸ると言う地味な一年だった。

その中で一番のイベントは、以前登場したジャンおじさんのお陰で、6月に、狭いアパートの古い木の床を張り替えられたことだったろうか。

あまり執着するものはないのだが、自分が一番大切に思っているのはやはり自分の住居だとおもう。小さいアパートであるし、家具や食器もぶっ壊れたようなものしかないのだが、火事で焼けてしまったり、津波で押し流されてしまったりすれば、たぶん、しばらくの間精神的に立ち直れないのではないかと思う。

だからアパートは大切に綺麗に住みたいのだが、平日はほとんど外にいるし、週末の限られた自由時間を何に使うかと言えば、インテリアの優先順位は低い。

友人が、
「なんか、いつ来ても引越しの途中みたいなアパートだね」
と言えば、亭主のグリもしみじみと、
「なんか、爆弾テロの後みたいだね」
と言う。

爆弾テロの後みたく見えるのは、片付けても片付けても、グリの脱ぎ捨てた洋服や読み捨てた新聞や雑誌がアパート中に散乱しているのが主な原因だが、数十年も経っていると思われる木の床が相当痛んでいることも大きいと思えた。

6月にグリが10日間位旅行に出かけることが分かったので、この隙にジャンおじさんに床を張り替えてもらうことにした。床の張り替えは結構大変な仕事だ。アパート中の家具を片方に寄せ、古い床をはがし、新しい床板を張り、つぎに家具を別の方に移しまた同じことを繰り返す。

ジャンおじさん一人では無理そうだったので、友人のギイおじさんを連れてきた。ジャンおじさんとギイおじさんは、毎日9時から夕方の5時まで、コカコーラを飲む他は昼飯も食べずにものすごい勢いで無言で働き、1週間ほどで仕事を終えてしまった。

見よ、2人のおっさんの丁寧な仕事ぶりと、うつくしい床。床がきれいだとIKEAの安い家具や、救世軍で買いたたいたり道端で拾ってきた家具も立派に見える。おじさんたちのお陰で、ささやかではあるが幸せな年越しができそうだ。今はこの時のささやかな幸せに感謝し、これを大切に味わうことが自分たちにできるすべてだ。ある日ほんとうにテロリストに爆破されても、津波で押し流されることになっても。



夢の中で左に下る

みなさんは、子供のころ自分の右手と左手の区別がはじめてついた瞬間を憶えていますか?

自分の場合、幼稚園の初日に先生がいきなり「右側を向いて」と何げなく言った時に、どちらが右側か分からなくて大変困ってしまった。右側・左側と言う言葉は知っている。家に帰って母親に、
「右側ってどっち?」
と聞いたら、あきれたように、
「お箸を持つ手の方よ!」
と言われて、またこまってしまった。実際にご飯がはいったお茶碗を持って、食べはじめてみないとどちらの手にお箸を持っているかなんて分かりはしない。先生に号令をかけられる度に、そんなことをしているわけにはいかない。

今思えば、「右」とか「左」とかは、「目」や「手」や「足」とかと比べるともう一段抽象度の高い概念で、右手と左手の形が違っていればまだしも、左右対称に思われる体に右とか左の概念を結び付けるのはもうひとつ高度の作業だったので難しかったのかもしれない。

また、「右」とか「左」は一定の物や場所に結びつくわけではない。こちらを向いて立っている先生がお箸を持つ手は、自分から見るとお箸を持たない方の手だ。多分そんなことで混乱してしまったのだと思う。

それから間もなく、お茶の間で庭を見るように立っているたとき、そこにいた誰かに、もう一度どちらが右手か聞いてみた。その時自分が立っている位置と向きからは、お台所があるのが右側、廊下に続く扉のあるのが左側であった。それからというもの、どこにいても、幼稚園にいても、どちらが右か左かわからなくなった時は、人気のない春の午後に茶の間にたたずむ自分から見た台所と廊下の位置を眼に浮かべて、右と左を区別することにしたのだ。

それは、自分にとって右と左の概念が理解できたというよりも、右と左と言う決めごとをとりあえずも便宜上身につけるためのショートカットを思いついた感動的な瞬間であった。

***

こんなことを思い出したのは、先週、亭主のグリと、彼の故郷のアイルランド共和国と英国の北アイルランドとの国境に近いドニゴールの近辺を車で走っていた時だった。その時、自分の体の位置や向きによって変わる相対的な左右ではなくて、絶対的な左右の感覚が自分の中にあることに気付いたのだった。

ドニゴールのロック・エスクという湖のほとりの1860年代のお城を改造したホテルに日暮れ時に投宿し、翌日、湖のほとりまで下りてみたが、午後1時過ぎというのに夕暮時のように薄暗い。

以前、「水と夢」でも書きましたが、自分の場合、坂道を下って行くとものすごく美しい水辺に着くと言う夢を良く見ていた時期がある。今目にしているロック・エスクの水辺は、まさにその夢の中で見た水辺のようなうつくしさなのだった。



また、高所から突然ものすごく美しい渓谷の裂け目に青い水が見えると言う夢も見たことがある。ロック・エスクに近い大西洋岸に面したキルカーの入江はその風景にそっくりな非現実的な美しさなのだった。



夢の中の水辺や入江は、なぜかかならず自分の左下にあるのだった。キルカーからキリベッグの港に車を走らせながら、過去に観た夢を色々思い出してみる。夢の中の自分は歩いているか眺めているかなのだが、歩みや視線と言うなにかしらの動きないしは方向性がある。一連の登る夢はどちらかと言えば右に向かっており、一連の下る夢は左に向かっているのだった。

夢の中で右側は秩序や理性や社会を表象し、左側は無意識や混沌を表彰すると言われている。自分の夢にはこのルールがぴったり当てはまるような気がする。他の人々はどうなんだろう。もし人々の夢がすべて同じような構造をしているとすれば、それはなぜだろうか?

そして、今思い出す現実のロック・エスクの水辺は、自分の意識の中では、何故か左に坂を下ったところにあるし、キルカーの入江も、記憶の中で自分のはるか左下に見えているのだった。

もっと不思議なのは、大西洋岸を海岸線に沿って現実に車を走らせながら、自分が今「左側」に向かっていると感じていたことだった。自分は正面に車を走らせていたので、右にも左にも行っていない。

自分の視線とは関係のない、なにか絶対的な左と右という場所ができてしまっているようなのだった。これはどういうことなのだろう。またも、答えのないまま記事が終わる。

人は怒鳴りあったり傷つけあって生きて行くものだと思い込んでいた日々

自己イメージと、他人が自分に対して持っているイメージが随分ちがっているのに気づく時がありませんか。

以前にも書いたことがあるが、母親がある日、
「そう言えば、まりあが子供の頃怒ったり泣いたりしたのは見たことがなかったわね」
と言った。

たしかに泣くところを親に見られたことはなかったかもしれない。子供の頃の記憶は1歳半ごろまでさかのぼれるが、人に泣くところを見られるのが大嫌いだったので、親の前でも泣かないようにしていた。泣く時は茶の間のお仏壇の下に小さなビルトインの引き戸があってそこに入って泣いていた。

ただし、怒りや不快感を感じていたことは良くあった。人が笑い声を立てるのが耐えられなくて、良く笑う若い女性や、同年代の女の子が大嫌いであった。

ピーピー泣く子も嫌いだったので、近所の子供や、「かものはし日記」の著者の従弟のひろちゃんのこともぶんなぐって、
「泣くな」
と怒鳴った記憶がある。ひろちゃんに、「あの頃はいじめてごめん」と言うと、
「いじめられたこと? 憶えてないな」
と言う。

今の自分が思い出す、当時の自分1歳半から3歳半ぐらいまでの自分は、なんだか阿修羅のようなイメージである。でも周りの人のイメージはそれとは違うようなのだ。



さて、小さな小粒の宝石のような、炎のような阿修羅が、幼稚園に入り、小学校に入り、別の阿修羅たちといっしょに、磨かれ、すり減って、溶けてへにょへにょになったキャンディーと化していく。たしかに幼稚園から小学校にかけての自分は、物語を書いたり、本を読むのが好きな目立たない子供だったと思う。

でも、幼稚園を卒業する時、園長先生(オークマ先生と言う、えくぼの可愛い、とても優しいおばちゃん先生だった)が、私に別れの言葉を書いた紙をくれた。

「まりあちゃん、いつもきれいなお花のことを考えていてね・・・」

母親は、
「オークマ先生、なんであんなことを書いたのかしらね」
と言う。オークマ先生は、実の母親にも見抜けなかった阿修羅の存在に気づいていたのかなあ。もう亡くなったが、今思いだしても偉い先生だったなあと思う。



自分の育った家は、サザエさん一家のような三世代家族に、さらにナミヘイおじいちゃんの甥っ子・姪っ子、住み込みのお手伝いさん、看護婦さんとその亭主、みたいな人々がいっぱい住んでいて、いつも誰かが口論していた。

母親とおじいちゃんの後妻のスミエさま(これは素敵なおばあちゃんだった)がいつも大きな声をあげて口論しているので、
「おねがい、ケンカしないで」
と割って入ったことがあった。そうしたらふたりは、
「ケンカしてるんじゃないのよ」
と口々に言いながら笑い出してしまった。たぶん日常会話で大きな声で口論するのが習慣になって、自分たちでもそれに気づかなかったのだろう。

そんな環境で育ったせいか、つい最近になるまで、家族というものは、同僚というものは、恋人というものは怒鳴りあったり傷つけあって生きて行くのが普通で本物だと思い込んでいたのだった。

それがごく最近になって、そうではないことに気づいたのだった。優しい人々に囲まれていることによって、徐々にそう教えられたのだ。



写真は文章と関係ないですが、この夏、家のイチジクの鉢植がかろうじてつけた、それはそれは小さなイチジクの実。

同じひとつの樹に咲く花々

 年を取ってくると当然なのかもしれないが、最近になって、入社当時から知っていた同僚の女性の死を2度続けて体験した。マリアンとイルセ。ふたりとも癌だ。36歳と44歳。若すぎるよ。

白い花の咲く鉢植えを手入れしている時、枯れた花をハサミで切り取ろうとして、間違ってまだぴちぴちの花を2輪切り落としてしまってあわてる。でも、同じ木から生えている花なんだ。植物自体は死んでいないんだと思いなおして、少し安心する。

人間もこの花みたいに、同じひとつの樹に咲く花々だとよいのになと思う。

***

少し前に書いたが、同僚で自分のガン友のカリーンの癌が再発した。浸潤性のがんで肺と骨に転移していたのだ。他人の不幸を嘆くだけでは意味がないと思い、何か元気づける方法はないかと思いを巡らす。

抗がん剤治療中自分が一番うれしかったのは本をたくさん読めたことだ。ビジネス書とかは、読む元気がなかった。闘病中のカリーンにも、ストーリーテリングで読んでいると時間を忘れるような、わくわくするような小説を読ませてあげたいなと思う。

週末に重い体をひきずって、FNACまで歩きオランダ語の書棚まで行く。狙っていた村上春樹の「海辺のカフカ」のオランダ語訳があった!週末明けの晩、カリーンの彼氏のゲールトに届ける。ゲールトは、私と同じ会社の同じ部署で、いつも夜遅くまで残業しているのだ。

ゲールトはありがとうと言った後、こう付け加えた。
「何回か抗がん剤治療をしたんだけれどね、腫瘍が全然小さくならないんだ。先週は彼女もすっかり落ち込んでしまって、副作用もすごいんだ。あんまり苦しいんで、来週の検査で腫瘍がまだ小さくなっていないことが分かったら、もう治療を辞めたいって言っているよ・・・」

お見舞いの言葉で、「貴方の病気がよくなるように祈っています」というのは一番相手をいらっとさせる言葉ではないかと思う。だけどその週の自分は、そんなことはへの足しにもならないと知りながら、祈ってしまった。昼休みにデスクでサンドイッチを食べる時も、スーパーマーケットの待ち時間も、プールで泳ぐ時も、暇さえあればガンガン祈っていた。

翌週の晩、ぽっとSMSメッセージが携帯にはいった。

「本を有難う!村上春樹は私も大好きな小説よ。(私たちもう一つ共通点があったのね。)『海辺のカフカ』は読んだことはなかったけど、きっと気に入ると思うわ。」

副作用の中で彼女がSMSメッセージを打っている姿が目に浮かぶ。文面に彼女の気遣いが現れていてつらいくらいだ。メッセージはまだ続く。

「それはそうと、今日のスキャンの結果はすごくよかったのよ。新しい腫瘍はできていなかったし、これまでの腫瘍が小さくなっていたの。いいニュースでしょ。Big Hug!」

私は思わず、「ありがとう!」を連発していた。神様にではない。彼女に対してだ。

病気と闘う人はなんでこれほどまでに、私たちをを元気づけてくれるのだろう。

太陽の力(2) アーヘンの温泉ランドにて

10月から11月にかけて、地上に届く紫外線の量はガクッと減り、その状態が2月頃まで続くそうだ。北ヨーロッパでは、元々日照時間が少ないためビタミンD不足から骨の病気になる人が多く、この季節になるとさらに免疫力が落ちて風邪をひきやすくなるし、季節性うつ病も多発する。出社する頃はまだ夜が明けておらず、退社する頃にはもう日が沈んでいるので、一週間ずっと夜みたいだ。

そのせいかどうかは知らないが、11月になると自分はむしょうに温泉に行きたくなる。ベルギーとオランダとドイツの国境の周辺は温泉場が多いが、自分は大聖堂で有名なアーヘンの温泉ランドが気に入っていて、亭主のグリや友達のみっちゃんを連れて、もう数回泊りがけで行った。

温泉水の流れるプールの他に、バルト海沿岸風サウナやフィンランド式サウナ、中近東風ハマム、バスローブを着たまま食事をできるレストランもある。

その中に、キャラバン・サライと呼ばれる大きな部屋がある。床一面に敷き詰められた砂漠の砂の上に、薄いマットをしいて横たわると、心地よい微風が吹いて、太陽の光がさんさんと降り注ぐ。弱めの紫外線を含む人口の太陽光だ。砂の上に横たわって目を閉じると、本当に太陽をいっぱいに浴びて砂の上に横たわっているようだ。(この写真では薄暗いが、もっと強烈に明るくなる。)



晩秋の寒さと湿気で収縮して固くなっていた全身の骨や筋肉が、柔らかい太陽の光を浴びて思い切りゆるむような気持ちだ。皮膚を通って太陽の光が徐々に体の芯までしみこんで行くのを感じ、ああ、やっぱり太陽の光が必要なんだな・・・と思いながら、いつの間にか気持ちの良い深い深い眠りの中に吸い込まれてしまった。

誰かが乱暴に腕を蹴飛ばした。はっと目を開けると、太陽の光を背景に亭主のグリの黒い影がこちらをみおろして、
「おい、起きろ!ラクダに水をやる時間だ」
と言った。

自分が今天気の悪いドイツの温泉ランドにいることを理解するまでに、しばらく時間がかかったのであった。

***

今年の正月、エジプトはギーザの砂漠で立小便をするグリ。太陽が高かった。ああ、ほんもののサハラ砂漠でキャンプをしたいな。



JUGEMテーマ:健康
 

時には小さなことを気にしてみよう。

最近大量購入した脳関係の本のうち、築島節先生の「脳が冴える15の習慣―記憶・集中・思考力を高める (生活人新書) 」は、自分のように記憶・集中・思考力の低下に恐れおののく中高年を対象として、具体的なアドバイスとその科学的な根拠が説明されている有難い本でした。

雑誌「壮快」とかに出てきそうな、「適度な運動、腹八分目を心がけましょう」等と言う記述を読みながら、「ああ、自分もついにこんな本を読むようになったか」と少々情けなくなったが、科学的な根拠の丁重な説明が若い人が読んでも面白いのではないかと思う。

15個の習慣の内、すぐ実行に移してみて劇的な効果があったのは、
「習慣13−脳の自己管理:失敗ノートを書こう、自分の批判者を大切にしよう」
だった。

***

自分の場合、あきれるほど小さな忘れ物が多い。毎朝、ジムに行ってから、会社に行くのだが、そのどこかの過程でいろいろなものを忘れるので、非常に効率が悪い。昔からそうだったのかもしれないが、この本を読んでから、毎日ひとつは必ず何か忘れものをしていることに気がついて、深刻な気分になった。

忘れ物をする原因の一つは、もともと注意散漫な性格のくせに、自分が毎朝ずいぶんと複雑な操作をやっていることだった。前の晩、ジム・バッグに翌日オフィスで着る衣類を注意しながら一つ一つ入れる。水のボトルを入れる。化粧品を入れる。朝になると、家のキーや車のかぎをすぐ取り出せるようにコートのポケットに入れ、お弁当とキャッシュカードとアイホンは書類カバンに入れる。家を出る時は、書類カバンとジム・バッグを手に持っているかどうか確認する。車に乗る時、会社の従業員カードとジムのパーキングカードが車の中にあることを確認する。ジムに着いて車を降りる時、パーキングカードとジム・バッグを手に持っており、書類カバンをもってきやしないかを確認する。ロッカールームからジムに上がる時、水のボトルとアイホンを忘れないように注意する。シャワーの後、液体せっけんをシャワールームに忘れていないかどうかを注意する。車をジムのガレージから出す時、パーキングカードを手に持っているかどうかに注意する。
 
この複雑な操作を一つ一つする過程で、その内の要素の一つに過剰な注意を向けたり、ちょっと考え事をしたりすると、必ず他の要素に対する注意が空白になって、完全に忘れているということが起こる。そのため、ジムのトレーニングを終わって、さあ会社に行こうという時になって、化粧品を忘れていることに気づいたり、ブラを忘れてきたことに気づいたり(笑)、車をガレージから出す時点でパーキングカードを忘れていることに気づいたりする。

「脳の問題を自覚するもっとも良い方法は、自分がした失敗を分析することです。特に繰り返しする失敗には、脳の悪い使い方や機能の低下が分かりやすく表れています。
 それを分析し、改善の指針にするには、まず失敗を記録しなければいけません。(・・・)
 記録しておかなかった失敗はどうしても忘れてしまいます。『そんなことはない。自分は失敗した経験こそよく覚えている』と思われる方もいるかもしれませんが、それは、その失敗によって大きな痛手を被り、何か意識的に努力しなければならなくなった場合だけではないでしょうか?その他の小さな失敗は、ほとんど忘れているのが普通だと思います。
 しかし、その小さな失敗の中にこそ、おおきな失敗を未然に防ぐ警告が含まれているのです。」

築島節先生は頑固な老人を諭すような口調で、辛抱強く丁寧に説明を続ける。

「失敗を分析するとき、大きな失敗に注目しても、なかなか原因が見えてきません。大きな失敗の中にはいろいろな要素が含まれているので、かえって本質的でない(しかし感情的に引っかかっている)要素に注目してしまいがちなものです。それよりも、日常的によくする小さな失敗から注目していく方が本質に近づきやすいでしょう。」

素直な自分は、10月は、月記の習慣を中断して、失敗を毎日細かに記述することにした。それを読み直して、複雑な過程のなかで簡略化できるものは簡略化したり、構造上失敗を予防する方法があれば改善してみる。たとえば化粧品は2セット用意し、ジムのバッグと書類カバンにそれぞれ常備することにしてみる。

不思議なことに1カ月失敗日記をつける内に、失敗がほとんどなくなって行った。たぶん失敗日記をつけることで、日常の動作のひとつひとつに注意が行きとどくことになったのではないかと思う。一種のヴィパッサナー瞑想である。

「この『失敗ノートをつける』という習慣は、脳を自己管理する上で、非常に有効だと思いますが、続けるには意志の強さが必要ですから、実行できそうもないと感じる人も多いでしょう。そういう人は、人から指摘される自分の問題点をまとめておくだけで違うと思います。
 その人がよくする失敗や問題行動は、本人よりも周りの人がよく分かっている場合が多いものです。しかも、小さな失敗を一度か二度したからといって、問題だと指摘する人はいません。何度もするから周りの人が『おかしい』と思って指摘するわけです。面と向かって指摘を受けた直後は、どうしても感情が邪魔をするので、素直には耳を傾けにくいものですが、書きとめておいて、冷静な時に見返してみると、『確かにその通りだ』と納得させられることが多いと思います。それを直そうと努力してみて下さい。脳の使い方が改められ、大きな失敗を未然に防ぐことにもつながるはずです。」

***

小さい失敗を繰り返すという傾向を助長して、脳を怠慢にしてきたのは、自分の「小さいことを気にしない性格」だったということに気がついて反省しているのであった。


JUGEMテーマ:健康

孤独な魂が言葉を媒介せずに交流するときが確かにある。

iPhoneによって、自分のすきま時間の使い方が一変した。スーパーのレジの待ち時間とか、昼休みに会社の電子レンジに入れたお弁当が温まるのを待つ間に、青空文庫で宮澤賢治を読んだりする。少しの間だけど時間の流れが変わる。

夜ベッドに入ってから眠りに着くまでの間You-Tubeで荻上直子監督の映画「かもめ食堂」を観たりする。その間、つかのま「自分」から解放される。

ヘルシンキで出会った3人の孤独な日本女性が、それぞれの抱える何かを最後まで口にすることなく、心の深い部分で絆を深めていく。その心の交流を媒介するのは、おいしいものを食べる無言の幸福な時間を共有すること。



食物に異常に興味がない自分にとっても、「かもめ食堂」のコーヒーやシナモンロールやおにぎりは、美味しそうと言うよりかは、食物という属性を超越した何か神聖な輝きを放っていました。

***

「かもめ食堂」を見ながら、もう十数年前に観たパトリス・ルコント監督の「Mari de la Coiffeuse(髪結の亭主)」を思い出した。

最愛の髪結の女性を手に入れた主人公の中年男は、彼が最も愛する場所−妻の経営する美容院の中でのささやかな結婚式の日、へたくそな中近東風のダンスを踊る。

ダンスは彼にとって幸福の絶頂の表現だ。男がダンスを踊る間、ストーリーの時間は中断し、孤独な存在がその存在の垣根をとりはらって、つかのまの交流を実現する特権的な時間が顕現する。

映画の最後、愛妻を失った「髪結いの亭主」が一人残された美容院で、ふとあのダンスを踊リ始める。美容院の客が一緒に踊り出し、つかの間あの過去の幸福な時間が戻るかに思える。・・・突然踊りを止め、怒ったように音楽を停め、座り込む男。客も元の椅子に戻り、2人はまたそれぞれの孤独と無関心の垣根の中に戻って行く。



***

ベルギーに来た時、いちばん大きな衝撃をもって自分が感得したのは、
「ここは言葉がすべてだ」
と言うことだった。

日本だったら、外人が片言の日本語を使っていたら、みなそれなりに親切にするでしょう。当地では違う。旧植民地や低開発国からの移民労働者を伝統的に大量に受け入れてきた社会であり、外国人と言えばまずは「貧乏人」か「無教養」か「泥棒」の同義語だ。白人でなければなおさらである。これはこちらに永住するつもりで住んでみた人でないとなかなか感覚的に分からないと思う。

最近ではだいぶ良くなったが、金持のエキスパットでも観光客でもない自分はこの国では移民であり、当地の公用語をしゃべれない移民は、誇張ではなく牛や馬のように扱われる。

現地人と同じように話せなければ、現地人の友達を作ることすら難しい。ものすごくサッカーがうまいとか、バイオリンの名手であるとか、何か言葉以外に自分を表現する手段がある場合は別だが、何もない人間が下手な現地語で話しかけても、よほどの物好きでないかぎり誰も手を差し伸べてくれない。最近少し増えている日本オタクか、アジア人女子狙いの男ぐらいしか寄ってこない。この国の人々は、沈黙ではなく、言葉だけを媒介にして心を交流させるからだ。

徹底的に全てを言葉で説明し、議論し、説得しなければいけないことに、私はほとほと疲れてしまった。

***

半年ぐらいの間、会社の近くにある無料のオランダ語学校に通ったことがあった。ほとんどがアフリカや中近東、中東欧の出身者ばかりだ。教師はくたびれて貧乏くさいフラマン人の髭の中年男でギドと言った。ギドは英語やフランス語をまぜこぜにして文法を説明するのだが、中には英語もフランス語もしゃべれない生徒や、アルファベットもろくに読めない生徒もいたので、ギドは、いつも皆のもの分かりの悪さに「は〜」とため息をついていた。このクラスの授業は抱腹絶倒で、今でも自分の一番美しく楽しい思い出の一つだ。

この授業については別の機会にお話ししたいが、今はチェコ人のおばさんのクリスティーナさんの話をしたい。

クリスティーナさんは50代後半ぐらいのおばさんだったが、いつもクラスの最前列に座って、一度も授業を休んだことがなかった。綺麗に髪をセットして、眼鏡をかけていた。はじめのうちクラスでいちばん物覚えが良かったのはルーマニア人の大学生のカップルと私だったが、休みがちで、そのうち毎回まじめに通っているクリスティーナさんが群を抜いてきた。それは驚くほどの上達だった。私は、いつも一生懸命ノートを取っている彼女の後姿を後ろの方から見て、本当に尊敬していた。

学校が主催したクリスマスパーティーの後、夜道を鉄道の駅に向かって歩きながら、私はクリスティーナさんとはじめて話をした。クリスティーナさんは英語もフランス語も話さないので、私も習いたてのへたくそなオランダ語もどきで。

クリスティーナさんの御主人はチェコ人の技術者で、ベルギー企業に仕事を見つけクリスティーナさんと二人でベルギーにやってきた。御主人の給与はそれほど高くなく、クリスティーナさんはベルギーで仕事を見つけなくてはならなかった。
「あなたはチェコでは、先生をしていたのではないですか?」
そう私は言った。何となく、そんな感じがしたのだ。
「いいえ、普通の会社員だったわ」
クリスティーナさんは、さびしそうに言った。
「でも、ここでは言葉ができないとね、掃除婦をするしかないのよ」
そう言ったクリスティーナさんの口調があまりにも悔しそうだったことに私は胸をうたれたが、気のきいたことはなにも言えなかった。いかんせんボキャブラリーがとぼしすぎたのだ。

クリスティーナさんの乗る電車が来た。
「今夜は有難う」そうクリスティーナさんが言って、私たちは向きあって両手を握りあった。
「クリスティーナさん」
「まりあさん」
ふたりはそれ以上何も云えず、両手を握りあったまま1秒ぐらい瞬きもせずに無言で見つめあった。そのクリスティーナさんの目が一瞬の間にそれはそれは沢山のことを私に語ってくれた。

オランダ語ができなくても、日本という経済大国の言葉ができるために、なんとか満足できる仕事のある自分は、結局その日以来オランダ語学校に戻らず、クリスティーナさんと会ったのも最後になってしまった。

光の瞑想

光の帝国へようこそ」に登場いただいたDragon Treeさんから、うつ病対策にと教えていただいた光の瞑想をご紹介します。以下は、彼のメールでのご説明を(ずいぶん以前に御本人の承諾を得て)掲載するものです。

「もしも、活動が出来ないな。。。と言うときがあったら、いっそのこと、全く活動しなくてそのまま過ごされてはいかがでしょう。ヴィパサナ瞑想を終日やるというのも良いと思い ます。それも面倒なようだったら、先日お伝えした光の瞑想をやられることをお勧めします。

光に全身を包まれた状態でたゆたっても良いですし、そのエネルギーもないときは、種火のように小さな炎を胸に点して、リラックスした状態で、そこに意識を集中してみてください。

出来るだけ鮮明に、炎の揺らめきや色の変化を感じてみてください。

そして、その炎が照らし出す回りの暗闇の空間に目をこらしてみてください。

胸の中の小さな炎の回りに意外と大きな空間が広がっていることに気づくかもしれません。それは、まりあさんの心の世界です。

ダライラマ法王がいつも言っておられるように、人間の心は無限の可能性を持っています。

リラックスした姿勢で、その炎(別に炎でなくても構いません。僕は、チベット語のァ字やオーム字、フーム字を使っています。ヨガではたくさんの花弁がある蓮の花をイメージすることもあります。ポイントは、小さく、鮮明にイメージが出来て、光り輝いているものであればよいのです。)に意識を集中し、その光をどんどん小さなものにしていって見ましょう。

不思議なことに、そのイメージが小さくなればなるほど、逆に、その光が全身に行き渡るような感覚がないでしょうか。

チベット仏教で微細な身体と呼ばれるものはこのようなイメージを使うことで達成されます。

その時、身体の一部のしこりのようなものがその光を通じて溶けていくのを感じることが出来ます。ポイントは、そのような作業を通じて、同時に、心のわだかまりも溶けだしていくと言うことです。ヴィパサナも実は同じ原理だと思います。

何もしたくないときは、たぶん、心が休息を求めているのです。野口晴哉ではないですが、そんなときは、無理して何かしようと思っても何も出来ないし、いらいらして逆効果です。いっそ思い切って、一日を全く何もせずにスピリチャルなことだけに使ってみる。 そうしたら、きっと、鬱なんてあっさり吹き飛んでしまいます。」

Dragon Treeさん、有難うございました。



JUGEMテーマ:スピリチュアル

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